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困惑
第二十一話 困惑3
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神楽小路は逃げるように食堂を出ると、大学の玄関横にある芸術情報センターへと早足で向かった。映像作品の上映、演奏会が行われるホールや、芸術作品を展示している美術館などが入った建物である。
二階にある図書館に駆け込む。乱れた息を整えながら、座席に着く。図書館の静かな空間、そしてなにより本の匂いが神楽小路を落ち着かせた。
(佐野真綾は本当に変わり者だ。どうして俺を庇うような……)
神楽小路は混乱していた。自分と関わったせいで、他の人から佐野が憐みの目で見られていたことの悔しさや申し訳なさ。そして、佐野が自分のことを悪く言うことがなかったことの安堵と喜び。一気に押し寄せる感情に神楽小路は深い思考の渦に飲み込まれていきそうだった。鞄の中から赤ボールペンを差したノートを取り出す。今、執筆途中の小説の下書きを書いているノート。ラストまで書き終えていて、パソコンに打ち直す前に細かい部分を赤ペンで書き足している途中だ。さっきのことを少しでも忘れようと、執筆しようと開いたのであった。
主人公である旅人の男。年齢は二十代前半くらい。男には家族がいない、そして言葉を発さない。旅の途中、父・母・十代前半の娘の営む小さな宿屋に泊まる。言葉を発さない旅人はいつも邪険にされる。だが、この宿屋の家族だけは優しく接する。しかし、宿屋の娘に好意を持ち、宿屋を買収しようとしている男が旅人のことをよく思わず、殺される。絶命する直前、駆け寄ってきた娘に笑顔を見せ言う、「ありがとう」と。
今までは描かなかったファンタジーものだ。現実味を足すため、食事のシーンに多く割いていた。少しだけでも食事のシーンを入れるだけで登場人物の生活が浮き彫りになり、「彼らも物語の中で生きている」のだと思わせる。それは課題で佐野の文章に触れ、自分自身も記事を書いたことによる成長だった。
主人公は話さず、感情も最後のシーンまで出さないが、宿屋の家族には笑顔という表情が出せた。ずっとのっぺらぼうだった他の登場人物たちが動き出した気がした。
執筆しているふとした瞬間も、佐野真綾のことを思い出していた。笑顔を絶やさず、明るさのある声、人を包みこむやさしい性格。宿屋の娘のイメージは他ならない佐野だった。
(彼女と出会えたことは、俺の人生の中で最大の事件だった。こうして俺の書く作品にも変化が出た。だがそれは人生の中で一瞬のこと。きっともう強いつながりはない。それでいい。でも、欲を言うならばもう少し話をしてみてもよかったかもしれん)
神楽小路は頬杖をつくと、ため息をついた。
(いや。もうすべては遅い。課題制作は終わったんだ。佐野真綾が俺に少しでも良いように評価しているなら、そのままでいい。これ以上関わって、嫌われるのは……。今は忘れよう)
三限目の授業は結局休み、小説を細かく修正した。今期最後の授業である四限目は出席しようと図書館を出ると、
「あ、神楽小路くん」
ハードカバーの本を胸元で抱えた佐野真綾が立っていた。予想もしてなかったことに神楽小路は固まりながらも、
「なんでここにいるんだ?」
無理やり言葉を絞り出した。
「本の返却だよ。今日返さないと期限が切れちゃうから」
「ああ……なるほどな」
「わたしはもう授業全部終わりだけど、神楽小路くんはこのあと授業?」
「ああ、四限の教室へ行こうかと……」
その時だった。神楽小路の腹から音が鳴り、静かな廊下に響き渡る。慌てて手で腹を押さえるが、後の祭りだ。
「お腹空いてるの?」
「……食べ忘れた」
「え!?」
驚いて大声を出す佐野を無視して、階段の方へ向かう。
「だが心配は無用だ。俺は授業に……」
「いやいや、それは大ごとだよ! ご飯食べ忘れるなんて……。今からでもご飯食べに行こう!」
「授業が控えている、かまわん」
「そんなの途中でしんどくなっちゃうよ! 外は暑いんだから! 熱中症なるよ!?」
そう言いながら彼女に腕を掴まれる。小さな手だが、力は強い。
「授業を休んで良い訳ないだろう」
「神楽小路くんが倒れちゃう方が良くないに決まってるでしょ!」
「なっ……」
神楽小路は言葉を飲み込んだ。本当は訊きたかった。「なぜそこまで俺を気にするのか」と。しかし、いつも笑う佐野が眉間に皺を寄せ、強い語気で、本気で怒っているのを見てしまったら何も言えなかった。
「すぐ本返却してくるからそこで待ってて!」
二階にある図書館に駆け込む。乱れた息を整えながら、座席に着く。図書館の静かな空間、そしてなにより本の匂いが神楽小路を落ち着かせた。
(佐野真綾は本当に変わり者だ。どうして俺を庇うような……)
神楽小路は混乱していた。自分と関わったせいで、他の人から佐野が憐みの目で見られていたことの悔しさや申し訳なさ。そして、佐野が自分のことを悪く言うことがなかったことの安堵と喜び。一気に押し寄せる感情に神楽小路は深い思考の渦に飲み込まれていきそうだった。鞄の中から赤ボールペンを差したノートを取り出す。今、執筆途中の小説の下書きを書いているノート。ラストまで書き終えていて、パソコンに打ち直す前に細かい部分を赤ペンで書き足している途中だ。さっきのことを少しでも忘れようと、執筆しようと開いたのであった。
主人公である旅人の男。年齢は二十代前半くらい。男には家族がいない、そして言葉を発さない。旅の途中、父・母・十代前半の娘の営む小さな宿屋に泊まる。言葉を発さない旅人はいつも邪険にされる。だが、この宿屋の家族だけは優しく接する。しかし、宿屋の娘に好意を持ち、宿屋を買収しようとしている男が旅人のことをよく思わず、殺される。絶命する直前、駆け寄ってきた娘に笑顔を見せ言う、「ありがとう」と。
今までは描かなかったファンタジーものだ。現実味を足すため、食事のシーンに多く割いていた。少しだけでも食事のシーンを入れるだけで登場人物の生活が浮き彫りになり、「彼らも物語の中で生きている」のだと思わせる。それは課題で佐野の文章に触れ、自分自身も記事を書いたことによる成長だった。
主人公は話さず、感情も最後のシーンまで出さないが、宿屋の家族には笑顔という表情が出せた。ずっとのっぺらぼうだった他の登場人物たちが動き出した気がした。
執筆しているふとした瞬間も、佐野真綾のことを思い出していた。笑顔を絶やさず、明るさのある声、人を包みこむやさしい性格。宿屋の娘のイメージは他ならない佐野だった。
(彼女と出会えたことは、俺の人生の中で最大の事件だった。こうして俺の書く作品にも変化が出た。だがそれは人生の中で一瞬のこと。きっともう強いつながりはない。それでいい。でも、欲を言うならばもう少し話をしてみてもよかったかもしれん)
神楽小路は頬杖をつくと、ため息をついた。
(いや。もうすべては遅い。課題制作は終わったんだ。佐野真綾が俺に少しでも良いように評価しているなら、そのままでいい。これ以上関わって、嫌われるのは……。今は忘れよう)
三限目の授業は結局休み、小説を細かく修正した。今期最後の授業である四限目は出席しようと図書館を出ると、
「あ、神楽小路くん」
ハードカバーの本を胸元で抱えた佐野真綾が立っていた。予想もしてなかったことに神楽小路は固まりながらも、
「なんでここにいるんだ?」
無理やり言葉を絞り出した。
「本の返却だよ。今日返さないと期限が切れちゃうから」
「ああ……なるほどな」
「わたしはもう授業全部終わりだけど、神楽小路くんはこのあと授業?」
「ああ、四限の教室へ行こうかと……」
その時だった。神楽小路の腹から音が鳴り、静かな廊下に響き渡る。慌てて手で腹を押さえるが、後の祭りだ。
「お腹空いてるの?」
「……食べ忘れた」
「え!?」
驚いて大声を出す佐野を無視して、階段の方へ向かう。
「だが心配は無用だ。俺は授業に……」
「いやいや、それは大ごとだよ! ご飯食べ忘れるなんて……。今からでもご飯食べに行こう!」
「授業が控えている、かまわん」
「そんなの途中でしんどくなっちゃうよ! 外は暑いんだから! 熱中症なるよ!?」
そう言いながら彼女に腕を掴まれる。小さな手だが、力は強い。
「授業を休んで良い訳ないだろう」
「神楽小路くんが倒れちゃう方が良くないに決まってるでしょ!」
「なっ……」
神楽小路は言葉を飲み込んだ。本当は訊きたかった。「なぜそこまで俺を気にするのか」と。しかし、いつも笑う佐野が眉間に皺を寄せ、強い語気で、本気で怒っているのを見てしまったら何も言えなかった。
「すぐ本返却してくるからそこで待ってて!」
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