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10.アクマ
しおりを挟む家のトイレに突然現れた悪魔ハラコワース。公園で見た時は5メートルぐらいの巨人だったのに、今は180センチぐらいにまで縮んでいる。
『疑問に思うかもしれませんが、悪魔の大きさはある程度自在なのですよ』
俺の思考を読んだのか、ハラコワースはそう説明した。確かに、あの公園の時も俺が差し出したポケットティッシュが急激に大きくなった。あれも、その大きさ自在の力なのだろうか。
『魔界に帰る前に、少年から受けた恩を返しておこうと思いましてね、お家のトイレにお邪魔させてもらった次第です』
相変わらず物腰柔らかだが、今朝牧口さんにした所業(やらせたの舩橋だけどさ)を考えると、油断ならない気がするが……。
「あ、はあ、どうも……」
つい、そう応じてしまった。今日は自分をやたらと嫌いになる日だ。
『お宅は、いいトイレですね。私もしがいがあるというものです』
失礼、と言いつつ尻から破裂音をさせた。失礼って断っとけば、何してもいいってわけじゃないんだぞ、と思ったが言えなかった。
『しかし、トイレットペーパーがシングルなのはいただけない』
ハラコワースは肩をすくめる。
『ダブルにするようご母堂に提案なさい。柔らかいトイレットペーパーは人生を豊かにしますから』
「は、はあ……」
ハラコワースは若干腹が痛そうではあったが、機嫌よくしゃべり続ける。
『そうそう、トイレットペーパーでもう一つ思い出しました。少年、あなたはポケットティッシュをくれましたが、あれは水に溶けないので人間界の便器に流してはダメですよ。私が座っている魔界の便器は特注なので、人間界のティッシュぐらいなら溶かしてしまいますが……』
『おい!』
その話の途中で新たな声がかかる。
ハラコワースの背後から赤い大きな頭がひょっこりと出てくると、その長い腕の先の鋭い爪を便器に座る悪魔に突きつける。
『話が長いぞ、ハラコワース。早く本題に入るのだ』
と、トマトマト!? こいつもまだ人間界にいたのか、と俺は驚いて後ずさった。
『そうは言いますがね、トマトマト。これは大事な話なのです。もし、少年が勘違いをしていたら、私のように1000の便器を詰まらせてしまうかもしれませんし……』
『便器を1000も詰まらせるのはお前ぐらいのものだ。そんな話はいい。あの人間も困っているじゃないか』
ほら、とトマトマトがこちらに爪を向けてくるので、俺は「ひっ」となってもう数歩後ずさる。一回トマト取られてるし、怖い。
『わかりましたよ、トマトマト。では少年、ここからが本題なので、もそっと近くに……』
招かれるまま、俺はおずおずと前に進み出る。
『あなたへのお礼は色々と考えたのですが、このトマトマトとも話し合いまして、ちょっとした情報にしようという結論になりました』
「じょ、情報……?」
一体何の情報だろう? まさか、あの盗撮動画の撮影者を教えてくれるとか? あんまり嬉しくないなあ、それは。
『不満かもしれんが、それが一番だ。人間欲をかくとロクなことにならんし、そもそもハラコワースが与えられるものなんて、多少便通が良くなるくらいのものだ』
『あなたこそ、トマトが美味しく食べられるようになる、ぐらいしかないじゃないですか』
確かにそうだが、とトマトマトは長い腕を組んだ。
『まあそういうわけだ。天使と違って、悪魔は人の役に立つようなことをするのは苦手でな』
『ですので、あなたが知っておくべきことを教えておきます』
「な、何ですか……?」
ヤ〇ルトの菌が腸内でどんな働きをしているか、とかだろうか。
身構える俺に、一つ咳払いをしてからハラコワースは言った。
『私の封印を解いた少女がいるでしょう』
『私を召喚した少女でもある』
トマトマトがそれに続く。そうやって限定してくれなくとも、舩橋だってことは分かるが。
『彼女は今宵、三度目の悪魔召喚をしようとしています』
『そして、召喚した悪魔の力を借りようとしている』
『ですがそれは危険です』
『何故なら、人間が悪魔の力を無償で借りられるのは』
『生涯で二度までと決まっているのです』
『故に三度目の悪魔召喚を行い』
『力を借りてしまえば』
『死にます』『命を落とす』
最後は、二体の悪魔の声が重なって俺の上から圧し掛かってきた。
「え……? 死ぬ……? 舩橋が……?」
思った以上にそれは重たくて、俺はよたよたと足元がおぼつかない。
『死にます。三度目の力の代償として』
『この国では言うのだろう、「人を呪わば穴二つ」と』
『自分の墓穴を掘る時が来てしまったのです』
俺は地面ともつかない暗い中にへたり込んでしまった。
何てことだ。
ちょっと前まで、俺はあいつに情なんて抱いてなかった。
クラスでのつながりはこれまでなかったし、死んだって何とも思わないはずだった。
究極的にどうでもいい人間で、舩橋がどうなろうと俺は嫌な思いをしないと思っていたのだ。
それなのに今、舩橋が死ぬ、と聞かされてこんなに衝撃を受けるとは……。
あいつだって人を、肉体的にも精神的にも殺してきた。その報いと言えば報いなのだろう。
そう納得できるはずなのに、俺は飲み込めなかった。
だって、舩橋も肉体的にも精神的にも痛めつけられて、死んでしまう寸前だったのだから。
『これが、あなたに与える情報です。これで借りはチャラということで』
「あ、あの……」
何でしょう、とハラコワースは首をひねる。
「どうしたら、舩橋を死なせずに済みますか……?」
ハラコワースは後ろのトマトマトと顔を見合わせる。見合わせて、大きな声で笑いだした。
「え、な……?」
これは、アレか。愚かな人間の問いかけを嘲笑しているのか。
ひとしきり笑いあった後、トマトマトがこちらを向いた。
『逆に、汝に問う!』
そのトマトに彫ったジャック・オー・ランタンみたいな顔に影が差したようだ。不気味な面相でトマトマトは俺に爪を突きつけた。
『悪魔を召喚したら死んじゃう女の子を助ける方法ってなーんだ?』
え、なぞなぞ的なヤツ!? 場違いな明るいテンションに、俺は困惑する。
『謎をかけるのが好きなくせに、問題を作るのが相変わらず下手クソですねえ……』
『やかましい。人前で下からクソを垂れ続ける者に言われる筋合いはない』
トマトマトはもっともな反論で一蹴して、俺にまた向き直る。
『ヒント! 問題文の中に答えがあります!』
なぞなぞというよりは、国語の問題みたいだ。問題文の中に答えは必ずある、とか解き方のヒントを出されたけど、それを探すのが面倒なんだよな。
でも、今回は短いし、舩橋の命もかかってるんだ。俺は真剣に考えた。
まあ、考えるまでもなく一個しかないよな、これ……。
「悪魔を、召喚させない?」
『正解!』
俺に向けていた爪を天に振り上げ、高らかにトマトマトは宣告した。
『そういうことです。彼女を死なせたくなければ、行って止めてやりなさい。私も、封印を解いてくれた子が死ぬのは、少しばかりお腹が痛いですから』
『トマトと新聞紙の違いも分からぬ愚かな人間だが、天使ではなく我ら悪魔に頼ろうという歪んだところは、私も気に入っている』
だったら止めてくれればいいのに、と思うが、悪魔と人間の間の契約を別の悪魔が妨害するのは魔界で禁止されているらしい。
『彼女は私を呼んだ場所で、また悪魔を召喚するつもりだ』
トマトマトが言ってるということは、体育館か。場所まで教えてくれるとは。
『場所まで言っておかないと、完全な情報とは言えませんからね』
『それに、お前のトマトは私が奪ってしまったからな。適当に走り回っても会えんだろうし』
「え? トマト……?」
そうだ、とトマトマトはうなずく。
『私の好物のトマトとは、「人間が人生において偶然劇的なイベントに遭遇できる神の恩寵」を果実にしたものなのだ』
俺は元々、そういうイベントには大して遭遇しない人生だったらしい。半ば緑に変色していたことからも分かるんだとか。
ただ、トマトを食われた今の人生では、この先起きる劇的なイベントは「0」だそうだ。
『例えば、お前が大学で小学校時代に仲の良かった女子と偶然再会し、そのまま交際を経て結婚するはずだったが、そのイベントはなくなった』
「そ、そんな……!」
誰だ小学校時代に仲の良かった女子……。そんなのあまり思い浮かばないが、浮かばないのもトマトを食べられたせいなのかもしれない。
「かなり重要なものなんですね、トマトって……」
『そりゃそうだろう。重要なものを契約の対価に頂くのが悪魔だ』
『ちなみに私は封印を解いてもらった恩返しでやったので、何ももらってませんよ』
逆に、ハラコワースのような恩返しの場合は何かをもらってはいけないらしい。だから、俺への紙の借りを早く返したかったようだ。
『だがな、人間よ。トマトを取られて遭遇しなくなるのは、偶然のイベントだけだ』
自分で何か劇的なものを成し遂げることは、まだできる。トマトマトはそううなずいた。
『行動しなさい。門を叩けば必ず開かれる、とは悪魔の我々からは言えませんが』
『むしろ、魚を求めて蛇を与えられるやもしれないが』
『そうだとしても』
『何をやらないよりはマシだ』
俺は拳を握った。ぽろぽろとトイペの球が転げ落ちたが、構わない。あの時の俺ではもうないのだ。今の俺は、知ってしまった俺だ。
舩橋の事情を知ってしまった後のように、知ることでまた変わるのだ。
『決意は固まったようですね、少年』
『では、我々は行く』
『頑張ってくださいね、トイレットペーパーはダブルを使うのですよ』
『トマトを食べて、血液をサラサラにするのだぞ』
二体の悪魔の姿は闇に溶けるように消えて行く。
気が付くと、俺は自分の家の狭いトイレの中に立っていた。足元には、丸めたトイレットペーパーが転がっている。
それを拾い集めて、俺は便器に流した。
渦を巻いて下水へ流れる水を覗き込みながら、俺は固めた拳をさらに強く握る。
何としてでも、舩橋を生かす。
「でもなあ……」
そのために、何をしたらいいのだろう……?
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