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風になる
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どうやらわたしは一陣の風になったらしい。
人通りの途絶えた往来を、わたしは道なりに吹き抜けていく。立ち塞がるものはない。吹き抜けて、吹き抜けて、吹き抜けていく。
不意に左肘にかゆみを感じた。皮膚が炎症を起こしたのではなく、小さな虫に噛まれるか刺されるかしたことで生じたかゆみだ。実体のない風になったにもかかわらず、体の一部にかゆみを感じたのはなぜなのか。不可解極まりなかったが、そんなことよりもわたしが案じるべきは、かゆみを如何に解消するかだ。
肘があるなら手もあるはずだと考え、かゆい場所を手でかこうとしたが、かけなかった。「左肘が虫に噛まれるか刺されるかしたかのようにかゆい」という感覚は覚えても、左肘が実在するわけではないらしい。
当たり前だ。なぜならわたしは、今となっては人間ではなく、人通りの途絶えた往来を吹き抜ける一陣の風なのだから。
左肘がかゆいという感覚と、かゆいのにかけないもどかしさ、その二つに悩まされながら吹き進んでいるうちに、移動速度が徐々に低下していることに気がつく。
風は吹いているからこそ風に違いない。運動が停止した瞬間、わたしの命は尽きるのだろか?
そう考えている間も移動速度は刻一刻と減速し、とうとう停止した。
わたしは死ななかった。安堵すると同時に、拍子抜けがした。左肘のかゆみ、もとい、左肘がかゆいという感覚も治まっている。こんなことだったら、さっさと吹き止んでおけばよかった。
到着した場所は、スラム街のような雰囲気が漂う街。人の姿はなく、物音も聞こえてこない。視覚的にも聴覚的にも極めて静かで、いかにも死んだ街という印象を受ける。路肩にごみ袋がいくつも置かれているので、生活している人間はいるのだろうが、それにしても静かだ。凝然と突っ立っていると死に取り込まれてしまいそうな気がして、道を歩き始める。
街は迷路のように入り組んでいる。行き止まりに突き当たったり、同じ道を繰り返し歩いたりと、思うように先に進めない。引き返そうにも、戻る道が分からなくなってしまったし、道を尋ねようにも、通行人は一人もいない。とんでもない場所に迷い込んでしまった。風に戻ることさえできたならば、こんな迷路などあっという間に抜け出せるのだが、悲しいかな、風になれと何度念じてもわたしは人間のままだ。
一時間近く歩き続けて、真っ直ぐな一本道に出た。
ここを完歩すれば、迷路のような街から出られるかもしれない。
そんな期待を胸に、一本道を歩ききったわたしを待っていたのは、「この先虚無」と記された看板が設置された、味気ない、ありふれた行き止まりだった。
項垂れ、力なくその場に座り込む。途端に雨が降り出した。疲れきった体には痛みさえ感じられる、強く降りつける大粒の雨だ。歩きっ放しだったので酷く喉が渇いていたが、雨を飲みたいとは思わない。
もしかすると、わたしは人間ですらなくなったのかもしれない。
人通りの途絶えた往来を、わたしは道なりに吹き抜けていく。立ち塞がるものはない。吹き抜けて、吹き抜けて、吹き抜けていく。
不意に左肘にかゆみを感じた。皮膚が炎症を起こしたのではなく、小さな虫に噛まれるか刺されるかしたことで生じたかゆみだ。実体のない風になったにもかかわらず、体の一部にかゆみを感じたのはなぜなのか。不可解極まりなかったが、そんなことよりもわたしが案じるべきは、かゆみを如何に解消するかだ。
肘があるなら手もあるはずだと考え、かゆい場所を手でかこうとしたが、かけなかった。「左肘が虫に噛まれるか刺されるかしたかのようにかゆい」という感覚は覚えても、左肘が実在するわけではないらしい。
当たり前だ。なぜならわたしは、今となっては人間ではなく、人通りの途絶えた往来を吹き抜ける一陣の風なのだから。
左肘がかゆいという感覚と、かゆいのにかけないもどかしさ、その二つに悩まされながら吹き進んでいるうちに、移動速度が徐々に低下していることに気がつく。
風は吹いているからこそ風に違いない。運動が停止した瞬間、わたしの命は尽きるのだろか?
そう考えている間も移動速度は刻一刻と減速し、とうとう停止した。
わたしは死ななかった。安堵すると同時に、拍子抜けがした。左肘のかゆみ、もとい、左肘がかゆいという感覚も治まっている。こんなことだったら、さっさと吹き止んでおけばよかった。
到着した場所は、スラム街のような雰囲気が漂う街。人の姿はなく、物音も聞こえてこない。視覚的にも聴覚的にも極めて静かで、いかにも死んだ街という印象を受ける。路肩にごみ袋がいくつも置かれているので、生活している人間はいるのだろうが、それにしても静かだ。凝然と突っ立っていると死に取り込まれてしまいそうな気がして、道を歩き始める。
街は迷路のように入り組んでいる。行き止まりに突き当たったり、同じ道を繰り返し歩いたりと、思うように先に進めない。引き返そうにも、戻る道が分からなくなってしまったし、道を尋ねようにも、通行人は一人もいない。とんでもない場所に迷い込んでしまった。風に戻ることさえできたならば、こんな迷路などあっという間に抜け出せるのだが、悲しいかな、風になれと何度念じてもわたしは人間のままだ。
一時間近く歩き続けて、真っ直ぐな一本道に出た。
ここを完歩すれば、迷路のような街から出られるかもしれない。
そんな期待を胸に、一本道を歩ききったわたしを待っていたのは、「この先虚無」と記された看板が設置された、味気ない、ありふれた行き止まりだった。
項垂れ、力なくその場に座り込む。途端に雨が降り出した。疲れきった体には痛みさえ感じられる、強く降りつける大粒の雨だ。歩きっ放しだったので酷く喉が渇いていたが、雨を飲みたいとは思わない。
もしかすると、わたしは人間ですらなくなったのかもしれない。
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