記憶士

阿波野治

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 困惑するわたしの頭に甦ったのは、トイレの個室で多木さんが見せた涙。
 片や、青春の只中にいる、心身ともに健全ながらも、むごたらしい被害に遭ったことを告白した少女。
 片や、まだ人生の半ばに差しかかるか差しかからないかの齢ながらも、老いさらばえた女性。
 あらゆる意味で似てもにつかないはずなのに、二人はどこか似ている。

 胸が苦しい。なんらかの感情が、心という器から溢れ出しそうになっている。わたしの辞書の中に、その感情を表す単語は記載されていない。

「ああ、どうしたらいいの……。悲しい……。凄く悲しい……」
「お母さん、待って。たしかに痛みはちょとだけあるけど、そんなに痛くないから。そこまで心配しなくてもいいよ」
「お母さんが駄目になっちゃったから、秋奈が悲しい目に遭うのね。夏也だって、お母さんがなにもできないから、いつもいらいらしているし。こんなお母さんで、本当にごめんね。昔はもっといろんなことができたのにね。夏也や秋奈を笑顔にさせるような、本当にいろんなことが……」

 目頭が急激に熱くなる。泣く、と思った。第一波はなんとか抑え込んだが、お母さんが涙を流しながらも、わたしから決して目を離そうとしないことに気がついた瞬間、雫は呆気なく滑り落ちていた。
 お母さんの顔が大きく歪む。このままではいけない、と思うものの、どうにも止まらない。
 肩を押さえられているせいで窮屈そうながらも、お母さんは両手を広げるような仕草を見せた。その意味するところを、血の繋がった娘であるわたしは瞬時に、なおかつ完璧に理解する。

 お母さん!
 声の限りに叫びたい衝動をかろうじて抑え込み、お母さんを抱きしめる。壊れ物を扱うように柔らかく、それでいて力強く。お母さんは、わたしの背中に両腕を回してそれに応えてくれた。
 なんて細い腕なのだろう。
 なんて弱い力なのだろう。

「ごめんね、ごめんね……」

 お母さんはうわごとのように謝罪の言葉をくり返す。たまらなく切なかったが、涙の量は緩やかにゼロへと向かっていく。お母さんがこうなってしまった以上は、わたしがしっかりしないといけない。そんな思いが湧いたから。
 さりとて、落涙を強いるほどに強い感情が、おいそれと引っ込んでくれるわけではない。

「ごめんね……。秋奈、ごめんね……」

 多木さんを酷い目に遭わせて。お母さんを悲しませて。
 わたし、生きている意味、あるのかな……。


* * *


 瞑想をサボる理由として、精神面の言い訳をわたしは断じて是認しない。元気だったときのお母さんの方針がそうだったから。それが第一の理由。自分の心を鍛えるために瞑想を始めたのだから、それを理由として成立させてしまえば、全てが崩れてしまいかねない。それが第二の理由だ。
 その方針のもと、今晩も瞑想に臨んだのだが、どうしても思案に集中できない。
 それほどまでに、多木さんの告白は衝撃的だった。詳細は語られていないにもかかわらず衝撃的だった。

 公園での出来事がくり返し、くり返し脳内で再生される。暴行を受ける場面は僅かしかなく、泣きながら怒った表情ですごまれる場面が大半を占めた。

『だったら、あたしの記憶を取り出せ。昨日味わった最悪の記憶を、一ミリ残らずきれいに。失敗したら、お前をぶっ殺す!』

 わたしは、多木さんの望みを叶えてあげられるのだろうか?
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