こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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「でも、新原さん」
 声が少し強まった。榊さんは俺の顔を真っ直ぐに見つめる。一心に見つめる。

「あなたとなら仲よくなれそうな気がするんです。現時点で、夫のいないこの世界で友達になれそうなのは、あなただけなんです。根拠を言葉で説明しろと言われると、ちょっと難しいんですけど、でも、この感覚は偽りではありません」

 仲よくなれそうなのは、俺だけ。妻という、機会が巡ってくるごとに仲睦まじく話をする相手がいながら、榊さんはそう明言した。まるで、妻が実家に帰っているという認識は嘘で、本当はこちらの世界には存在しないことを見抜いているかのように。

「話をまとめると、私の主張を信じた上で、私と親密なお付き合いをしてほしいということを、新原さんにお願いしたいのです。主張というのは、私の夫はあちらの世界と呼ばれる世界にいて、私とは限られた時間しかコンタクトをとることができない身の上だ、ということです。突拍子もなくて、荒唐無稽で、非現実的で、にわかには信じられないと思います。それでも、私が言っていることを信じて、私のささやかだけど切実な願いを叶えてほしいのです」

 愛の告白、ではない。榊さんは夫を愛している。夫があちらの世界に行ってしまっても、変わらずに愛している。
 しかし、俺の妻は、仲よくなりたい候補からは除外された。これはどういう意味なのだろう。
 それについての説明があるかと思ったが、榊さんの唇は閉ざされた。容易には再び開くことはない、そんな強固さで上下が接着している。

 榊さんは俯き、窓の方を見ようともしない。あとはただ、俺の返答を待つだけ、といった態度だ。
 榊さんが語り終えたことで、俺と彼女を取り巻く空気は静謐さに包まれている。求められている答え以外は口にしづらい雰囲気だ。

 俺はなにも答えられない。それどころか、どう答えるべきなのかを思案することさえもままならない。あちらの世界、こちらの世界という概念は、なにも今日になって初めて把握したわけではない。それなのに、なんだ、この体たらくは。

 今や人声は全く聞こえない。主観的には張り詰めているようにさえ感じられる静寂が、閉ざされた唇をますます重くさせ、思考を停滞させるのに一役買っているようでもある。しかし、それも言い訳に過ぎない。

 おい、どうするんだ、新原龍之介。榊さんの申し出に応じるのか、拒絶するのか。お前はどちらを選ぶんだ?
 問いかけたが、俺からの返事はない。

 自らの決断が、自らを含む複数人の他者の運命を大きく変える予感に、恐れおののき、決断の前段階に当たる作業に手をつけることすらできない、臆病な俺がバスに揺られている。
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