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トレイをいったんパイプ椅子の上に置き、ベッド用テーブルをセットする。その上にトレイを置くと、お母さんは双眸をしばたたかせながら料理を見下ろした。瞳の面積が少し大きくなった。気がついたら料理が目の前にあったので驚きを禁じ得ない、といった様子だ。現在の暮らしが当たり前になってからのお母さんは、感情表現が幼子のように分かりやすい。小動物のように小鼻をうごめかせるのがかわいくて、つい笑みをこぼしてしまう。
「お母さん、お母さん」
二の腕を弱くつつくと、首がゆっくりと回ってこちらを向いた。まずは、半開きだった唇が微かに蠢く。次いで、口の面積が少し広がる。最後に、見開かれた双眸が徐々に色を取り戻していき、人間らしいものになる。
「……秋奈」
「顔を見せるのが遅くなって、ごめんね」
返事はない。わたしの顔をただじっと見つめている。子どものようだと、似たようなシチュエーションになるたびに思っている気がする。なんという純真さだろう。瞳の透明度も、眼差しの真っ直ぐさも。光が宿るだけで、こんなにも印象が変わるのだ。
「わたし、一時間半くらい前に学校から帰ってきたの。今日はお兄ちゃんが家にいてくれる日だったから、友だちと遊んでいたんだ。本当はすぐにお母さんにただいまの挨拶をしなきゃいけなかったんだけど、晩ごはんの時間も近かったし、そのときでいいかなと思って。ほら、わたし、面倒くさがりだから」
お母さんは途中で二度ばかり、かろうじて分かる浅さで頷いただけ。全体的に反応は希薄だ。その様子は、なにかに注意を奪われて会話にうわの空の人間を連想させる。恐らく、理解している内容はゼロに近いだろう。
「でも、やっぱりお母さんのことが気になったから、晩ごはんをちょっと早めに持ってきたんだ。ほら、お母さんの目の前」
トレイを指差す。視線はわたしから外れない。わたしは小さく頭を振り、そっちそっち、と再びトレイを指で指し示す。お母さんは漸く緩慢に首を回し、指されているものを視界に映した。
「……ごはん」
「そう、晩ごはん。一人で食べられる?」
お母さんは返事をせずに箸をとる。でも、ちゃんと器を正視しているから大丈夫だ。
大丈夫ではないのは、窓外や虚空などに視線を向けながら食べるとき。その場合、箸は持ったものの全く動かさないか、口に達する前に箸に挟んだおかずをこぼしてしまうか。そのどちらかの運命が決定づけられている。
どこか覚束ない箸づかいで、お母さんは食べ始めた。
「お母さん、お母さん」
二の腕を弱くつつくと、首がゆっくりと回ってこちらを向いた。まずは、半開きだった唇が微かに蠢く。次いで、口の面積が少し広がる。最後に、見開かれた双眸が徐々に色を取り戻していき、人間らしいものになる。
「……秋奈」
「顔を見せるのが遅くなって、ごめんね」
返事はない。わたしの顔をただじっと見つめている。子どものようだと、似たようなシチュエーションになるたびに思っている気がする。なんという純真さだろう。瞳の透明度も、眼差しの真っ直ぐさも。光が宿るだけで、こんなにも印象が変わるのだ。
「わたし、一時間半くらい前に学校から帰ってきたの。今日はお兄ちゃんが家にいてくれる日だったから、友だちと遊んでいたんだ。本当はすぐにお母さんにただいまの挨拶をしなきゃいけなかったんだけど、晩ごはんの時間も近かったし、そのときでいいかなと思って。ほら、わたし、面倒くさがりだから」
お母さんは途中で二度ばかり、かろうじて分かる浅さで頷いただけ。全体的に反応は希薄だ。その様子は、なにかに注意を奪われて会話にうわの空の人間を連想させる。恐らく、理解している内容はゼロに近いだろう。
「でも、やっぱりお母さんのことが気になったから、晩ごはんをちょっと早めに持ってきたんだ。ほら、お母さんの目の前」
トレイを指差す。視線はわたしから外れない。わたしは小さく頭を振り、そっちそっち、と再びトレイを指で指し示す。お母さんは漸く緩慢に首を回し、指されているものを視界に映した。
「……ごはん」
「そう、晩ごはん。一人で食べられる?」
お母さんは返事をせずに箸をとる。でも、ちゃんと器を正視しているから大丈夫だ。
大丈夫ではないのは、窓外や虚空などに視線を向けながら食べるとき。その場合、箸は持ったものの全く動かさないか、口に達する前に箸に挟んだおかずをこぼしてしまうか。そのどちらかの運命が決定づけられている。
どこか覚束ない箸づかいで、お母さんは食べ始めた。
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