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第一章 神に選ばれしもの
似ている二人
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桃子に名を呼ばれると、春彦は横笛からそっと唇を離して、残念そうにつぶやいた。
「もう、やめちゃうんですか。あなたの舞をもっと見ていたかったのに」
「どうして、春彦くんがここに…………まさか――」
桃子は瞬時に青ざめた。
(まさか、私が呼びよせてしまった……?)
桃子は何も、春彦にここに来てほしかったわけではない。元の世界に、そして春彦のそばに、自分自身が帰りたかっただけなのだ。自分の舞が未熟なばかりに、このような事態を引き起こしてしまったのかと焦った。
「ごめんなさい……私のせいで、春彦くんまでこんなところに……」
「大丈夫ですよ、ここに来たのは僕の意思ですから。言ったでしょう。『すぐにあなたの元へと戻ります』って」
春彦は穏やかに続けた。
「すぐ、という約束は違えてしまいましたけど。……すみません。矢を射かけたとき、あなたに逃げられたことが少しショックで、桃子さんのほうから僕に会いたいと思ってもらえるようになるまで、ここには来れなかったんです」
桃子がこの場所に飛ばされたことも、何もかも、春彦はすべて見通していたような口ぶりだった。
「どういうこと?」
「桃子さんがここに来てしまったのは、あなたの言霊に強く感化された僕自身のせいなんです。謝るべきは僕のほう。……まさか、こんなにも寂しく静かな場所だとは思いもしませんでした。やっぱり拒絶されようがどうしようが、一刻も早くお迎えに上がるべきでした。こんなところにお一人で、さぞ心細かったでしょう」
「ま、待って。言霊って……?」
「桃子さん、言ってたじゃないですか。儀式後の直会には参加したくないと。もとより、僕自身もあなたのそばにいたかった。二人の願いを叶えた結果がこれだったんです。憑坐には、そうできる力があるということです」
憑坐と聞いて、桃子は一気に現実世界に思考を引き戻されていた。
「やっぱり、憑坐に選ばれたのは、春彦くんなのね……」
「はい、及ばずながら」
わかってはいたが、いまだに信じられない思いだった。こうして春彦の変貌ぶりを目の当たりにしても、彼が東宮の令息だったと知った今でも、桃子の中では、まだ彼は気弱な転校生――山田春彦のままなのだ。
「……そういえば、巫女姫――巫女姫には、誰が選ばれたの? 忍ちゃん? それとも千歳ちゃんが――」
桃子が問うと、春彦は少し難しい顔をして告げた。
「あのあと、御神矢は消えてしまったんです」
「消えた……?」
「はい。当然あの場は大混乱で、大人たちは、口々に儀式のやり直しを要求しました。選定は失敗に終わったのだと。だから結局、直会もなしになったんですよ。それどころではなくなってしまいましたから。でも――」
春彦は一呼吸置く。
「一部の者たち――特に中条家や四方家と関わりが深い人たちには、誰が巫女姫に選ばれたかなんて、周知の事実なんです。わからないと言っている人たちのほうが不思議なくらいで。あんなにも、はっきりとした兆候が表れたというのに」
桃子が目を瞬かせたのを見て、春彦は向き直って言った。
「矢が消えたのは、どうしてだと思いますか」
「どうして、って――」
「それは、あなたが消えてしまったからなんですよ」
桃子はもう二、三度、同じように瞬いた。
春彦は、そんな鈍い反応に合わせてくることはなかった。
「おそらく桃子さんは、僕が矢を放ってすぐか、それよりも少し前に、もうこちら側に入りかけていたんだと思います。こちら側に来た人間は、あちらの世界の人たち――特に神力の弱い人たちには、すぐに感知されなくなるんです。あちら側では今、あなたが消えたことも、あなたの存在すら、人々の意識にのぼることはなくなっているでしょう。ですが、それに気づかない人間ばかりではありません。ある程度の能力が備わっていれば、境界を超えた者のこともはっきりと覚えていられる。つまり、あなたが消えたということに、気づける者は気づいているということです。そして、それが何を意味するのかも」
「ま、待って、そんなことって……」
春彦の言葉を受け止めるには、桃子にはもう少し時間が必要だった。
その戸惑いは春彦にも伝わったようで、彼はやや同情的に桃子を見やってから、丁寧に補足の説明をしてくれた。
「憑坐も巫女姫も、絶対に矢が当たらなければならない決まりなんてないんですよ。誰が選定されたかさえ知ることができれば、本来はそれで十分なんです。桃子さんは、矢に射られて痛がる僕を間近で見ていましたし、怖くなって逃げ出すのは当然です。……それとも。逃げたのは、別の理由からでしたか?」
春彦は、そう言って目を伏せた。
「やはり、相手が僕なんかではお嫌ですよね。特に、あなたには情けないところばかり見せてしまいましたし……」
春彦はどうやら、桃子が憂いているのは自分のせいだと思い込んでいるようだった。桃子はすぐさま、自分ばかりにかまけていた浅慮をあらため、首を横に振った。
「それは違うわ、決して春彦くんが嫌で逃げたんじゃない。信じてもらえないかもしれないけど、あのとき私は、大きな蛇に追いかけられていたの。もう少しで食べられそうになって、必死で逃げて、気づいたらここに来ていたのよ」
桃子は自分のことながら、とんでもなく下手な言い訳にしか聞こえないと焦った。
しかし、春彦は、桃子の言葉を思いのほか素直に聞き入れてくれたようだった。
「大きな蛇、ですか。もしかしたらそれは、荒神の大蛇の部分を垣間見たということなのかもしれませんね」
「大蛇の部分……? 八頭ではなく、頭は一つしかなかったけど……」
「僕にもわかりませんが、本体は別のところにいて、一つだけ現世に近い浅い界層に首を突っ込んでいたということもあるのかもしれません。桃子さんは巫女姫に選ばれたことで、きっと界結びの力を覚醒させたのでしょう。だから、違う層に潜んでいた大蛇の気配にまで感応してしまった。僕は、あなたを比較的浅い層に送ったつもりでしたが、そこに桃子さん自身の力が加わったことで、さらに深い断層まで入り込んでしまったんでしょう。層は深ければ深いほど、そこに入った者を探し出すのも連れ帰るのも難しくなる。
――あなたのその懐にある、眼鏡。その眼鏡を渡していて本当に良かった。それが懸け橋となって、僕は桃子さんの舞を感知して、笛で応えてここまで追ってこられたんです」
「それは……良かったわ。そうだ、眼鏡」
桃子は返しそびれていた眼鏡を懐から慎重に取り出し、春彦に託していた。そこで、はたと気がつく。
「どうして、私がここに眼鏡をしまっているってわかったの?」
「憑坐に選ばれたことで、どうやらとても目が良くなったみたいなんですよ。いろいろなものが見えすぎて、むしろ困るくらいで。やはり、これが神の目ということなんでしょうか」
「神の目――」
桃子はほどなくして、ふと一つの考えに行きつく。
「それってもしかして、服の下でも見える、ということ……?」
「まあ見ようと思えば…………って、あ、いえ! だからって、決して変な目で見ていたわけでは……っ」
「や、やっぱり見えてるの? 嘘でしょ……」
桃子は思わず春彦に背を向けて、体を抱えるようにしゃがみ込んでいた。それを見た春彦が、ひどく狼狽する。
「ご、誤解です。僕は、桃子さんが心配しているようなことは何も……。そ、そうだ、お望みなら、あなたの前では目隠しをしますから」
「目隠しって……。そんなのしたところで、結局意味なんてないんじゃ……」
「……そう、ですね、おっしゃるとおりです……」
春彦は、背を向けたままの桃子に、「ですが」と必死に食い下がった。
「信じて下さい。決して、あなたの知らないところであなたを辱めるような真似だけはしません。これだけは、誓って言えます」
桃子は首だけで振り返り、ちらりと春彦を見やった。誰が見てもわかるほどに、切実な目をしている。
それなりに時間は要したが、桃子はようやく立ち上がり、ゆるゆると春彦のほうに向き直った。
「……わかった、信じるわ」
「あ、ありがとうございます……っ」
ほとんど泣きそうになっている春彦を見て、少々大袈裟にも感じた。だがそれは、それほどまでに彼が自分の信頼を取り戻したかったということでもあり、その点で悪い気はしないのだった。
彼とは昨日会ったばかりだが、嘘を言う人間ではないということだけは不思議とわかっていた。
桃子は春彦に謝罪した。
「私のほうこそ疑ってごめんなさい。考えてみたら、私なんかを見ても春彦くんが得られるものなんて特にないのに」
すると春彦は心底驚いた顔で、桃子に掴みかかる勢いでまくし立てた。
「な、何を言うんです。桃子さんは十分すぎるくらい綺麗で可愛くて魅力的ですよ。『私なんか』だなんて、どうしてそんなに自分を卑下するんですか。もっと自信を持ってください」
あまりの剣幕に、桃子は気圧されるままこくりと頷いていた。
「あ、ありがとう……?」
言われた言葉は、後から遅効性の薬のようにじわじわと効いてくるようで、桃子は今になって恥ずかしくなってきた。異性に真剣な顔で、綺麗だの可愛いだのと言われた経験は一度もなく、まったく免疫がなかった。
ふと春彦を見やると、彼は彼で桃子以上に赤面している。所在なくうつむく様は、まるで転校当初のときのようでもあり、桃子は心なしかほっとした。
憑坐に選ばれたことで人が変わったように見えたが、彼は彼なのだ。
思わず笑みがこぼれた。
「なんだか、私たちって似てるね」
「そうですか……?」
「だって、さっきは春彦くんが『僕なんか』って言ってたよ」
「そう、ですね。たしかに言われてみれば……」
東宮の子息として生まれた春彦が、なぜ「僕なんか」と卑屈な発言をするようになったのかはわからない。しかし、桃子自身も、南条の子女であっても自分に自信などまったく持てないでいるのだ。春彦にも、何かそうなる理由があったのかもしれない。
自然と、二人して通じ合ったように笑みをこぼす。気持ちが少し楽になったところで、ようやく前を向けそうだった。考えることは山積みだが、まず目先の問題を片付ける必要があった。
「どうやったら元いたところに帰れるのか、春彦くんはわかる?」
「ああ、それなら心配にはおよびません。ここへ来る途中に、こちらの層と現世とを繋ぐ術を施してきたんです。ただ、その道ができあがるまでには、少々時間がかかるかと。何しろここは結構な深層で、感覚としては、天上に向かって少しずつトンネルを掘り進めていくようなものなので」
「そ、そんなに深いところなの……。でもすでに動いてくれていたんだね、ありがとう。憑坐って、本当に何でもできてしまうのね」
「そうでもないですよ。たしかに神の力を授かりはしますが、そこに伴う不自由さまでついて回りますから。なんとなく得た感触としては、両極端な力の使い方しかできないようです。生かすか、殺すか。破壊か、再生か。その中間の概念というものが、神には存在しえないもののようで。ですから、力を使うときは慎重に事を運ぶ必要があって――」
だんだんと桃子の顔が不安に染まっていくのを見て、春彦は慌ててつけ加えた。
「ご、ご心配なく。桃子さんのことだけは、何があっても必ず守りますから。なんだか物騒な話ですみません。対となる相手のこんな恐ろしげな話を聞かされたら、怖いし嫌ですよね」
「う、ううん、そんなことは……」
「いえ、怖いと思っていただいているほうが、かえって僕にとってもいいことなのかもしれません。あなたの目を見たときに、それがきっと僕の歯止めになると思うから」
何やら意味深なことを言って、それから春彦は、気を取り直したようににこりと笑ってみせた。
「そうだ。帰路が出来上がるまでのあいだ、ここで少しお話ししていきませんか。二人だけの直会のつもりで。僕たちはまだ出会ったばかりで、お互いのことを知らなさすぎる。……もっとも、僕は桃子さんに助けていただいたときから、僕にとってあなたがどれほど重要な人になるかは、すぐにわかりましたけどね」
「もう、やめちゃうんですか。あなたの舞をもっと見ていたかったのに」
「どうして、春彦くんがここに…………まさか――」
桃子は瞬時に青ざめた。
(まさか、私が呼びよせてしまった……?)
桃子は何も、春彦にここに来てほしかったわけではない。元の世界に、そして春彦のそばに、自分自身が帰りたかっただけなのだ。自分の舞が未熟なばかりに、このような事態を引き起こしてしまったのかと焦った。
「ごめんなさい……私のせいで、春彦くんまでこんなところに……」
「大丈夫ですよ、ここに来たのは僕の意思ですから。言ったでしょう。『すぐにあなたの元へと戻ります』って」
春彦は穏やかに続けた。
「すぐ、という約束は違えてしまいましたけど。……すみません。矢を射かけたとき、あなたに逃げられたことが少しショックで、桃子さんのほうから僕に会いたいと思ってもらえるようになるまで、ここには来れなかったんです」
桃子がこの場所に飛ばされたことも、何もかも、春彦はすべて見通していたような口ぶりだった。
「どういうこと?」
「桃子さんがここに来てしまったのは、あなたの言霊に強く感化された僕自身のせいなんです。謝るべきは僕のほう。……まさか、こんなにも寂しく静かな場所だとは思いもしませんでした。やっぱり拒絶されようがどうしようが、一刻も早くお迎えに上がるべきでした。こんなところにお一人で、さぞ心細かったでしょう」
「ま、待って。言霊って……?」
「桃子さん、言ってたじゃないですか。儀式後の直会には参加したくないと。もとより、僕自身もあなたのそばにいたかった。二人の願いを叶えた結果がこれだったんです。憑坐には、そうできる力があるということです」
憑坐と聞いて、桃子は一気に現実世界に思考を引き戻されていた。
「やっぱり、憑坐に選ばれたのは、春彦くんなのね……」
「はい、及ばずながら」
わかってはいたが、いまだに信じられない思いだった。こうして春彦の変貌ぶりを目の当たりにしても、彼が東宮の令息だったと知った今でも、桃子の中では、まだ彼は気弱な転校生――山田春彦のままなのだ。
「……そういえば、巫女姫――巫女姫には、誰が選ばれたの? 忍ちゃん? それとも千歳ちゃんが――」
桃子が問うと、春彦は少し難しい顔をして告げた。
「あのあと、御神矢は消えてしまったんです」
「消えた……?」
「はい。当然あの場は大混乱で、大人たちは、口々に儀式のやり直しを要求しました。選定は失敗に終わったのだと。だから結局、直会もなしになったんですよ。それどころではなくなってしまいましたから。でも――」
春彦は一呼吸置く。
「一部の者たち――特に中条家や四方家と関わりが深い人たちには、誰が巫女姫に選ばれたかなんて、周知の事実なんです。わからないと言っている人たちのほうが不思議なくらいで。あんなにも、はっきりとした兆候が表れたというのに」
桃子が目を瞬かせたのを見て、春彦は向き直って言った。
「矢が消えたのは、どうしてだと思いますか」
「どうして、って――」
「それは、あなたが消えてしまったからなんですよ」
桃子はもう二、三度、同じように瞬いた。
春彦は、そんな鈍い反応に合わせてくることはなかった。
「おそらく桃子さんは、僕が矢を放ってすぐか、それよりも少し前に、もうこちら側に入りかけていたんだと思います。こちら側に来た人間は、あちらの世界の人たち――特に神力の弱い人たちには、すぐに感知されなくなるんです。あちら側では今、あなたが消えたことも、あなたの存在すら、人々の意識にのぼることはなくなっているでしょう。ですが、それに気づかない人間ばかりではありません。ある程度の能力が備わっていれば、境界を超えた者のこともはっきりと覚えていられる。つまり、あなたが消えたということに、気づける者は気づいているということです。そして、それが何を意味するのかも」
「ま、待って、そんなことって……」
春彦の言葉を受け止めるには、桃子にはもう少し時間が必要だった。
その戸惑いは春彦にも伝わったようで、彼はやや同情的に桃子を見やってから、丁寧に補足の説明をしてくれた。
「憑坐も巫女姫も、絶対に矢が当たらなければならない決まりなんてないんですよ。誰が選定されたかさえ知ることができれば、本来はそれで十分なんです。桃子さんは、矢に射られて痛がる僕を間近で見ていましたし、怖くなって逃げ出すのは当然です。……それとも。逃げたのは、別の理由からでしたか?」
春彦は、そう言って目を伏せた。
「やはり、相手が僕なんかではお嫌ですよね。特に、あなたには情けないところばかり見せてしまいましたし……」
春彦はどうやら、桃子が憂いているのは自分のせいだと思い込んでいるようだった。桃子はすぐさま、自分ばかりにかまけていた浅慮をあらため、首を横に振った。
「それは違うわ、決して春彦くんが嫌で逃げたんじゃない。信じてもらえないかもしれないけど、あのとき私は、大きな蛇に追いかけられていたの。もう少しで食べられそうになって、必死で逃げて、気づいたらここに来ていたのよ」
桃子は自分のことながら、とんでもなく下手な言い訳にしか聞こえないと焦った。
しかし、春彦は、桃子の言葉を思いのほか素直に聞き入れてくれたようだった。
「大きな蛇、ですか。もしかしたらそれは、荒神の大蛇の部分を垣間見たということなのかもしれませんね」
「大蛇の部分……? 八頭ではなく、頭は一つしかなかったけど……」
「僕にもわかりませんが、本体は別のところにいて、一つだけ現世に近い浅い界層に首を突っ込んでいたということもあるのかもしれません。桃子さんは巫女姫に選ばれたことで、きっと界結びの力を覚醒させたのでしょう。だから、違う層に潜んでいた大蛇の気配にまで感応してしまった。僕は、あなたを比較的浅い層に送ったつもりでしたが、そこに桃子さん自身の力が加わったことで、さらに深い断層まで入り込んでしまったんでしょう。層は深ければ深いほど、そこに入った者を探し出すのも連れ帰るのも難しくなる。
――あなたのその懐にある、眼鏡。その眼鏡を渡していて本当に良かった。それが懸け橋となって、僕は桃子さんの舞を感知して、笛で応えてここまで追ってこられたんです」
「それは……良かったわ。そうだ、眼鏡」
桃子は返しそびれていた眼鏡を懐から慎重に取り出し、春彦に託していた。そこで、はたと気がつく。
「どうして、私がここに眼鏡をしまっているってわかったの?」
「憑坐に選ばれたことで、どうやらとても目が良くなったみたいなんですよ。いろいろなものが見えすぎて、むしろ困るくらいで。やはり、これが神の目ということなんでしょうか」
「神の目――」
桃子はほどなくして、ふと一つの考えに行きつく。
「それってもしかして、服の下でも見える、ということ……?」
「まあ見ようと思えば…………って、あ、いえ! だからって、決して変な目で見ていたわけでは……っ」
「や、やっぱり見えてるの? 嘘でしょ……」
桃子は思わず春彦に背を向けて、体を抱えるようにしゃがみ込んでいた。それを見た春彦が、ひどく狼狽する。
「ご、誤解です。僕は、桃子さんが心配しているようなことは何も……。そ、そうだ、お望みなら、あなたの前では目隠しをしますから」
「目隠しって……。そんなのしたところで、結局意味なんてないんじゃ……」
「……そう、ですね、おっしゃるとおりです……」
春彦は、背を向けたままの桃子に、「ですが」と必死に食い下がった。
「信じて下さい。決して、あなたの知らないところであなたを辱めるような真似だけはしません。これだけは、誓って言えます」
桃子は首だけで振り返り、ちらりと春彦を見やった。誰が見てもわかるほどに、切実な目をしている。
それなりに時間は要したが、桃子はようやく立ち上がり、ゆるゆると春彦のほうに向き直った。
「……わかった、信じるわ」
「あ、ありがとうございます……っ」
ほとんど泣きそうになっている春彦を見て、少々大袈裟にも感じた。だがそれは、それほどまでに彼が自分の信頼を取り戻したかったということでもあり、その点で悪い気はしないのだった。
彼とは昨日会ったばかりだが、嘘を言う人間ではないということだけは不思議とわかっていた。
桃子は春彦に謝罪した。
「私のほうこそ疑ってごめんなさい。考えてみたら、私なんかを見ても春彦くんが得られるものなんて特にないのに」
すると春彦は心底驚いた顔で、桃子に掴みかかる勢いでまくし立てた。
「な、何を言うんです。桃子さんは十分すぎるくらい綺麗で可愛くて魅力的ですよ。『私なんか』だなんて、どうしてそんなに自分を卑下するんですか。もっと自信を持ってください」
あまりの剣幕に、桃子は気圧されるままこくりと頷いていた。
「あ、ありがとう……?」
言われた言葉は、後から遅効性の薬のようにじわじわと効いてくるようで、桃子は今になって恥ずかしくなってきた。異性に真剣な顔で、綺麗だの可愛いだのと言われた経験は一度もなく、まったく免疫がなかった。
ふと春彦を見やると、彼は彼で桃子以上に赤面している。所在なくうつむく様は、まるで転校当初のときのようでもあり、桃子は心なしかほっとした。
憑坐に選ばれたことで人が変わったように見えたが、彼は彼なのだ。
思わず笑みがこぼれた。
「なんだか、私たちって似てるね」
「そうですか……?」
「だって、さっきは春彦くんが『僕なんか』って言ってたよ」
「そう、ですね。たしかに言われてみれば……」
東宮の子息として生まれた春彦が、なぜ「僕なんか」と卑屈な発言をするようになったのかはわからない。しかし、桃子自身も、南条の子女であっても自分に自信などまったく持てないでいるのだ。春彦にも、何かそうなる理由があったのかもしれない。
自然と、二人して通じ合ったように笑みをこぼす。気持ちが少し楽になったところで、ようやく前を向けそうだった。考えることは山積みだが、まず目先の問題を片付ける必要があった。
「どうやったら元いたところに帰れるのか、春彦くんはわかる?」
「ああ、それなら心配にはおよびません。ここへ来る途中に、こちらの層と現世とを繋ぐ術を施してきたんです。ただ、その道ができあがるまでには、少々時間がかかるかと。何しろここは結構な深層で、感覚としては、天上に向かって少しずつトンネルを掘り進めていくようなものなので」
「そ、そんなに深いところなの……。でもすでに動いてくれていたんだね、ありがとう。憑坐って、本当に何でもできてしまうのね」
「そうでもないですよ。たしかに神の力を授かりはしますが、そこに伴う不自由さまでついて回りますから。なんとなく得た感触としては、両極端な力の使い方しかできないようです。生かすか、殺すか。破壊か、再生か。その中間の概念というものが、神には存在しえないもののようで。ですから、力を使うときは慎重に事を運ぶ必要があって――」
だんだんと桃子の顔が不安に染まっていくのを見て、春彦は慌ててつけ加えた。
「ご、ご心配なく。桃子さんのことだけは、何があっても必ず守りますから。なんだか物騒な話ですみません。対となる相手のこんな恐ろしげな話を聞かされたら、怖いし嫌ですよね」
「う、ううん、そんなことは……」
「いえ、怖いと思っていただいているほうが、かえって僕にとってもいいことなのかもしれません。あなたの目を見たときに、それがきっと僕の歯止めになると思うから」
何やら意味深なことを言って、それから春彦は、気を取り直したようににこりと笑ってみせた。
「そうだ。帰路が出来上がるまでのあいだ、ここで少しお話ししていきませんか。二人だけの直会のつもりで。僕たちはまだ出会ったばかりで、お互いのことを知らなさすぎる。……もっとも、僕は桃子さんに助けていただいたときから、僕にとってあなたがどれほど重要な人になるかは、すぐにわかりましたけどね」
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