ヒモ男と新幹線

阿波野治

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「……さて」

 卓袱台とその周辺の状況を確認する。リリカの食器はことごとくひっくり返り、食い物は全て卓袱台の上か床の上だ。
 俺の朝飯はというと、全滅こそ免れたが酷い有り様だ。胡麻ドレッシングのかかったサラダは皿ごと床に落下している。コーヒーカップは卓上に健在だが、横倒しになって中身はこぼれ、床に水溜まりを作っている。無事と言えるのは、皿の上で千切り野菜を被っている二本のソーセージと、半分の目玉焼きくらいのものだ。
 ソーセージの上の野菜を箸で除け、つまんで食べる。二本目も同じようにして食べる。目玉焼きを口に押し込み、咀嚼する。朝食、終了。

 部屋の隅まで移動し、背中を壁にこすりつけながら座り込み、溜息。
 俺たちにとって口論は日常茶飯事だった。セックスほど頻繁にしたわけではないが、似たようなものだ。俺がリリカの作った飯に文句をつけたのは、今日に限った話ではない。今日よりも激しい口喧嘩をしたことは何回もある。
 しかし、言い争いをした後でリリカが部屋を飛び出したのは、今日が初めてだ。
 リリカは出勤する際、ハンドバッグを必ず持っていく。本来の出勤時間まで俺と過ごすのが気詰まりなので、部屋を出る時間を早めた。きっとそういうことなのだろう。
 でも、そうではなかったとしたら?

 リリカが主演女優を務める荒唐無稽な映像が、矢継ぎ早に脳裏に去来する。どれもこれも現実感がない。想像、予測、電話、メール。そういったものに頼っても無駄で、リリカを追いかけて追いついてこの目で確かめるしか、リリカの現状を把握する術はない。そんな気がする。
 でも、なぜだろう。行動を起こす気になれないのは。

 卓袱台とその周辺の惨事を改めて直視する。
 現場からやや離れた場所から眺めると、食い物がいかに広範囲に飛び散っているかがよく分かる。リリカが野菜を細かく切ったせいで、被害が拡大したのだ。床にコーヒーが染み込みそうで気がかりだが、リリカが捻り出した糞をなぜ俺が拭わなければならないのか。
 俺は何も悪くない。非はリリカにある。よって、謝罪、反省、後始末、一切する必要はなし。

「よし、寝よう」

 力強く宣言し、万年床に潜り込む。
 何か手を打たなければ、という思いがないわけではなかったが、面倒くさかった。考えるのも、行動するのも、何もかも。
 面倒くさい。俺はこれまでの人生において、それだけの理由でふて寝をしてきた男だ。
 眠気は全くなかったが、幸か不幸か俺は知っている。何もすることがない状況に置かれた人間は、身じろぎをしないように心懸けさえすれば、大した苦もなく夢の世界へ行けることを。

*

 目が覚めるとコーヒーの匂いがした。
 布団から這い出す。当たり前だが、床にぶちまけられた朝飯はそっくりそのままだ。時計を見ると、昼の一時を回っている。

 外食をする。リリカが作っておいた料理を食う。コンビニやスーパーで何か買って部屋で食う。リリカが仕事の日の昼食はその三択だ。
 今日のリリカは昼飯を作っていない。あんな形で出勤したのだから、作ってくれているはずもない。白米さえあれば、スーパーで総菜を買って部屋で食べることもできるが、炊かれていない。コンビニ弁当はわざわざ食う気がしない。外食をするしかなさそうだ。

 山口青年は今頃大学だろうか、などと考えながら隣室の前を通過し、階段を下りる。
 玄関ホールを出て庭を見ると、新幹線はまだ停まっていた。最初に見たのが今朝の七時頃だったから、少なくとも六時間にわたって居座り続けている計算になる。新幹線の大きさと存在感を考えれば、アパートを出入りする人間は例外なく、その場違いな鉄塊を認めたはずだ。それにもかかわらず、騒ぎになっていない。
 面倒くさいから、関わりたくないのかもしれない。俺が散乱した朝飯を片づけないのと同じで。

 平日で、昼食時を過ぎているにもかかわらず、出歩いている人間はそれなりにいる。アスファルトで固められた路面を踏み締めるたびに、サンダルが気の抜けたような音を奏でる。飲食店から漂ってくる食い物の匂いに、腹の虫が頻繁に鳴く。朝飯を食ったらすぐに寝て、起きたと思ったらまた飯を食うのだと思うと、何とも言えない気持ちだ。ヒモ生活を始めて以来、似たような感覚を覚えることが多々ある。
 食う、寝る、セックス。
 働いていないし勉強もしていないし家事もしないとなると、この三つに費やす時間が一日に占める割合が劇的に増える。飯を食ったばかりなのに次の飯のことを考え、眠気がなくても布団に潜り込み、何かつけて女の体を求める。やりたいこと、やるべきことが特にないから、消去法的に三大欲に関する行動に時間を割くことになるわけだ。

 行きつけのラーメン屋の店内に客は疎らだった。朝飯を満足に食べられなかったのを踏まえて、いつもの醤油ラーメン単品ではなく、醤油ラーメンと半チャーハンと半ギョーザのセットを注文する。
 運ばれてきた料理を見て思ったのは、野菜が少ないということだ。ラーメンにトッピングとして申し訳程度に入っているモヤシ、ギョーザの肉だねに混ぜ込まれている微塵切りのネギ、チャーハンのてっぺんに彩りとして載っかっている三粒のグリンピース。たったそれだけ。
 餌だ。豚の餌だ。
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