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目の前には砂浜が広がっている。
最初見た砂浜よりも漂着物の数が控えめなのは、荒ぶる太平洋よりも、穏やかな瀬戸内海に近いからか。その向こうの海と、さらにその向こうの空は、澄み切った青一色だ。打ち寄せる至極穏やかな波の音は、どこか懐かしい。
海風が比較的強く吹いていて、半袖から突き出した腕に心地いい。浜を構成する白い砂が、風の影響を受けて道路の方向へと流され、小雨が降るのにも似た音を奏でながらアスファルトの上を横断していく。アパートの敷地を囲う石垣に堰き止められている白砂もあるが、敷地は万里の長城のごとくどこまでも続いているわけではない。遮るものがなにもない場所を転がっていった砂粒たちは、どこまで行けば休息を許されるのだろう。
波と砂の二重奏を聞きながら、俺はその場に立ち尽くす。車内で榊さんに別れを告げて以来、心が昂ぶっている自覚があったが、現在は至って冷静だ。そうでなければ、漂着物の量の微妙な差にも、砂が風に流されていることにも気づけなかっただろう。
停留所の標識の存在に遅まきながら気がついた。確認したところ、「網干島」という名称らしい。
恐らく、近くに漁港でもあるか、あるいは過去にあったのだろう。目の前の砂浜は、漁で使用された網を日干しするための場所だったに違いない。海水に浸かった網は、こびりついた塩分によって傷みやすくなっている。漁師たちはその日の漁を終えて陸に上がると、命の次に大事である商売道具を真水で丁寧に洗い、日光に晒して乾かす。そこまでは想像できる。
しかし、漁に使われる網がどれくらいの大きさなのか。網を干すための専用の道具があるのか。網を洗うのは帰港したらすぐなのか、砂浜まで移動してからなのか。そういった細かいことについては、少し考えたくらいではしっくりくるイメージを捕まえられない。
真実に肉薄できないのが問題なのではない。現実的か否かを度外視して空想の翼を広げられない、貧困な想像力。それが我ながらもどかしいし、情けなくもある。
その点、妻のイマジネーションは自由奔放だ。網干島。その三文字から、愉快で馬鹿げた物語を想像し創造し、束の間俺を楽しませてくれるはずだ、という期待感がある。
榊さんであれば、網干島というネーミングについて話を振れば生真面目に考察した上で、漁や魚や海にまつわる話をしてくれるのだろうな、とおおむね想像がつく。提供される情報は俺にとって未知だとしても、語られる話題の大まかな方向性は事前に予測できる。
しかし、妻の場合は先読みなど不可能。このバス停にはどうして、網干島っていう名前がついているのかな? そう話を振れば、海でも魚でも漁でもなく、宇宙の果てしなさに対する私感を滔々と語り出さないとも限らない。それが俺の妻なのだ。
認めよう。いや、思い出そう。榊さんとはまた違った意味で、妻は話をしていて楽しい相手だった。
しかし、あちらの世界へ行ってしまった。妻から俺の携帯電話に電話をかけてくることでしか、俺たち夫婦は会話の機会を持てないのに、あまりかけてこない。結果、夫婦の会話は減少した。
バスの中で榊さんと会話を交わす中で、やっと分かった。俺と妻が、隔たった世界にいながら元のような関係でいるための方法は、たった一つしかない。
両手を口の両端に宛がってメガフォンの形にし、息を深く吸い込み、
「汐莉!」
海に向かって大声をぶつけた。
最初見た砂浜よりも漂着物の数が控えめなのは、荒ぶる太平洋よりも、穏やかな瀬戸内海に近いからか。その向こうの海と、さらにその向こうの空は、澄み切った青一色だ。打ち寄せる至極穏やかな波の音は、どこか懐かしい。
海風が比較的強く吹いていて、半袖から突き出した腕に心地いい。浜を構成する白い砂が、風の影響を受けて道路の方向へと流され、小雨が降るのにも似た音を奏でながらアスファルトの上を横断していく。アパートの敷地を囲う石垣に堰き止められている白砂もあるが、敷地は万里の長城のごとくどこまでも続いているわけではない。遮るものがなにもない場所を転がっていった砂粒たちは、どこまで行けば休息を許されるのだろう。
波と砂の二重奏を聞きながら、俺はその場に立ち尽くす。車内で榊さんに別れを告げて以来、心が昂ぶっている自覚があったが、現在は至って冷静だ。そうでなければ、漂着物の量の微妙な差にも、砂が風に流されていることにも気づけなかっただろう。
停留所の標識の存在に遅まきながら気がついた。確認したところ、「網干島」という名称らしい。
恐らく、近くに漁港でもあるか、あるいは過去にあったのだろう。目の前の砂浜は、漁で使用された網を日干しするための場所だったに違いない。海水に浸かった網は、こびりついた塩分によって傷みやすくなっている。漁師たちはその日の漁を終えて陸に上がると、命の次に大事である商売道具を真水で丁寧に洗い、日光に晒して乾かす。そこまでは想像できる。
しかし、漁に使われる網がどれくらいの大きさなのか。網を干すための専用の道具があるのか。網を洗うのは帰港したらすぐなのか、砂浜まで移動してからなのか。そういった細かいことについては、少し考えたくらいではしっくりくるイメージを捕まえられない。
真実に肉薄できないのが問題なのではない。現実的か否かを度外視して空想の翼を広げられない、貧困な想像力。それが我ながらもどかしいし、情けなくもある。
その点、妻のイマジネーションは自由奔放だ。網干島。その三文字から、愉快で馬鹿げた物語を想像し創造し、束の間俺を楽しませてくれるはずだ、という期待感がある。
榊さんであれば、網干島というネーミングについて話を振れば生真面目に考察した上で、漁や魚や海にまつわる話をしてくれるのだろうな、とおおむね想像がつく。提供される情報は俺にとって未知だとしても、語られる話題の大まかな方向性は事前に予測できる。
しかし、妻の場合は先読みなど不可能。このバス停にはどうして、網干島っていう名前がついているのかな? そう話を振れば、海でも魚でも漁でもなく、宇宙の果てしなさに対する私感を滔々と語り出さないとも限らない。それが俺の妻なのだ。
認めよう。いや、思い出そう。榊さんとはまた違った意味で、妻は話をしていて楽しい相手だった。
しかし、あちらの世界へ行ってしまった。妻から俺の携帯電話に電話をかけてくることでしか、俺たち夫婦は会話の機会を持てないのに、あまりかけてこない。結果、夫婦の会話は減少した。
バスの中で榊さんと会話を交わす中で、やっと分かった。俺と妻が、隔たった世界にいながら元のような関係でいるための方法は、たった一つしかない。
両手を口の両端に宛がってメガフォンの形にし、息を深く吸い込み、
「汐莉!」
海に向かって大声をぶつけた。
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