記憶士

阿波野治

文字の大きさ
9 / 90

9

しおりを挟む
 トレイをいったんパイプ椅子の上に置き、ベッド用テーブルをセットする。その上にトレイを置くと、お母さんは双眸をしばたたかせながら料理を見下ろした。瞳の面積が少し大きくなった。気がついたら料理が目の前にあったので驚きを禁じ得ない、といった様子だ。現在の暮らしが当たり前になってからのお母さんは、感情表現が幼子のように分かりやすい。小動物のように小鼻をうごめかせるのがかわいくて、つい笑みをこぼしてしまう。

「お母さん、お母さん」
 二の腕を弱くつつくと、首がゆっくりと回ってこちらを向いた。まずは、半開きだった唇が微かに蠢く。次いで、口の面積が少し広がる。最後に、見開かれた双眸が徐々に色を取り戻していき、人間らしいものになる。

「……秋奈」
「顔を見せるのが遅くなって、ごめんね」

 返事はない。わたしの顔をただじっと見つめている。子どものようだと、似たようなシチュエーションになるたびに思っている気がする。なんという純真さだろう。瞳の透明度も、眼差しの真っ直ぐさも。光が宿るだけで、こんなにも印象が変わるのだ。

「わたし、一時間半くらい前に学校から帰ってきたの。今日はお兄ちゃんが家にいてくれる日だったから、友だちと遊んでいたんだ。本当はすぐにお母さんにただいまの挨拶をしなきゃいけなかったんだけど、晩ごはんの時間も近かったし、そのときでいいかなと思って。ほら、わたし、面倒くさがりだから」

 お母さんは途中で二度ばかり、かろうじて分かる浅さで頷いただけ。全体的に反応は希薄だ。その様子は、なにかに注意を奪われて会話にうわの空の人間を連想させる。恐らく、理解している内容はゼロに近いだろう。

「でも、やっぱりお母さんのことが気になったから、晩ごはんをちょっと早めに持ってきたんだ。ほら、お母さんの目の前」

 トレイを指差す。視線はわたしから外れない。わたしは小さく頭を振り、そっちそっち、と再びトレイを指で指し示す。お母さんは漸く緩慢に首を回し、指されているものを視界に映した。

「……ごはん」
「そう、晩ごはん。一人で食べられる?」

 お母さんは返事をせずに箸をとる。でも、ちゃんと器を正視しているから大丈夫だ。
 大丈夫ではないのは、窓外や虚空などに視線を向けながら食べるとき。その場合、箸は持ったものの全く動かさないか、口に達する前に箸に挟んだおかずをこぼしてしまうか。そのどちらかの運命が決定づけられている。
 どこか覚束ない箸づかいで、お母さんは食べ始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...