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第一章 神に選ばれしもの
選定の儀④
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まるで本物の矢に射抜かれたように、春彦はそのまま地面に倒れ込んだ。
桃子は春彦が苦痛にあえぐ様を見て、我に返り慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫!? 春彦く――」
「嘘、ですよ……痛みを感じないだなんて……ものすごく、痛いじゃないですか……――ああ、頭まで割れそうだ……」
春彦が胸元に受けた矢は、みるみるうちに、彼の中に溶けていくように消えた。
それでも、春彦はまだ起き上がれそうにない。矢の刺さった胸元ではなく、今は頭のほうが痛むようで、両手で頭部を抱え込んでうずくまっていた。
桃子はただ彼の背や肩を撫でさすっては、おろおろすることしかできなかった。周囲の生徒たちはあっけにとられるばかりで、誰一人として手を差し伸べてくれもしない。桃子は絶望のあまり泣きたくなった。
「ど、どうしよう、保健室……いえ、救急車を――」
「だ、大丈夫です……大丈夫ですから」
やがて、春彦の息が整い起き上がれるまでになったのを見て、桃子は心から安堵した。
しかし、そうなると今度は、起きた事の重大さを今一度振り返らなければならない。現状を測りかねているのは、何も桃子一人だけではない。方々から春彦へ差し向けられた視線は、気の毒なほどに険しく懐疑的だった。
「誰だよ、あれ」
「知らない。見たこともないやつだ」
「昨日転校してきたばかりの、峰外から来たよそ者だって」
「嘘だろ、どうしてそんなやつが――」
学園じゅうがざわめく中で、その混乱を一蹴する声が、スピーカーを通して校庭に響き渡っていた。
「矢を受けた者は、ここへ」
大巫女が、この場で初めて発した言葉だった。ひどくしわがれた声だが、その迫力には微塵も衰えがない。老婆はすでに目隠しをはずしており、神降ろしの技も解いていた。
大巫女の言葉のままに春彦が歩もうとするのを、桃子は慌てて引き止めた。
「春彦くん、もう平気なの?」
「……はい。いろいろと、お手間をおかけして申し訳ありませんでした、桃子さん。もう大丈夫です。――何もかも、すべて思い出しましたから」
そう言った春彦の眼差しは、先ほどまでとは別人のように大人びていた。
一瞬面食らって何も聞き返せずにいると、春彦は何のつもりか、かけていた黒縁眼鏡を外し、それを桃子に手渡していた。
「預かっておいていただけませんか。今は、どうやら必要ないもののようです。すぐに、あなたの元へと戻ります」
桃子は返事もできずに立ち尽くし、去っていく彼を見送るだけだった。
眼鏡をかけずとも、春彦の足取りは確かなもののように見えた。ためらうことなくまっすぐ高台へと突き進む彼の前から、周囲の生徒たちが蜘蛛の子を散らすようにさあっと引いていく。今の春彦の行く手を遮る者は誰もいなかった。
春彦の背が、人垣に遮られて見えなくなってしまった頃。桃子の背後で、息せき切った男子生徒の声が聞こえてきた。
「あの……っ、転校生のカバン、持ってきました」
「遅いぞ。ばれたらやばいんだから、早くしろ」
集団から外れ、木陰に隠れ潜むようにして寄り集まっている者たちがいた。昨日の放課後、春彦に因縁をつけていた男子生徒たちだ。
ごそごそと漁っているのは、春彦が教室に置いてきた学生カバンだった。執念深くも、儀式の合間に盗ってこさせたようだ。
リーダー格の男子生徒が吐き捨てるように言った。
「転校生が矢に射抜かれたのは、憑坐に選ばれたからじゃない。おそらくは、紛れ込んだ間者を公の場で見顕し排除するため、大巫女様が予告なく仕組まれたこと。そうでなければ、得体の知れないよそ者が選ばれるはずなどない。あいつは儀式をぶち壊すためによこされた回し者だ」
彼らは手分けして、カバンの中身を隅々まで探っていた。幸か不幸か、今日は例の龍笛は入っていないらしい。
桃子がとがめなければと思ったとき、一人が何かを見つけて声を上げた。
「これ……」
「何かしっぽを掴めそうなものが出てきたか」
「いや――」
一通の封筒に入っていた白い紙きれを、全員が食い入るように見ていた。
「〝編入試験結果、成績開示通知〟――――全教科…………満点……?」
「ほら見ろ。これが間者である何よりの証だ。不正でもない限り、こんな点数取れるわけが――」
彼らが卑怯なやり口で春彦の鼻を明かそうとしているあいだにも、当人はもう、高台の中央に進み出ていた。
今まであそこに上がった者は、大祭にふさわしい雅な装いの者たちばかりで、ただの学生服の春彦がそこに立つのは、ずいぶんと違和感があった。しかし、誰もが彼から一時も目を離せずにいる。それは桃子も同じだった。
つい先ほどまで、隣でのんきにあくびをしていた少年は、今ではもう遠く隔たってしまった。
大巫女が春彦に問う。
「そなたの名は」
しばしのあいだ、春彦は逡巡したように見えた。
しかし、彼は全校生徒の前で、はっきりと自らの名を口にした。
「春彦…………東宮春彦と申します」
校庭じゅうにどよめきが上がった。生徒だけでなく、大人までもが動転している。無理もなかった。
冷静に居住まいを正していられたのは、東雲神社関係者たちだけのように見えた。東雲神社の宮司以下、それに連なる者たちが、まったく異を唱える気配がないということが、春彦の身の正統さを証明していた。
この混乱に陥った状況を誰とも分かち合えない桃子は、しかしどういうわけか、さほど驚きもしていない自分自身にかえって驚いていた。春彦が――あの春彦が、みなが帰還を待ちわびていた東宮の君だったというのに。
何故その事実が伏せられていたかは不明だが、桃子には、今までの春彦の言動が嘘だったとは、どうしても思えなかった。
場はいまだ混迷を極めていたが、大巫女はそんなことなど意に介さず、あくまで次第通りに事を進める心づもりのようだった。
「東宮の君よ。憑坐となったそなたの最初の務めは、巫女姫を選定することにある。儀式の手順はわかるかえ?」
「はい」
少しも言い淀むことのない返答だった。
大巫女は無言で頷き、自身の介添えに、春彦に目隠しをするよう指示した。介添えの巫女が白布を巻きやすいように、春彦が高台の中央に座す。そして、準備が整うと、すっと立ち上がり、弓と御神矢を受け取った。
目隠しをされていても少しも手元を狂わせることなく、弓に矢をつがえ、天に向けて構えの姿勢を取る。小柄な普通の少年にしか見えないのに、なぜかお弓神事の西宮の雄姿と比べても、少しも遜色がなかった。
春彦がいるだけで、場の空気は一変していた。今あそこには、紛うことなき神がいる。この強い神気を前にして、春彦のことを間者だと疑う者は、今や一人もいなかった。
弓弦が引き絞られるのを見て、桃子はふと、春彦が力強く放った言葉を思い出していた。
『もし僕がその立場にあったら、絶対に、喜んであなたを選ぶのに』
急に全身が粟立つのを覚えた。何か恐ろしい予感がして、すぐにもこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。
春彦は目隠しをしているのに、その顔はまっすぐ天に向けられているというのに。暗く淀んだ視線が、桃子を執拗に絡めとろうとしていた。まるで獲物を見定めた蛇のように。
そう思い込んでしまっては、もうだめだった。鎌首をもたげた大蛇が、地を這いながらものすごい速さで迫りくる。桃子は恐怖のあまり、その場から逃げ出していた。
遠くで矢が放たれる音がしたが、とても儀式の行方を見守り続けることなどできない。走って、走って、ただひたすら遠くに逃げた。振り返ってはいけない。振り返れば間に合わなくなる。みじめにあえぎながら、息ができなくなる限界まで走り続けた。
桃子は春彦が苦痛にあえぐ様を見て、我に返り慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫!? 春彦く――」
「嘘、ですよ……痛みを感じないだなんて……ものすごく、痛いじゃないですか……――ああ、頭まで割れそうだ……」
春彦が胸元に受けた矢は、みるみるうちに、彼の中に溶けていくように消えた。
それでも、春彦はまだ起き上がれそうにない。矢の刺さった胸元ではなく、今は頭のほうが痛むようで、両手で頭部を抱え込んでうずくまっていた。
桃子はただ彼の背や肩を撫でさすっては、おろおろすることしかできなかった。周囲の生徒たちはあっけにとられるばかりで、誰一人として手を差し伸べてくれもしない。桃子は絶望のあまり泣きたくなった。
「ど、どうしよう、保健室……いえ、救急車を――」
「だ、大丈夫です……大丈夫ですから」
やがて、春彦の息が整い起き上がれるまでになったのを見て、桃子は心から安堵した。
しかし、そうなると今度は、起きた事の重大さを今一度振り返らなければならない。現状を測りかねているのは、何も桃子一人だけではない。方々から春彦へ差し向けられた視線は、気の毒なほどに険しく懐疑的だった。
「誰だよ、あれ」
「知らない。見たこともないやつだ」
「昨日転校してきたばかりの、峰外から来たよそ者だって」
「嘘だろ、どうしてそんなやつが――」
学園じゅうがざわめく中で、その混乱を一蹴する声が、スピーカーを通して校庭に響き渡っていた。
「矢を受けた者は、ここへ」
大巫女が、この場で初めて発した言葉だった。ひどくしわがれた声だが、その迫力には微塵も衰えがない。老婆はすでに目隠しをはずしており、神降ろしの技も解いていた。
大巫女の言葉のままに春彦が歩もうとするのを、桃子は慌てて引き止めた。
「春彦くん、もう平気なの?」
「……はい。いろいろと、お手間をおかけして申し訳ありませんでした、桃子さん。もう大丈夫です。――何もかも、すべて思い出しましたから」
そう言った春彦の眼差しは、先ほどまでとは別人のように大人びていた。
一瞬面食らって何も聞き返せずにいると、春彦は何のつもりか、かけていた黒縁眼鏡を外し、それを桃子に手渡していた。
「預かっておいていただけませんか。今は、どうやら必要ないもののようです。すぐに、あなたの元へと戻ります」
桃子は返事もできずに立ち尽くし、去っていく彼を見送るだけだった。
眼鏡をかけずとも、春彦の足取りは確かなもののように見えた。ためらうことなくまっすぐ高台へと突き進む彼の前から、周囲の生徒たちが蜘蛛の子を散らすようにさあっと引いていく。今の春彦の行く手を遮る者は誰もいなかった。
春彦の背が、人垣に遮られて見えなくなってしまった頃。桃子の背後で、息せき切った男子生徒の声が聞こえてきた。
「あの……っ、転校生のカバン、持ってきました」
「遅いぞ。ばれたらやばいんだから、早くしろ」
集団から外れ、木陰に隠れ潜むようにして寄り集まっている者たちがいた。昨日の放課後、春彦に因縁をつけていた男子生徒たちだ。
ごそごそと漁っているのは、春彦が教室に置いてきた学生カバンだった。執念深くも、儀式の合間に盗ってこさせたようだ。
リーダー格の男子生徒が吐き捨てるように言った。
「転校生が矢に射抜かれたのは、憑坐に選ばれたからじゃない。おそらくは、紛れ込んだ間者を公の場で見顕し排除するため、大巫女様が予告なく仕組まれたこと。そうでなければ、得体の知れないよそ者が選ばれるはずなどない。あいつは儀式をぶち壊すためによこされた回し者だ」
彼らは手分けして、カバンの中身を隅々まで探っていた。幸か不幸か、今日は例の龍笛は入っていないらしい。
桃子がとがめなければと思ったとき、一人が何かを見つけて声を上げた。
「これ……」
「何かしっぽを掴めそうなものが出てきたか」
「いや――」
一通の封筒に入っていた白い紙きれを、全員が食い入るように見ていた。
「〝編入試験結果、成績開示通知〟――――全教科…………満点……?」
「ほら見ろ。これが間者である何よりの証だ。不正でもない限り、こんな点数取れるわけが――」
彼らが卑怯なやり口で春彦の鼻を明かそうとしているあいだにも、当人はもう、高台の中央に進み出ていた。
今まであそこに上がった者は、大祭にふさわしい雅な装いの者たちばかりで、ただの学生服の春彦がそこに立つのは、ずいぶんと違和感があった。しかし、誰もが彼から一時も目を離せずにいる。それは桃子も同じだった。
つい先ほどまで、隣でのんきにあくびをしていた少年は、今ではもう遠く隔たってしまった。
大巫女が春彦に問う。
「そなたの名は」
しばしのあいだ、春彦は逡巡したように見えた。
しかし、彼は全校生徒の前で、はっきりと自らの名を口にした。
「春彦…………東宮春彦と申します」
校庭じゅうにどよめきが上がった。生徒だけでなく、大人までもが動転している。無理もなかった。
冷静に居住まいを正していられたのは、東雲神社関係者たちだけのように見えた。東雲神社の宮司以下、それに連なる者たちが、まったく異を唱える気配がないということが、春彦の身の正統さを証明していた。
この混乱に陥った状況を誰とも分かち合えない桃子は、しかしどういうわけか、さほど驚きもしていない自分自身にかえって驚いていた。春彦が――あの春彦が、みなが帰還を待ちわびていた東宮の君だったというのに。
何故その事実が伏せられていたかは不明だが、桃子には、今までの春彦の言動が嘘だったとは、どうしても思えなかった。
場はいまだ混迷を極めていたが、大巫女はそんなことなど意に介さず、あくまで次第通りに事を進める心づもりのようだった。
「東宮の君よ。憑坐となったそなたの最初の務めは、巫女姫を選定することにある。儀式の手順はわかるかえ?」
「はい」
少しも言い淀むことのない返答だった。
大巫女は無言で頷き、自身の介添えに、春彦に目隠しをするよう指示した。介添えの巫女が白布を巻きやすいように、春彦が高台の中央に座す。そして、準備が整うと、すっと立ち上がり、弓と御神矢を受け取った。
目隠しをされていても少しも手元を狂わせることなく、弓に矢をつがえ、天に向けて構えの姿勢を取る。小柄な普通の少年にしか見えないのに、なぜかお弓神事の西宮の雄姿と比べても、少しも遜色がなかった。
春彦がいるだけで、場の空気は一変していた。今あそこには、紛うことなき神がいる。この強い神気を前にして、春彦のことを間者だと疑う者は、今や一人もいなかった。
弓弦が引き絞られるのを見て、桃子はふと、春彦が力強く放った言葉を思い出していた。
『もし僕がその立場にあったら、絶対に、喜んであなたを選ぶのに』
急に全身が粟立つのを覚えた。何か恐ろしい予感がして、すぐにもこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。
春彦は目隠しをしているのに、その顔はまっすぐ天に向けられているというのに。暗く淀んだ視線が、桃子を執拗に絡めとろうとしていた。まるで獲物を見定めた蛇のように。
そう思い込んでしまっては、もうだめだった。鎌首をもたげた大蛇が、地を這いながらものすごい速さで迫りくる。桃子は恐怖のあまり、その場から逃げ出していた。
遠くで矢が放たれる音がしたが、とても儀式の行方を見守り続けることなどできない。走って、走って、ただひたすら遠くに逃げた。振り返ってはいけない。振り返れば間に合わなくなる。みじめにあえぎながら、息ができなくなる限界まで走り続けた。
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