わたしの流れ方

阿波野治

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尖塔の歌姫

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 石畳をブーツで踏み鳴らしながら、今日もわたしは尖塔へと向かう。街は春の匂いに満ちている。どの石をどういった順番で踏めば時間通りに辿り着くかを把握しているので、足取りが急くことはない。
 定刻ぴったりに尖塔に到着した。胸を高鳴らせながら塔を見上げると、最上部の窓が開き、歌姫が顔を覗かせた。頭髪は金、瞳は青、ドレスは白。
 小さな顔の小さな口が開き、歌姫は歌い出した。透き通るような歌声に、わたしは性的快感に似たものを覚え、陶然となる。
 歌姫はいつも通り、五分間きっちり歌い上げ、顔を引っ込めた。素っ気なく窓が閉まり、退屈な街の真ん中にわたしは取り残された。
 どうにかならないものだろうか。来た道を引き返しながら思案する。
 尖塔の頂上の小部屋に閉じ込められ、日の出から日没の間、一時間ごとに窓を開け放ち、五分間美声を披露することを強要された、悲劇の歌姫。どうにかして救ってあげたいが、今となっては最早それが揺るぎない街のルールになっているし、時の経過と共に歌姫の心境も変化し、課せられた義務に生涯を捧げる覚悟を固めたらしい、という噂も盛んに聞かれるようになった。
 わたしは、諦めるしかないのだろうか。歌姫は、尖塔の小部屋に囚われたまま一生を終えるのだろうか。
 突然、足が滑った。辛うじて踏み堪え、足元に視線を落とすと、石と石の隙間から緑色の苔が生えている。
 それを見た瞬間、これだ、思った。
 そうか、苔だ。苔さえあれば、歌姫を尖塔から救い出せるかもしれない。
 その場に這いつくばり、手の爪でこそげるようにして苔を剥しにかかる。通行人が訝しげな眼差しを注いでくるが、無視して作業に専念した。変なやつだと思いたいなら、勝手に思えばいい。囚われの姫君を助けるために駆けつけたヒーローは、自らの衣服に付着した泥など気にも留めないものだ。
 苔を傷つけないよう、細心の注意を払ったせいで時間はかかったが、無事に剥し取ることに成功した。大事に胸に抱えて駅へ向かい、乗り場で馬車に乗り込む。
「最果ての村まで」
 御者が馬に鞭を当て、馬車は走り出した。
「その苔、どうするつもりかね」
 いきなり声をかけられたので、跳び上がるほど驚いた。隣に、いつの間にか魔女のような風体の老婆が座っていた。いや、最初から乗っていたが気がつかなかっただけか。
「最果ての村で、最愛の人を助け出してくれるなにかと交換してもらうつもりです」
「あんた、本気かね」
 おっ被せるように老婆は言う。
「本当に交換できると思っているのかね。本当の意味で人を救うものが、この世にあると思っているのかね」
 馬鹿にするように言われたのであれば、怒りを露わにしてみせることも出来たのかもしれないが、老婆は人形のように無表情だ。気味が悪くなり、顔を背ける。老婆はそれ以上話しかけてはこなかった。
 車外の景色は段々と寂しくなる。背の高い建物が消え、人家や商家が疎らになり、やがて植物と土だけになる。歌姫がいる街から、もうどのくらい遠ざかったのだろう。
 もしかして、わたしは間違ったことをしているのでは……?
 言い様のない不安が胸に押し寄せた。それを紛らわせるために話でもしようと、老婆の方を向いた。
 隣席には誰も座っていなかった。
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