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第九話
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目を覚まし顔を洗っていると、いつものように部屋のドアがノックされた。返事をすると、ミレーナが入ってきた。彼女は掃除をするときも、用事があるときも、私が部屋にいるときにしか中に入ってこない。私が毒を盛られ、死にかけた日のことを忘れられずにいることに気づいているからだ。
「今日はシーツを替えるのを手伝って」
「かしこまりました」
ダミアーノに言われ、使用人には敬語を使わないで話すように努めている。そうしてこの世界に身分差があることを体に染み込ませているのだ。
どんなに違和感を感じようと、この世界には身分差が存在しているのは変えようのない事実だ。たとえ小さな子でも、自分よりも身分が上なら敬語を使わなければいけない。そして、逆に相手が年上でも、身分が下ならタメ口で話さないといけなかった。
日本で生きていた私には反発したい気持ちもあるが、周囲と馴染むためにはこの身分差の考え方をきちんと身につけたほうがいいとダミアーノに厳しい顔で言われた。今は陛下の客人として、それなりの身分が保証されている。だからある程度のことは大目に見てもらえる。でも、これから城を出て平民として生きていくときに身分について軽く考えていると、命に関わることに巻き込まれる危険性もあった。
もし身分差をなくしたいと言うなら、革命を起こす覚悟で行動を起こさないといけない。いつかなくしたいと思うが、さすがに今の私にはそこまで手を出している余裕はなかった。残念ながら、今を生きるだけで精一杯なのだ。
「あの、ミレーナ」
「はい。何でしょうか?」
私はミレーナと一緒にベッドメイキングをしながら、気になっていたことを尋ねた。
「ミレーナは私の顔を見て、腹が立ったり傷ついたりしなかった?」
他の使用人はこの顔を見て驚いたり恐怖に青ざめたりしていたのだが、ミレーナは最初から澄ました表情をしていた。
ミレーナはシーツの皺を伸ばしながら、柔らかく笑った。
「そうですね。最初は戸惑いましたし、……少しだけ怒りも感じました」
「そうなの?全然そうは見えなかったけど」
「表情に出さないようにすることには慣れてますから」
さすが、長くメイドとして働いているだけある。
「ですが、毒で苦しまれている姿が、娘によく似ていて」
ミレーナはほんの少し、顔を曇らせた。
「娘さん?」
「ええ。数年前に流行り病で亡くなりました」
「……そう」
ミレーナははっきりとは言わなかったが、娘さんが亡くなったのはベアトリーチェが引き起こした流行り病なのかもしれない。
彼女が犯した罪を知るたびに、なぜベアトリーチェはそんなことをしたのか疑問が頭に浮かんだ。ただ、それを身内を亡くしたミレーナに問う勇気はなかった。
「すみません、こんな暗い話をしてしまって」
「ううん、そんなことない。話してくれて、ありがとう」
ミレーナは涙が滲んだ目を細めると、優しく微笑んだ。
「信じられないかもしれませんが、穏やかに過ごせるよう精一杯務めさせて頂きます」
「……ありがとう」
ミレーナの優しさに、思わず涙が出そうになって慌てて指で拭いた。殺されかけたことは忘れられないが、こうやって人の優しさに触れれば、この世界に転生できたことも案外悪くなかったのではないかと思えた。
その日の午後。ダミアーノが忙しかったので、自主勉強の合間にセルジュに護衛を頼んでアラン陛下と来たことがある庭を散策した。
「セルジュはどの花が好き?」
黄色の花の香りを楽しみながら、セルジュに尋ねた。
「違いがよく分かりません」
根気よく話し続けたお陰か、端的にだが返事を返してくれるようになった。相変わらず表情は、眉ひとつ動かないが。
「じゃあ、好きな食べ物は?」
「……肉です」
私はマンガ肉をかじるセルジュを思い浮かべた。よく合っている。
「そのまま焼いたのが好き?それとも、煮込んだ物が好き?」
セルジュは顎に手を当てて考えた。
「どちらも好きです」
「じゃあ、」
次の質問をしようとしたとき、セルジュが足を止めた。
「この会話にはどんな意味があるんでしょう?」
「あ」
セルジュは困惑していた。矢継ぎ早に質問されたのだから、当たり前の反応だろう。私はやり過ぎてしまったと、心の中で反省した。
「ごめんなさい。楽しくて、つい」
「楽しいですか?」
セルジュはさらに困惑した声を上げた。眉間にも皺が寄っており、私が言ったことが理解できない様子だった。
「ええ。きちんと返答してくれるし、セルジュのことを知れるのが楽しかったの」
「……」
「でも、不躾にたくさん質問してごめんなさい。鬱陶しかったでしょ」
私はそっと息を吐いて落ち込んだ。自分を守ってくれる存在が嬉しくて、いきなり距離を詰めすぎてしまった。
「いえ、楽しんでおられるのなら質問していただいて構いません」
セルジュは無表情の顔に戻り、そう答えた。
「ありがとう」
セルジュは無表情で何を考えているのか分かりにくいが、優しい人だと思う。だからと言ってあまり甘えすぎないように気をつけようと、心の中でひっそりと誓った。
隣国の皇太子を迎えるに当たり、準備しなければいけないことは多いらしい。アラン陛下と一緒に食事をとる時間もなくなった。さらに、ダミアーノは日中の仕事と私へのマナー指導に多忙を極め、どんどん顔色を悪くしている。
「大丈夫ですか?」
「えへへ、大丈夫です」
夜の図書室に来たダミアーノは、へろへろな顔で笑った。放っておけば、このまま過労死してしまいそうだ。
「お食事はもう食べられたんですか?」
「いえ、まだです」
「なら、少しだけ待っていてください」
私はダミアーノをソファに寝かせると、厨房に急いだ。
疲れている体にはこってりしたものは向かないだろうから、ほぐした鶏肉とシイタケを入れて、雑炊のようなおじやのようなものを作った。その合間に冷やしておいたゼリーもお盆に乗せる。
急いで図書室に戻ると、ダミアーノは起き上がった。
「これを食べて、今日は休んでください」
「あ、ありがとうございます」
ダミアーノは涙を流しながら、雑炊をかき込んでいた。
「そんなに喜んでもらえるなら、また作りましょうか?」
「いいんですか!?」
ダミアーノは輝くような笑顔を見せた。その時、視線を外した彼は、表情を曇らせ顔を青褪めさせた。振り向くと、アラン陛下が立っていた。
「いいものを食べているな」
「へ、陛下」
ダミアーノは狩られる前の子ネズミのように震えた。私は小動物は守らなければいけないという使命感で、怒る?アラン陛下に近寄った。
「陛下も食べられますか?」
「食べる」
アラン陛下は子供のように頷いた。彼もまた疲れているのかもしれない。私はアラン陛下の手を握り、厨房に向かった。
「材料は用意してたので、少しだけ椅子に座って待っててください」
「私に作ろうとしてたのか?」
「はい」
私は冷蔵庫に入れておいた切った材料とお米を鍋に入れた。本当はお米を先に炊いておいた方が良いのかもしれないが、そこまで時間はかけられない。体感的には、今は夜中の2時ぐらいだろうか。早く寝た方がいい時間だ。
鍋の火を弱火にして振り返ると、アラン陛下が頬杖をついてこちらをじっと見ていた。私はなんだか照れくさくなり、ドキドキしながら冷蔵庫の中に入れておいたゼリーを取り出した。
「先にゼリーを食べられますか?」
「うん」
アラン陛下はやっぱり眠そうで、いつもより幼い声で頷いた。スプーンを手にゼリーを食べると、懐かしそうに目を細めた。
「昔、私が熱を出したときに、お母さまが台所に立ってゼリーを作ってくれたんだ」
きっと貴族の女性が台所に立つなど、限りになくと言っていいほど、ないことだろう。それでも台所に立ったのは、きっと病気の息子を心から心配していたからだ。
「美味しかったですか?」
「それが」
アラン陛下はふっと儚げに笑った。
「鋼のように硬くて、食べられなかった」
「それは、残念でしたね」
私は鍋の火を止めて、斜め向かいの椅子に座った。
「お母さまの手には火傷の跡がついて、お父さまは心配されて仕事を放り出してオロオロしていたよ」
「お父さまはお母さまのことを、大切にされていたんですね」
「ああ」
和やかに話していたアラン陛下は、顔を曇らせた。
「それから弟が生まれて、お母さまは体の弱い弟につきっきりになった。だから……」
いつも凛と澄ましたアラン陛下の声が震えていた。
「いなくなってしまえと願ってしまったんだ」
きっとご両親だけでなく、弟もベアトリーチェの手によって亡くなっているのだろう。アラン陛下は声を上げず、静かに涙を流して守れなかったことを悔やんでいた。彼は家族を亡くしてから、きちんと泣いたのだろうか。すぐに国のトップとしての責務に追われたのなら、亡くなってから今日初めて泣いたのかもしれない。
もうすぐ私はこの城を出て行く。でも、今日だけは慰める役目を私にくださいと、誰に対してか分からない願いを心の中で呟いた。
私はアラン陛下を抱き締め、頭の上にキスを送った。
「アラン陛下のせいではありません」
「……」
「絶対に、あなたのせいではありません」
「……」
痛いぐらいに抱き締められても、私は腕の力を緩めなかった。
「今日はシーツを替えるのを手伝って」
「かしこまりました」
ダミアーノに言われ、使用人には敬語を使わないで話すように努めている。そうしてこの世界に身分差があることを体に染み込ませているのだ。
どんなに違和感を感じようと、この世界には身分差が存在しているのは変えようのない事実だ。たとえ小さな子でも、自分よりも身分が上なら敬語を使わなければいけない。そして、逆に相手が年上でも、身分が下ならタメ口で話さないといけなかった。
日本で生きていた私には反発したい気持ちもあるが、周囲と馴染むためにはこの身分差の考え方をきちんと身につけたほうがいいとダミアーノに厳しい顔で言われた。今は陛下の客人として、それなりの身分が保証されている。だからある程度のことは大目に見てもらえる。でも、これから城を出て平民として生きていくときに身分について軽く考えていると、命に関わることに巻き込まれる危険性もあった。
もし身分差をなくしたいと言うなら、革命を起こす覚悟で行動を起こさないといけない。いつかなくしたいと思うが、さすがに今の私にはそこまで手を出している余裕はなかった。残念ながら、今を生きるだけで精一杯なのだ。
「あの、ミレーナ」
「はい。何でしょうか?」
私はミレーナと一緒にベッドメイキングをしながら、気になっていたことを尋ねた。
「ミレーナは私の顔を見て、腹が立ったり傷ついたりしなかった?」
他の使用人はこの顔を見て驚いたり恐怖に青ざめたりしていたのだが、ミレーナは最初から澄ました表情をしていた。
ミレーナはシーツの皺を伸ばしながら、柔らかく笑った。
「そうですね。最初は戸惑いましたし、……少しだけ怒りも感じました」
「そうなの?全然そうは見えなかったけど」
「表情に出さないようにすることには慣れてますから」
さすが、長くメイドとして働いているだけある。
「ですが、毒で苦しまれている姿が、娘によく似ていて」
ミレーナはほんの少し、顔を曇らせた。
「娘さん?」
「ええ。数年前に流行り病で亡くなりました」
「……そう」
ミレーナははっきりとは言わなかったが、娘さんが亡くなったのはベアトリーチェが引き起こした流行り病なのかもしれない。
彼女が犯した罪を知るたびに、なぜベアトリーチェはそんなことをしたのか疑問が頭に浮かんだ。ただ、それを身内を亡くしたミレーナに問う勇気はなかった。
「すみません、こんな暗い話をしてしまって」
「ううん、そんなことない。話してくれて、ありがとう」
ミレーナは涙が滲んだ目を細めると、優しく微笑んだ。
「信じられないかもしれませんが、穏やかに過ごせるよう精一杯務めさせて頂きます」
「……ありがとう」
ミレーナの優しさに、思わず涙が出そうになって慌てて指で拭いた。殺されかけたことは忘れられないが、こうやって人の優しさに触れれば、この世界に転生できたことも案外悪くなかったのではないかと思えた。
その日の午後。ダミアーノが忙しかったので、自主勉強の合間にセルジュに護衛を頼んでアラン陛下と来たことがある庭を散策した。
「セルジュはどの花が好き?」
黄色の花の香りを楽しみながら、セルジュに尋ねた。
「違いがよく分かりません」
根気よく話し続けたお陰か、端的にだが返事を返してくれるようになった。相変わらず表情は、眉ひとつ動かないが。
「じゃあ、好きな食べ物は?」
「……肉です」
私はマンガ肉をかじるセルジュを思い浮かべた。よく合っている。
「そのまま焼いたのが好き?それとも、煮込んだ物が好き?」
セルジュは顎に手を当てて考えた。
「どちらも好きです」
「じゃあ、」
次の質問をしようとしたとき、セルジュが足を止めた。
「この会話にはどんな意味があるんでしょう?」
「あ」
セルジュは困惑していた。矢継ぎ早に質問されたのだから、当たり前の反応だろう。私はやり過ぎてしまったと、心の中で反省した。
「ごめんなさい。楽しくて、つい」
「楽しいですか?」
セルジュはさらに困惑した声を上げた。眉間にも皺が寄っており、私が言ったことが理解できない様子だった。
「ええ。きちんと返答してくれるし、セルジュのことを知れるのが楽しかったの」
「……」
「でも、不躾にたくさん質問してごめんなさい。鬱陶しかったでしょ」
私はそっと息を吐いて落ち込んだ。自分を守ってくれる存在が嬉しくて、いきなり距離を詰めすぎてしまった。
「いえ、楽しんでおられるのなら質問していただいて構いません」
セルジュは無表情の顔に戻り、そう答えた。
「ありがとう」
セルジュは無表情で何を考えているのか分かりにくいが、優しい人だと思う。だからと言ってあまり甘えすぎないように気をつけようと、心の中でひっそりと誓った。
隣国の皇太子を迎えるに当たり、準備しなければいけないことは多いらしい。アラン陛下と一緒に食事をとる時間もなくなった。さらに、ダミアーノは日中の仕事と私へのマナー指導に多忙を極め、どんどん顔色を悪くしている。
「大丈夫ですか?」
「えへへ、大丈夫です」
夜の図書室に来たダミアーノは、へろへろな顔で笑った。放っておけば、このまま過労死してしまいそうだ。
「お食事はもう食べられたんですか?」
「いえ、まだです」
「なら、少しだけ待っていてください」
私はダミアーノをソファに寝かせると、厨房に急いだ。
疲れている体にはこってりしたものは向かないだろうから、ほぐした鶏肉とシイタケを入れて、雑炊のようなおじやのようなものを作った。その合間に冷やしておいたゼリーもお盆に乗せる。
急いで図書室に戻ると、ダミアーノは起き上がった。
「これを食べて、今日は休んでください」
「あ、ありがとうございます」
ダミアーノは涙を流しながら、雑炊をかき込んでいた。
「そんなに喜んでもらえるなら、また作りましょうか?」
「いいんですか!?」
ダミアーノは輝くような笑顔を見せた。その時、視線を外した彼は、表情を曇らせ顔を青褪めさせた。振り向くと、アラン陛下が立っていた。
「いいものを食べているな」
「へ、陛下」
ダミアーノは狩られる前の子ネズミのように震えた。私は小動物は守らなければいけないという使命感で、怒る?アラン陛下に近寄った。
「陛下も食べられますか?」
「食べる」
アラン陛下は子供のように頷いた。彼もまた疲れているのかもしれない。私はアラン陛下の手を握り、厨房に向かった。
「材料は用意してたので、少しだけ椅子に座って待っててください」
「私に作ろうとしてたのか?」
「はい」
私は冷蔵庫に入れておいた切った材料とお米を鍋に入れた。本当はお米を先に炊いておいた方が良いのかもしれないが、そこまで時間はかけられない。体感的には、今は夜中の2時ぐらいだろうか。早く寝た方がいい時間だ。
鍋の火を弱火にして振り返ると、アラン陛下が頬杖をついてこちらをじっと見ていた。私はなんだか照れくさくなり、ドキドキしながら冷蔵庫の中に入れておいたゼリーを取り出した。
「先にゼリーを食べられますか?」
「うん」
アラン陛下はやっぱり眠そうで、いつもより幼い声で頷いた。スプーンを手にゼリーを食べると、懐かしそうに目を細めた。
「昔、私が熱を出したときに、お母さまが台所に立ってゼリーを作ってくれたんだ」
きっと貴族の女性が台所に立つなど、限りになくと言っていいほど、ないことだろう。それでも台所に立ったのは、きっと病気の息子を心から心配していたからだ。
「美味しかったですか?」
「それが」
アラン陛下はふっと儚げに笑った。
「鋼のように硬くて、食べられなかった」
「それは、残念でしたね」
私は鍋の火を止めて、斜め向かいの椅子に座った。
「お母さまの手には火傷の跡がついて、お父さまは心配されて仕事を放り出してオロオロしていたよ」
「お父さまはお母さまのことを、大切にされていたんですね」
「ああ」
和やかに話していたアラン陛下は、顔を曇らせた。
「それから弟が生まれて、お母さまは体の弱い弟につきっきりになった。だから……」
いつも凛と澄ましたアラン陛下の声が震えていた。
「いなくなってしまえと願ってしまったんだ」
きっとご両親だけでなく、弟もベアトリーチェの手によって亡くなっているのだろう。アラン陛下は声を上げず、静かに涙を流して守れなかったことを悔やんでいた。彼は家族を亡くしてから、きちんと泣いたのだろうか。すぐに国のトップとしての責務に追われたのなら、亡くなってから今日初めて泣いたのかもしれない。
もうすぐ私はこの城を出て行く。でも、今日だけは慰める役目を私にくださいと、誰に対してか分からない願いを心の中で呟いた。
私はアラン陛下を抱き締め、頭の上にキスを送った。
「アラン陛下のせいではありません」
「……」
「絶対に、あなたのせいではありません」
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痛いぐらいに抱き締められても、私は腕の力を緩めなかった。
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