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信じられない気持ちで、ハロルドさんの顔をいっそう強く見つめる。彼の表情はとても真剣で、表面だけではなくて奥深くまで真剣で、冗談の気配はどこにも見つけられない。
「君の話を聞いた限り、君の暮らしぶりは恵まれているとはとうてい言えない。妖精は、一般的には屋内で放し飼いされることが多いと聞くけど、君は一日中鳥かごの中。そんなのは不公平だし、かわいそうだ。アデルさんにそれとなく訊いてみたけど、旦那さまにリリィの住環境を改善する考えはないみたいだった。だったら、僕がどうにかするしかない。身勝手な考えかもしれないけど、君が幸せになればそれでいいと僕は思っている」
鳥かごから出ることを行動の上で諦めて以来、ずっと、この生活が普通なのだと思う努力をしてきた。慣れるにしたがって、不自由な暮らしを受け入れていった。
だけどハロルドさんは、真剣な顔で、穏やかだけど強い口調で、その暮らしぶりを否定した。
やっぱり、異常だったんだ。ずっと鳥かごの中で暮らすのは、おかしいことだったんだ。
「僕が君をここから連れだしてあげる。僕の家で僕といっしょに暮らそう。……嫌かい?」
首を左右に振る。褐色の瞳の一番奥を覗きこむように、ハロルドさんの顔を見つめ返す。
「いいえ。そう言ってくれて、嬉しいです。ただ、あまりにも急なので、気持ちの整理が……」
「そうだね。急な申し出で、リリィも戸惑っていると思う。でも、時間がないから仕方がなかったんだ。――僕はもう、明日で君とお別れしなければいけない」
わたしは理解する。明日で仕事が終わって、彼がウィルバーフォース家を訪れる正当な理由がなくなるのだ、と。
明日で彼と別れるか、もっと彼のそばに居つづけるか。そんな二者択一をわたしは迫られているのだ。
「でも、ハロルドさんは生活が楽ではないと言っていましたよね」
「お金のことなら心配しなくてもいいよ。小さな君が家族の一員になったところで、生活が急に苦しくなるはずもないからね。僕との暮らしが期待外れだとか、新生活にどうしても慣れないということであれば、またこの家に戻ってくればいい。なぜいなくなったのかと家の人に訊かれたら、僕に無理矢理連れ去られたと説明すれば、僕が悪者になるだけで済む」
控えめな笑みがハロルドさんの口元に浮かぶ。いっしょに暮らすことに不安があるなら、その不安がなんなのかを言ってごらん。そう言っているみたいだった。
少し考えてみたけど、なにも浮かばない。
だけど、今すぐにお屋敷から出ていってもいい、とは思わない。
鳥かごの中から出る。
それはわたしの夢。夢のままで終わると思っていた夢。だから、それが実現すると言われても、実感はわかない。
ハロルドさんといっしょに暮らす。
嬉しくないはずがない。だけど同時に、不安も覚えている。その不安は、無視できるほど、ないものと見なせるほど、小さくはない。
ウィルバーフォース家から出ていくという選択は、わたしにとってあまりにも非現実的だ。
ずっと鳥かごの中で暮らしてきた。シルヴィアお嬢さまがいたころでさえ、ウィルバーフォース家の敷地内から出たことがない。そんなわたしに、外の世界はあまりにも広すぎる。
広すぎるから、怖い。広すぎるから、不安だ。広すぎるから、緊張してしまう。広すぎるから、広すぎるから、広すぎるから……。
そして、こうも考えてしまう。
夢のまた夢だった夢が、こんなに呆気なく叶ってしまって、ほんとうにいいのだろうか。叶うことで、失ってしまうものはないだろうか。
「もしリリィと暮らすことになったら、休日は二人でいっしょにいろんな場所に出かけたいね。リリィは海を見たことがないんだったよね。驚くと思うな、あの眺めを見たら。山や森に行くのもいいかもしれない。僕が暮らしている町の近くには、野生の妖精が住む森があるんだ。そこへ行けば、もしかすると仲間に会えるかもしれないね。野生の妖精は警戒心がかなり強いらしくて、残念ながら僕はお目にかかったことはないけど」
ハロルドさんの顔には、いつの間にか、いつものほほ笑みが復活している。
とても楽しそうに未来を語る彼を見ていると、心が一方的にそちらに引き寄せられていく。彼とともに歩む無限の未来に、胸を弾ませているわたしがいる。
だけど、新しい暮らしに対する喜びや期待では隠しきれないほど、強く不安を感じている。それもまた事実だ。
あっという間に、話をしていられる時間は終わりを迎えた。
「明日の朝まで考える時間はあるから、焦らずに考えてね。リリィがどちらを選んだとしても、僕はリリィの選択を尊重するから。それじゃあ、また明日」
いつものように手をちょうちょのようにひらめかせて、ハロルドさんは仕事に戻っていった。
「君の話を聞いた限り、君の暮らしぶりは恵まれているとはとうてい言えない。妖精は、一般的には屋内で放し飼いされることが多いと聞くけど、君は一日中鳥かごの中。そんなのは不公平だし、かわいそうだ。アデルさんにそれとなく訊いてみたけど、旦那さまにリリィの住環境を改善する考えはないみたいだった。だったら、僕がどうにかするしかない。身勝手な考えかもしれないけど、君が幸せになればそれでいいと僕は思っている」
鳥かごから出ることを行動の上で諦めて以来、ずっと、この生活が普通なのだと思う努力をしてきた。慣れるにしたがって、不自由な暮らしを受け入れていった。
だけどハロルドさんは、真剣な顔で、穏やかだけど強い口調で、その暮らしぶりを否定した。
やっぱり、異常だったんだ。ずっと鳥かごの中で暮らすのは、おかしいことだったんだ。
「僕が君をここから連れだしてあげる。僕の家で僕といっしょに暮らそう。……嫌かい?」
首を左右に振る。褐色の瞳の一番奥を覗きこむように、ハロルドさんの顔を見つめ返す。
「いいえ。そう言ってくれて、嬉しいです。ただ、あまりにも急なので、気持ちの整理が……」
「そうだね。急な申し出で、リリィも戸惑っていると思う。でも、時間がないから仕方がなかったんだ。――僕はもう、明日で君とお別れしなければいけない」
わたしは理解する。明日で仕事が終わって、彼がウィルバーフォース家を訪れる正当な理由がなくなるのだ、と。
明日で彼と別れるか、もっと彼のそばに居つづけるか。そんな二者択一をわたしは迫られているのだ。
「でも、ハロルドさんは生活が楽ではないと言っていましたよね」
「お金のことなら心配しなくてもいいよ。小さな君が家族の一員になったところで、生活が急に苦しくなるはずもないからね。僕との暮らしが期待外れだとか、新生活にどうしても慣れないということであれば、またこの家に戻ってくればいい。なぜいなくなったのかと家の人に訊かれたら、僕に無理矢理連れ去られたと説明すれば、僕が悪者になるだけで済む」
控えめな笑みがハロルドさんの口元に浮かぶ。いっしょに暮らすことに不安があるなら、その不安がなんなのかを言ってごらん。そう言っているみたいだった。
少し考えてみたけど、なにも浮かばない。
だけど、今すぐにお屋敷から出ていってもいい、とは思わない。
鳥かごの中から出る。
それはわたしの夢。夢のままで終わると思っていた夢。だから、それが実現すると言われても、実感はわかない。
ハロルドさんといっしょに暮らす。
嬉しくないはずがない。だけど同時に、不安も覚えている。その不安は、無視できるほど、ないものと見なせるほど、小さくはない。
ウィルバーフォース家から出ていくという選択は、わたしにとってあまりにも非現実的だ。
ずっと鳥かごの中で暮らしてきた。シルヴィアお嬢さまがいたころでさえ、ウィルバーフォース家の敷地内から出たことがない。そんなわたしに、外の世界はあまりにも広すぎる。
広すぎるから、怖い。広すぎるから、不安だ。広すぎるから、緊張してしまう。広すぎるから、広すぎるから、広すぎるから……。
そして、こうも考えてしまう。
夢のまた夢だった夢が、こんなに呆気なく叶ってしまって、ほんとうにいいのだろうか。叶うことで、失ってしまうものはないだろうか。
「もしリリィと暮らすことになったら、休日は二人でいっしょにいろんな場所に出かけたいね。リリィは海を見たことがないんだったよね。驚くと思うな、あの眺めを見たら。山や森に行くのもいいかもしれない。僕が暮らしている町の近くには、野生の妖精が住む森があるんだ。そこへ行けば、もしかすると仲間に会えるかもしれないね。野生の妖精は警戒心がかなり強いらしくて、残念ながら僕はお目にかかったことはないけど」
ハロルドさんの顔には、いつの間にか、いつものほほ笑みが復活している。
とても楽しそうに未来を語る彼を見ていると、心が一方的にそちらに引き寄せられていく。彼とともに歩む無限の未来に、胸を弾ませているわたしがいる。
だけど、新しい暮らしに対する喜びや期待では隠しきれないほど、強く不安を感じている。それもまた事実だ。
あっという間に、話をしていられる時間は終わりを迎えた。
「明日の朝まで考える時間はあるから、焦らずに考えてね。リリィがどちらを選んだとしても、僕はリリィの選択を尊重するから。それじゃあ、また明日」
いつものように手をちょうちょのようにひらめかせて、ハロルドさんは仕事に戻っていった。
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