記憶士

阿波野治

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 よいことがあると、抵抗するかのように、対抗するかのように、バランスをとろうとするかのように、悪い出来事が起きる。
 お母さんがベッドの上が中心の生活を送るようになって以来、わたしはそんな感覚を頻繁に覚えてきた。

 倒れてからのお母さんの精神状態は極めて不安定だ。朝は上機嫌そうにわたしと世間話に耽ったかと思えば、昼間は食事に手をつけようともせずに夏也を苛立たせ、夜には奇行を働いて兄妹を慌てさせる、といった具合で、掴みどころがない。
 一時期と比べれば、振れ幅は小さくなった感はある。倒れた当初の廃人のような有り様を思えば、少し手がかかるくらいの方が却って心配が少なくていい、という思いがあるのもたしか。体力や腕力に乏しいので、自分自身や他人が取り返しがつかないような傷を負うおそれはない、という意味では安心感を持っている。
 それでも、体調や機嫌がいい日が続くと、そろそろ悪い面が表に出る時期なのでは、と身構えてしまう。いざ予感が的中すると、それがお母さんなのだと理解していても、仕方がないことだと分かっていても、これまで積み上げてきたものの大部分が崩れてしまったような気がして、脱力感と徒労感に襲われる。

 お母さんの直感や感受性は、倒れる以前よりも鋭敏さを増している。その鋭さは、介護する人間がネガティブな感情を僅かでも表に出すと、それの影響を受けて被介護者が精神状態を乱す、という形で現れることもある。
 介護する側とされる側、互いの精神的負担を軽減する意味でも、その事態は極力回避したい。
 だからわたしは、自分自身が不安や心配事などを抱いているとき、お母さんが待つ部屋のドアの前で意識的に笑顔を作る。さらには、前向きに介護に臨むよう、心の中で自らに言い聞かせる。作り笑いを遠ざけるよりも、多少無理をしてでも笑みを灯した方が、よい結果に結びつく場合が多い。経験からそう知っているからだ。

 夕食の準備のため、自室を出て階下へ向かうわたしは、そのルーティンのことを意識していた。頭は完全に介護モードに切り替わっていた。星羅の記憶を取り出す件はいったん脇に置いておいて、お母さんに気持ちよく食事をしてもらうために最善を尽くすこと、ただそれだけを考えていた。
 前方右手にあるドアがいきなり開いた。思考を一点に集中していたのが災いして反応が遅れ、鼻を思いきりぶつけてしまった。ぶつけた方も、この事態は予想外だったらしく、間が生じた。部屋の中から現れたのは、

「なんだよ。秋奈か」
 兄の夏也だ。櫛を入れていない髪の毛に、シャツにジャケットにジーンズという、普段どおりの投げやりでだらしない姿。

 いつものように妹を罵倒しようとしたらしい唇が、罵倒対象の顔を視界に映した瞬間、動きを止めた。そして、銃口を突きつけるように視線の先にあるものを指差す。

「なんだよ、その顔の怪我」
「あ……。これは……」
「どこの馬鹿に殴られたんだよ。てか、殴られるだけで済んだのか? 疑わしいな」
 下卑た笑みを浮かべながらの発言だった。

 聞いた瞬間は、いつもの無意味な罵倒の類という認識だった。しかし一歩遅れて、言葉に秘められたニュアンスを解した瞬間、胸の底から熱いものが込み上げてきた。不健康な人間の血のようにどろどろとした、怒りが。
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