手の届かない君に。

平塚冴子

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入学前

真夏の洗礼

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真夏の暑い日、
僕は初めて彼女に出逢った。
いや、出逢ったというのとは少し違うのかも知れない。
何故なら僕は彼女がこの世の物だとは、この時認識していなかったからだ。

「暑い!まったく、夏休み中の学校の冷房制限なんて。
教頭達は夏休み中の出勤が殆ど無いからって。
俺たち若手教師はこうやって毎日のように出勤してるんだぞ!」
「清水先生って、まだ若手教師だったんですか?ベテランだと思ってました。
10年も先輩なので。」
ネクタイを緩め、ワイシャツの襟を開けてクリアファイルで扇ぎながら職員へ向かう廊下で僕は呆れ顔で先輩を見た。
「お前なぁ。教師1年目の癖に本当はっきり言うよな。
俺はそういうのは嫌いじゃないが、他の奴の前では控えろよ。良くも悪くも私立ってのは気に入らなきゃすぐにクビされるぞ。」
「別にいいですよ。クビになっても。
好きで教師やってる訳じゃないし。自分に合ってるとも思わない。
女子高生趣味がある訳じゃないし。
…てか、なんか僕は女子高生って本音言うとピーチクパーチク、ウザくて堪りません。」
「おいおい。暑さのせいか毒吐きまくりだね。生徒の間じゃ新任教師らしく結構、人気あるくせに。
へぇ、嬉しく無いんだ。ははは、やっぱお前、面白いわ。」
面白いって、僕に言わせれば先輩の方が変わってる。

先輩の彼は清水豊彦、国語教師10年やってて
キリスト教徒で牧師の資格もあるらしいのに、やってる事は俗っぽいし。口も悪い。生徒からは『ニセ牧師』と呼ばれてる変人教師。

僕の名前は武本正輝、英語教師としてこの大東大付属高校にこの春から勤務している。
親の伝手で大卒後の就職もすんなり決まったタイプだから、特にこの学校に思い入れがあって就職した訳じゃない。
教師の仕事だってそうだ。
安定した職業を望んだ親の顔を立てただけて、好き好んで選んだ道ではなかった。

溜息をつきながら、ふと眼鏡を上げて顔を右に向けると中庭を挟んで向こう側の旧校舎一階にある旧理科室の窓が目に入った。
自然と無意識に。

一瞬…時間が止まった気がした。そこにいるはずの無い者が目に飛び込んで来た。
ここの学校の男子生徒は黒の学ラン、女子生徒の制服は白の開襟シャツな紺のベストに紺の箱ヒダのスカートと地味な制服だが、そこにいたのは淡い藤色のセーラー服に肩まで伸びた長い髪の見覚えの無い生徒。
しかも彼女以外はこの学校の生徒で生徒会の奴らだ。
生徒会の招待で他校から来たのだろうか?
それにしては不思議な違和感を感じた。
彼女はまるで存在感がなかった。今にも消えそうな透明感…。
誰一人として気にかけていない。

「!!」
彼女と目が合った。
途端に彼女は僕の視線から逃げる様に窓際から遠ざかり、消えてしまった。
「清水先生、ちょっと先に職員室行ってて下さい。」
「?。何?忘れ物でもしたのか?」
「まぁ、そんなところです。」
自分の見た物への好奇心から、僕は小走りで反対側の旧校舎に向かう廊下に引き返した。

幻覚?現実?
モヤモヤした胸を押さえながら旧理科室の前で一呼吸した。
白の木製のドアの取っ手を握り、思い切り扉を開けた。
中にいた生徒会のメンバーが一斉に振り返った。
「ビックリしたぁ。先生、どうしたんですか?」
一際目立つアイドル顔の女生徒が甘えた声で駆け寄ってきた。
田宮美月。
確か2年の生徒会書記だったか…。
自信過剰でプライドが高く女の武器の使い方を熟知してる。
僕が最も苦手なタイプの女生徒だ。
「何してるんだ、生徒会がこんな所で。新校舎に立派な生徒会室があるだろう?」
さりげなく、旧理科室の中を見回してみるがそこにいるのは生徒会の連中だけで、さっき見た彼女の姿は何処にもなかった。
他校の生徒が生徒会に招待されたのならば隠れる理由もない。
幽霊にしてはまだ陽が明るいし、日中に出るとは思えないし。ましてや僕にはそんな特殊能力は無い。
やはり…幻覚?!

「その生徒会室ですけどぉ、夏休み中にエアコン付けるなって言われちゃって。
夏休み明けの文化祭の打ち合わせをするのにここしか良い場所がなくて。
だって、一応扇風機はあるし、思い切り日陰で作業しやすいんですよ。」
「文化祭の打ち合わせ…。」
なるほどと思いつつ視線を実験台へ移す。
赤…。燃えるような赤い炎の絵が飛び込んで来た。
吸い込まれそうな勢いのある炎の中でエメラルドの瞳の鳳凰が燃えている。
一瞬で脳裏に焼き付いた気がした。
「どうです。先生、今年のポスター!迫力がハンパないでしょ。」
物凄い勢いで自慢してきた。

…こういうのが引くんだよな。押し付けがましいこの態度。
まさか、こいつが描いたのか?
思わず溜息を漏らしてしまった。
「分かった分かった。あんまり遅くまで作業するなよ。お前らが残ってると新任教師は帰らせてもらえなくなるからな。」
「武本先生って冷たい!もっと優しく言っても良いじゃない?
でも、そこが先生の味なのかもね先生、以外と女子に人気があるし。あはははは~。」
この、人を小馬鹿にした口調も、自分なら許されるかのように振る舞う態度も僕を不快にさせた。
「じゃあな、施錠してから帰ろよ。」
吐き捨てるように言って僕はその場を離れた。

最悪だ。疲れる。
教師になって1番疲れることは生徒との会話だ。向いていないのだ。
そもそも、教師なんて人に物事を教える職業、僕には向いていない。
それも、子供相手なら尚の事。
何故なら僕は大人になりきれていないのだから。
思い知らせれる…無力な自分にまた溜息を漏らした。

職員室に戻ると清水先生が僕を手招きした。
わざわざ手招きしなくても隣の席なのに、全く変わった人だ。
「随分と遅かったじゃない?
女生徒とデキてたりして。コソコソしたりして。」
「本当に下世話ですね。…あ!そうだ牧師としては昼間に幽霊とか妖精とか見えるもんですかね?」
ふと、口から変な質問を滑らせてしまった。
予想通り、清水先生は面白がってニヤニヤした顔を僕に近づけてきた。
「何?欲求不満溜まりすぎて美人の幽霊でも見たの??。」
「違いますよ。美人なんかじゃ…どっちかと言うと…純和風な感じで、切れ長の目で鼻も口も小さい感じの…色の白い…!!」

って、あの一瞬で僕は何でこんなに細かく彼女を記憶したんだ?
あれ…あれ…??幻覚かもしれないのに何故?

「あ!分かるなぁ。それ。
俺も美人は苦手なタイプ。
やっぱり可愛げのあるのがいいよな。こう、気を使う事なく一緒の空気感がある感じ。
和風ってのが落ち着くよな。」
「何の話ですか!タイプの話しなんかしてませんよ。
ちなみに特に欲求不満って訳じゃありませんよ。一応彼女いるし。」
「えー!!彼女いるの!?イメージないわ。おーい岸ちゃん!武本って彼女いるってよ!」
「清水先生!何を大声で!
職員室中に響いてるし!
ああもう!岸先生も何で寄ってくるかなぁ!!」
椅子に座ったまま、コロコロとタイヤを滑らせて来た長身で細面の白衣の教師。
岸拓也、化学教師で確か教師5年目だ。
清水先生の数少ない教師仲間だ。
清水先生と仲がいいという事はこの人も相当変わり者なのかもしれない。
「何何?彼女ってどんな感じ?
写真とか携帯にあるんでしょ、僕にも見せて欲しいな。」
食いつきいいな、こいつら。ああ面倒くせぇ。
「見せませんよ!いい大人が何ですか?恋話で盛り上って。
高校生ですか?
僕はいたって普通の恋愛して、普通の彼女と付き合ってます!以上!
面白い話しなんて何もありませんよ。」
冷たく突き放す様に言うと、清水先生が意味深な事を言い出した。
「ははん。なるほど、もったいねー。
武本は本気の恋愛をした事ないんだな。
まぁ、若いんだし。これから先かもな。」
「…何ですか、そのどっかの古臭い恋愛ドラマみたいなセリフ。
時代遅れですからねそんなんは。」
ガキの相手も疲れるが、このニヤけたおっさんの相手もそこそこ疲れる。

僕は急に1人になりたくなった。
本当に、僕は何で教師なんかになったんだろう…。
目を瞑ると、また彼女の映像が鮮明に見えて来た。
僕は、欲求不満なんだろうか?





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