手の届かない君に。

平塚冴子

文字の大きさ
上 下
4 / 302
1学期

四月の稲妻

しおりを挟む
学校勤務者は特にバタバタする四月。
入学式ともなるとより一層職員室の空気がピリピリする。
色々な事があり過ぎる上に、これから先の事を考えるとストレスで胃に穴が開きそうになる。

今日から彼女が、この学校に通ってくる…。

天上を仰ぎ、溜息をつく。
しかも清水先生は公言通り、彼女の担任になった。
なんつー教師だよ全く。
「武本先生、武本先生。はい、これ。
僕からの心ばかりのプレゼントです。
絶対に必要になりますから。」
岸先生がコッソリと何かを僕にくれた。
片手で持てるサイズだが重さもある。
「何ですか?これ。」
「何も聞かずに受け取って下さい。僕もそろそろ教室に向かうので。」
「はあ。」
じゃあ、と手をあげて岸先生は立ち去って行った。
ガサゴソと包みを開けると…。
「!!…胃薬!」
大量タイプの胃薬が姿を現した。
普通の人が買う量ではないであろうこの大瓶にちょっと引いた。
「これが必要になるって…。おい。」
肩をガックリと落として薬瓶を机の中に入れた。
「こーら!こんな晴れ舞台に、そんなお通夜みたいな顔してどーすんだよ。
神様だって見てるんだから。笑顔で行けよ、笑顔で。」
そういいながら、人の顔を思い切り伸ばし、ケラケラ笑いながら清水先生は隣に座った。
「っもう!何してんだよ!」
「ネクタイ、曲がってるぞ~。」
「くっ苦しい!何わざとふざけてんだよ。やめて下さいってば!!」
完全に清水先生のおもちゃ扱いされ、緊張よりも疲労感におそわれながら職員室を出て重い足取りで新一年生のいる西棟二階に向かった。
階段を降りると、廊下にいた新一年生達が慌てて教室に入って行く。
さながら、ネズミを追う猫の気分だ。

不意に、背後から擦り抜けて行く女生徒が目に入った。
ぶつかりそうな気がして思わず声を出した。
「おっと、ごめん…!」
「いいえ、こちらこそ。」
感情のない形式的な返事だったが、その声は確かにあの推薦面接で聞いた声だった。
走り去る後ろ姿に、思わず脚が止まった。
新入生用の花を胸に、新しい大きめの紺のブレザーから真っ白な開襟シャツの襟がたなびく。
膝丈のスカートがポニーテールと一緒に軽く揺れる。
さっきまでの疲労感が一気に吹っ飛んだ。
彼女は4組のクラスに小走りで入って行った。
「はいはい、武本先生は特進の3組だからね。4組以降の一般クラスには間違っても行かないように。
まぁ、体育クラスの1.2組には行かないだろうけど。」
後ろから降りてきた清水先生が嫌味なくらいのいやらしい笑顔で僕の耳元で囁いた。
「分かってますよ!しつこいですよ!
ってか、別に清水先生と同じ趣味じゃありませんって何度も言ってますよね!一緒にされたくありません。」
「ふーん。まっ、いいや。今年は楽しい一年になりそうだな。
悩みがあったら言えよ、学年主任の俺が神に誓って最高のアドバイスをしてやるからな。」
首から下げた十字架がさらに偽物臭さを出している。
「…どの面下げていってるんですか?くれぐれも学年主任自ら問題を起こさないで下さいよ。」
「でたぁ!武本の毒~!マジ面白い。だははは。」
下品な笑い声で1年4組のクラスへと消えて行った。
また、モヤモヤが蘇る。
彼女の姿を見掛けただけで、こんな状態になるとは。
…やっぱり、入学式終わったらあの胃薬を飲んだ方が良さそうだ。

1年3組は特進クラスだけあって、はみ出したような奴がいない優等生ばかりだ。
教室に入る私語一つしないでこちらに注目してくれる。
僕は淡々と挨拶と入学式の説明に入った。
あまりに静かなせいか、隣のクラスのざわめきが聞こえてくる。
わははと笑い声がする。
そうか、一般クラスだと笑いを取る事も考えなきゃいけないのか。
僕はそういうのが苦手なタイプだったので特進クラスと言うのはやりやすいのかも知れないと思った。
その反面、隣のクラスでは何が話されているのか気になった。

…彼女も笑ってるのだろうか?そういえば、彼女の笑顔はまだ見た事がなかった。
どんな風に笑うのか…どんな事で笑うのか…。

入学式中、リハーサル通りの事は出来たと思う。
これと言って、失敗する様な事はなかったと思う。
ただ、自分でも思った以上に彼女の事が気になっていた事が驚きだった。
合い間合い間に、僕の視線は彼女の方へ流れて行った。
退屈そうに天上を仰いだり、小さなアクビをしたり、軽く目を伏せたり。
彼女の仕草が目に入ってくる。
幻覚かと思っていた彼女の現実的な姿を見ると、あの夏の日の出来事が更に鮮明な映像として蘇る。
そこに…彼女が…いる…。
そして、同じ空間に僕が…いる。

入学式が無事に終了して、生徒帰宅後に来週月曜日からの授業などの学年会議が早々に始まった。
「えー今、配布したプリントの通り、担当教科及び担当クラスを把握しておいて下さい。
後、生徒手帳作成の為の写真撮影及び健康診断も月曜日に行われます。
作業担当もすでにこちらで決めておりますので、同じく確認をお願いします。
来週末にはホームルームで、早々に役員決めをして下さい。
四月は特に慌しくなりますが、お互いにコミュニケーションをとり、協力しながらまずは1学期を乗り越えましょう。」
学年主任の清水先生の説明を聞きながら、プリントをチラチラめくる。
僕の英語授業担当クラスは1年3組特進クラス、1年4から6組一般クラス、3年5から7組進学クラス。
生徒手帳作成の写真撮影係。
そうか…。
担任にはなれなくても授業は出来るんだ…彼女のいるクラスで。
チャンスがあるかも知れない。待ち望んだこの胸のモヤモヤを解消する事が出来るかもしれない。
言葉を交わす事が出来れば…。

学年会議を終えて席に着くと、清水先生が高性能カメラを僕の机に置いた。
「今の時代は便利だよなー。
業者に頼まなくても高性能の写真撮影が可能だ。
いくらでも自分好みに撮り放題だ。
感謝しろよ。この、敵に塩を送る優しい俺に感謝!」
また、僕を面白がってからかいに来たのか。
「?どう言う意味です?生徒手帳の写真撮影ですよ。身分証の写真に何を期待するんですか。」
「いや~。確かに、証明写真だし面白味はないかもな。
データは個人情報だからそうそう不正に持ち出しも禁止だが、プリントした写真は予備を含め各2枚。
プリント業者から届いたうち、使う方を事務員に手渡せばいい。
ただし、予備はほとんど使われない。
ひと月保管したら破棄される。」
「だから何が言いたいんですか?ハッキリ言ったらどうですか?ニヤニヤして気持ち悪いですよ。」
清水先生はぐっと僕の耳に顔を近づけ小さな声で呟いた。
「たとえば、予備の一枚が紛失したとしても誰も騒いだりしないんだなこれが。」
「!!何考えて…って。んな事する訳ないでしょうが!清水先生じゃあるまいし!」
アホくさい!全くどこまで下衆なんだかこの人は。
僕は別に彼女の写真が欲しい訳じゃない。恋愛感情がある訳じゃないんだから。
ただ…、あの夏の日の謎を早く解き明かし、この胸のモヤモヤを解消したいだけなんだ。
あの場所にいた理由を聞きたいんだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
「なんだよ。折角の俺の苦労を台無しにすんのかよ。
お前がその気なら、俺は田宮真朝に猛アピールでもしようかな。」
「…!」
冗談とも本気とも取れる表情だった。
僕は相手をせず、コーヒーを飲む為に席を立った。
背中越しにニヤニヤして僕の行動に喜ぶ清水先生の顔が想像出来た。
やっぱり、この人苦手だ。

月曜日になり、午前中に健康診断と写真撮影が行われる予定だ。
僕は写真撮影の為に放送室の一角に証明写真用の背景と高性能カメラのスタンドを調整していた。
証明写真って、真っ直ぐ正面からだよな。
生徒がいるポジションを想像する。
背筋を伸ばしカメラを真っ直ぐ見つめる姿…。
彼女とファインダー越しに見つめ合う事になる。
あの夏の日と同じく視線が交差するんだ。

1組から順番に流れるように写真撮影が進んだ。
「次から4組が入りまーす。」
岸先生が生徒を誘導して来た。
1人…また1人。
彼女の順番が近づいてくる。
カメラを持つ手が汗ばんで来た。
「田宮です。」
そう言うと彼女はカメラの向こうの椅子に腰掛けた。
ゆっくりと伏せていたまぶたを上げてこちらを見つめる。
緊張で手が震えそうだった。
切れ長の黒い瞳は真っ直ぐとカメラ越しに僕をとらえていた。
時間が…止まる…。音さえも全く聞こえなくなった。
静かだ…柔らかい風だけが頬を触った気がした。
ピッ、ピッ。
シャッターを二回押した。
「…終了です。」
時間にすればほんの1,2分だった。
彼女は再び僕と視線を合わせる事なく静かに出て行った。
午後には4組での英語の授業がある。
彼女との接点を得る事が出来るだろうか?
近づく事はあっても、まだまだ彼女は遠い存在だった。

「先生~。お昼、食堂ですか?一緒に食べませんか?」
うちのクラスの女生徒、葉月結菜が声を掛けてきた。
ショートカットの似合う、爽やかな印象の生徒だ。
担任を持ったのが今回初めてのせいか生徒からそんな言葉を掛けられた事がなかった。
…そうか、生徒とのコミュニケーションを取る為にはこう言う事も必要になるのか。
正直、面倒臭い。
「今日は、ちょっと。また今度にな。」
「えー。絶対ですよー。」
当たり障りのない返事を返して、教室を出た。
本当は用事なんて物はなかった。
ただ、1人になりたかった。
1人で落ち着いて午後からの4組の授業に備えたかった。

コンビニで買ったサンドイッチとコーヒーを持って屋上へ出る螺旋階段を上った。
この学校の造りはちょっと個性的で螺旋階段から屋上に出るとまた更に外側に螺旋階段があり円柱型の上の小さな六畳くらいの広間
に出る。
高い所の好きな生徒が屋上から転落しない為にあえて、それより少しだけ高い場所を造っているらしい。
ここから落ちたとしても、軽く済むからだ。
四月の今は生徒の入れ替えもあって屋上は立ち入り禁止の札が立ち誰も来ない。
屋上から桜の花見も出来る最高の場所だった。
僕は外側の螺旋階段を上った。
少し風があるが冷んやりしていて気持ちいい。
ギィ。
高台の下から屋上のドアを開ける音がした。
僕は頭を低くしながら様子をうかがった。
1人の女生徒が入ってきた。
田宮真朝…彼女だ…!
彼女は屋上の手すりまで来ると、いきなりポニーテールを勢い良く解いた。
下から吹き上げる風に長い髪が踊る。
両手を広げてその風を受け止める。
おい!まさか自殺?!
とっさに、そう思った。
でも、それは間違いだった。
彼女は深く深呼吸すると、屋上の床に寝そべった。
僕は、昼飯を食べるのを忘れて見とれてしまった。
空と一体化するような彼女の幻想的な演出に視線を外す事が出来なかった。

結局、空きっ腹の状態で午後の授業をしなければならなくなった。
そうでなくても、緊張するのにエネルギー不足で頭の回転がおぼつかない。
最悪のコンディションで4組へ向かわなくてはいけない。
彼女のいるクラスへ。

4組はさすがは一般クラス。始業ベルが鳴ってもダラダラと生徒が行き交う。
「おい!授業開始時刻だぞ!早く教室入れ!」
追い払うようにして生徒をクラスへ入れ、着席させた。
クラスの中は特進クラスとは大違いで下品な笑い声や、話し声があちらこちらから聞こえて来る。
落ち着きのない雰囲気に苛立ちを覚える。
彼女の席は右端の後ろ側、窓際の席だった。
髪はまたポニーテールに束ねたのか…。
横目で彼女の席を確認すると、僕はまず自己紹介を始めた。
「えー、英語担当の武本正輝です。1年間よろしく。」
「先生ー若ーい!幾つ?」
「…24歳だ。」
「大丈夫ー?がんばれよー?ははは。」
自己紹介だけでこの騒ぎだ。
全くこいつらの知能は猿並みだ。
チラッと彼女を見る。
完全に無関心で肘をつきながら窓の外を見ていた。
無性に胃がムカムカしてきた。
事前に把握してあった生徒の名前も頭の中から吹っ飛んでいた。
半ギレしながら、授業を進めた。
生徒は相変わらず猿山のごとくザワザワしている。
ムカムカ…イライラ…モヤモヤ。
彼女は僕を見ていない…。

「……田宮!」
無意識だった。
彼女の名を無意識で呼んでしまった。
うおおオォ。
自分で自分の声に驚いた。
窓の外の視線が僕の方を向く。
「…の周りがうるさい!」
完全にテンパった。
自分でも何を言って、誰を注意してるのかわからない。
下手過ぎるごまかしにさらにパニックになる。
身体中から冷や汗が吹き出ていた。
クラス中の視線が彼女に集中した。
彼女の瞳がしっかりと僕をとらえて、彼女は予想外の行動を起こした。
バン!!机を平手打ちして立ち上がったのだ。
「私は、うるさくしていませんけど。」
挑戦的な漆黒の瞳が彼女の怒りを物語っていた。
当たり前だ、関係のない人間にとばっちりを食らわしたのだ。
彼女は全く騒いでなどいなかったのに。
「…だ、だからお前の周りだ。お前じゃない。」
苦しい言い訳だ。
「でしたら、本人を注意して下さい。
無関係の名前を出さないで下さい!」
キッパリ言って、彼女は着席した。
正論だ彼女が正しい。
最悪だ…最悪の状況だ。
ザワザワしていた教室内も一瞬にして静ま返った。
僕は取り返しのつかない失敗をしてしまったのだ。
目の前が真っ暗になった。
僕と彼女の間に巨大な稲妻が落ちたようだった…。

噂は一気に広まり、教師と生徒のバトル勃発話しは職員にまで響いていた。
「だははー!腹痛い!腹痛いー!!ははは!」
落ち込む僕の隣で腹を抱えて清水先生は大笑いしていた。
「小学生かよー?気になる娘に嫌がらせって!受けるってマジ!ははは!」
「別に気になる娘じゃありませんよ!」
ムキになって否定する。
かなり、怒っていたと思う。完全に嫌われ方向にベクトルが向いた事だろう。
完全に失敗した!まともに話せる気がしない。
笑顔どころか冷ややかな怒りの表情を向けられたショックは大き過ぎる。
立ち直れる気がしない。
笑い転げる清水先生の相手もまともに出来なかった。
「大丈夫ですよ。武本先生。
噂なんて今の時代すぐに忘れさられますって。
その生徒も学校に慣れるので手一杯なはず。
いちいち教師の失態を恨んだりしませんよ。」
岸先生が優しそうな垂れ目で僕を哀れんだ。
「だと、いいんですけど。
簡単に謝れるくらいのフレンドリーな仲でもないんで、ちょっとね。」
「謝る…。そうだ!本人には無理でも遠回しには謝れるんじゃないですか?」
「えっ?どういう…。」
「田宮には3年に姉がいるでしょう。田宮美月。
彼女から伝えて貰えばいいんじゃないですか?ついでに、妹の心情も聞けたら一石二鳥でしょ。」
田宮美月…。確かにそうかもしれない。
しかも、上手くすればあの夏の日の事も情報が得られるかもしれない。
接点を作っておいた方がいいのかも。
はぐらかされる確率も高い事は予想出来るが、何かを変えられるのなら…。

新校舎三階の南に生徒会室がある。
田宮美月は毎年、生徒会役員を引き受けている。今年は副会長になったと聞いてる。
僕は生徒会室に人の声があるのを確認した上で、ドアをノックした。
「はい。あら、武本先生。生徒会に何か?」
田宮美月が思いっきりのアイドルよろしく営業スマイルで対応してきた。
「あ、いや、その田宮にちょっと話しがあって…。」
言いかけた途端、察したかのように僕を生徒会室の外へ押し出した。
「真朝の件でしょ。」
さっきの営業スマイルが一気に鬼のように変化した。
「先生は悪くないわ。
気にしないで下さい。
真朝にはヘタな真似しないようにキツくいっておきます。
変に騒ぎ起こされちゃ私の立場に傷が着くので。」
耳を疑った。これが姉妹の対応なのか?
実の妹を扱う態度なのか?
やはり、この女生徒はタチの悪い腹黒い性格のようだった。
このルックスでごまかしきってる女狐に吐き気がした。
「おい。妹に対してそれはないんじゃないか?
それに、今回の事は僕が間違えたんだ。
僕が悪い。彼女は何も悪くない!」
声を荒げてしまった。
「ふーん。そう。だったら、この件は忘れて下さい。
真朝にかまってるだけ時間のムダですよ。先生も忙しいでしょうし。
私も生徒会があるのでこれで失礼します。」
「…!!」
何なんだこの女!!高飛車にも程があるだろう。
家でも姉にこんな態度を取られて来たのか彼女は…。

彼女には何かしらの闇があるのかもしれないと感じざるを得なかった。
そして、あの夏の日の彼女と、この姉に何らかの秘密があると確信した。
しかし、結局誰かにその事を聞く事とまた難しいのだと悟った。
僕の胸のモヤモヤはいつになったら消えるのだろう。
彼女が嫌いになった僕に話してくれる日が来るのだろうか。
しおりを挟む

処理中です...