記憶士

阿波野治

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 思わず息を呑んだ。脳内のスクリーンに、金曜日の放課後の一場面が映し出された。
 わたしといつもの三人が談笑に耽っている。そこから少し離れた席に座っているのは、眉をひそめた顔ながらも、満更でもなさそうな笑みを口元に滲ませた多木さん。
 あのときは楽しかった。誰一人として傷ついていなかった。わたしも、多木さんも、他の三人だって。
 しかし、もはやあの時間は帰ってこない。
 なぜならば、多木さんは――。

「お前のせいで……!」

 映像に蜘蛛の巣状の亀裂が生じ、ガラスが砕ける効果音と共に粉々に砕け散った。多木さんのパンチが腹部を直撃したのだ。髪の毛から手が離れた。尻が便座から滑り落ち、湿っぽいタイルの床に座り込む。

「お前のせいで、こんな、くだらない、あたしは、お前らの――」

 うわごとめいた、文章の体を成さない呪詛の言葉を吐きながら、多木さんはわたしを蹴る。ひたすら蹴る。
 わたしは耐えた。懸命に耐え続けた。なんとなく、泣きたい気持ちでもあった。多木さんが告白する前にも同じ感情を抱いたが、名称が同じなだけで性質は大きく異なっている。決して泣けないし、泣いてはいけないが、泣けるものならば泣きたい。一方的に暴行を受け続けるわたしの胸を占有しているのは、そんな悲しみだ。

 攻撃側が披露するに伴って威力が落ちたのか。それとも、防御側が攻撃に慣れた、あるいは半ば麻痺した状態になっているのか。痛みも、恐怖も、殆ど感じない。少し特殊な悲しみに加えて、多木さんの気が済むまで殴られなければ、という義務感をわたしは覚えていた。

 やがて多木さんは蹴るのをやめた。胸倉を掴んでわたしを立ち上がらせ、背中から壁に押しつける。
 多木さんの頬には涙が伝っていた。顔に怒りがくっきりと表れているのに、泣いていた。

「蜂須賀、お前は記憶士なんだろう? 記憶を取り出せるんだろう?」
 震える声での詰問に、わたしは首を縦に振る。多木さんは語気を強めた。

「だったら、あたしの記憶を取り出せ。昨日味わった最低最悪の記憶を、一ミリ残らずきれいに。失敗したら、お前をぶっ殺す!」


* * *


 一方的に告げて多木さんが去ったあとも、しばらくの間床に座り込んでいた。
 床から便座へと座る位置を変更したのは、尻が冷たくなってきたからだ。
 しばらく座っているうちに、不意に思い出したのは、お母さんのこと。

「……食事の世話を」
 しなければ。家に帰らないと。夏也は急用ができたと頼んでも、絶対に担当を代わってくれない。わたししか、本当の意味で、あの人を助けてあげられる人間はいないのだから。

 いったんトイレから出たが、すぐに引き返し、洗面所の鏡に己の胸から上を映す。案に相違して無傷だったので、驚いてしまった。薄暗さのせいで真実が歪んでいるのかと疑ったが、いくら見つめても結果は変わらない。痛み自体も、猛攻を防ぐために動員した両腕を除けば、最初に殴られた右頬が多少疼く程度だ。

「……多木さん、手加減してくれたの?」
 鏡に映る顔はなにも答えてくれない。
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