【1】胃の中の君彦【完結】

羊夜千尋

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再生

第三十一話 再生5

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 目を開くと、カーテンの隙間から光が漏れていた。重い身体を起こし、身支度を整える。
「今日は向かわなければ」
再びベッドに沈んでいきそうな神楽小路はドアのノックで現実に引き戻される。返事をすると、芝田が入ってきた。
「……すまない。今日も――」
「君彦様、本日は土曜日でございます。授業はございません」
「そうか」
また言われるまで気づかなかった。桂の電話からさらに三日過ぎていた。きっとまた電話がかかってきていたのかもしれないが。それよりも、その三日間なにをしていたのか。つけっぱなしのパソコン画面を見るのが恐ろしい。
「お客様がお見えです」
「客? 俺にか?」
「ええ、佐野真綾様という女性です」
「佐野真綾だと?」
 心臓が跳ね上がる。
「お会いになられますか」
 顎に手を添え、少し考えたのち、
「……客間に通してくれ。すぐ行く」
「かしこまりました」

 一階下の客間に行くだけでも、体力が少ない今、ふらつきながら向かう。ドアをノックすると、「は、はい!」と裏返った声が聞こえた。久しぶりに聞いた声はどこか安心感があるとともに胸が締めつけられる思いだった。中に入ると、申し訳なさそうに縮こまってソファに座る佐野真綾がいた。神楽小路の顔を見ると、硬いながらも笑顔を見せた。
「なんだか久しぶりだね」
「そんな気もする」
 神楽小路は佐野の前のソファに腰かける。沈黙が訪れる。出会った頃よりも気まずく、重い空気の中、紅茶とクッキーが運ばれてきた。佐野はカップを手に取り、紅茶に口をつけた。
「おいしい……! わたしがいつも飲んでる紅茶よりも渋くなくてさっぱりしてる」
 一瞬にしていつもの佐野真綾がそこにいた。
「佐野真綾、お前はいつもと変わらんな」
 クッキーを嬉しそうに咀嚼してた佐野は慌てて紅茶で流しこんだ。
「ごめんね、おいしそうでつい」
「それより、お前に家を教えた記憶はないが」
「この課題のプリントをどうしても渡したくて。この授業、プリント課題が出たら提出しないとすぐに単位もらえなくなるって聞いたから。大学側からご家族の方に了解いただいて、今日お伺いしたという流れ……です」
 電話がかかってきていたのなら、対応したのは芝田だろう。だが芝田が神楽小路に了承を得ず、来訪を許すはずが合い。きっとうつろな状態で自分は許可したのだろう。プリントを受け取り、さっと目を通したあと、テーブルの端に置いた。
「用件はそれだけか」
 冷たくそう言うと、佐野の表情は曇る。
「最近体調悪そうだったし、この数日は急に大学に来なくなったし、連絡しても既読つかないし、心配で。何か悩んでるのかなって」
 神楽小路は何も言わず、腕を組み、じっと床を見ていた。今、口を開けば、彼女を傷つける言葉を吐くかもしれない。何も言わなければ、さらに彼女が心配する。
 ここにきても神楽小路は創作に行き詰っていることを言えなかった。
「だったら、わたしで『人と関わるとどうなるか』試してみるのはどうかな?」
 と言って扉をたたいてきた彼女を最初は突き放すようなこともした。それでも佐野は笑顔で神楽小路のそばにいた。
(家族以外の人間を嫌いになるばかりだった俺は「人と好意を持って接する」という感覚がわからなかった。わからなくてもいいとさえ思っていた。だが、神楽小路はもう知っている。すべて佐野真綾が教えてくれた。人と出会うことにより、変わり、戸惑う。しかし理解し、受け入れる。それが「好きだ」ということを。彼女を心配させたくない。傷つけたくない。離したくない)
「神楽小路くん……!」
 顔を上げると、佐野が目の前にいた。両膝を床につき、慌てたように神楽小路の頬を伝う涙を指で拭っていた。
「ごめん、ごめんね。体調悪いのに家まで押しかけてしまったから……!」
 佐野の目にもみるみるうちに涙がたまり、落ちていく。
「ごめんなさい……! わたし、帰る、だから、泣かないで……」
 一生懸命に涙を拭い、濡れた佐野の手を神楽小路は両手で包んで、額に当てた。
「頼む……。そばにいてくれ」
 初めて漏れた心の声は小さかったが、大切な人の耳に届くには充分であった。
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