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第三章 蔑むべきもの
母の愛
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時刻は昼近くになり、桃子と忍は、別室で家政婦が用意した昼食をとることになった。
静かに食事をしていた忍だが、やはり雪江との会話で気になることがあったらしく、箸を置いた。
「雪江さんに話してしまってよかったのか。出血が持続しているということを。あえて言わずに様子を見て、向こうの出方をうかがってもよかったんじゃないか」
雪江のことを信用しきれない忍は、さらにこうも言い連ねた。
「今は反省しているように見えても、一度はお前に避妊手術まで受けさせようとしてきた相手だぞ。そうやすやすと信じていいものか……」
忍にそう言われ、桃子は苦い表情を浮かべた。
実は、桃子自身もまったく同じことを思っていた。
「本当はね、私もお母様をすぐには信じないほうがいいのかもって、なんとなく感じてる。それでも、やっぱり本当のことを知ってもらいたかった。私なりにお母様を信じたかったの。たった一人の家族だから……。ごめんなさい、これで、もしも忍ちゃんに迷惑をかけることになったら――」
「そんなことにまで気を回さなくてもいい。お前の気持ちはよくわかる。それより、今後のことを話し合おう」
忍は、すでに自分の中で固めていたらしい考えを告げた。
「南条家には迷惑な話だろうが、私は今晩こちらに泊まらせてもらう。すでに準備もしてある」
桃子は驚いたが、忍はこれを当然のことだと言い張った。
「お前がしばらく雪江さんのそばを離れられないのだから、お前を守るにはこうするしかない。もしも断られたら、それはそれで、お前を北条家に連れ帰る口実ができるだけだ」
自活するので居座る以上の迷惑はかけない、と忍は主張したが、そういう問題ではなかった。
戸惑う桃子に、忍が釘を刺す。
「誓って言うが、よこしまな目的ではないからな。それだけは、わかってもらわなくては困る」
「も、もちろん。最初から疑ってないし、すごくありがたいよ。でもお母様にはなんて話せば……」
「そのままを伝えればいい。『あなたが信用できないから、娘さんのそばを離れるわけにはいかない』と。それなら、多少は相手へのけん制にもなる」
「そ、そんなこと言えないよ。あれだけ弱っているお母様に……」
「それもそうか。ではこうしよう」
話し合いの末、桃子が遅れた分の勉強を見てやるという名目で、忍は南条家に泊まることになった。
あれこれ悩んで出した口実の割には、あっさりと雪江の承諾を得られていた。
「憑坐が巫女姫のそばにいるのは、当たり前のことですから」
雪江は、意外にも寛容な姿勢を見せた。
忍の言う通り、母をすぐに信用するのは、やはり考えが甘いのだろう。
しかし、雪江は長年桃子に辛く当たりながらも、本質的にはいつも桃子を気にかけていた。それだけは、娘としての直感でわかっていた。
とかく、雪江は不器用な人間だった。
たとえば西宮の母・栄香のように、誰とでも打ち解けられるような社交性があるわけでもない。愛し合って一緒になったはずの夫ともすれ違い続け、結局は仲違いしてしまっている。
親子だからこそ、母の生真面目で神経質な気質はよく知っている。誰が母を厭っても、自分だけは愛し寄り添いたいと、いつも思っていた。
夜間、桃子と忍は、桃子の自室で床についていた。桃子のベッドに隣接するように布団を敷き、忍はそこで横になる。
忍は荒神の力で桃子を別の層に避難させることをしなかった。そもそもここは南条家で、結びの力に長けた者たちばかりなのだ。下手に層を移動しても無意味などころか、昨夜力を使い果たしてしまった桃子の体に、さらなる負荷をかけることにもなる。
憑坐といえども所詮は万能などではなく、結局は桃子のそばに張りついて守るしかないようだった。
それに、憑坐であることがかえって注目を集めてしまうため、以前よりも動きにくくなったと忍はぼやいた。
たしかに、誰も彼が憑坐になると思っていなかったときのほうが、よほど敵の虚をつくことはできただろう。攻めるよりも、守るほうが何倍も難しいのかもしれない。
ふと、桃子はベッドの中で違和感を覚えた。自分の部屋なのに、どこか知らない場所であるかのような、奇妙な感覚に襲われる。
気づいたときには手遅れだった。ものすごい速さで急降下していくのがわかる。溺れるようにもがいたが、強い力にどんどん引きずりこまれていった。
今までの経験から悟った。元いた現世よりも、ずっとずっと下層にまで落とされ続けている。
以前閉じ込められた南根神社と似た場所よりも、さらに深く暗い層だ。
桃子は何もない場所に降り立っていた。本当に、見渡す限り何もない。隣にいたはずの忍もいない。
周りにはかすかに赤黒い気が流れていたが、他に何かを見定めることはできない。今立っている足場までも、どうかすると消えてしまいそうだ。
「夜更けにごめんなさい。どうしても、桃子さんと二人になりたかったの」
どきりとして振り返る。
背後に雪江が立っていた。彼女の顔色は、昼間よりもずっと悪くなっていた。
桃子は慌てて母に駆け寄る。
「お母様が私をここに? いけません、そんなお体で。早く戻って休みましょう。お話なら、日中あらためて伺いますから……」
「今でないとだめなのよ。大丈夫、すぐに済むわ」
雪江の足元はおぼつかず、立っているのがやっとのようで、桃子は母を支えながら気が気ではなかった。
「ここはいったいどこなんです」
「憑坐が、決して追っては来られない場所よ。ここなら二人きりで話せる」
雪江は、すがるような目を桃子に向けた。
「ああ、桃子さん、やっと言える。あなたが妊娠していなくて本当によかった」
言葉の真意が読み取れず、桃子は少なからず戸惑った。
「それはまだわかりません。きちんと検査してからでないと……」
「いいえ、していないに決まってます。妊娠の兆しがあるなら、巫女姫本人はもちろん憑坐にもすぐわかるものなのです。神の子をその身に宿すのだから、その神気は否応なく内外に伝わるもの。両者とも一切何も感じ取れないということは、すなわち妊娠の不成立を意味しています」
桃子は雪江の気迫に、何か尋常でないものを感じた。やはり母はどこか様子がおかしい。
「お母様、お話はまた明日にしましょう。二人になれるよう、私からも忍ちゃんに頼んでみますから。とにかく今は無理なさらないほうが……」
「桃子さん、私にはもう時間がないの。この力も、いつまで持つかわからない。私では巫女姫として覚醒したあなたを、もう抑えることはできない」
「え……?」
桃子が目を瞬かせる。雪江は、今までで一番優しい表情をしていた。
「かわいい桃子……たった一人の私の娘。あなただけを苦しませたりはしない。あなたを殺したあとは、私もすぐに後を追うから」
雪江は、いたって正気の目をしていた。
「桃子さん、一緒に死んでちょうだい」
「お、おかあ、さま……?」
「二人で黄泉の国へ行きましょう。ここはそういう場所なのです。あと一つ界層を越えれば、もうそこは黄泉の国。最後に隔てた一層が厚い壁になっているから、そこを越えるのは少々骨が折れそうだけれど、私に残された最後の力を出し切れば可能なはず。そうすれば、少しの苦痛もなく、あなたを殺してあげられる」
静かに食事をしていた忍だが、やはり雪江との会話で気になることがあったらしく、箸を置いた。
「雪江さんに話してしまってよかったのか。出血が持続しているということを。あえて言わずに様子を見て、向こうの出方をうかがってもよかったんじゃないか」
雪江のことを信用しきれない忍は、さらにこうも言い連ねた。
「今は反省しているように見えても、一度はお前に避妊手術まで受けさせようとしてきた相手だぞ。そうやすやすと信じていいものか……」
忍にそう言われ、桃子は苦い表情を浮かべた。
実は、桃子自身もまったく同じことを思っていた。
「本当はね、私もお母様をすぐには信じないほうがいいのかもって、なんとなく感じてる。それでも、やっぱり本当のことを知ってもらいたかった。私なりにお母様を信じたかったの。たった一人の家族だから……。ごめんなさい、これで、もしも忍ちゃんに迷惑をかけることになったら――」
「そんなことにまで気を回さなくてもいい。お前の気持ちはよくわかる。それより、今後のことを話し合おう」
忍は、すでに自分の中で固めていたらしい考えを告げた。
「南条家には迷惑な話だろうが、私は今晩こちらに泊まらせてもらう。すでに準備もしてある」
桃子は驚いたが、忍はこれを当然のことだと言い張った。
「お前がしばらく雪江さんのそばを離れられないのだから、お前を守るにはこうするしかない。もしも断られたら、それはそれで、お前を北条家に連れ帰る口実ができるだけだ」
自活するので居座る以上の迷惑はかけない、と忍は主張したが、そういう問題ではなかった。
戸惑う桃子に、忍が釘を刺す。
「誓って言うが、よこしまな目的ではないからな。それだけは、わかってもらわなくては困る」
「も、もちろん。最初から疑ってないし、すごくありがたいよ。でもお母様にはなんて話せば……」
「そのままを伝えればいい。『あなたが信用できないから、娘さんのそばを離れるわけにはいかない』と。それなら、多少は相手へのけん制にもなる」
「そ、そんなこと言えないよ。あれだけ弱っているお母様に……」
「それもそうか。ではこうしよう」
話し合いの末、桃子が遅れた分の勉強を見てやるという名目で、忍は南条家に泊まることになった。
あれこれ悩んで出した口実の割には、あっさりと雪江の承諾を得られていた。
「憑坐が巫女姫のそばにいるのは、当たり前のことですから」
雪江は、意外にも寛容な姿勢を見せた。
忍の言う通り、母をすぐに信用するのは、やはり考えが甘いのだろう。
しかし、雪江は長年桃子に辛く当たりながらも、本質的にはいつも桃子を気にかけていた。それだけは、娘としての直感でわかっていた。
とかく、雪江は不器用な人間だった。
たとえば西宮の母・栄香のように、誰とでも打ち解けられるような社交性があるわけでもない。愛し合って一緒になったはずの夫ともすれ違い続け、結局は仲違いしてしまっている。
親子だからこそ、母の生真面目で神経質な気質はよく知っている。誰が母を厭っても、自分だけは愛し寄り添いたいと、いつも思っていた。
夜間、桃子と忍は、桃子の自室で床についていた。桃子のベッドに隣接するように布団を敷き、忍はそこで横になる。
忍は荒神の力で桃子を別の層に避難させることをしなかった。そもそもここは南条家で、結びの力に長けた者たちばかりなのだ。下手に層を移動しても無意味などころか、昨夜力を使い果たしてしまった桃子の体に、さらなる負荷をかけることにもなる。
憑坐といえども所詮は万能などではなく、結局は桃子のそばに張りついて守るしかないようだった。
それに、憑坐であることがかえって注目を集めてしまうため、以前よりも動きにくくなったと忍はぼやいた。
たしかに、誰も彼が憑坐になると思っていなかったときのほうが、よほど敵の虚をつくことはできただろう。攻めるよりも、守るほうが何倍も難しいのかもしれない。
ふと、桃子はベッドの中で違和感を覚えた。自分の部屋なのに、どこか知らない場所であるかのような、奇妙な感覚に襲われる。
気づいたときには手遅れだった。ものすごい速さで急降下していくのがわかる。溺れるようにもがいたが、強い力にどんどん引きずりこまれていった。
今までの経験から悟った。元いた現世よりも、ずっとずっと下層にまで落とされ続けている。
以前閉じ込められた南根神社と似た場所よりも、さらに深く暗い層だ。
桃子は何もない場所に降り立っていた。本当に、見渡す限り何もない。隣にいたはずの忍もいない。
周りにはかすかに赤黒い気が流れていたが、他に何かを見定めることはできない。今立っている足場までも、どうかすると消えてしまいそうだ。
「夜更けにごめんなさい。どうしても、桃子さんと二人になりたかったの」
どきりとして振り返る。
背後に雪江が立っていた。彼女の顔色は、昼間よりもずっと悪くなっていた。
桃子は慌てて母に駆け寄る。
「お母様が私をここに? いけません、そんなお体で。早く戻って休みましょう。お話なら、日中あらためて伺いますから……」
「今でないとだめなのよ。大丈夫、すぐに済むわ」
雪江の足元はおぼつかず、立っているのがやっとのようで、桃子は母を支えながら気が気ではなかった。
「ここはいったいどこなんです」
「憑坐が、決して追っては来られない場所よ。ここなら二人きりで話せる」
雪江は、すがるような目を桃子に向けた。
「ああ、桃子さん、やっと言える。あなたが妊娠していなくて本当によかった」
言葉の真意が読み取れず、桃子は少なからず戸惑った。
「それはまだわかりません。きちんと検査してからでないと……」
「いいえ、していないに決まってます。妊娠の兆しがあるなら、巫女姫本人はもちろん憑坐にもすぐわかるものなのです。神の子をその身に宿すのだから、その神気は否応なく内外に伝わるもの。両者とも一切何も感じ取れないということは、すなわち妊娠の不成立を意味しています」
桃子は雪江の気迫に、何か尋常でないものを感じた。やはり母はどこか様子がおかしい。
「お母様、お話はまた明日にしましょう。二人になれるよう、私からも忍ちゃんに頼んでみますから。とにかく今は無理なさらないほうが……」
「桃子さん、私にはもう時間がないの。この力も、いつまで持つかわからない。私では巫女姫として覚醒したあなたを、もう抑えることはできない」
「え……?」
桃子が目を瞬かせる。雪江は、今までで一番優しい表情をしていた。
「かわいい桃子……たった一人の私の娘。あなただけを苦しませたりはしない。あなたを殺したあとは、私もすぐに後を追うから」
雪江は、いたって正気の目をしていた。
「桃子さん、一緒に死んでちょうだい」
「お、おかあ、さま……?」
「二人で黄泉の国へ行きましょう。ここはそういう場所なのです。あと一つ界層を越えれば、もうそこは黄泉の国。最後に隔てた一層が厚い壁になっているから、そこを越えるのは少々骨が折れそうだけれど、私に残された最後の力を出し切れば可能なはず。そうすれば、少しの苦痛もなく、あなたを殺してあげられる」
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