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榊さんの方を向く。視線に感づいたのか、たまたまこちらを見ようとしていたのか、目が合った。榊さんは気圧されたような表情を見せた。
俺は軽く腰を浮かせた。彼女の方へと上体を傾け、彼女に向かって右手を伸ばす。榊さんは全身を緊張に強張らせ、さらに身を縮めた。
パンが焼き上がったことをトースターが知らせるのにも似た音が鳴り、降車ボタンのランプが灯った。
手を引っ込めるとともに着席する。榊さんはきょとんとした顔で俺の顔を見つめる。車内を見回し、窓外に眼差しを投げかける。漸く状況を理解したらしく、呆気にとられた表情で再び俺を凝視する。
「新原さん、降りるんですか?」
「はい。次の停留所で」
「美術館前は確か、三つ先のバス停ですよね。歩いても行ける距離ではあると思うけど、でも……」
「いや、行きません。徒歩でも、バスでも、俺は美術館へは行きません」
榊さんは絶句している。俺は軽く頭を下げた。
「ごめんなさい。俺、榊さんと一緒に美術館へは行けません。榊さんに問題があるとか、そういうことじゃなくて、俺なりの考えがあっての判断です。俺もまだ、どう伝えればいいか整理できていないんですけど、とにかく美術館へは行きません。榊さんは俺と一緒に降りないで、このままこのバスに乗り続けて、美術館前で降りてください。美術館で楽しんできてください。また次の機会に、今日みたいに膝を突き合わせて話をしましょう。そうしたら、きっと榊さんも納得してくれると思います」
榊さんの顔には困惑と悲しみが溶け合った表情が浮かんでいる。俺の発言の真意は半分も呑み込めていないように見える。心苦しかったが、適切な言葉は見つけられない。切れ味が悪くとも、とにもかくにも言葉を並べれば、彼女の悲しみを和らげられるかもしれなかったが、バスはすでに減速を開始している。
「次にお会いしたときに、必ず納得がいく説明をします。本当にごめんなさい」
走行が停止した。車両前方左側にある降車口が開く音。
俺はショルダーバッグを手に起立し、榊さんに向かって深々とお辞儀をした。人が動いた気配や物音ではなく、その大仰な動きに神経を刺激されたとでもいうように、一つ後ろの席の老夫婦が二人同時に目を覚まし、狐につままれたような顔で俺を見上げた。榊さんはなにか言おうとする気配を唇に滲ませたが、彼女から視線を切り、脇目も振らずに通路を前進する。
予定よりも三つ早い停留所だから、当然のことながら運賃も違ってくる。何円なのかを運転手に尋ねて、釣り銭が出ないように紙幣から硬貨に両替して、という手続きを経たので、降りるまでに時間がかかってしまった。この程度の時間のロスで怒り出す乗客はさすがに現れないが、迷惑なのは確かだろう。十円硬貨を一枚一枚数えながら運賃箱に入れ、手元が狂って床に落とした一枚を「すみません」と言いながら屈んで拾う姿は、まるで初めて一人でバスに乗った小学生のようで、我ながら情けない。
もたもたしている間に榊さんが追いすがってくるのでは、という予感もあったのだが、彼女は席に着いたままだ。いい歳をした大人らしからぬ立ち居振る舞いを見て、声をかける意欲が萎えてしまったのかもしれない。
情けなくて、情けなくて、誇張ではなく涙が出そうだったが、仕方ない。これが俺なのだ。三十を過ぎても、榊さんのような年齢相応の落ち着きを持てない男、それが新原龍之介なのだ。
「ありがとうございました」
複数の意味を込めた言葉を車内に残し、短いステップを軽やかに下って地上に降り立つ。ドアが閉まり、バスが走り去る。
空を仰ぐと、快晴だった。まだ四月だが、夏を思わせるほどに暑くなることを予感させる、そんな空だ。
俺は軽く腰を浮かせた。彼女の方へと上体を傾け、彼女に向かって右手を伸ばす。榊さんは全身を緊張に強張らせ、さらに身を縮めた。
パンが焼き上がったことをトースターが知らせるのにも似た音が鳴り、降車ボタンのランプが灯った。
手を引っ込めるとともに着席する。榊さんはきょとんとした顔で俺の顔を見つめる。車内を見回し、窓外に眼差しを投げかける。漸く状況を理解したらしく、呆気にとられた表情で再び俺を凝視する。
「新原さん、降りるんですか?」
「はい。次の停留所で」
「美術館前は確か、三つ先のバス停ですよね。歩いても行ける距離ではあると思うけど、でも……」
「いや、行きません。徒歩でも、バスでも、俺は美術館へは行きません」
榊さんは絶句している。俺は軽く頭を下げた。
「ごめんなさい。俺、榊さんと一緒に美術館へは行けません。榊さんに問題があるとか、そういうことじゃなくて、俺なりの考えがあっての判断です。俺もまだ、どう伝えればいいか整理できていないんですけど、とにかく美術館へは行きません。榊さんは俺と一緒に降りないで、このままこのバスに乗り続けて、美術館前で降りてください。美術館で楽しんできてください。また次の機会に、今日みたいに膝を突き合わせて話をしましょう。そうしたら、きっと榊さんも納得してくれると思います」
榊さんの顔には困惑と悲しみが溶け合った表情が浮かんでいる。俺の発言の真意は半分も呑み込めていないように見える。心苦しかったが、適切な言葉は見つけられない。切れ味が悪くとも、とにもかくにも言葉を並べれば、彼女の悲しみを和らげられるかもしれなかったが、バスはすでに減速を開始している。
「次にお会いしたときに、必ず納得がいく説明をします。本当にごめんなさい」
走行が停止した。車両前方左側にある降車口が開く音。
俺はショルダーバッグを手に起立し、榊さんに向かって深々とお辞儀をした。人が動いた気配や物音ではなく、その大仰な動きに神経を刺激されたとでもいうように、一つ後ろの席の老夫婦が二人同時に目を覚まし、狐につままれたような顔で俺を見上げた。榊さんはなにか言おうとする気配を唇に滲ませたが、彼女から視線を切り、脇目も振らずに通路を前進する。
予定よりも三つ早い停留所だから、当然のことながら運賃も違ってくる。何円なのかを運転手に尋ねて、釣り銭が出ないように紙幣から硬貨に両替して、という手続きを経たので、降りるまでに時間がかかってしまった。この程度の時間のロスで怒り出す乗客はさすがに現れないが、迷惑なのは確かだろう。十円硬貨を一枚一枚数えながら運賃箱に入れ、手元が狂って床に落とした一枚を「すみません」と言いながら屈んで拾う姿は、まるで初めて一人でバスに乗った小学生のようで、我ながら情けない。
もたもたしている間に榊さんが追いすがってくるのでは、という予感もあったのだが、彼女は席に着いたままだ。いい歳をした大人らしからぬ立ち居振る舞いを見て、声をかける意欲が萎えてしまったのかもしれない。
情けなくて、情けなくて、誇張ではなく涙が出そうだったが、仕方ない。これが俺なのだ。三十を過ぎても、榊さんのような年齢相応の落ち着きを持てない男、それが新原龍之介なのだ。
「ありがとうございました」
複数の意味を込めた言葉を車内に残し、短いステップを軽やかに下って地上に降り立つ。ドアが閉まり、バスが走り去る。
空を仰ぐと、快晴だった。まだ四月だが、夏を思わせるほどに暑くなることを予感させる、そんな空だ。
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