記憶士

阿波野治

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 平日の夕食の買い出しは夏也の担当だ。買うものはわたしが指定することもあるが、基本的には夏也に一任している。売っていなかった商品があっても二軒目の店に寄るのを拒んだり、買い忘れているものがあっても再度の買い出しを拒否したりと、仕事ぶりは真面目とはいえない。へそを曲げて仕事を全くしなくなるのは困るので、文句を言うのは最小限に留めているが。

 慌ただしい朝は、市販のパンをメインに、残り物と作り置きのおかず、という献立。昼と夜にはごはんを炊くので、それに合うような惣菜を買ってくる、あるいは夏也に買ってきてもらうことが多い。今晩のおかずは、照り焼きハンバーグだ。

 夏也にはありがちなことだが、献立に占める野菜の割合が少ない。肉がメインで使われている副菜の代わりに、野菜を使った総菜を選んでいれば栄養バランスがよくなったのに。そう思ったが、夏也に意見しても虚しいだけだ。
 必要なものがないならば、わたしが作ればいい。
 ……と言いたいところだが、公園であのような出来事があったあとで、副菜一品だけとはいえ料理を作るというのは、たまらなく億劫だ。

 冷蔵庫の野菜室を覗いてみる。使えそうな野菜は複数種類ある。つまり、作らないという選択肢を選んだ場合、百パーセントわたしの責任だ。
 お母さんを最優先に生きていく。そう誓ったはずだ。それなのに、不履行。クラスメイトからしたたか殴られた、とはいえ。難題を突きつけられた、とはいえ。

「……お母さん、ごめん」
 トレイを手にキッチンを後にする。

 お母さんはベッドの上で上体を起こしていた。夏也に頼んで開けてもらったのか、自力で開いたのか。二十センチほどのカーテンの隙間を通じて、夜に包まれた庭を見ている。瞳にはうっすらと光が灯っているので、ただ窓の方を向いているのではなく、景色を眺めているのだと分かる。同じベッドの上にいるのでも、目を瞑ってただ横になっているのではなく、上体を起こしていることが最近は多い。

「今日はハンバーグだよ。熱い方が美味しいから、早く食べちゃって」

 テーブルを用意してトレイをその上に置く。パイプ椅子を引き寄せたさいに、足がこすれて音が立った。それに反応してこちらを向いた。
 双眸が見開かれ、白紙に黒のインクを落としたように瞳の中の光が広がっていく。鳥肌が立つ寸前のような感覚がわたしの全身を包む。

「……お母さん?」
「秋奈……」
 ベッドガードを両手で掴み、わたしへと身を乗り出す。眼差しは一直線にわたしに注がれている。ベッドから転落する危険性など、微塵も念頭にはないらしい。

 肩を両手で押さえてお母さんを静止させる。わたしたちは至近距離から見つめ合う。
 お母さんの顔には皺というものが殆どない。真っ白になってしまった髪の毛や、痩せ衰えた体と比べると、何度見てもアンバランスな印象を受ける。もともと大きな目は、瞠った上で見つめられると、視線を逸らせなくなる。異能の力を高次元で使いこなした経験を持つ者にしか宿り得ない凄みが、今なお瞳の最奥に鎮座している。

「秋奈」

 わたしの顔を見つめたまま、微かに震える右手を動かす。自らの肩を押さえる手を振り払おうとしたのかと思ったが、そうではなかった。
 わたしの顔面上の一点を指差したのだ。

「……腫れてる」
 右頬――多木さんに最初に殴られた場所だ。
 本当に腫れているの、と問おうとした途端、疼くような痛みを感じた。思わず顔を歪めてしまった。しかし、意識して押し殺せば、顔色一つ変えずにいられる程度の痛みに過ぎない。

「そう? 全然気づかなかった。少し前に鏡を見たときはなんともなかったから」
「真っ赤になってる。痛いでしょう?」
「ううん。痛みはそれほどでも――」

 言うべきセリフは最後まで言えなかった。
 お母さんの頬を、透明な涙が伝っていたから。
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