記憶士

阿波野治

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 自分自身が侮辱された気がしたからというのも、腹が立った要因の一つだ。しかし、主因ではない。
 星羅を蔑まれたように感じたのだ。夏也は星羅が性的暴行を受けた事実を把握していて、それを念頭に、「お前も友だちと同じような目に遭ったんじゃないか」と冷やかしてきたような、そんな気がしたのだ。

 実際には、夏也は星羅の存在を知らないだろう。星羅に暴行した犯人ではないし、加害者との繋がりもないはずだ。

 わたしが認識している兄は、記憶士として成功する道につまずき、絵に描いたようにやさぐれた、軽蔑するべき落伍者でしかない。不良と引きこもりの中間のような、中途半端な鼻つまみ者。弱りきった母親や、妹に対しては強気に出られても、あらゆる人間に対して大それた真似ができる人間では断じてない。
 畏怖というよりは、侮蔑の対象。だからこそ、怒りが湧いたともいえる。

 口を噤むという対応をとったからだろう、わたしを見つめる夏也の目は訝しげだ。俺がなにか言うたびに生意気にも言い返してくるくせに、今日はどうしたのだろう、なにを企んでいやがるんだ、とでもいうような。

 夏也を殴りたかった。日頃の恨みに対する返報の意味で。お母さんの介護が中心の生活で溜め込んできたストレスを発散する意味で。夏也を星羅暴行事件の加害者と仮に見なして、星羅の仇をとる意味で。おぞましい犯罪を犯した鬼畜どもに疑似的な制裁を加える意味で。
 右拳を握りしめる。本気で殴り合えば勝ち目はないだろうが、顔に一発見舞うくらいならできる、と計算する。

 しかし、行動に移すのは自制する。
 感情を溢れ出させてもおかしくない場面でストップをかける冷静さ。これは明らかに、お母さんがベッド中心の生活を送るようになったのを機に芽生えた。わたしがしっかりしないと、冗談でも誇張でもなく、蜂須賀家は崩壊してしまう。だから、最後の砦としての自覚を持ち、理性的に振る舞う。
 死んだのだ。お母さんがお母さんではなくなったことで、無邪気な子どもだったわたしは。

「なんだよ、その反抗的な目つきは」
 痺れを切らしたように夏也が言う。

「文句があるなら言えよ。ないんだったら、目障りだから、今すぐに俺の前から失せろ」
「馬鹿、馬鹿って、馬鹿みたいに頻発するけど」
「あ?」
「この傷を負わせた人はね、馬鹿じゃない。真剣だからこそ、傷つけたの。本気で傷ついた人じゃないと、誰かに傷を負わせることなんてできない」
「お前、なに言ってんだ?」

 心底意味が分からない、という顔を夏也はしている。対応によっては、軽蔑の嘲笑にも、怒りの暴言にも、呆れのため息にも分岐しそうだ。いずれにせよ、わたしにとっては不愉快でしかない。

「……まあ、欲望を叶えるためだけに平気で人を傷つける馬鹿も、世の中にはいるけど」
 小声で呟いて視線を切り、夏也の脇をすり抜ける。

「おい、今馬鹿って言っただろ。ふざけたこと言ってると――って、おい! 待てよ!」

 返事はせずに遠ざかる。お母さんに食事を出すという目的が間近に控えていたのは、衝突を回避する口実という意味では幸いだった。
 ただ、夏也といさかいめいたやりとりをしたせいで、気分はマイナスの領域に落ち込んでしまった。
 せっかく、星羅と親密になれそうな手ごたえを抱いて、前向きな気持ちになれていたのに。
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