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林檎と苺
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待合室で汽車を待っていると、果実の芳香が鼻先を掠めた。
「お飲物はいかがですか」
いきなり耳元に女の声と吐息を感じ、思わず身震いをしてしまった。
振り向くと、アップで視界に飛び込んできたのは、女性の顔。一見若いようだが、よくよく見ると小皺が目立つ。
見知らぬ人間に至近距離から見つめられる圧力に耐え切れず、大きく顔を退かせると、女性も顔を離した。
距離が開いたことで、女の全身が視野に入った。白無垢姿で、フラスコを手にしている。容量は二百ミリリットルほどで、薄黄色の液体が八分目ほど入っている。
「汽車を長時間待って、喉が渇いたんじゃありませんか。これをお飲みください」
フラスコをわたしに差し出す。林檎の匂いが香った。
「林檎ジュースですか。おいくらですか?」
「無料です。この地域の特産品である林檎の果汁のみを使ったジュースなんですよ。さあ、召し上がれ」
そういうことならばと、フラスコを受け取り、一口飲む。果汁百パーセントと言っていた割には、甘みが強すぎる気がする。見守られていることに若干の居心地の悪さを感じながら、フラスコを傾けて一気に飲み干した。
「ありがとう。美味しかったです」
喜んでいただけて嬉しいです、とでも言うように笑みを浮かべてお辞儀し、女性は待合室から出て行った。宣伝のために無料で提供したジュースなはずなのに、特産品の林檎に関するPRなり講釈なりが一切なかったので、少し拍子抜けがした。
それにしても、ジュースのあの甘さはなんだったのだろう。飲み終わった直後は感じなかったが、違和感にも似た苦味が喉の奥に微かに残っている。果汁百パーセントというのは嘘で、実際には食品添加物の類が使用されていたのだろうか。それとも、使われている林檎の方が特殊なのか。
思案しているうちに汽車が駅に到着した。ベンチから腰を上げ、車両に乗り込む。
車内は空いていた。窓際の座席に座った途端、眠気が襲ってきた。終点までは一時間以上ある。一眠りしようと目を閉じたが、なぜだろう、あと一歩のところで夢の世界へ行けない。
やがて汽車は二つめの駅に停車し、乗客が乗り込んでくる気配と靴音が聞こえた。眠気のせいで瞼を開くことができない。声から判断するに、十代の少女が三・四人、といったところだろうか。座る場所は他にいくらでもあるにもかかわらず、彼女たちはわたしのすぐ隣の座席に腰を下ろした。
「苺が――というわけで――」
「そうそう。つまり――その苺――」
途切れ途切れに聞こえる会話の中で、苺という単語だけがなぜか耳に残る。
彼女たちが言っている苺とは、女性器のメタファーなのではないか。
脈絡なくそう思った、次の瞬間、少女たちが一斉に笑い声を上げた。品性の欠片もない、破壊的な哄笑だった。消えかけていた喉の奥の苦味が急激に強まる。眠ってはいけない、と直感的に思ったが、眠気は睡魔へと豹変し、わたしの意識を呑み込んだ。
「お飲物はいかがですか」
いきなり耳元に女の声と吐息を感じ、思わず身震いをしてしまった。
振り向くと、アップで視界に飛び込んできたのは、女性の顔。一見若いようだが、よくよく見ると小皺が目立つ。
見知らぬ人間に至近距離から見つめられる圧力に耐え切れず、大きく顔を退かせると、女性も顔を離した。
距離が開いたことで、女の全身が視野に入った。白無垢姿で、フラスコを手にしている。容量は二百ミリリットルほどで、薄黄色の液体が八分目ほど入っている。
「汽車を長時間待って、喉が渇いたんじゃありませんか。これをお飲みください」
フラスコをわたしに差し出す。林檎の匂いが香った。
「林檎ジュースですか。おいくらですか?」
「無料です。この地域の特産品である林檎の果汁のみを使ったジュースなんですよ。さあ、召し上がれ」
そういうことならばと、フラスコを受け取り、一口飲む。果汁百パーセントと言っていた割には、甘みが強すぎる気がする。見守られていることに若干の居心地の悪さを感じながら、フラスコを傾けて一気に飲み干した。
「ありがとう。美味しかったです」
喜んでいただけて嬉しいです、とでも言うように笑みを浮かべてお辞儀し、女性は待合室から出て行った。宣伝のために無料で提供したジュースなはずなのに、特産品の林檎に関するPRなり講釈なりが一切なかったので、少し拍子抜けがした。
それにしても、ジュースのあの甘さはなんだったのだろう。飲み終わった直後は感じなかったが、違和感にも似た苦味が喉の奥に微かに残っている。果汁百パーセントというのは嘘で、実際には食品添加物の類が使用されていたのだろうか。それとも、使われている林檎の方が特殊なのか。
思案しているうちに汽車が駅に到着した。ベンチから腰を上げ、車両に乗り込む。
車内は空いていた。窓際の座席に座った途端、眠気が襲ってきた。終点までは一時間以上ある。一眠りしようと目を閉じたが、なぜだろう、あと一歩のところで夢の世界へ行けない。
やがて汽車は二つめの駅に停車し、乗客が乗り込んでくる気配と靴音が聞こえた。眠気のせいで瞼を開くことができない。声から判断するに、十代の少女が三・四人、といったところだろうか。座る場所は他にいくらでもあるにもかかわらず、彼女たちはわたしのすぐ隣の座席に腰を下ろした。
「苺が――というわけで――」
「そうそう。つまり――その苺――」
途切れ途切れに聞こえる会話の中で、苺という単語だけがなぜか耳に残る。
彼女たちが言っている苺とは、女性器のメタファーなのではないか。
脈絡なくそう思った、次の瞬間、少女たちが一斉に笑い声を上げた。品性の欠片もない、破壊的な哄笑だった。消えかけていた喉の奥の苦味が急激に強まる。眠ってはいけない、と直感的に思ったが、眠気は睡魔へと豹変し、わたしの意識を呑み込んだ。
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