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勝利は友と共に。
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広間に、静寂が降りた。
さっきまで耳をつんざいていた衝撃音や咆哮が嘘みたいに消えて、代わりに、落ちてくる砂粒のこすれる音や、遠くで水が滴る音だけが、ひんやりした空気の中で細く響いている。
騎士たちの鎧はすべて動きを止め、ただの鉄屑として床に散らばっていた。
折れた剣。
砕けた兜。
中身のない鎧の胴が、無造作に転がっている。
ついさっきまであれが動いて、自分たちを殺しに来ていたなんて、少し信じられない。
視界の端で、UIが淡い音とともに変化した。
『クエスト「騎士の遺言」クリア!』
『報酬:経験値2000/ゴールド500/装備品「朽ちた騎士剣」/称号「迷い無き一歩」獲得』
ログが次々と表示されていくのを眺めながら、僕はその場にへたり込んだ。
膝から力が抜けて、石床にぺたんと座り込む。固いはずの床の感触も、今は妙に遠い。
(……勝った)
頭のどこかでそう理解しているのに、実感が追いつかない。
信じられない、という感覚が一番近い。
でも、胸の奥の方で、じわじわと何かが広がっていく。
怖かった。
胸がきゅっと固くなる瞬間が、何度もあった。
でも、それは死ぬ怖さじゃない。
この世界では、HPが0になっても、本当に死ぬわけじゃない。
痛みも、現実ほどにはこない。
怖かったのは――負けて全部やり直すこと。
ここまで積み上げてきたダメージも、立ち回りも、失敗一つで「なし」に戻されること。
それに、あの小学生のときみたいに、「お前のせいで」なんて空気になるのが、たぶん一番怖かった。
そして何より。
ここまで一緒に削ってくれたヴェルトと、『失敗』で終わるのが嫌だった。
外して、がっかりされたくなかった。
「やっぱり一人でやった方が早かったですね」なんて、冗談半分でも言われたくなかった。
だから――逃げなかった。
ちゃんと最後まで踏み込んだ。
僕とヴェルトで、ちゃんと勝ったんだ。
「ユーマさん」
隣に、ふわりと気配が落ちてきた。
振り向くと、ヴェルトが静かに腰を下ろすのが見える。
衣の裾が、粉々になった石や鎧片の上でさらりと広がった。
HPバーは、僕と同じようにギリギリ。
真っ赤なラインが、かろうじて残っている。
「……お疲れ様です」
ヴェルトが、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
けれど、その瞳の奥には、はっきりとした誇らしさが宿っていた。
ただ攻略情報を教えてくれたNPCじゃなくて、隣で一緒に戦ってくれた仲間の目。
「ヴェルトこそ……あんなの、よく前で受け止められたね……」
思い出しただけで、さっきの影の奔流が脳裏をよぎる。
岩を抉って、天井を焼き切って――あれを真正面で受けに行くとか、正気の沙汰じゃない。
「あなたが、後ろで頑張ってくれていましたから」
さらり、と。
本当に、水を飲むみたいな自然さで、ヴェルトはそう言う。
胸が、じわっと熱くなる。
「最後の柱のやつ、なかなか派手でしたね。あれは想定以上でした」
「とっさに思いついただけだよ。なんかもう、必死で」
あの瞬間のことを思い出す。
天井のひび、柱の亀裂、悪霊の位置――頭の中で全部を一気に繋いで、「あ、いける」と思ってしまった。
怖いより先に、手が動いた。
「必死なのは、いいことです。……ちゃんと、『普通の戦闘』で勝てましたね」
にこ、とヴェルトが笑う。
その笑顔に釣られて、僕も自然と笑ってしまう。
「うん……賢者の力じゃなくて、今の僕で、ヴェルトと一緒に勝てた……それが、すごく嬉しい」
本音だった。
HPバーは瀕死だし、MPも空っぽ。
ゲーム的にはボロボロの勝利。効率だけ見たら、もっと楽なやり方はいくらでもあったのかもしれない。
でも、今まで一人でクリアしてきたどのゲームよりも、手が震えて、胸が熱くて――楽しかった。
「『迷い無き一歩』、いい称号ですね」
ヴェルトが、浮かび上がった称号のウィンドウを見て、ふっと笑う。
淡い光のプレートに刻まれたその文字列が、じわじわと現実味を増してくる。
「……最初は、慎重だったけどね」
あの影の動きが見えた瞬間、僕は思わず息をのんで立ち止まった。
怖いというより――外したらヴェルトに迷惑をかける、それが嫌で。
でも、ひび割れを見つけた瞬間、“いける”って直感が体を前に押した。
「最後に一歩、踏み出せれば十分です。あの影を見つけて、踏み込んだのはあなたですから」
ヴェルトの言葉が、静かに胸に落ちていく。
思い出す。
足が震えていた。
でも、床のひびを見て、「あそこだ」と思って、逃げずに前に出た。
(――逃げなかった)
それだけのことが、こんなに胸を熱くしてくるなんて、知らなかった。
「……ありがとう、ヴェルト」
自然と、そんな言葉がこぼれていた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
ヴェルトは軽く目を伏せる。
長い睫毛が、ちらりと揺れた。
それから、いつもの調子で、おどけるように言葉を続ける。
「でも、正直なところ、HP一桁で突っ込んでいったときは、心臓に悪かったですよ」
「うっ……そ、それは……」
あのときの自分のHPバーを思い出して、背筋がひやっとする。
グラフで見たらほぼゼロみたいなラインだった。
今更ながら、よくあれで行ったな僕。
「見てるこっちのログアウトボタンに指が伸びかけました」
「やめて!? そこで抜けられたら僕死んでたからね!?」
「冗談ですよ。……半分は」
「半分は!?」
思わずツッコミが出て、二人して笑う。
崩れた岩と鎧だらけの広間に、場違いなほど軽い笑い声が響いた。
さっきまで『ゲームオーバー』と隣り合わせみたいな戦いをしていた場所とは思えない。
でも、そのギャップが、なんだかたまらなく心地よかった。
ふと、視界の端で何かが光った。
さっきまで悪霊が座っていた岩の段差の前――そこに、小さな光の欠片がふわふわと浮かんでいる。
「……アイテム?」
「ですね。見てみましょうか」
ヴェルトと一緒に立ち上がる。
立ち上がった瞬間、さっきまで緊張で意識していなかった足のだるさが一気に出て、ぐらりと膝が揺れた。
「っと……」
ヴェルトが軽く腕を伸ばして、さりげなく僕の肘を支える。
その動きまで、やたらと自然で悔しい。
砕けた石片を踏むたび、靴底越しにコリッとした感触が伝わってくる。
鎧の破片が転がる間を縫うようにして、岩の段差の前まで歩いた。
足元に、小さなペンダントのようなものが落ちていた。
銀色のチェーンに、緑がかった透明の宝石。
鉱山の魔光石の明かりを受けて、宝石の中に小さな森が閉じ込められているみたいに煌めいている。
手を伸ばして拾い上げると、視界にウィンドウが開いた。
『森守のペンダント』
効果:最大HP小アップ/闇属性からのダメージ小軽減
「……なんか、すごくタイミングのいい効果な気がする」
さっきまでガンガン削られていたHPバーを思い出して、思わず苦笑する。
「これがあれば、次はもう少し楽に戦えますね」
「次って……また似たようなの来るの?」
「さあ、どうでしょう」
ヴェルトは意味ありげに視線を逸らした。
ちらりと横顔を見ると、ほんの少しだけ楽しそうに口元が緩んでいる。
「ユーマさんが望むなら、いくらでも」
「望まない可能性も考えてくれない……?」
「ふふ」
軽く笑われた。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、その「からかい」に混ざっている信頼が、くすぐったい。
ペンダントを首にかける。
冷たいチェーンが肌に触れ、すぐに体温になじんでいく感覚がする。
ほんの少しだけ、胸の辺りが軽くなる気がした。もちろん、ステータス的な意味でも。
(これからも、こうして――)
ヴェルトと一緒に、強い敵に挑んで。
怖くて、苦しくて、それでも二人で工夫して、ぎりぎりで勝って。
最後にログを見上げて、「やった」と笑い合う。
そのスリルごと、全部まとめて「楽しい」って思えるのかもしれない。
そんな未来を、少しだけ想像してしまう。
「そろそろ戻りましょうか」
ヴェルトが、通路側の方へ視線を向けた。
ボス戦のあいだは結界みたいに固く閉ざされていた鉄扉が、今は静かに開いている。
さっきまで圧迫感を与えていた鉄の質感が、今は“出口”として少しだけ頼もしく見えた。
「報酬もありますし、宿屋の柔らかいベッドも私を呼んでいます」
「ベッドに呼ばれる魔術師ってなんだよ……」
「人はみな、休息を求めるものですから」
いつもの調子で軽口を交わしながら、僕たちは崩れた広間をゆっくりと歩き出す。
背中に、さっきまでの戦いの熱がまだ残っていた。
胸の鼓動も、少し早いまま。
でも、それはもう「怖い」からじゃなくて、戦いの余韻と、隣を歩くヴェルトへの安心が入り混じった、不思議な高鳴りだった。
出口へ向かう途中で、ふと振り返る。
崩れた岩の段差。散らばる鎧。
床に刻まれた、影の槍の痕。
天井のひびから、まだ時々、砂がぱらぱらと落ちてくる。
そこに、もう悪霊の気配はない。
ただの「クリア後のボス部屋」になっていた。
(騎士の遺言、か)
このクエストの名前を思い出す。
さっきまで自分たちを襲ってきた鎧たちは、本当は何を守ろうとして、ここで朽ちたんだろう。
そんなことを考えながら、僕は小さく頭を下げた。
画面の向こうのただのデータかもしれない。
それでも、この世界で一緒に戦った友人として、そうしたくなった。
「……行こうか、ヴェルト」
「はい」
ヴェルトの返事とともに、僕たちは開いた鉄扉の方へと歩を進める。
鉱山の奥気はまだひんやりとしていて、崩れた天井から落ちる砂の音や、どこかで滴る水音が、さっきまでの轟音が嘘みたいに静かに響いていた。
通路の壁に埋め込まれた魔光石が、淡い光で足元を照らす。
「現実の方は、今どれくらいの時間なんでしょうね」
「たぶん……まだ昼過ぎくらい? 外はきっと、いい天気なんだろうな」
さっきログインする前に見た空を思い出す。
カーテンの隙間から覗いた青空と、差し込んでいた陽の光。
「ゲーム内と現実で時間ずれてるの、こういうとき便利ですね。もう少し、この余韻を楽しんでから戻っても問題なさそうです」
ヴェルトの言葉に、少し笑ってしまう。
「うん、そうしたい」
さっきまで命ぎりぎり――いや、HPぎりぎりで戦っていたのが、少し遠い出来事みたいに感じられる。
それでも、足の震えはまだ完全には抜けていないし、HPバーの赤いギリギリのラインが、これはちゃんと本気でやった戦闘だったんだと告げていた。
(怖かったけど……やっぱり、戦うの好きなんだよな)
胸の奥に、温かいものがじわりと広がる。
あの瞬間、手が勝手に動いたのは、たぶん「怖い」を超えたところにある「楽しい」が、本当にそこにあったからだ。
「ヴェルト」
「はい?」
「また、一緒にこうやって戦ってくれる?」
自分でも少し照れくさい質問だった。
でも、今このタイミングで聞いておきたいと思った。
「また一緒にやろう」って、ちゃんと言葉にしておきたかった。
ヴェルトは一瞬だけ目を丸くする。
すぐに、いつもの、少し意地悪そうで、それでも底の方がやさしい笑みを浮かべた。
「当たり前じゃないですか」
迷いなく、そう言い切ってくれた。
「だって私は、あなたの友人ですから」
その言葉が、じんわりと胸に染み込んでいく。
「友人」という単語が、この世界で初めて自分に向けて使われた気がして、心臓がくすぐったく跳ねた。
そこで、ヴェルトの言葉がぴたりと止まった。
僕も、反射的に足を止める。
広間の奥――さっき開いた鉄扉の方角から、微かな気配がした。
(え……? 今の、足音……?)
鉱山特有の反響した音の中に、規則正しい靴音が紛れ込む。
システムの環境音とは違う、誰かの存在を主張する音。
「……ん? なにこれ、扉……? こんなの、マップにあったっけ?」
誰かの声がした。
独り言のような呟きと、乾いた足音が、こちらへ向かって近づいてくる。
心臓が、さっきとは別方向にドクンと跳ねた。
そして――。
「――おーい!」
今度は、はっきりとこちらへ向けた呼び声。
明るくて軽い。
緊迫したボス部屋には似つかわしくない、気楽なトーン。
開きっぱなしになっていた鉄扉の向こうから、人影がひょいと姿を見せた。
「……あ、やっぱり誰かいた!」
そのプレイヤーはぱっと表情を明るくし、僕たちを見て堂々と歩み寄ってくる。
足取りに一切の迷いがない。
人と遊ぶゲームに慣れている人の動きだ。
「うわ、これ……ボス部屋の残骸じゃん。まさか二人だけでクリアしたの?」
軽い驚きと興味が混ざった声。
悪気なんて一ミリもないのは分かるのに、その一言だけで、僕の喉がひゅっと細くなる。
――緊張が、一気に押し寄せてきた。
(……やば……どうしよう……プレイヤー……だ……)
あたりまえだ。
ここはMMOで、他のプレイヤーがいて当然で、クエストだって本来は何人かでワイワイやるものだ。
頭では分かってるのに、体が固まる。
言葉が出ない。
口の中がカラカラになる感覚すら、リアルと同じだ。
昨日までの僕なら、たぶん何も言えないまま、そそくさとログアウトしていたかもしれない。
代わりに、ヴェルトが落ち着いた声で微笑む。
「ええ。ついさきほど、終わったところです」
僕の隣で、ヴェルトの声が頼もしく響いた。
その横顔は、いつも通りの落ち着いた魔術師のものだけど、どこか「大丈夫ですよ」と言ってくれているような安心感がある。
けれど僕の胸は、まだどきどきとうるさい。
(……ど、どうしよう……何話せば……?)
悪霊と戦っているときより、今の方が圧倒的に緊張している。
攻撃のモーションやギミックを読むのは得意なのに、人の表情や言葉の意図を読むのは、どうしてこんなに苦手なんだろう。
初めて、ヴェルト以外の生身のプレイヤーと話す。
その現実が、僕の口を固く閉ざしていた。
さっきまで耳をつんざいていた衝撃音や咆哮が嘘みたいに消えて、代わりに、落ちてくる砂粒のこすれる音や、遠くで水が滴る音だけが、ひんやりした空気の中で細く響いている。
騎士たちの鎧はすべて動きを止め、ただの鉄屑として床に散らばっていた。
折れた剣。
砕けた兜。
中身のない鎧の胴が、無造作に転がっている。
ついさっきまであれが動いて、自分たちを殺しに来ていたなんて、少し信じられない。
視界の端で、UIが淡い音とともに変化した。
『クエスト「騎士の遺言」クリア!』
『報酬:経験値2000/ゴールド500/装備品「朽ちた騎士剣」/称号「迷い無き一歩」獲得』
ログが次々と表示されていくのを眺めながら、僕はその場にへたり込んだ。
膝から力が抜けて、石床にぺたんと座り込む。固いはずの床の感触も、今は妙に遠い。
(……勝った)
頭のどこかでそう理解しているのに、実感が追いつかない。
信じられない、という感覚が一番近い。
でも、胸の奥の方で、じわじわと何かが広がっていく。
怖かった。
胸がきゅっと固くなる瞬間が、何度もあった。
でも、それは死ぬ怖さじゃない。
この世界では、HPが0になっても、本当に死ぬわけじゃない。
痛みも、現実ほどにはこない。
怖かったのは――負けて全部やり直すこと。
ここまで積み上げてきたダメージも、立ち回りも、失敗一つで「なし」に戻されること。
それに、あの小学生のときみたいに、「お前のせいで」なんて空気になるのが、たぶん一番怖かった。
そして何より。
ここまで一緒に削ってくれたヴェルトと、『失敗』で終わるのが嫌だった。
外して、がっかりされたくなかった。
「やっぱり一人でやった方が早かったですね」なんて、冗談半分でも言われたくなかった。
だから――逃げなかった。
ちゃんと最後まで踏み込んだ。
僕とヴェルトで、ちゃんと勝ったんだ。
「ユーマさん」
隣に、ふわりと気配が落ちてきた。
振り向くと、ヴェルトが静かに腰を下ろすのが見える。
衣の裾が、粉々になった石や鎧片の上でさらりと広がった。
HPバーは、僕と同じようにギリギリ。
真っ赤なラインが、かろうじて残っている。
「……お疲れ様です」
ヴェルトが、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
けれど、その瞳の奥には、はっきりとした誇らしさが宿っていた。
ただ攻略情報を教えてくれたNPCじゃなくて、隣で一緒に戦ってくれた仲間の目。
「ヴェルトこそ……あんなの、よく前で受け止められたね……」
思い出しただけで、さっきの影の奔流が脳裏をよぎる。
岩を抉って、天井を焼き切って――あれを真正面で受けに行くとか、正気の沙汰じゃない。
「あなたが、後ろで頑張ってくれていましたから」
さらり、と。
本当に、水を飲むみたいな自然さで、ヴェルトはそう言う。
胸が、じわっと熱くなる。
「最後の柱のやつ、なかなか派手でしたね。あれは想定以上でした」
「とっさに思いついただけだよ。なんかもう、必死で」
あの瞬間のことを思い出す。
天井のひび、柱の亀裂、悪霊の位置――頭の中で全部を一気に繋いで、「あ、いける」と思ってしまった。
怖いより先に、手が動いた。
「必死なのは、いいことです。……ちゃんと、『普通の戦闘』で勝てましたね」
にこ、とヴェルトが笑う。
その笑顔に釣られて、僕も自然と笑ってしまう。
「うん……賢者の力じゃなくて、今の僕で、ヴェルトと一緒に勝てた……それが、すごく嬉しい」
本音だった。
HPバーは瀕死だし、MPも空っぽ。
ゲーム的にはボロボロの勝利。効率だけ見たら、もっと楽なやり方はいくらでもあったのかもしれない。
でも、今まで一人でクリアしてきたどのゲームよりも、手が震えて、胸が熱くて――楽しかった。
「『迷い無き一歩』、いい称号ですね」
ヴェルトが、浮かび上がった称号のウィンドウを見て、ふっと笑う。
淡い光のプレートに刻まれたその文字列が、じわじわと現実味を増してくる。
「……最初は、慎重だったけどね」
あの影の動きが見えた瞬間、僕は思わず息をのんで立ち止まった。
怖いというより――外したらヴェルトに迷惑をかける、それが嫌で。
でも、ひび割れを見つけた瞬間、“いける”って直感が体を前に押した。
「最後に一歩、踏み出せれば十分です。あの影を見つけて、踏み込んだのはあなたですから」
ヴェルトの言葉が、静かに胸に落ちていく。
思い出す。
足が震えていた。
でも、床のひびを見て、「あそこだ」と思って、逃げずに前に出た。
(――逃げなかった)
それだけのことが、こんなに胸を熱くしてくるなんて、知らなかった。
「……ありがとう、ヴェルト」
自然と、そんな言葉がこぼれていた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
ヴェルトは軽く目を伏せる。
長い睫毛が、ちらりと揺れた。
それから、いつもの調子で、おどけるように言葉を続ける。
「でも、正直なところ、HP一桁で突っ込んでいったときは、心臓に悪かったですよ」
「うっ……そ、それは……」
あのときの自分のHPバーを思い出して、背筋がひやっとする。
グラフで見たらほぼゼロみたいなラインだった。
今更ながら、よくあれで行ったな僕。
「見てるこっちのログアウトボタンに指が伸びかけました」
「やめて!? そこで抜けられたら僕死んでたからね!?」
「冗談ですよ。……半分は」
「半分は!?」
思わずツッコミが出て、二人して笑う。
崩れた岩と鎧だらけの広間に、場違いなほど軽い笑い声が響いた。
さっきまで『ゲームオーバー』と隣り合わせみたいな戦いをしていた場所とは思えない。
でも、そのギャップが、なんだかたまらなく心地よかった。
ふと、視界の端で何かが光った。
さっきまで悪霊が座っていた岩の段差の前――そこに、小さな光の欠片がふわふわと浮かんでいる。
「……アイテム?」
「ですね。見てみましょうか」
ヴェルトと一緒に立ち上がる。
立ち上がった瞬間、さっきまで緊張で意識していなかった足のだるさが一気に出て、ぐらりと膝が揺れた。
「っと……」
ヴェルトが軽く腕を伸ばして、さりげなく僕の肘を支える。
その動きまで、やたらと自然で悔しい。
砕けた石片を踏むたび、靴底越しにコリッとした感触が伝わってくる。
鎧の破片が転がる間を縫うようにして、岩の段差の前まで歩いた。
足元に、小さなペンダントのようなものが落ちていた。
銀色のチェーンに、緑がかった透明の宝石。
鉱山の魔光石の明かりを受けて、宝石の中に小さな森が閉じ込められているみたいに煌めいている。
手を伸ばして拾い上げると、視界にウィンドウが開いた。
『森守のペンダント』
効果:最大HP小アップ/闇属性からのダメージ小軽減
「……なんか、すごくタイミングのいい効果な気がする」
さっきまでガンガン削られていたHPバーを思い出して、思わず苦笑する。
「これがあれば、次はもう少し楽に戦えますね」
「次って……また似たようなの来るの?」
「さあ、どうでしょう」
ヴェルトは意味ありげに視線を逸らした。
ちらりと横顔を見ると、ほんの少しだけ楽しそうに口元が緩んでいる。
「ユーマさんが望むなら、いくらでも」
「望まない可能性も考えてくれない……?」
「ふふ」
軽く笑われた。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、その「からかい」に混ざっている信頼が、くすぐったい。
ペンダントを首にかける。
冷たいチェーンが肌に触れ、すぐに体温になじんでいく感覚がする。
ほんの少しだけ、胸の辺りが軽くなる気がした。もちろん、ステータス的な意味でも。
(これからも、こうして――)
ヴェルトと一緒に、強い敵に挑んで。
怖くて、苦しくて、それでも二人で工夫して、ぎりぎりで勝って。
最後にログを見上げて、「やった」と笑い合う。
そのスリルごと、全部まとめて「楽しい」って思えるのかもしれない。
そんな未来を、少しだけ想像してしまう。
「そろそろ戻りましょうか」
ヴェルトが、通路側の方へ視線を向けた。
ボス戦のあいだは結界みたいに固く閉ざされていた鉄扉が、今は静かに開いている。
さっきまで圧迫感を与えていた鉄の質感が、今は“出口”として少しだけ頼もしく見えた。
「報酬もありますし、宿屋の柔らかいベッドも私を呼んでいます」
「ベッドに呼ばれる魔術師ってなんだよ……」
「人はみな、休息を求めるものですから」
いつもの調子で軽口を交わしながら、僕たちは崩れた広間をゆっくりと歩き出す。
背中に、さっきまでの戦いの熱がまだ残っていた。
胸の鼓動も、少し早いまま。
でも、それはもう「怖い」からじゃなくて、戦いの余韻と、隣を歩くヴェルトへの安心が入り混じった、不思議な高鳴りだった。
出口へ向かう途中で、ふと振り返る。
崩れた岩の段差。散らばる鎧。
床に刻まれた、影の槍の痕。
天井のひびから、まだ時々、砂がぱらぱらと落ちてくる。
そこに、もう悪霊の気配はない。
ただの「クリア後のボス部屋」になっていた。
(騎士の遺言、か)
このクエストの名前を思い出す。
さっきまで自分たちを襲ってきた鎧たちは、本当は何を守ろうとして、ここで朽ちたんだろう。
そんなことを考えながら、僕は小さく頭を下げた。
画面の向こうのただのデータかもしれない。
それでも、この世界で一緒に戦った友人として、そうしたくなった。
「……行こうか、ヴェルト」
「はい」
ヴェルトの返事とともに、僕たちは開いた鉄扉の方へと歩を進める。
鉱山の奥気はまだひんやりとしていて、崩れた天井から落ちる砂の音や、どこかで滴る水音が、さっきまでの轟音が嘘みたいに静かに響いていた。
通路の壁に埋め込まれた魔光石が、淡い光で足元を照らす。
「現実の方は、今どれくらいの時間なんでしょうね」
「たぶん……まだ昼過ぎくらい? 外はきっと、いい天気なんだろうな」
さっきログインする前に見た空を思い出す。
カーテンの隙間から覗いた青空と、差し込んでいた陽の光。
「ゲーム内と現実で時間ずれてるの、こういうとき便利ですね。もう少し、この余韻を楽しんでから戻っても問題なさそうです」
ヴェルトの言葉に、少し笑ってしまう。
「うん、そうしたい」
さっきまで命ぎりぎり――いや、HPぎりぎりで戦っていたのが、少し遠い出来事みたいに感じられる。
それでも、足の震えはまだ完全には抜けていないし、HPバーの赤いギリギリのラインが、これはちゃんと本気でやった戦闘だったんだと告げていた。
(怖かったけど……やっぱり、戦うの好きなんだよな)
胸の奥に、温かいものがじわりと広がる。
あの瞬間、手が勝手に動いたのは、たぶん「怖い」を超えたところにある「楽しい」が、本当にそこにあったからだ。
「ヴェルト」
「はい?」
「また、一緒にこうやって戦ってくれる?」
自分でも少し照れくさい質問だった。
でも、今このタイミングで聞いておきたいと思った。
「また一緒にやろう」って、ちゃんと言葉にしておきたかった。
ヴェルトは一瞬だけ目を丸くする。
すぐに、いつもの、少し意地悪そうで、それでも底の方がやさしい笑みを浮かべた。
「当たり前じゃないですか」
迷いなく、そう言い切ってくれた。
「だって私は、あなたの友人ですから」
その言葉が、じんわりと胸に染み込んでいく。
「友人」という単語が、この世界で初めて自分に向けて使われた気がして、心臓がくすぐったく跳ねた。
そこで、ヴェルトの言葉がぴたりと止まった。
僕も、反射的に足を止める。
広間の奥――さっき開いた鉄扉の方角から、微かな気配がした。
(え……? 今の、足音……?)
鉱山特有の反響した音の中に、規則正しい靴音が紛れ込む。
システムの環境音とは違う、誰かの存在を主張する音。
「……ん? なにこれ、扉……? こんなの、マップにあったっけ?」
誰かの声がした。
独り言のような呟きと、乾いた足音が、こちらへ向かって近づいてくる。
心臓が、さっきとは別方向にドクンと跳ねた。
そして――。
「――おーい!」
今度は、はっきりとこちらへ向けた呼び声。
明るくて軽い。
緊迫したボス部屋には似つかわしくない、気楽なトーン。
開きっぱなしになっていた鉄扉の向こうから、人影がひょいと姿を見せた。
「……あ、やっぱり誰かいた!」
そのプレイヤーはぱっと表情を明るくし、僕たちを見て堂々と歩み寄ってくる。
足取りに一切の迷いがない。
人と遊ぶゲームに慣れている人の動きだ。
「うわ、これ……ボス部屋の残骸じゃん。まさか二人だけでクリアしたの?」
軽い驚きと興味が混ざった声。
悪気なんて一ミリもないのは分かるのに、その一言だけで、僕の喉がひゅっと細くなる。
――緊張が、一気に押し寄せてきた。
(……やば……どうしよう……プレイヤー……だ……)
あたりまえだ。
ここはMMOで、他のプレイヤーがいて当然で、クエストだって本来は何人かでワイワイやるものだ。
頭では分かってるのに、体が固まる。
言葉が出ない。
口の中がカラカラになる感覚すら、リアルと同じだ。
昨日までの僕なら、たぶん何も言えないまま、そそくさとログアウトしていたかもしれない。
代わりに、ヴェルトが落ち着いた声で微笑む。
「ええ。ついさきほど、終わったところです」
僕の隣で、ヴェルトの声が頼もしく響いた。
その横顔は、いつも通りの落ち着いた魔術師のものだけど、どこか「大丈夫ですよ」と言ってくれているような安心感がある。
けれど僕の胸は、まだどきどきとうるさい。
(……ど、どうしよう……何話せば……?)
悪霊と戦っているときより、今の方が圧倒的に緊張している。
攻撃のモーションやギミックを読むのは得意なのに、人の表情や言葉の意図を読むのは、どうしてこんなに苦手なんだろう。
初めて、ヴェルト以外の生身のプレイヤーと話す。
その現実が、僕の口を固く閉ざしていた。
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高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
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戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
もふもふと味わうVRグルメ冒険記 〜遅れて始めたけど、料理だけは最前線でした〜
きっこ
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五感完全再現のフルダイブVRMMO《リアルコード・アース》。
遅れてゲームを始めた童顔ちびっ子キャラの主人公・蓮は、戦うことより“料理”を選んだ。
作るたびに懐いてくるもふもふ、微笑むNPC、ほっこりする食卓――
今日も炊事場でクッキーを焼けば、なぜか神様にまで目をつけられて!?
ただ料理しているだけなのに、気づけば伝説級。
癒しと美味しさが詰まった、もふもふ×グルメなスローゲームライフ、ここに開幕!
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