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思い出
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一辺が三センチほど、全面が抹茶色の、扁平な正三角形が無数に空から降ってきた。このような現象が世界各地で発生しているとニュースでは見聞きしたことがあったが、実際に遭遇したのは初めてだ。
三センチは意外と大きい。目の当たりにした当初は、一散に屋根の下に逃げ込みたいような恐怖を覚えたが、実際は体に当たっても痛くも痒くなく、早々に慣れた。
網目状に広がった畦道をわたしは歩いている。道が途切れている箇所が所々にあり、先へ進むには向こう岸まで跳ばなければならない。向こう岸までの幅はどれも、健全な肉体を持った成人男性であれば、集中力をもって跳びさえすれば渡れる距離だ。反面、舐めてかかれば跳び越えるのに失敗、田圃に落ちてしまいかねない距離でもあるので、気が抜けない。恋人との初デートに備え、一張羅を着込んでいるわたしとしては、なおさら気が抜けない。跳び越えるたびに精神をすり減らしたせいで、デート前だというのに疲労困憊の様相を呈してきた。
漸く畦道から出た。精神をすり減らしてまで畦道を通ることを選択したお陰で、無事に待ち合わせ時間に間に合いそうだ。抹茶色の正三角形の雨が降り続く中、恋人のことを想いながら、アスファルトに固められた道を進んでいると、
「ちょっと、お兄さん! ちょっと、ちょっと!」
民家の玄関先に佇んでいた女性に呼び止められた。髪の毛にパーマをあてた、漫画や映画やドラマなどで、記号としてのおばさんとして登場するような外見の、初老の女性だ。
「畦道を通ってきたんでしょう。泥が服についているわよ。ほら。ほらほら」
指摘とは裏腹に、上着には埃一つ付着していない。老眼のせいで見間違えたのだろうか?
「早く落とさないと染みになっちゃうわよ。おばちゃんが洗ってあげるから、家まで来なさい」
手首を掴み、家内に引き入れようとする。抗ったが、女性の力は強く、為す術なく引きずり込まれた。
中はフローリング張りの大広間になっていた。中央まで歩を進めると、床に正方形の扉があった。それを開けると、階段が下へと続いている。降りた先は地下通路だった。
女性はわたしの手を放し、通路を直進する。引き返すこともできたが、後を追った。命令に従わなければ不利益を被りそうな気がしてならなかったし、地下通路を通れば待ち合わせ場所まで早く着くかもしれないと考えたからだ。
女性は早足で歩いているわけではないのに、わたしは遅れまいと小走りで追いかけているのに、双方の距離は見る見る開いていく。
「子供の頃、母がよくホットケーキを焼いてくれてねぇ」
唐突に女性が喋り出した。距離が離れているにもかかわらず、耳元で囁かれているかのようだ。
「今ではなんでもないかもしれないけど、当時はホットケーキはハイカラな食べ物でね。作ってもらうたびに、私は大喜びしたわ。母が作ってくれるホットケーキは、そりゃあもう、美味しくて、美味しくてねぇ」
なぜだろう、涙腺が熱い。
「でも、蟻がたかるのだけは嫌だったわ。ほら、ホットケーキって、メイプルシロップをかけるでしょう。ホットケーキを作ってメイプルシロップをかけるたびに、蟻がたかって、たかってねぇ」
三センチは意外と大きい。目の当たりにした当初は、一散に屋根の下に逃げ込みたいような恐怖を覚えたが、実際は体に当たっても痛くも痒くなく、早々に慣れた。
網目状に広がった畦道をわたしは歩いている。道が途切れている箇所が所々にあり、先へ進むには向こう岸まで跳ばなければならない。向こう岸までの幅はどれも、健全な肉体を持った成人男性であれば、集中力をもって跳びさえすれば渡れる距離だ。反面、舐めてかかれば跳び越えるのに失敗、田圃に落ちてしまいかねない距離でもあるので、気が抜けない。恋人との初デートに備え、一張羅を着込んでいるわたしとしては、なおさら気が抜けない。跳び越えるたびに精神をすり減らしたせいで、デート前だというのに疲労困憊の様相を呈してきた。
漸く畦道から出た。精神をすり減らしてまで畦道を通ることを選択したお陰で、無事に待ち合わせ時間に間に合いそうだ。抹茶色の正三角形の雨が降り続く中、恋人のことを想いながら、アスファルトに固められた道を進んでいると、
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指摘とは裏腹に、上着には埃一つ付着していない。老眼のせいで見間違えたのだろうか?
「早く落とさないと染みになっちゃうわよ。おばちゃんが洗ってあげるから、家まで来なさい」
手首を掴み、家内に引き入れようとする。抗ったが、女性の力は強く、為す術なく引きずり込まれた。
中はフローリング張りの大広間になっていた。中央まで歩を進めると、床に正方形の扉があった。それを開けると、階段が下へと続いている。降りた先は地下通路だった。
女性はわたしの手を放し、通路を直進する。引き返すこともできたが、後を追った。命令に従わなければ不利益を被りそうな気がしてならなかったし、地下通路を通れば待ち合わせ場所まで早く着くかもしれないと考えたからだ。
女性は早足で歩いているわけではないのに、わたしは遅れまいと小走りで追いかけているのに、双方の距離は見る見る開いていく。
「子供の頃、母がよくホットケーキを焼いてくれてねぇ」
唐突に女性が喋り出した。距離が離れているにもかかわらず、耳元で囁かれているかのようだ。
「今ではなんでもないかもしれないけど、当時はホットケーキはハイカラな食べ物でね。作ってもらうたびに、私は大喜びしたわ。母が作ってくれるホットケーキは、そりゃあもう、美味しくて、美味しくてねぇ」
なぜだろう、涙腺が熱い。
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