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「お母さん」
ドアをノックしてから呼びかける。返事はない。
「ごはん持ってきた。入るよー」
ドアには鍵をかけられない仕様になっている。ノブを回してドアを開く。
中央やや窓寄りに据えられたリクライニングベッドの上で、蜂須賀冬子は上体を立てて虚空を見つめている。
見事なまでの白髪だが、顔に目立つほどの皺はない。着ているのは、年端のいかない子どもが愛用しているようなピンク色のパジャマ。襟から覗く首や袖口から突き出た腕は病的に細く、陳腐な比喩になるが、まさに枯れ枝だ。一目見た瞬間、万人をたじろがせ、困惑させ、後ずさりを強いるような、異様なオーラが発せられている。
中でも印象的なのは、虚ろな瞳だろう。
光を宿さなくなったわけでは断じてない。ただ、その状態にあるときのお母さんの瞳を直視するのは、それを何度も見てきたわたしでさえも抵抗感を覚える。
文字どおり、空っぽなのだ。
積み上げてきたものが見当たらない。隠れているのではなくて、どこにも存在しない。だから光が戻ってからでないと、向き合うのは難しい。
「お母さん、起きてたんだね」
改めて声をかけたが、やはり全くの無反応。いつものことだから、ネガティブな感情は湧かない。微笑みかけながらベッドに歩み寄る。
「ごはん持ってきたよ。おなか空いたでしょ」
箪笥、本棚、キャビネット。置かれている家具は最低限なので、八畳の室内は実質以上に広く感じられる。
本棚に整然と並べられているのは、現役の記憶士として活躍していた時代にお母さんがよく読んでいた、心理学や脳科学関連の書籍。現在の生活が始まって以来、読まれた形跡はない。ただ、心の回復のために邪魔になるものではないので、ずっとそのままにしてある。わたしもたまに読むが、だいたいが暇つぶしの飛ばし読みだ。
お母さんが発作的な自傷行為をくり返したため、被害防止の観点から、ベッド以外の家具を部屋から取り払った時期もあった。そのベッドも、もとは窓際に置いていたが、窓を開けて外に出て行こうとする事件があったために、窓から少し離れた場所に移動させたという経緯がある。
自傷も窓からの逃走も、今では心配なくなった。それでもお母さんは、予兆もなく、悪意もなく、夕方に夏也が報告したような突飛な行動をとって、わたしたち兄妹を慌てさせることが時折ある。「外の空気を吸いたい」や「どこかに出かけたい」といった希望は、最近めっきり口にしなくなっていただけに、対応にあたった夏也は困惑しただろう。まごついてしまった自分への苛立ちも、さっきわたしに強く当たった一因だったのかもしれない。
介護にストレスはつきものだが、被介護者や第三者にいらいらをぶつけても、不毛なだけだ。わたしは抑えているのだから、夏也も同じ対応をとってほしい。人生の先輩だからとか、兄だからとかではなくて、人として。
総合的かつ客観的に判断した限り、症状は底を脱してはいるのだろう。しかし、改善に向かう気配は今のところ全く感じられない。
この先、命が尽きるまで、お母さんはこのままなのかもしれない。
そんな危機感に、絶望感に、わたしは折に触れて襲われている。
ドアをノックしてから呼びかける。返事はない。
「ごはん持ってきた。入るよー」
ドアには鍵をかけられない仕様になっている。ノブを回してドアを開く。
中央やや窓寄りに据えられたリクライニングベッドの上で、蜂須賀冬子は上体を立てて虚空を見つめている。
見事なまでの白髪だが、顔に目立つほどの皺はない。着ているのは、年端のいかない子どもが愛用しているようなピンク色のパジャマ。襟から覗く首や袖口から突き出た腕は病的に細く、陳腐な比喩になるが、まさに枯れ枝だ。一目見た瞬間、万人をたじろがせ、困惑させ、後ずさりを強いるような、異様なオーラが発せられている。
中でも印象的なのは、虚ろな瞳だろう。
光を宿さなくなったわけでは断じてない。ただ、その状態にあるときのお母さんの瞳を直視するのは、それを何度も見てきたわたしでさえも抵抗感を覚える。
文字どおり、空っぽなのだ。
積み上げてきたものが見当たらない。隠れているのではなくて、どこにも存在しない。だから光が戻ってからでないと、向き合うのは難しい。
「お母さん、起きてたんだね」
改めて声をかけたが、やはり全くの無反応。いつものことだから、ネガティブな感情は湧かない。微笑みかけながらベッドに歩み寄る。
「ごはん持ってきたよ。おなか空いたでしょ」
箪笥、本棚、キャビネット。置かれている家具は最低限なので、八畳の室内は実質以上に広く感じられる。
本棚に整然と並べられているのは、現役の記憶士として活躍していた時代にお母さんがよく読んでいた、心理学や脳科学関連の書籍。現在の生活が始まって以来、読まれた形跡はない。ただ、心の回復のために邪魔になるものではないので、ずっとそのままにしてある。わたしもたまに読むが、だいたいが暇つぶしの飛ばし読みだ。
お母さんが発作的な自傷行為をくり返したため、被害防止の観点から、ベッド以外の家具を部屋から取り払った時期もあった。そのベッドも、もとは窓際に置いていたが、窓を開けて外に出て行こうとする事件があったために、窓から少し離れた場所に移動させたという経緯がある。
自傷も窓からの逃走も、今では心配なくなった。それでもお母さんは、予兆もなく、悪意もなく、夕方に夏也が報告したような突飛な行動をとって、わたしたち兄妹を慌てさせることが時折ある。「外の空気を吸いたい」や「どこかに出かけたい」といった希望は、最近めっきり口にしなくなっていただけに、対応にあたった夏也は困惑しただろう。まごついてしまった自分への苛立ちも、さっきわたしに強く当たった一因だったのかもしれない。
介護にストレスはつきものだが、被介護者や第三者にいらいらをぶつけても、不毛なだけだ。わたしは抑えているのだから、夏也も同じ対応をとってほしい。人生の先輩だからとか、兄だからとかではなくて、人として。
総合的かつ客観的に判断した限り、症状は底を脱してはいるのだろう。しかし、改善に向かう気配は今のところ全く感じられない。
この先、命が尽きるまで、お母さんはこのままなのかもしれない。
そんな危機感に、絶望感に、わたしは折に触れて襲われている。
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