わたしの流れ方

阿波野治

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寺の境内

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「夏目漱石の『夢十夜』の、第二夜だったかな、悟ろうとしたが悟れなかった武士の話があったが――」
 和室。短足の木製の机を挟んで、わたしは年老いた男性と対座している。男性は顎をつるりと撫で、
「悟るなんて簡単さ。悟りたいと思った人間が悟ったと思いさえすれば、悟ったことになるのだから。ははは!」
 豪快に笑いながら腰を上げ、和室から出て行った。ぴしゃりと襖が閉まり、足音が廊下を遠ざかる。静寂。
 室内を見回す。家具の類が一切置かれていないため、実際の面積以上に広く感じる。床の間には一幅の掛け軸がかかり、その下にはなんの変哲もない壺が置かれている。掛け軸には、墨で一角獣らしき生物が描かれている。
 わたしは絵画や骨董品の類には興味がない。しかし、掛け軸に西洋の架空の生物が描かれているのは珍しいと思ったのと、手持無沙汰なのとで、墨で描かれたその動物をしげしげと眺めた。すると突然、一角獣がどろりと崩れ、黒く平らな物体となって紙面を駆け回り始めた。思わず立ち上がると、物体は掛け軸から抜け出して壺の中に逃げ込んだ。
 壺に駆け寄り、両手で持って振ってみたが、なにも入っていないように感じられる。恐る恐る覗いてみたが、元は一角獣だった物体の姿は認められない。黒くて平らだから、内壁にへばりついて息を潜めているのかもしれない。手を突っ込んで引き摺り出そうかとも考えたが、相手は一分前まで一角獣だった存在だ。瞬時に元の姿に戻り、鋭利な角で掌を串刺しにしてこないとも限らない。
「人を呼んでこなくては」
 壺を元の場所に置き、襖を開けて和室から出る。
 石畳の上だった。見覚えがある。実家近くにある寺の境内だ。昔、法事で訪れた時から景色は変わらない。近所に住む好事家の家を訪れているという認識だったのだが、まさか寺に来ていたとは。
 この機会に、久しぶりに墓参りに行こう。記憶を頼りに、自らの家の墓がある場所へ向かう。
 一見昔と同じように見えた境内だったが、墓地に関して言えば様変わりしていた。墓石は苔生し、花は枯れ果て、供え物には蠅と蟻がたかっている。酷いものでは、墓石が破壊され、破片が散乱しているものもあった。どの墓地にも、数基程度ならば、忘れ去られ、打ち捨てられた墓はあるのだろうが、ここにある墓は一基の例外もなく荒廃している。
 では、わたしの家の墓は? 嫌な予感がする。
 予想は見事に外れた。わたしの家の墓は、きちんと清掃されていて、瑕疵は一切認められない。他がみすぼらしいせいで相対的に立派に見えるのではなく、管理が行き届いた墓地の中にあっても見劣りしない、そんな状態だった。
 墓の前に二人の人物がいる。車椅子の老紳士に、孫と思しき若い女性。いずれも喪服に身を包んでいる。言葉を交わすことなく、真剣な表情で墓石を眺めている。見ていて面白いものではないにもかかわらず、微動だにせずに。
 彼らに関わってはいけない、と直感した。逃げるように彼らから遠ざかり、出口を探す。死ぬまで、あるいは死んでも、境内から出られないのではないか。そんな気がしてならない。
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