記憶士

阿波野治

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 出来合いの総菜だけでは味気ないときは、手料理で補う。中でもよく作るのが、卵料理。
 オープンオムレツ、卵焼き、スクランブルエッグ。どれも手早く完成させられるし、工程が複雑な料理を作れないわたしでも大きな失敗はない。缶詰のツナやコンビーフを混ぜ込んだり、残り野菜を刻んで加えたりと、簡単にアレンジがきくのも好都合だ。さらにいえば、食欲がないとき以外は食べてくれる、外れが少ないおかずでもある。

 ボウルに割り入れた卵を菜箸でかき混ぜればかき混ぜるほど、夏也のせいで溜め込んだストレスが攪拌され、雲散霧消していくようだった。今日は削り節入りの卵焼きにした。巻くのに少し失敗してしまったが、味に問題はない。自分の夕食用に二切れ残し、世界で一番愛する人のもとへ。

「お母さん、ごはん持ってきたよー」
 お母さんはベッドに横になって目を瞑っていた。歩み寄り、いつものパイプ椅子にトレイを置こうとしたところで、瞼が開いた。光は、まだ宿っていない。一心に見つめてくる。

「寝ちゃってたけど、今日はどうしたの? 眠かったの?」
 目をしばたたくだけで、返事はない。いつものことだから、落胆も失望もない。淡々と食事の準備を整えていく。

 いつでも食べられる状態になったところで、お母さんが体を起こしたそうな素振りを見せた。こちらから抱きつき、自分の体ごと上体を起こす。お母さんは放心したような顔で料理をじっと見つめていたが、おもむろにわたしに目を合わせ、

「美味しそうな料理だけど、誰のかしら。私、おなかが空いているのだけど、食べてもいいのかな」
「お母さんの分って、入ってきたときに言ったじゃない。さあ食べて」

 五秒ほど真顔での沈黙を挟んで、おっとりとした笑みが顔に灯る。瞳の中に光が生まれ、牛歩ながらも着実に広がっていく。お母さんは箸を手にして食事を始めた。
 箸づかいはどこか覚束ない。最初に掴んだ甘酢漬けのにんじんを、いきなりトレイの上に落としてしまった。お母さんは落ちたにんじんではなく、皿の中のそれを掴む。今度はちゃんと口まで運べた。以降は少々危なっかしいながらも、こぼすことなく食事をとる。

 今晩のお母さんは、箸を持ったままぼんやりとしている時間が長かった。見かねて「食べさせてあげようか?」と声をかけると、びっくりしたようにわたしを見て頭を振り、照れくさそうに微笑みながら再び食べ始める。
 それを何度かくり返すうちに、手助けをする必要はないし、欲してもいないのだと理解した。だから今晩は、お母さんのペースを全面的に尊重することにする。リハビリになるという意味でも、介助しなくて済む分負担が減るという意味でも、それが望ましい。

 食べ終わるまでの間は、お母さんが「一人にして」と強く望まない限りは、つきっきりでいることに決めている。食事中に突然奇行を見せることが多かった時代の習慣が、そのおそれがなくなった現在も、心配性と惰性から継続している形だ。
 食事の模様をただ眺めるか、携帯電話を弄るか、話をするか。だいたいこの三択なのだが、今日は前の二つには集中できない。最後の一つは、今のところお母さんにその希望はないようだ。
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