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第三章 蔑むべきもの
断ち切れぬさだめ
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詳しいことは、忍の両親である昌宏と喜佐子から聞くようにと言われていた。
北条の邸宅に着くと、昌宏と喜佐子はすでに出発の用意を進めており、桃子と忍への説明も手短に、乗車するよう促した。
雪江は南根神社での奉務中に倒れ、今はかかりつけの医師による訪問診療を受けているとのことだった。命に別状があるような病態ではないとの知らせが、走行中に昌宏の端末機器に入り、桃子は心からほっとしていた。
それでも雪江はかなり憔悴しきっているようで、今まで相当無理を押してきたことが伺える、と医師は告げたらしい。
たしかに、桃子の父が南条家を出ていってから、雪江には大きな負担が圧し掛かっていた。
とはいえ、桃子の叔父の誠一やその他親族たちも、神社運営にかなり尽力してくれていたはずで、すべてを雪江が背負わされているわけでもなかった。
母はいったい、何にそこまで無理を利かせる必要があったのか。桃子にわかるはずもなかった。
車中で気を揉む桃子の手を、忍は優しく握ってくれた。
彼は「南条家に桃子を一人で行かせるわけにはいかない」と、真っ先に同行を申し出た。不安に押しつぶされそうになっていた桃子には、これほど心強いことはなかった。
また、忍の両親にもあらためて深く感謝され、今後北条家は桃子や南条家のために、あらゆる助力を惜しまないとまで言ってくれた。
無事に南根神社まで送り届けてもらい、桃子と忍の二人は雪江のもとへと急いだ。
南条宅の一階の和室で静かに臥せっている雪江を見て、桃子はたまらず駆け寄った。
「お母様……っ」
すぐさま、そばについていた医師と家政婦に、患者の安静を保つようにと制されてしまった。雪江はずっとうなされていたようで、今ようやく眠りについたばかりなのだという。
いつも冷たい母だったが、こうして衰弱しきった様を見ると、やはり泣けてくるものだった。もしも母がいなくなってしまったら間違いなく悲しい。
雪江の冷えた細い手を握りしめて、桃子は涙した。
結びの力を酷使しすぎたのでは、というのが医師の見立てだった。
南条は代々、産巣日町全体を、結界で守護してきた。似たように、北条も幻術で町の秘密を守っている。
そして、東宮や西宮もまた、有事の際には町民を庇護するために、それぞれの神力を行使する。
昔から四方家には、各々の家に課せられた役割があった。
雪江も若いころからその務めを果たしている。そのように、南条家の女には重要な使命があるため、代々入り婿が宮司を務めることになっていた。
雪江が神力の使いすぎで体を壊したということは、普段以上に強い結界を張らなければならないほどの脅威が、この町に迫っていたということなのか。
ひとまず雪江の代わりとして、南条の親類縁者たちが、協力して結界を保っているという。しかし、それもあくまでその場しのぎの対策でしかない。雪江ほどの強力な神力の使い手は、早々現れるものではないらしい。
もし、このまま雪江の体調が回復しなければ、町の結界を張る役割は、早くも桃子が引き継がなければならなくなるおそれもある。まだ不安定とはいえ、結びの力を覚醒させたのだから、十分その資格はあるのだ。
もしも桃子が無理なら、町を出ていった千歳すらも、強制的に呼び戻されてしまうかもしれない。
峰外に出るのが夢だったと告げた千歳を思い返して、桃子は胸を痛めた。そんなことにならぬよう自分がなんとかしなければ、と。
忍が桃子の肩に手を置く。
彼は桃子が何に苦慮しているのか、すべてを見透かしていた。
「一人で抱え込むな。いざとなれば、町の守護結界を張ることは憑坐にもできる。荒神が降臨している今の時世なら、それも十分可能なんだ」
「忍ちゃん……」
忍の気遣いに、桃子は泣きそうになっていた。
とはいえ――。
本来、四方家の役目を憑坐が肩代わりするなど、あまり現実的ではなかった。
南条が一時的にでもその役目から離れてしまうことで、後の世代に技を伝えることが難しくなるなどの問題もあるが、一番には、憑坐には向かない役目であるところが大きいのだ。
そもそも、人間のために神の力を使いすぎることは、あまり褒められたものではない。
本来、神とは人間の都合を超越した存在であり、その在り方を人のために捻じ曲げてはならないのだ。その戒めを破るとどうなるかは、誰にもわからなかった。
結局、この件については取り越し苦労となることを願いつつ、保留とするしかなかった。
医師は、雪江の病状と、安静や服薬の指示などを告げて帰っていった。
桃子はしばらく母の看病をしていたが、下腹部にかすかな鈍痛を覚えて、いったん家政婦と交代して手洗いに向かった。
下着を脱ぐと、思ったとおり血液が付着していた。しかも、まだ出血は持続している。身体症状としては限りなく月経に近い感覚だったが、つい一週間前に訪れて、それこそ終わったばかりという時期だった。
このところ、予期せぬ出来事が立て続けに起こり、かなりの身体的・精神的負荷がかかっていたのは間違いない。それが原因で、周期が崩れているのか。
そもそもこの出血は、本当に月経なのか、それとも何か別の疾患によるものか……。まるでわからなかった。
雪江の臥す和室に戻り、家政婦と看病を交代する。
そして、手伝っていた忍と二人になったことを見計らって、出血が持続していることを伝えた。
忍は桃子の体を心配して、後日にでも産婦人科に一緒に行こうと言った。
忍がさらにあれこれとしつこく追求してくるので、なし崩しに、西宮のときにも同じ現象が起きたことを吐かされてしまった。
忍は少し考え込んでいた。
市販の妊娠検査薬よりも、早期に妊娠判定ができる採血(通常の妊娠では普通は行われない検査らしい)で、いち早く結果を知れるのだと彼は教えてくれた。
もちろん妊娠の有無にかかわらず、月経が不規則であったり不正出血がある場合にも、受診するべきだと彼は強く提言した。
桃子は返答を渋ったが、忍は頑として病院についていくと言い張り、根負けして承諾させられていた。
忍が責任を感じるのはもっともであり、彼の気持ちを汲んだ面もある。が、受診に付き添うと言ってくれたことは素直に嬉しかった。
雪江の額がうっすらと汗ばんでいるのに気づき、桃子がタオルで拭いかけた。
そのとき、何の前触れもなく、雪江は突然むくりと起き上がった。
肝を抜かれている桃子と忍には目もくれず、彼女は迷いのない足取りでずんずんと歩を進め、部屋に隣接する外廊下に出ると、庭先に向かって大声を張り上げた。
「出ておいき、汚らわしい……っ」
木にとまっていた数羽のカラスが、驚いて飛び去っていった。
雪江が柱にもたれ、そのままずるずるとへたりこむ。桃子と忍は慌てて彼女の元へと駆け寄った。
神経質な雪江は、とかく境内に動物が入ってくるのを嫌った。神社で動物に遭遇することは縁起が良いとも言われるが、時折拝殿の神饌を荒されることもあるため、神社側としては、実害が出るのは単純に好ましくない。
しかし、雪江の動物嫌いは昔から度を越しており、結界の力で動物を寄せ付けないようにするほどの徹底ぶりだった。
今回彼女が倒れたことによって結界が弱まり、カラスたちが入り込んだのだ。
「お母様……」
桃子が雪江の手を取る。内心、しまったと思った。母が目を覚ましたことに安堵し、思わず触れてしまったが、しっかり意識を取り戻した今となれば、自分の手などすぐに振り払われるに違いない。
しかし、雪江は桃子を拒まなかった。それどころか、娘の手を優しく握り返してすらいた。
「桃子さん、帰ってきてくれたのね。あなたはもう、うちには二度と戻ってこないかもしれないと思っていました」
「な、何を言うんです。私はいつだって、本当は帰れるものならばうちに……お母様のもとに帰りたいと、ずっと思って……」
桃子は感極まって、母の細い手をさらに強く握りしめていた。それでも雪江は桃子の手を振り払ったりなどせずに、優しい眼差しで桃子を見つめ返した。
「私はあなたに辛く当たってばかりで、少しも良い母親ではなかったけれど、いつだってあなたを心配していたことだけは本当なのよ。あなたが私のもとからいなくなって、あらためて、かけがえのない大切な一人娘だということに気づいたわ。桃子さん、今まで本当にごめんなさい。これからは少しでも良い母親になれるよう努力するから、どうか私のそばにいてちょうだい」
「は、はい。もちろんです、お母様」
まさか、こんなことを言われるとは思っておらず、桃子は感激のあまり涙を拭った。
そばで二人を見ていた忍は複雑な表情を浮かべたが、あまりに桃子が嬉しがっているので、その場で水を差すことはしなかった。
雪江はひと息吐いてから、忍に目をやる。
「あなたは北条さんのところの忍さんね。――あ、いえ、今は『忍くん』と呼ぶべきかしら」
雪江は特に驚いた様子もなく、「北条さんからお話は伺っています」とだけ付け加えた。
忍は一瞬眉をぴくりと動かしたが、それでも過分に狼狽することなく、いつもの冷静さを保っていた。
「どちらでも構いません。それよりも、ご自宅にぶしつけにお邪魔した上、ご挨拶が遅くなってしまい申し訳ありません。それから何より――私が不甲斐ないばかりに、昨夜桃子さんをとてつもなく危険な目に遭わせてしまいました。本来なら、私は南条の方々にはとても顔向けできるような身ではありませんが……。そのことを承知の上で、あえて貴家に赴かせていただきました。桃子さんをお守りするために」
忍の強い言葉を聞いて、雪江は静かに頷いた。
「あなたが私に謝る必要などないでしょう。巫女姫とは、御神の荒魂を鎮めるためにあるもの。この子がそのお役目を果たしたことで町の平穏が保たれたのだから、私は本当に良かったと思っています。桃子さん、あなただってそうでしょう?」
「あ……は、はい。もちろんです」
唐突に話を振られて、桃子は反射的に生返事をしていた。嘘の返しをしたわけではなかったが、第三者の雪江からそう言われるのは、少しだけ釈然としないものがあった。
雪江は忍にこうも告げた。
「それにしても驚いたわ。わが南条と同じく代々巫女姫の家系であったはずの北条から、まさか憑坐が排出されるだなんて。こう言ってはなんだけれど、きっとこの町の誰も予想できなかったことでしょうね。占が当てにならなくなったとはいえ、よもやここまで読めないというのも恐ろしいわ。――いえ、忍くんが憑坐に選ばれたことが凶事と言っているのではないのよ。気を悪くさせてしまったのなら、ごめんなさいね」
「いえ、それは私自身も、身をもって実感したことですので。……これはあくまで両親の見解ですが。北条は前回も、また前々回も、巫女姫を排出しております。それは言い換えれば、それだけ荒神の血も色濃く一族に受け継がれているということ。神の血が一代入るだけでも多大な影響がありますから、原因があるとすればそこではないか、と」
「……つまりそれは、もはや北条は巫女姫の家系として機能していないかもしれない、ということかしら」
「その可能性は十分に考えられます。今、巫女姫の血筋を一番確かなものとして受け継いでいる家は、南条をおいてほかにはないかと」
忍がそう言うと、雪江はやや考え込むように目を伏せた。
桃子も西宮家で栄香に教わって知ったことだが、憑坐と巫女姫とのあいだに生まれた子どもは、いずれは父か母かのどちらかの家に入らなければならないのだという。
神の血を受け継ぐ子ともなると、どの家であってもこぞって欲しがるため、いさかいが起きぬよう、憑坐と巫女姫とのあいだには、最低でも二人以上子どもをもうけることが望ましいとされているようだった。
少し前までは、そんな話を聞かされるだけでめまいがしたが、さすがにここまでくると桃子にもそれなりの耐性はついていた。
それはあくまでそういうものだと理解するだけで、受容することと同義ではなかったが、自分も渦中にいる以上いつまでも素知らぬ顔はできないと悟った。
そうなると、桃子には雪江に話さなければならないことがあった。もう、巫女姫の家系として残された家が南条だけであるなら、それこそなおさら。
「お母様、私……」
しどろもどろになりながら、現在、月経様の出血が持続していることを母に告げた。
「大巫女様に言われたんです。私の中に迷いがあるから、荒神様はまことの癒しが得られないのだと。だから、癒しを得る方法を求めて、憑坐の体を次々と変えているのかもしれない、とも。まことの癒しというのは、つまり私が――巫女姫が、憑坐とのあいだに子を成すことで得られるものなのでしょう?
だったら、私はちゃんと妊娠しなければならないのに。でなければ、荒神様の怒りを買って、この町に災厄をもたらしてしまうかもしれない」
桃子の震える肩を、忍が何も言わずに支えた。
さめざめと泣く娘を見て、雪江はひどく優しい声音で告げた。
「桃子さん、あなたは何も悪くないわ。あなた一人が責任を感じることはない。すべては私が……あなたに何の説明もしてこなかった私がいけなかったのだから。巫女姫に選ばれるのはとても名誉なことだけれど、過酷な現実が待っているのも事実。私はあなたに、そんな重いさだめを背負わせたくなくて、あえて巫女修行もさせなかったし、巫女姫の役目や心得なども、一切話すことをやめたの。
巫女姫などに選ばれることなく、普通の女の子として生きるほうが、あなたにとっては幸せなのではないかと。……でも、私の考えが甘かったわ。あなたが負ったさだめは、私の下手な小細工などで断ち切れるものではなかった。あなたは……」
次第に熱くなっていく雪江を、戻ってきた家政婦が慌てて制していた。
病人を興奮させるものではないと注意され、桃子たちは、それ以上雪江から話を聞くことはできなかった。
雪江は忍に、「気兼ねせずこの家にいてもらって構わない」と告げてから、再度眠りについた。
北条の邸宅に着くと、昌宏と喜佐子はすでに出発の用意を進めており、桃子と忍への説明も手短に、乗車するよう促した。
雪江は南根神社での奉務中に倒れ、今はかかりつけの医師による訪問診療を受けているとのことだった。命に別状があるような病態ではないとの知らせが、走行中に昌宏の端末機器に入り、桃子は心からほっとしていた。
それでも雪江はかなり憔悴しきっているようで、今まで相当無理を押してきたことが伺える、と医師は告げたらしい。
たしかに、桃子の父が南条家を出ていってから、雪江には大きな負担が圧し掛かっていた。
とはいえ、桃子の叔父の誠一やその他親族たちも、神社運営にかなり尽力してくれていたはずで、すべてを雪江が背負わされているわけでもなかった。
母はいったい、何にそこまで無理を利かせる必要があったのか。桃子にわかるはずもなかった。
車中で気を揉む桃子の手を、忍は優しく握ってくれた。
彼は「南条家に桃子を一人で行かせるわけにはいかない」と、真っ先に同行を申し出た。不安に押しつぶされそうになっていた桃子には、これほど心強いことはなかった。
また、忍の両親にもあらためて深く感謝され、今後北条家は桃子や南条家のために、あらゆる助力を惜しまないとまで言ってくれた。
無事に南根神社まで送り届けてもらい、桃子と忍の二人は雪江のもとへと急いだ。
南条宅の一階の和室で静かに臥せっている雪江を見て、桃子はたまらず駆け寄った。
「お母様……っ」
すぐさま、そばについていた医師と家政婦に、患者の安静を保つようにと制されてしまった。雪江はずっとうなされていたようで、今ようやく眠りについたばかりなのだという。
いつも冷たい母だったが、こうして衰弱しきった様を見ると、やはり泣けてくるものだった。もしも母がいなくなってしまったら間違いなく悲しい。
雪江の冷えた細い手を握りしめて、桃子は涙した。
結びの力を酷使しすぎたのでは、というのが医師の見立てだった。
南条は代々、産巣日町全体を、結界で守護してきた。似たように、北条も幻術で町の秘密を守っている。
そして、東宮や西宮もまた、有事の際には町民を庇護するために、それぞれの神力を行使する。
昔から四方家には、各々の家に課せられた役割があった。
雪江も若いころからその務めを果たしている。そのように、南条家の女には重要な使命があるため、代々入り婿が宮司を務めることになっていた。
雪江が神力の使いすぎで体を壊したということは、普段以上に強い結界を張らなければならないほどの脅威が、この町に迫っていたということなのか。
ひとまず雪江の代わりとして、南条の親類縁者たちが、協力して結界を保っているという。しかし、それもあくまでその場しのぎの対策でしかない。雪江ほどの強力な神力の使い手は、早々現れるものではないらしい。
もし、このまま雪江の体調が回復しなければ、町の結界を張る役割は、早くも桃子が引き継がなければならなくなるおそれもある。まだ不安定とはいえ、結びの力を覚醒させたのだから、十分その資格はあるのだ。
もしも桃子が無理なら、町を出ていった千歳すらも、強制的に呼び戻されてしまうかもしれない。
峰外に出るのが夢だったと告げた千歳を思い返して、桃子は胸を痛めた。そんなことにならぬよう自分がなんとかしなければ、と。
忍が桃子の肩に手を置く。
彼は桃子が何に苦慮しているのか、すべてを見透かしていた。
「一人で抱え込むな。いざとなれば、町の守護結界を張ることは憑坐にもできる。荒神が降臨している今の時世なら、それも十分可能なんだ」
「忍ちゃん……」
忍の気遣いに、桃子は泣きそうになっていた。
とはいえ――。
本来、四方家の役目を憑坐が肩代わりするなど、あまり現実的ではなかった。
南条が一時的にでもその役目から離れてしまうことで、後の世代に技を伝えることが難しくなるなどの問題もあるが、一番には、憑坐には向かない役目であるところが大きいのだ。
そもそも、人間のために神の力を使いすぎることは、あまり褒められたものではない。
本来、神とは人間の都合を超越した存在であり、その在り方を人のために捻じ曲げてはならないのだ。その戒めを破るとどうなるかは、誰にもわからなかった。
結局、この件については取り越し苦労となることを願いつつ、保留とするしかなかった。
医師は、雪江の病状と、安静や服薬の指示などを告げて帰っていった。
桃子はしばらく母の看病をしていたが、下腹部にかすかな鈍痛を覚えて、いったん家政婦と交代して手洗いに向かった。
下着を脱ぐと、思ったとおり血液が付着していた。しかも、まだ出血は持続している。身体症状としては限りなく月経に近い感覚だったが、つい一週間前に訪れて、それこそ終わったばかりという時期だった。
このところ、予期せぬ出来事が立て続けに起こり、かなりの身体的・精神的負荷がかかっていたのは間違いない。それが原因で、周期が崩れているのか。
そもそもこの出血は、本当に月経なのか、それとも何か別の疾患によるものか……。まるでわからなかった。
雪江の臥す和室に戻り、家政婦と看病を交代する。
そして、手伝っていた忍と二人になったことを見計らって、出血が持続していることを伝えた。
忍は桃子の体を心配して、後日にでも産婦人科に一緒に行こうと言った。
忍がさらにあれこれとしつこく追求してくるので、なし崩しに、西宮のときにも同じ現象が起きたことを吐かされてしまった。
忍は少し考え込んでいた。
市販の妊娠検査薬よりも、早期に妊娠判定ができる採血(通常の妊娠では普通は行われない検査らしい)で、いち早く結果を知れるのだと彼は教えてくれた。
もちろん妊娠の有無にかかわらず、月経が不規則であったり不正出血がある場合にも、受診するべきだと彼は強く提言した。
桃子は返答を渋ったが、忍は頑として病院についていくと言い張り、根負けして承諾させられていた。
忍が責任を感じるのはもっともであり、彼の気持ちを汲んだ面もある。が、受診に付き添うと言ってくれたことは素直に嬉しかった。
雪江の額がうっすらと汗ばんでいるのに気づき、桃子がタオルで拭いかけた。
そのとき、何の前触れもなく、雪江は突然むくりと起き上がった。
肝を抜かれている桃子と忍には目もくれず、彼女は迷いのない足取りでずんずんと歩を進め、部屋に隣接する外廊下に出ると、庭先に向かって大声を張り上げた。
「出ておいき、汚らわしい……っ」
木にとまっていた数羽のカラスが、驚いて飛び去っていった。
雪江が柱にもたれ、そのままずるずるとへたりこむ。桃子と忍は慌てて彼女の元へと駆け寄った。
神経質な雪江は、とかく境内に動物が入ってくるのを嫌った。神社で動物に遭遇することは縁起が良いとも言われるが、時折拝殿の神饌を荒されることもあるため、神社側としては、実害が出るのは単純に好ましくない。
しかし、雪江の動物嫌いは昔から度を越しており、結界の力で動物を寄せ付けないようにするほどの徹底ぶりだった。
今回彼女が倒れたことによって結界が弱まり、カラスたちが入り込んだのだ。
「お母様……」
桃子が雪江の手を取る。内心、しまったと思った。母が目を覚ましたことに安堵し、思わず触れてしまったが、しっかり意識を取り戻した今となれば、自分の手などすぐに振り払われるに違いない。
しかし、雪江は桃子を拒まなかった。それどころか、娘の手を優しく握り返してすらいた。
「桃子さん、帰ってきてくれたのね。あなたはもう、うちには二度と戻ってこないかもしれないと思っていました」
「な、何を言うんです。私はいつだって、本当は帰れるものならばうちに……お母様のもとに帰りたいと、ずっと思って……」
桃子は感極まって、母の細い手をさらに強く握りしめていた。それでも雪江は桃子の手を振り払ったりなどせずに、優しい眼差しで桃子を見つめ返した。
「私はあなたに辛く当たってばかりで、少しも良い母親ではなかったけれど、いつだってあなたを心配していたことだけは本当なのよ。あなたが私のもとからいなくなって、あらためて、かけがえのない大切な一人娘だということに気づいたわ。桃子さん、今まで本当にごめんなさい。これからは少しでも良い母親になれるよう努力するから、どうか私のそばにいてちょうだい」
「は、はい。もちろんです、お母様」
まさか、こんなことを言われるとは思っておらず、桃子は感激のあまり涙を拭った。
そばで二人を見ていた忍は複雑な表情を浮かべたが、あまりに桃子が嬉しがっているので、その場で水を差すことはしなかった。
雪江はひと息吐いてから、忍に目をやる。
「あなたは北条さんのところの忍さんね。――あ、いえ、今は『忍くん』と呼ぶべきかしら」
雪江は特に驚いた様子もなく、「北条さんからお話は伺っています」とだけ付け加えた。
忍は一瞬眉をぴくりと動かしたが、それでも過分に狼狽することなく、いつもの冷静さを保っていた。
「どちらでも構いません。それよりも、ご自宅にぶしつけにお邪魔した上、ご挨拶が遅くなってしまい申し訳ありません。それから何より――私が不甲斐ないばかりに、昨夜桃子さんをとてつもなく危険な目に遭わせてしまいました。本来なら、私は南条の方々にはとても顔向けできるような身ではありませんが……。そのことを承知の上で、あえて貴家に赴かせていただきました。桃子さんをお守りするために」
忍の強い言葉を聞いて、雪江は静かに頷いた。
「あなたが私に謝る必要などないでしょう。巫女姫とは、御神の荒魂を鎮めるためにあるもの。この子がそのお役目を果たしたことで町の平穏が保たれたのだから、私は本当に良かったと思っています。桃子さん、あなただってそうでしょう?」
「あ……は、はい。もちろんです」
唐突に話を振られて、桃子は反射的に生返事をしていた。嘘の返しをしたわけではなかったが、第三者の雪江からそう言われるのは、少しだけ釈然としないものがあった。
雪江は忍にこうも告げた。
「それにしても驚いたわ。わが南条と同じく代々巫女姫の家系であったはずの北条から、まさか憑坐が排出されるだなんて。こう言ってはなんだけれど、きっとこの町の誰も予想できなかったことでしょうね。占が当てにならなくなったとはいえ、よもやここまで読めないというのも恐ろしいわ。――いえ、忍くんが憑坐に選ばれたことが凶事と言っているのではないのよ。気を悪くさせてしまったのなら、ごめんなさいね」
「いえ、それは私自身も、身をもって実感したことですので。……これはあくまで両親の見解ですが。北条は前回も、また前々回も、巫女姫を排出しております。それは言い換えれば、それだけ荒神の血も色濃く一族に受け継がれているということ。神の血が一代入るだけでも多大な影響がありますから、原因があるとすればそこではないか、と」
「……つまりそれは、もはや北条は巫女姫の家系として機能していないかもしれない、ということかしら」
「その可能性は十分に考えられます。今、巫女姫の血筋を一番確かなものとして受け継いでいる家は、南条をおいてほかにはないかと」
忍がそう言うと、雪江はやや考え込むように目を伏せた。
桃子も西宮家で栄香に教わって知ったことだが、憑坐と巫女姫とのあいだに生まれた子どもは、いずれは父か母かのどちらかの家に入らなければならないのだという。
神の血を受け継ぐ子ともなると、どの家であってもこぞって欲しがるため、いさかいが起きぬよう、憑坐と巫女姫とのあいだには、最低でも二人以上子どもをもうけることが望ましいとされているようだった。
少し前までは、そんな話を聞かされるだけでめまいがしたが、さすがにここまでくると桃子にもそれなりの耐性はついていた。
それはあくまでそういうものだと理解するだけで、受容することと同義ではなかったが、自分も渦中にいる以上いつまでも素知らぬ顔はできないと悟った。
そうなると、桃子には雪江に話さなければならないことがあった。もう、巫女姫の家系として残された家が南条だけであるなら、それこそなおさら。
「お母様、私……」
しどろもどろになりながら、現在、月経様の出血が持続していることを母に告げた。
「大巫女様に言われたんです。私の中に迷いがあるから、荒神様はまことの癒しが得られないのだと。だから、癒しを得る方法を求めて、憑坐の体を次々と変えているのかもしれない、とも。まことの癒しというのは、つまり私が――巫女姫が、憑坐とのあいだに子を成すことで得られるものなのでしょう?
だったら、私はちゃんと妊娠しなければならないのに。でなければ、荒神様の怒りを買って、この町に災厄をもたらしてしまうかもしれない」
桃子の震える肩を、忍が何も言わずに支えた。
さめざめと泣く娘を見て、雪江はひどく優しい声音で告げた。
「桃子さん、あなたは何も悪くないわ。あなた一人が責任を感じることはない。すべては私が……あなたに何の説明もしてこなかった私がいけなかったのだから。巫女姫に選ばれるのはとても名誉なことだけれど、過酷な現実が待っているのも事実。私はあなたに、そんな重いさだめを背負わせたくなくて、あえて巫女修行もさせなかったし、巫女姫の役目や心得なども、一切話すことをやめたの。
巫女姫などに選ばれることなく、普通の女の子として生きるほうが、あなたにとっては幸せなのではないかと。……でも、私の考えが甘かったわ。あなたが負ったさだめは、私の下手な小細工などで断ち切れるものではなかった。あなたは……」
次第に熱くなっていく雪江を、戻ってきた家政婦が慌てて制していた。
病人を興奮させるものではないと注意され、桃子たちは、それ以上雪江から話を聞くことはできなかった。
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