五年と十七年の片思い

羊夜千尋

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五年と十七年の片思い

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 十七歳の頃から片思いをしていた伊藤さんが「結婚する」と知ったのは今日の仕事終わり。閉店業務を終え、「疲れた」と言いながら各々ロッカーへ向かおうとしていたところ、店長がみんなを呼び止めた。
「伊藤くんからみんなにご報告があるんだよ。ね?」
 そうして聞かされたのが伊藤さんの結婚報告だった。来週籍を入れて、春ごろに結婚式を挙げるらしい。拍手が巻き起こるなか、
「こんなたくさんの人の前で言うつもりはなかったんですけど」
 伊藤さんは黒縁メガネを上げながら、元々細い目をさらに細めた。少しふっくらとしている頬は紅潮していて三十四歳の男性に言うには失礼かもしれないが可愛らしさがある。
「たしか十年くらいお付き合いしてる方がいるって飲み会で言ってましたよね」
「そうです、僕が二十四歳の時……大学卒業したあたりですね」
「すごいよね、十年って。よく彼女さんもプロポーズ待ってくれてたっていうか。私だったら待てないし」
「そうそう。その間に次の彼氏見つける~」
「お互い結婚の意志はあったんですけど、僕が経済的に安定するまではと決めていたので。彼女も彼女で仕事楽しんでましたし」

 スタッフたちが伊藤さんを囲んでワイワイやっているのを横目に、アタシはロッカールームへと向かい、エプロンを脱いだ。ヘアゴムを外し、パサついた金髪をおろす。一気にスーパーの店員モードが解け、ただの田中杏里たなかあんり、二十二歳へ戻った。
 ロッカーの扉を閉じて、ふと床を見ると、ぽつぽつと小さな水が落ちている。アタシの目から落ちた涙だとすぐに気がついた。こんなところで泣くわけにはいかないと、コートの裾で目をこする。何事もなかったかのように荷物をまとめて店の外へ出た。
 十二月頭、二十三時少し前。雪は降ってないけど、昨日一昨日くらいから冷え込みがきつくなって、身体の芯から凍えてしまう。暖かすぎた店内との差に身震いしながら、マフラーを首に巻きつけた。
「帰ろう」
 立ち上り消えた白い息を見届け、歩きだす。ここに長くいたらまた気持ちが昂ってしまいそうだ。早く帰って早く寝よう。大股で五歩ほど進んだ時だった。
「田中さん!」
 振り返らなくても声でわかる。どんな時でも声から優しさがにじみ出てる人。伊藤さんだ。いくら暗い外だといえど、仕事終わりに加え、さっき少し泣いたせいでメイクが崩れて汚い顔を見られたくない。このまま聞こえないふりをしよう。そう思ったのに、伊藤さんだとわかると自然と身体が彼の方を向いてしまっていた。そして、笑いたくもないのに笑顔を貼りつけて、
「伊藤さん、どうしたんすか!」
 と元気よく応えてしまう。
「退勤の挨拶しようと思ったら、田中さんいないから。もしかして今日体調悪かった?」
「え? いえ、アタシは大丈夫っす。今日、ちょっとその、このあと観たいテレビ番組があったなーなんて思い出して」
「そっかそっか。ごめんね、呼び止めちゃって」
「こちらこそ、しょーもない用事で挨拶もせずにお祝いムードの中帰っちゃってすいません」
「プライベートなことで気を遣わせてごめんね」
 困ったように笑う伊藤さん。ああ、やっぱり伊藤さんの笑顔はステキだな。毎日、ずっと見ていても飽きない。彼が笑うとアタシもみんなも明るくしてくれて、場が和むのだ。そんな彼を目の前にして、頭の中でもう一人のアタシが言う。
――伊藤さんに思いを伝えろ。
 と。出来るわけないじゃん。てか、これから結婚するって言ってる人に告白するバカがどこにいる? 一〇〇%フラれるんだぞ。何が嬉しくて傷つかなきゃならないんだ。
――でも、もう五年も片思いしてんだぞ。まだ伊藤さんが独身の今言わねえと一生いえなくなるぞ。
 それは……そうだけど。
――言え! 早く!

「田中さん……?」
 ハッと我に返ると、伊藤さんがこちらを心配そうに見つめている。伊藤さんはいつでもそうだ。アタシが少しでも元気がないと、すぐに察して声をかけてくれる。いや、他のスタッフにもそうだけど。アタシみたいなろくに学校に行ったことのない、中卒ひきこもり根暗女にさえ、いつでも手を差し伸べてくれる。そんなところが本当に好きだ。
 五年前。面接を受けるため、初めてこのスーパーに来た日。店の裏のスタッフ通用口から来てくださいと言われたけど、どの扉なのかわからずに迷ってた時。偶然ダンボールを捨てるために出て来た男性――伊藤さんに声をかけた。慌てふためくアタシを嫌な顔どころか笑顔で対応してくれた。そして店長の待つ面談室まで案内してくれて、去り際に、
「面接、緊張するかもしれないけど頑張ってね。君と働けるのを楽しみにしてるよ」
 と言ってくれたのであった。あの日から、あの瞬間から、アタシは伊藤さんが好きになった。
「伊藤、さん……。その……」
「ん?」
「……ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せになってください」
 深く深く頭を下げて、顔を上げる時、自分なりに満面の笑みを浮かべた。伊藤さんは一瞬目を丸くしたあと、アタシの目をまっすぐに見つめ、
「ありがとう」
 一言、やわらかな表情で応えてくれた。
「それじゃ、アタシは帰ります。お疲れさまでーす」
「うん。お疲れ様。また明日ね」
 角を二回曲がり、店から離れたと思った瞬間、アタシは歩きながら大声で泣いていた。
 あーあ。好きだったのに。人生初の一目惚れどころか、初恋が終わった。終わったなんて思いたくないけど、五年間に渡る恋は終わったのだ。
 出会うのが早ければ、一回り下のアタシでも付き合ってくれたのだろうか? そもそもアタシが伊藤さんと同い年だったなら、幼馴染や、同じ学校のクラスメイトだったなら……。いや、もっとアタシが可愛ければ、頭が賢かったなら、性格が明るかったなら……。ぐるぐると考えてもどうしようもないことばかりが浮かんでは消える。
 初めて恋人を作るなら、伊藤さんが良かった。結婚したい人も、子どもを作って育てる人も、一生を添い遂げたい人も全部伊藤さんが良かったのに。悔しい、悔しいよ。アタシも伊藤さんから「好きだ」って、「愛してる」って言われてみたかった。こんなの嫌だ。伊藤さんが誰かのモノになるなんて。全部やりなおした方が早いくらいだ。目の前に「好き」という文字がぐるぐる渦巻いて消えない。伝えることがなかった、伝えても無駄だったアタシの気持ち。ああもう明日からアタシはどうやって生きていけば――。
 その時だった。背中に感じたことのない衝撃。
「え?」
 身体がふっと宙に浮いて、このままだと地面にぶつかると受け身を取ろうとしても手足は動かなくて、糸がぷちんとハサミで断たれたように世界は真っ黒になった。

 は?
 第一声はその一言だった。アタシは葬式場にいた。こじんまりとした小さな部屋に祭壇が組まれていて、周りに花々が飾られている。その中心に飾られた遺影に写っているのは紛れもなく、自分。何年か前に家をリフォームした時、撮影した家族写真からアタシの上半身部分だけが切り取られていた。あの日は、寝ていたところを叩き起こされ、無理やり撮らされたから、口を一文字に結び不機嫌そのもの。だけどこれ以外にこの数年で写真なんて撮った記憶なんてないから、表情が悪いけど渋々使ってくれたのだろう。
 お坊さんが退場し、棺が会場の真ん中に移動してきた。その中にはもちろん自分が横たわっている。ただ寝ているだけだと思うのに、よく見ると、顔に色つやがなくどこか粘土のようで、本当に二十二年間も生きてたのだろうかと思うほど、精巧に作られた人形のように見えた。母ちゃんとばあちゃんはアタシの顔を見るなり、抱き合って泣き崩れた。
「杏里……! 杏里ぃ……!」
 枯れた声で何度も叫んでいる。
 アタシはここにいるよ。ねえ、泣かないでよ。いつもみたいにさ、元気な姿見たいのに。
 声を出してるつもりでも、二人にはもう届かない。
「杏里ちゃん、トラックに轢かれたんですってね」
「そうらしい。しかも相手は飲酒してたって……」
「人気のない道だったから発見されるのも遅かったとかで……気の毒ね……」
 見知らぬ親戚の人たちと思われる男女の話す声が聞こえ、アタシは自分の死因を知った。
 
 母ちゃん、ばあちゃん、ごめんな、不運な娘で。蒸発しやがったバカな父ちゃんの代わりに、女手ふたつで二十二歳まで育ててくれたのに。学校馴染めなくて不登校になって、何回もケンカして、それでもアタシをいつでも守ってくれた。十七歳の時スーパーのバイトが決まった日なんて、母ちゃんが喜びすぎて勢いよく椅子から立ち上がった瞬間ぎっくり腰なって大変だったなぁ。それくらい、嬉しいことが起きた時は一緒になって喜んでくれた。ありがとう。それなのに、アタシのせいで二人を悲しませてしまった。死んで身体がなくなったから涙を拭ってあげる指がない。目もないから涙も流れない。ごめん。本当にごめん。
 無気力なアタシは式場を出た。
 で、これからどうしたらいい? というか、アタシ死んでるのに、なんでまだこの世界にいるんだ? おかしいよな。これがよく言う「現世に未練がある」というやつなんだろうか。
 未練。その二文字を思い浮かべた時、伊藤さんの顔が出ないわけがなかった。伊藤さんもアタシが死んだこと、もう知ってるのだろうか。母ちゃんかばあちゃんが連絡してる、か……。母ちゃんとばあちゃんのもとに今また戻るのはつらかった。何もできない自分の不甲斐なさに苛まれてしまうし。……一度バイト先、行ってみようかな。アタシは背中を向けていた会場に向かって、
 今までありがとう!
 と叫んだ。この二十二年間の感謝は一言じゃ言い表せないけれど。心から精一杯思いを込めた。

 葬式会場がいつも通勤の時に通っていた場所だったから、迷うことなく職場に到着した。スーパーは通常営業していた。そりゃ当たり前だよな。スーパーもそうだけど、この世界はアタシがいなくなってもいつも通り動いている。世の中から考えたらアタシの存在は塵のようなもんなのだから。
 店内を巡り、新商品の炭酸ドリンクをエンド台に並べている伊藤さんを見つけた。もう身体がないから近づき放題だ。でも、まだ残っている羞恥心がブレーキをかけ、結局五センチくらい距離をとって観察する。どう商品を並べるかを考えている真剣なまなざし。ワイシャツの裾を肘のあたりまでまくり、額にはうっすらと汗が滲んでいる。今日も伊藤さんはカッコイイ。芸能人に向けて言う「カッコイイ」とは違う。正直なところ、伊藤さんはイケメンとかハンサムの部類ではない。だけど、カッコイイのだ。テキパキ仕事をしている姿は見惚れるし、尊敬できる背中とはこのことだと知った。アタシも伊藤さんみたいなスタッフになりたい。伊藤さんの横にいても恥じない人になりたい。そう思いながら伊藤さんを目で追って、仕事していた日々がもう懐かしく感じる。これからは見つからないようにとか、コソコソしなくても、ずっと近くで見ていられる。だけど、アタシはもう伊藤さんとは働けない。休憩時間に話すことも出来ない。もうないはずの心臓がしくしく痛んだ。

 閉店時間を迎え、全ての作業を終えた伊藤さんはタイムカードの機械の前に立ち、「退勤」ボタンを押す。
「お疲れ様です」
 と全員に挨拶して、駐車場へと向かった。シルバーの軽乗用車のドアを解除し、伊藤さんが乗り込む。  アタシは助手席に位置取りし、そのまま彼の住むマンションへついていった。死んだのになぜか成仏できなかったのだ。知りたいけど知れなかった好きな人のことを今更ながら知ろうとしたってバチは当たらないはずだ。
「ただいま」
 ドアを開けながら伊藤さんが声を発する。部屋の奥からパタパタと小走りで駆けてくる足音と共にパジャマ姿の女性が現れた。
「おかえり、基春もとはるくん」
 この人が伊藤さんの彼女、来週には奥さんになる人なのかとまじまじと観察する。中肉中背、身長は靴を脱いだ伊藤さんより少し高い。艶のある黒髪をシュシュで軽くまとめていて、ノーメイクでも目鼻立ちがしっかりしているからか華やかさがある。でも、微笑むと伊藤さんに似たやわらかさがあって、疲れて帰宅した伊藤さんが癒されたようにふっと笑ってしまうのも頷ける。話の中だけで何度も聞いていた伊藤さんが好きになった、アタシの知らない伊藤さんをたくさん知ってる人。

 伊藤さんに彼女がいると知ったのは入社して初めて参加した歓送迎会の時だった。いつもは居酒屋で開催しているらしいが、アタシが未成年ということで、近くのファミレスで開催してくれた。アタシは緊張しすぎてまともに話せず、ただただみんなの話を聞きながら、フライドポテトや一口大のチキンをつまんでいた。飲んでいたオレンジジュースがなくなり、ドリンクバーへ立ちたかったけど、場が盛り上がっていて言い出せずにいると、
「田中さん、一緒にドリンクバー行こうか」
 斜め前に座っていた伊藤さんが誘ってくれた。二人でドリンクバーへ行く道すがら、
「結構前からドリンクなくなってたの?」
「え、あ……はい」
「気がつかなくてごめんね」
「いえ。あ、アタシが悪いというか……。こちらこそ気を遣わせてしまってすいません」
「ううん。飲み物欲しいなって思ってコップ見たら、田中さんのも空だったからさ」
 アタシはそれだけで嬉しくて、頭がぼーっとして、コップになみなみとオレンジジュ―スを注いでいた。
 席に戻ると、古株のパートのおばさんが、テーブルに裏返しに置いてた伊藤さんのスマホを指さした。
「伊藤さん、スマホ鳴ってたわよ」
「え、本当ですか?」
 伊藤さんが慌てて画面を見ると「あっ!」と短く声を出した。みんなが「急に大声どうしたんです?」「びっくりしたー」と口々に言うと、
「もしかして彼女さんですか~?」
 バイトの男子大学生がニヤニヤと笑いながら伊藤さんに訊いた。座ったばかりのアタシはその一言に固まった。膝に置いた手をぎゅっと力強く握る。頼むから「そうじゃない」と、「彼女なんかいないから」って否定して欲しかった。だけど、伊藤さんの口から発せられたのは、
「そうそう。出てくる前に炊飯器セットするの忘れててさ。怒られちゃったよ」
 という言葉だった。その瞬間から帰るまで記憶がない。本来ならここでアタシの初恋は終わったも同然だった。だけど、まだ付き合ってるだけだから。もしかしたら、結婚せずに別れるかもしれない。その一縷の望みを愚かなアタシはあの結婚の報せまで捨てれずにいたのだった。

 伊藤さんがお風呂に入ってる間に、彼女さんはダイニングテーブルに一人分の晩ご飯を並べ始める。四つ切に切られたトマトが彩るサラダ。よそったばかりで湯気が上がる白飯とみそ汁。メインは生姜焼き。豚肉とたまねぎに絡むタレがLEDの照明に照らされてつやつやと輝く。美味しそう。もう匂いを感じることも食欲もないのが残念だ。
「ひさよちゃん、ありがとう。いただきます」
 さっそく生姜焼きを口に入れ、ご飯をかきこむ伊藤さんに、正面に座った彼女さん――ひさよさんは眉を下げ、
「基春くん、大丈夫だった?」
 と訊いた。
「ん? ……ああ、今日は泣かなかったよ」
「そう。それならよかった」
「この数日はダメになっててごめん」
「ううん。仕方ないよ。アルバイトの子が交通事故に巻き込まれたってなったら……そんなの……」
「僕はそんな大それた人間じゃないのに。あの子くらいだよ。いつも慕ってくれてたのは」
 伊藤さんの右目尻から一筋の涙が流れていく。
「いい加減、泣いてばかりはだめだね」
 と言いながら苦しそうに笑った。メガネの奥には潤んで充血しはじめた瞳があった。瞬きをすると、涙の粒が落ちていった。
 伊藤さんもアタシのことで、アタシのせいで泣いている。つらくて申し訳なくて、だけど少し嬉しく思ってしまった。アタシのことを思ってくれている。でも、それは今だけだ。アタシは死んだのだ。もう記録も記憶も、新しい情報を更新することのない過去の人間。いつかただのアルバイトの一人だったアタシのことなど完全に忘れられる。
 そんなことを思ってたら、その数時間後に二人は寝室で身体を重ね合っていた。二人がベッドに入り、どちらからともなく唇を近づけはじめたのに気づいたアタシはベランダに出た。
 伊藤さんも人間で、男の人で、悲しさを紛らわせるために、それか奥さんの気持ちを汲み取ってか、単純に性欲を発散するためか。愛する人がいるなら自然なことなのかもしれない。それでも、好きな人が誰かとしている姿は見たくないもので。死んでもなお、アタシは伊藤さんを諦めてないのだった。伊藤さんが好き。理由なんてわからない。生きてた時と同じように目で追ってしまう。だから今、視界に入らない場所で二人が抱き合ってるのが憎い。ひさよさんより先に出会っていたなら、アタシがあのベッドにいたのかもしれない。大きくてあたたかい両手でたくさん愛される未来があったのかもしれない。悔しい。結局アタシは未来なく死んで、成仏できず、こうして好きな人が好きな人と愛し合ってる現場に立ち会ってしまっている。
 あーあ。こんなにショック受けてるのにアタシはまだここにいなきゃならないのか。それならさ、伊藤さんが死んだら、一緒に手を取って成仏できればいいんじゃないか? 人間でも虫でも動物でも花でも草でも何でもいい。次こそは伊藤さんと結ばれる一生がいい。もしかしてアタシが成仏できなかったのは、伊藤さんが死ぬまでここで待ってもいいってことなのだろうか。そうだ、そういうことだと思う、そう思うことにした。
 
 その後伊藤さんとひさよさんは婚姻届を提出し、結婚式を挙げて正式に夫婦になった。結婚式についていくか悩んだけど、行かずに実家やスーパーをウロついて時間を過ごした。後日リビングに飾られた結婚式の写真。白のタキシードを着た伊藤さんは、いつものスーツやシャツの姿とはまた違ってとてもカッコよかった。緊張したんだろうなってわかる表情もかわいらしくて、微笑ましかった。ひさよさんのウエディングドレスはとてもきれいだった。真珠のような肌が映える純白のドレス。写真なのに眩しかった。ツーショットに加え、式に来た人たちとの写真もたくさんあって、両家のご家族、仲が良いお友達、顔なじみのスーパーのスタッフたちと撮ったものもあった。最近では珍しい、そこそこ大規模な結婚式だったんだなと思う。会場を埋めれるほどの二人の交友関係の広さに、いかに愛されているかがわかる。アタシなんて家族は母ちゃんとばあちゃんだけ、友達と呼べるくらい仲のいい人もいない。人生を比べるものではないけど、生きる世界が違ったんだなと静かに衝撃を受けてしまった。

 結婚生活が一年を過ぎようとしたころに子どもが生まれた。ひさよさん譲りの雪のような白肌、優しい目元は伊藤さん似の女の子。病院から「陣痛が始まった」と連絡をもらい、仕事を早退してお産に駆けつけた伊藤さんは、母子ともに健康と告げられた瞬間泣き崩れた。赤ちゃんを抱いた時も、泣きじゃくりながら、
「僕がパパだよ」
「一生かけて君を守るからね」
 と声をかけていた。
 そう言えば、昔、休憩時間に伊藤さんと世間話した時に言ってたな。
「僕、子どもが好きでさ。いつかパパになるのが夢なんだ」
「絶対素敵なパパになると思います!」
「あはは、ありがとう。一姫二太郎が理想だけど、いつ昇級出来るかわからないし、その間にどんどん物価上がってる世の中だからね。たぶん一人育てるので手いっぱいになるだろうなぁなんて。だから、その一人の子を立派に育ててあげたいって思ってる」
「素敵だと思います。きっとその子は幸せになると思います!」
 力強くアタシが言うものだから、伊藤さんは「なんか自信が沸いちゃうな」と照れながらズレたメガネを軽く上げた。
 父さんは母ちゃんが妊娠したことを知った途端に逃げたと聞いている。アタシはそんな男の血が混じっていることが嫌だった。その上、アタシはアタシで同級生の輪にうまく入れず、勉強もついていけないバカで、結局まともに学校に通えたこともないまま社会に放り出された。学校から逃げた十五歳のアタシは社会からも逃げようとした。でも、父さんのように大事なことに逃げ続ける人生にはしたくない。必死にもがいて生きていこうと十七歳の誕生日に心に決めた。スーパーのバイトに応募したのだった。だけど、頭も悪くて協調性もなく、かわいさのカケラもないアタシのような人間が子どもをつくってバトンを繋げるのはダメだと思った。子どもをしっかり育てるビジョンなんてものも見えなかった。父さんみたいに投げ出すかもしれない。血は譲れないから。怖かった。
 それでも伊藤さんと出会って、伊藤さんとなら、伊藤さんの子どもなら、産んで育ててみたかった。人生でそう思ったのは後にも先にも彼だけで、そのくらいアタシの人生に伊藤さんというピースを欲していた。
 またひさよさんが羨ましくてたまらなくなる。アタシには味わえなかった世界をこの人は生きている。この人は伊藤さんに選ばれて、彩りある人生を送っている。アタシはなにをどうすればよかったんだろうと、また間違い探しをしてしまう。もう死んでいるのに。

 鬱々とした気持ちを孕んでいる間に、娘の名前は「菜乃香なのか」に決まった。みんなから「なのちゃん」と呼ばれている。子供の成長は早いとは聞いていたけれど、ほやほやの赤ちゃんだったのに、気がつけば目が開き、髪や歯が生え、立ち上がったかと思えば歩き始める。「うー」とか「あー」と声を発していたのに、「まま」「ぱぱ」「ごはん」「おはな」とどんどん単語を覚え、「まま、おはよう」「ぱぱ、だいすき」と話し始めた。大きくなったなぁと言う暇もなく、菜乃香は大きくなっていき、すみれ色のランドセルを背負って小学校へと向かう。
 菜乃香が生まれてから時間の進み具合は何倍にも早く感じた。部外者のアタシがそう思うんだから、彼女の両親である二人はさらに早く感じていることだろう。アタシは不思議と菜乃香に憎しみや妬みはなく、むしろ彼女の成長をおもしろくて、夫婦と共に見守る生活を送っていた。それでも視界の中心にはいつも伊藤さんを映していた。年齢を重ね、顔や身体にしわやしみがぽつぽつ表れ、白髪も増えて目立つようになってきた。それでも伊藤さんは伊藤さんで、店長になった今でもスタッフにもお客さんにも丁寧に接する姿は変わらない。
「もう僕もだいぶとおじさんになっちゃったけど」
 なんて古株のスタッフさんたちとよく話しているけど、アタシはそうは思わない。伊藤さんは変わらず素敵な男性だ。片思いをしてもう十年が過ぎた今でも。ずっと好きなまま、アタシは伊藤さんのそばから離れずに漂っていた。

 菜乃香が中学生になった頃、反抗期が訪れた。
「お母さん、同じこと何度も言わないでよ。うっとおしいから」
「お父さんキモイから、あっちいってよ」
 口を開けば両親に文句を垂れる。アタシも反抗期の頃は母ちゃんとばあちゃん相手に似たようなこと言ってしまってた。いろんなことにムカついて、解決する道も見えなくて、不安で、つい口をついて出てしまう。つらい時期だよなと少しだけ菜乃香には同情する。伊藤さんとひさよさんは反抗期があったのだろうか。いつもおっとりしている二人だから想像つかないけど。
「反抗期だから」
「乗り越えるしかないよね」
 と夫婦で夜な夜な話し合い、実際支え合って、この波に立ち向かおうとしている。さすが結婚して十年、付き合って二十年以上の二人。そう考えるとアタシがどれだけ伊藤さんが好きでも入りこむ隙間などなかったんだろうな。奪うことまでは考えてなかった。何かの拍子に別れて、彼が一人になったらアタシにもチャンスが舞い込めばくらいに思っていた。この二人が思っていた以上に固い絆があるのだなとひしひしと感じた。
 菜乃香の反抗期は高校に入って少し緩やかになった。ひさよさんとは友達のように距離が縮まっていたが、伊藤さんのことは見えない、存在しないかのように話さないどころか、目も合わせない。伊藤さんが「なのちゃんが好きだと思って」と買って来たチョコがあっても、その場では食べない。家族が寝た後にコソコソとキッチンから持ち去って、自室で食べている。父娘の関係ってこんなもんなのだろうか。それよりも伊藤さんが可哀想だろ! お前を立派に育てるってずっとお盆も年末年始も汗水たらして働いてるっていうのによ! 冷たくしやがって! 嗚呼、まだ手があったなら背中を軽く殴れたものを。そんなアタシの気も知らず、菜乃香は宿題そっちのけでお菓子片手に友達と通話している。
 まったく、菜乃香は学校ではどんな態度なんだろう。いつも伊藤さんと一緒にスーパーに出勤しているから、彼女の外での様子は知らないままだ。ふと気になって、翌日は菜乃香の後ろについていくことにした。
 中卒のアタシは初めて高校の中に入った。学校自体あんまり行ってなかったから、懐かしさはない。だけど、教室の同じ年のこどもが詰め込まれている空気には、未だに気持ち悪さを感じてしまった。
 菜乃香といえば、ごくごく普通の女子高生の一人だった。真面目に授業を受け、休み時間には友達と楽し気に会話を交わし、弁当も七人ほどのグループの中で食べていた。アタシが思い描いては作り上げることが出来なかった普通の女の子像そのものだった。彼女は意識してやってるわけじゃない。普通に生きて、普通に同級生と話してるだけなのだ。それでもアタシにとっては理想の姿で、ただ羨ましいという感想を持った。
次の授業の教科書を取り出そうとしている菜乃香に、
「伊藤ぉ~」
 一人の男子生徒が声をかけた。胸元のネクタイを少し緩めているが、シャツはピシッとアイロンがかかっていて、ズボンもヨレやテカリがなく清潔感がある。くせのない髪が歩くたびになびく。勢いよく席を立った菜乃香を見やると、頬や耳のふちが真っ赤に染まっていた。
「どうしたの? 小暮こぐれくん」
「あのさ、今日放課後、風紀委員の会議あるじゃん? 俺、部活寄ってから行くからちょっと遅れるかも。先生に伝えといてほしくて」
「わ、わかった」
 小暮が立ち去ると、菜乃香は全身の力が抜けたように椅子に座りなおした。たったあれだけの会話。それでも好きな人と話すってそうなるよな。わかるよ。アタシも伊藤さんと話す時はあんな感じだったし。一言でも話が出来たらその日は幸福感に満ち溢れてて、態度の悪い客が来ても、店長に小言を言われても何のそのだったよ。
 そういえば、菜乃香って高校二年生、こないだ誕生日迎えたから今十七歳じゃないか? そうか。アタシが伊藤さんに一目ぼれした年齢だ。菜乃香もそんな歳になったのかぁ、なんてまるで家族のような感想が出た。まあ、菜乃香のこともなんだかんだ赤ちゃんから見てきてるもんな。

 これまで通り、基本的には伊藤さんの背中にひっついているが、恋路が気になり、週にどこか一日は菜乃香についていくことにした。菜乃香は小暮と同じクラスではあるが、風紀委員の活動以外ではほぼ会話をしない。菜乃香はずっと目で小暮のことを追っていて、話しかけられれば、風呂でのぼせたかのように全身をほてらせている。傍観者のアタシは、もっと近づいてもいいじゃないの? とか、緊張しすぎて早口になってんぞ~なんて聞こえないのをいいことにヤジを飛ばしていた。
 クラスメイト以上の関係になれないまま、年が明け、バレンタインが数日後に迫っていた。菜乃香はずっとスマホでチョコの作り方を調べていた。普段、彼女は料理をすることはなく、キッチンに入るのは冷蔵庫に用事がある時だけ。
 ただ、料理が出来ない奴は出来ないなりにあがくことを知っている。毎年、伊藤さんに渡すべく、この季節だけはキッチンでチョコレートと格闘した。母ちゃんとばあちゃんが寝たのを確認した深夜、一人でレシピを見ながら作ってみるものの、形が悪かったり、なんか味が悪かったりして、結局市販のチョコを渡していた。それでも伊藤さんは嬉しそうに受け取ってくれたけど。
 菜乃香はアタシよりは腕があるのか、レシピ通りにチョコを作り上げた。たしかチョコレートトリュフとかいう、丸めたチョコにココアパウダーがかかっているやつだ。完成したチョコを丁寧に梱包し、二月十四日、カバンに忍ばせて菜乃香は登校した。バレンタインに伊藤さんの元へ行かないのは少し後ろ髪惹かれる思いだったが、どうしても菜乃香の様子が気になってしまった。
 夕方まで授業を受け、偶然にも開催日だった風紀委員の会議に出席。隣に小暮が座るからいつもソワソワしてるが、今日はいつも以上に心ここにあらずで、配られたプリントの端の部分をふやけるまで触っていた。
 会議が終わり、
「じゃあ、俺は部活行くから」
 と立ち去ろうとする小暮。菜乃香は何度も口をパクパクさせたあと、小暮のカバンを掴んで無理やり制止させた。
「あの、少しだけ、話があって」
「え?」
「出来たら人のいないところが良いんだけど」
「……わかった」
 二人は授業でも部活でも使われていないらしい棟の一番上、四階へ行き、
「で、伊藤さん、話って?」
 小暮が切り出す。
「こ、こ、これ」
 菜乃香はカバンの中からチョコが入っている袋を取り出すと勢いよく前に突き出した。
「もしかして、チョコ?」
 菜乃香は小さく頷いたあと、
「あのね、私、ずっと前から小暮くんのこと……好きでした。よかったら付き合ってもらえませんか」
 直球の告白を小暮に投げた。人の告白ってこんな感じなのか。今までの経緯を少しでも知っているだけなのに、感嘆の声が出そうになる。言い切ったと満足気な菜乃香と反対に、小暮は視線を落とし、こめかみを掻く。
「ごめん。俺、他校に彼女がいて」
「あっ……そうなんだ」
「うん。だから、チョコも受け取れない」
「そっか。ごめんね。彼女いるなんて知らなくて……」
「いや、あんま周りに言ってないから」
 空気がどんどんと重くなっていく。
「呼び止めてごめんね。じゃあ、また!」
 逃げるように菜乃香はその場から走り出した。アタシも急いで背中を追いかける。

 学校を出て、黄昏はじめた冬の街を走っていく。俯いたままで表情はわからない。どこに行く気だ? 駅は反対だし、いつも友達と寄り道するショッピングモールだってこっちにはない。到着した先は歩道橋の上だった。橋の下の二車線の道路はひっきりなしに車が行きかっている。肩で息をしてながら、菜乃香はずっと持っていたチョコの入った袋を見つめたあと、大きく腕を上げ、投げようとして、やめた。そして力尽きたのか、その場に膝から座りこんで泣きはじめた。女の子一人が泣こうが、交通量の多い道路だからかき消されていく。まるで菜乃香の恋が、菜乃香の勇気を出した告白も、何もかもを消してしまいそうだった。
 菜乃香はそれを知ってここに来たのか。それとも感情の昂るまま走って、偶然歩道橋が目に入って辿り着いたのか。幽霊とはいえアタシにも人の心まではわからないけど。隣にいるのに、何も声をかけてやれないのが腹立たしい。だけど、彼女にかける言葉も見当たらない。ただじっと泣き止むのを見守った。
 泣き止んだ菜乃香は一度だけ大きく息を吐いた後、渡す予定だったチョコを思い切り頬張った。口に詰め込み過ぎて何度もむせながら、あっという間に完食した。思った以上にタフなんだなと思った瞬間、また目に涙をためて、鼻をすする。今、この姿を見ているのはアタシだけなんだな。伊藤さんも、ひさよさんも、小暮も、友達も誰も知らない。きっとここでたくさん泣いたら家に帰って、何事もなかったようにひさよさんの作ったご飯を食べて、伊藤さんが帰ってきたら挨拶もせずに部屋にこもり、学校ではいつも通りの笑顔を浮かべてまた過ごすのだろう。

 菜乃香は耳にイヤホンを装着し、スマホで音楽を聴きながら歩道橋を降りはじめた時だった。「キャッ」と短い女性の悲鳴がどこからか上がった。アタシは周りを見渡す。すると、猛スピードで乗用車が走ってきている。まだ遠くにいるのに、けたたましいエンジン音。車が慌てて避けて、暴走車はまっすぐ走ってきている。菜乃香は歩道を歩いている。歩道だから大丈夫だろうと思ったが、あのスピードで何かの拍子に歩道に突っ込んだら?
 菜乃香ァ!
 届くはずもないアタシの声。最悪は続く。車はあろうことか少し傾き始め、歩道の方へ進路を変えてしまう。
 ウソだろ、そんな……! 菜乃香! 菜乃香! くそっ! お前まで交通事故で死ぬようなこと……! 死んだら伊藤さんが、ひさよさんが……! バカヤロウ! 神様がいるっていうなら、菜乃香を助けてやってくれよ! アイツはまだ死んじゃダメなんだよ!
 その瞬間突風が吹いた。一瞬ながら地割れに似た音を轟かせ、周りの塵埃を舞わせ、草木を大きく揺らした。ただその風は、不思議なことに菜乃香だけに当たった。
「わっ!」
 菜乃香はバランスを崩し、ふらついた後、家の塀に頭をぶつけてうずくまった。その斜め前を車は猛スピードで通り抜け、その先の電柱に激突して止まった。凄まじい衝突音に近隣の家々やお店から人が飛び出して来て、辺りは一瞬にして騒然となった。
「大丈夫ですか⁉」
 菜乃香を見つけたコンビニの制服を着た女性が慌てて駆け寄る。菜乃香はイヤホンを取って、
「私は、だ、大丈夫です……」
 と応答するが、女性は口に手を当てた。
「やだっ! 頭から血が……! すぐに救急車呼びますね!」
「あ、ありがとうございます……」
 女性がお店の方に立ち去り、状況が飲み込めてない菜乃香は口をポカンと開けている。
たしかにちょっと左の額のところが切れて血が出てるな……。でも意識はしっかりあるようで、とりあえず無事でよかった。
 そう言って、アタシは菜乃香を見ていると、
「そう、なんですね。今、若干耳や視界がぼやけてるんですけど、一時的なものじゃないかなぁって。あの、すごい風でしたけど、お姉さんは大丈夫でしたか?」
 え?
「え?」と、菜乃香が小首をかしげる。
 アタシに言ってるのか?
「ええ……。目の前にいる金髪のお姉さん……」
 おい、菜乃香、アタシのことがわかるのか?
「どうして、私の名前……知って……?」
 これは最初で最後のチャンスだと思った。深呼吸したあと、菜乃香の目を見る。
 菜乃香!
「は、はい……!」
お前は偉いよ。ちゃんと好きな人に「好きだ」って言えてさ。
「ちょっ、なっ、なんで……告白のこと」
 アタシはさ、言えなかったんだ。好きな人に好きだって。言ったところで向こうにはもう彼女がいること知ってたからさ。言っても無駄だ、迷惑だと押し込めてしまったら、結局アタシは五年と十七年、片思いをするはめになった。五年は生きていた間、十七年は死んでから今まで。死んでからもずっと片思いの人が死ぬのを待って、一緒に成仏してやろうと思ってた。でも、出来ないなって途中からは薄々わかったよ。あんなに奥さんと娘を大事にしてさ、仕事に打ち込んでるんだから。アタシが入る隙なんて、死んでもやっぱりないんだって。負けたよ。ずっと負けて、勝つ兆しなんて九九%なかった。それでも、アタシは好きだったんだ。残された一%を諦められなかった。告白出来なかったから。だから、菜乃香が勇気を出して告白した姿、カッコよかったぞ。さすが、アタシが好きになった人の娘だよ。
「お姉さん、どんどん見えなく……声も徐々に小さくなってきてるんですけど……。お姉さん以外は綺麗に見えるのに、音も聞こえてるのに……」
 ようやくその時が来たのかな。なんかさっきから眠いんだ。死んでから眠いって思わなかったのに。そうだそうだ、眠い時ってこんな微睡があったよな。
 菜乃香、最後に。頼むから、お父さんともっと会話してやってくれよ。
「えっ」
 お父さん寂しがってるぞ。お母さんと話すときくらいに仲良くしろとは言わないけどさ。どうか、お父さん……伊藤さんに優しくしてやってくれよ。アタシが最後に言うワガママだと思って。
「あの……、はい。わかりました」
 最期に伊藤さんの顔見たかったな。伊藤さん……。
「菜乃香……⁉ 菜乃香ぁ!」
 叫び声にアタシと菜乃香は顔を上げた。スーパーで仕事しているはずの伊藤さんが慌てて走って来たのだ。
「お父さん……⁉」
「近くの工場で仕事の打ち合わせしてたら大きな事故があったって聞いて、外に出たら……菜乃香、まさか轢かれたのか⁉」
「ち、違う。ちょっとふらついてこけたら、頭からちょっと血が……」
「えぇ⁉ きゅ、救急車呼ばなきゃ……⁉」
「大丈夫、今他の人が呼んでくれてて、もう来ると思う」
「ほ、ほ、本当に大丈夫か⁉」
「うん、大丈夫。大丈夫だから」
 伊藤さんは今にも泣きそうだった。菜乃香が生まれたあの日のようだった。
「僕がパパだよ」
「一生かけて君を守るからね」
 そう誓っていた光景が思い出される。
「ねえ! それより、お父さん! 今、ここにお父さんの知り合いの人がいるの!」
「何言ってるんだ? 僕ら以外誰もいないけど……」
「違うの。ここにいるの。金髪の若いお姉さんが!」
 伊藤さんは菜乃香の指さす方、アタシのいる辺りに視界を彷徨わせる。そっか、伊藤さんには見えてないのだ。最後までアタシは伊藤さんの眼中には入れてもらえないのか。
 いいよ、アタシのことなんか――。
「もしかして……田中さん……?」
 その瞬間十七年ぶりに目が合った。驚きで瞳が揺らいでいる伊藤さんと。
「お姉さん! 今、言うんだよ! 早く!」
 菜乃香が叫ぶ。伊藤さんは見えてるのか、聞こえているのか本当のところはわからないが、確かに視線は合っている。その視線を外さず、決して外さないように言葉を紡いだ。
 伊藤さん、アタシはずっとあなたのことが好きでした、いや、死んだ今でも好きでした! 年が離れていても、あなたに愛する人がいるのもわかっていても、ずっとずっと振り向いてほしかった。アタシの彼氏に、旦那になってほしかった。それくらい、あなたのことを心の底から大好きでした。
 どうやらもう菜乃香には姿も声も届いてないようで、「お姉さん、お姉さん……!」と小さく呟きながら周りを見渡している。伊藤さんだけはこちらを見て、微動だにしない。……ああ、意識が遠のいていく。迎えが来てるってことなのかな。田中杏里として、最後の最後の力を振り絞り、声を発する。
 ありがとう伊藤さん。あなたに出会えて人生が変わりました。来世があるなら、あるというのなら、アタシはあなたみたいな優しくて、愛情の深い素敵な人と……また出会って……今度こそはあたたかい家庭を持ってみたいな……!
 かすみ始めた視界で伊藤さんはぎこちなく笑って、大きく頷いた。
「――ありがとう」
 微かに聞こえた声に、久しぶりに涙が流れた。そして伊藤さんたちの背後から、救急隊の人たちが菜乃香の方へかけてくるのが見えた。
 アタシは重い荷物をおろした時のように、ほっと安心してこの世から、人生から、さようならと心から言えた。
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