ヒモ男と新幹線

阿波野治

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 どうにかしなければと思いながらも、具体的な対策を講じるわけではなく、リリカの態度は軟化も硬化もしないままに、異様な生活が始まって五日が経過した。
 五日目にもなると、初日には見当もつかなかったことが朧気ながらも分かってくる。

 危機感を覚えながらも、俺が現状に甘んじているのはなぜか?
 それは、状況が今よりも悪くなることを怖れているからだ。以前の関係に戻りたいと願い、何らかの行動を起こしたいと考えているが、それが裏目に出る可能性に委縮し、行動を起こせずにいるのだ。行動を起こさずとも、状況がひとりでに悪化していくわけではないと悟ったのをいいことに、現状を変えるための行動を起こそうとしない自分を消極的に肯定しているのだ。

 なぜ状況が今よりも悪くなることを怖れているかというと、そうなれば、リリカとの関係は最早修復不可能となり、最低最悪の事態に発展すると考えているからに他ならない。
 最低最悪の事態とは、リリカに愛想を尽かされ、この部屋から出て行かれることだ。
 それは即ち、俺を養ってくれる者がいなくなる、ということを意味する。
 タダ飯を食えなくなる。毎晩セックスする相手がいなくなる。一文無しになり、食うものに窮するだけではなく、家賃滞納を理由にアパートを追い出されて宿無しになる。
 想像するだけで絶望だ。

 あれこれ考えずに、さっさと謝るのが最善の策なのかもしれない。
 だが、そうするのも何か怖かった。リリカに喋りかけた瞬間、待っていましたとばかりに、何か決定的な言葉を告げられそうな気がするのだ。
 臆病になりすぎている、と我ながら思う。
 そうは言っても、怖いものは仕方がない。ゴキブリを平気で素手で潰す者がいれば、小指の爪よりも小さな蜘蛛に震えおののく者がいるように、恐怖は理屈では語れない感情なのだから。

 五日にわたって現状を維持し続けたのは、庭の新幹線も同じだ。
 新幹線がその場所にあっても何ら不利益を被らない立場の俺からしてみれば、見慣れてしまえば、単なる鉄製の巨大な置物でしかなかった。恐らく、アパートの他の住人も同じ認識なのだろう。何の手も打たないのを見るに、庭の所有者である大家ですら、俺たちと同じ意見なのかもしれない。

*

 友人に和解の仲立ちをしてもらえばいい。
 暇を持て余し、万年床に寝転がって天井の染みを眺めていた俺の頭に、不意にそんな考えが浮かんだ。
 俺とリリカの問題だからといって、第三者に解決を依頼してはいけない決まりはない。なぜ今までそんな簡単なことに気がつかなかったのか。

 両脚で反動をつけて上体を起こす。スマホを手にした瞬間、俺の体は硬直した。
 考えてみれば、俺とリリカに共通の友人は一人もいない。二人のどちらかとしか親しくない人間に仲介役を任せたとしても、上手くいくはずがない。
 リリカについて相談するだけなら、リリカとは面識がない人間であっても支障はない。だが悲しいかな、俺の友人にはろくなやつがいない。どいつもこいつも、真面目に相談に乗ってくれなさそうな輩ばかりだ。

 俺は途方に暮れた。手をこまねいている間に時間だけは順調に流れ、我に返った時には正午を回っている。
 何もしていなくても腹は減る。憂鬱極まる溜息と共に腰を上げ、必要なものをジーンズのポケットに押し込んで自室を発つ。

 隣室の前を通過しようとすると、いきなりドアが開いた。思わず「うおお」と呻いて振り向くと、「うおお」という顔をした青年と視線がぶつかった。
 男にしては長めの、妙にさらさらとした髪。昭和感溢れる野暮ったい黒縁眼鏡。病身かと見紛う痩躯。隣人の大学生・山口だ。

 山口の顔を見た瞬間、これだ、と思った。
 その場から立ち去ろうとしない俺に、山口は不安そうな眼差しを注いでくる。俺は満面の笑みで微笑みかける。

「山口くん、大学はどうしたの? もしかして、昼飯を食いに帰ってきたの?」
「あ、はい。大学からは近いので」
「ああ、そうなんだ。昼飯はもう食ったの? それとも今から?」
「今からですが」
「じゃあさ、俺と一緒に食わない? 俺もまだだからさ。奢るよ、昼飯」

 眼鏡の奥の瞳が真ん丸になった。絶句している山口に向かって、俺は笑顔を維持して説明する。

「ほら、俺って彼女と二人暮らしでしょ。だから、つい話し声が大きくなったりとか、騒いだりとか、口論とか、お隣さんである山口くんには何かと迷惑をかけてきたと思うんだよね。だからそのお詫びと、部屋が隣同士なのに交流が全然なかったから、遅まきながら今後はよろしくという意味で、一緒に飯でもどうかなと思って」

 山口の口が、酸欠の金魚のそれを思わせる動きを見せたが、声は発せられない。騒ぐだとか口論だとか言っている割に最近はそんな声はまったく聞こえてこないぞとか、話し声が大きくなるとはセックスの時の喘ぎ声のことを暗に言っているのだろうかとか、様々な想念が脳裏を去来しているものと推察される。若いやつはすぐに表情に出るから楽だ。

「一回だけ、三十分くらいでいいから付き合ってよ。頼むよ、山口くん」

 黙考していた時間は一分を超えていたのではなかろうか。山口の返事は、若干ぎこちないながらも微笑んで首肯する、というものだった。

「ありがとう。悪いね、付き合わせちゃって。行きつけのラーメン屋があるから、そこへ行こう」

 気後れしている様子の山口の背中を押し、ちぐはぐな二人組は目的地へ向かった。
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