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第四章 地の底を知るもの
夜散歩
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入浴と夕食を済ませ、桃子は与えられた和室の片隅で一息ついていた。東宮邸にしばらく滞在することは確定していたので、ひとまず仮にと与えてもらった部屋だ。静かでとても落ち着ける空間だった。
今日は学校どころではなかったのでやむなく欠席したが、明日からは通学したい旨を志津音に話した。志津音は桃子に言われる前から準備していたようで、桃子の荷物一式を、この部屋に届けさせてくれた。
西宮の家に置きっぱなしになっていたものまで戻ってきている。志津音が手配してくれたのか、それとも栄香あたりが気を利かせて運び込んでくれたのか。何にせよ、いろいろなところに迷惑をかけて肩身が狭くなるばかりだった。
特に、西宮家にはたいそう世話になったというのに、何の挨拶もしてこなかった。
――いや、挨拶など。
どんな言葉を並べ立てようが、所詮は厚顔無恥の極み。自分は彼らにとって、言い訳のしようもないほど不実になり果てた。
荷物の中に、覚えのない新品の書道用具一式が入っているのを見つけて、桃子は胸がつぶれる思いがした。
かつて西宮に、テストが終わったら何がしたいかを問われた。この送り主不明の品が誰からのものか、わからないはずなどない。
気持ちが晴れぬまま荷物の整理をしていると、春彦が訪ねてきた。部屋着の浴衣がよく似合っている。
学園の制服か、きちんとした和装でいるときの彼しか見たことがなかったので、今の格好は幾分か隙があり、桃子は密かにどきりとさせられていた。
「よかったら、少し散歩でもしませんか。敷地内を案内させてください」
春彦はそう言って、桃子を連れだった。
桃子も、よその家ですぐには寝付けないだろうと思っていたので、彼の申し出はありがたかった。
まだそれほど夜が更けている時間でもなかったため、軽く庭園や蔵周りにまでも足を運んだ。明るいうちに目にしたときも見事な庭園だと思ったが、暗くなって灯篭に灯りがともっている景色も、幻想的で美しかった。五月も半ばで、もう夜が冷えることもなくなっている。
季節の移り変わりを気にする余裕もなかったため、こうして落ち着ける時間を作ってくれた春彦に感謝した。
「桃子さんのお誕生日はいつですか」
唐突で少々面食らったが、素直に、四月のかなり早い時期であることを伝えた。
「うちの境内に咲いている桃の花が、ちょうど満開の時期だったらしいの。桜はまだ咲いていなくて、それで私は桃子になったんだって」
「奇遇ですね、僕も名前のとおりの春生まれなんです。桃子さんの生まれた日とも近いですよ」
春彦は嬉しそうに微笑んだ。
「お恥ずかしながら、僕はちっとも花を知らなくて。少し前まで、桃と桜の区別もついていませんでした。桃子さんと出会ってから、桃の花がどういう花かに興味がわいたんです。そうしたら、僕が昔からずっと綺麗だと思っていたこの庭の桜が、本当は桃だったということに気づきまして。単に僕が無知だっただけなんですけど、なんだかそれが嬉しくて。……すみません、とりとめのない話を」
「ううん。今の話、私も嬉しい」
桃子を見て、春彦はいとおしげに目を細めた。
「また春がくれば、この庭にも梅や桃や桜が咲くんですよ。まだ先ですが、来年、あなたと一緒に見られたら……」
言いかけてから、彼はすぐさま瞳をかげらせた。
「少し気が早すぎましたね。今後のこともわからないのに。――そうだ、大巫女様へのお目通りの件ですが。かの御方は、ちょうど鎮魂行に入られてしまったようで、しばらくは誰ともお会いにならないそうです。少なくとも、十日間は待たなければならないと」
鎮魂行とは、いわゆる瞑想に近い行法だった。
春彦が再び憑坐になったことは、きっと大巫女の耳にも届いている。
占がまともに機能しなくなった今、鎮魂行は、先見の手段として唯一残された方法なのかもしれない。
春彦は重い口ぶりで語った。
「桃子さん、僕は以前あなたを凌辱しました。その事実は一生なかったことにはできません。その上、今度はあなたのお母様までこの手にかけた。こんな人間が、あなたとさだめを共にしていいはずがない。ですから、とにかくまずは大巫女様のお話を伺いに行きましょう。――それに、桃子さんのお母様が、桃子さんのことを『荒神を滅ぼす最後の巫女姫』だと語ったことも気になります。大巫女様も同じ見解を持っていらしたそうですが、果たしてそれが本当かどうか……。
少なくとも、僕はあなたに滅ぼされるとは思えません。まずは、これらの不明点を明らかにしなければ。どうか今しばらく、東宮の――僕のそばでご辛抱ください。あなたに危険が及ばない限りは、あなたが嫌がることは二度としないと誓います」
「そんな、辛抱だなんて。私のほうが迷惑をかけているのに。それに春彦くんのしたことは、全部私を守るためだったじゃない。私が自力で抗えていれば、春彦くんが手を下す必要もなかった。あのときお母様に流されて、このまま死んでもいいって思いかけていた。でも春彦くんの顔を見たとき、もう一度生きたいって強く思えたの。
もしあのまま死んでいたら、現世に未練を残す死霊になっていたかもしれない。春彦くんには本当に感謝してる。これだけは、絶対に覆らないことだって言えるよ」
これが桃子の偽らざる本音だった。
たとえ雪江の命が助かっていなかったとしても、それでも彼を恨んだりはしなかっただろう。こんな親不孝なことを考える自分なのだから、荒神を滅ぼす巫女姫というのも案外真実なのかもしれない。それならやはり、あのまま死んでおくべきだったのか……。
桃子はそう考えて、かぶりを振った。
春彦が命懸けで助けてくれたことが、本当に嬉しかった。これからは、少しでも彼に報いるような生き方をしたい。だからせめて、まずは前を向こうと思った。
桃子の言葉を聞いても、春彦はやはり複雑な表情を浮かべていた。いくら礼や感謝を言い募ったところで、春彦から罪の意識が消えるわけではないのだろう。
(こんな話がしたかったわけじゃないのに……)
重い空気を払拭できないことがもどかしかった。できることなら、春彦とはすべての確執を取り除いて、先ほどのように、他愛もない話で笑い合っていたかった。彼は笑うと本当に可愛いのだ。暗く沈んだ顔ばかりしか見られないのは嫌だった。
それなら、まずは桃子のほうから歩み寄り、怒っても恨んでもいないということを、好意的な態度で地道に示していくしかないのではないか。
何より春彦と話がしたい――もっと彼のことを知りたかった。
「ねえ、春彦くん。東宮の旦那様も奥方様も、とても素敵な方々ね。私はまだほんの少しお話しさせていただいただけだけど、お二人がそれぞれ素晴らしい方だというのは、わかる気がするの。春彦くんには私の家のこと、恥ずかしいところまでいろいろ知られちゃったから――ってわけでもないんだけど、私も春彦くんのご家族のお話、聞いてみたいな。差し支えない範囲で、もしよかったらだけど」
桃子の急な要望に、春彦はやや面食らっているようだった。それでも、桃子が「家族」と言ったことまで無粋に否定したりはしなかった。
「そうですね……。僕がお話しできることはそう多くはないかもしれませんが、それでもよろしければ」
桃子はもちろん、一も二もなく頷いた。
春彦がぽつりぽつりと話し始める。
「本当は、旦那様と奥方様にお引き合わせする前に、僕から二人のことをご説明して、それから桃子さんをご紹介できればよかったんですが。実は、僕もそれほどあの方々をよく知っているわけではないんです。特に旦那様に関しては、たとえ近しい身内であっても、その内情を知らされることはほとんどありません。そういうお方なのです」
桃子は目を瞬かせた。
「それは、どういう……」
「旦那様は、一つ所の立場に収まることのない方です。峰外に出ることも多く、いつも頻繁に家を空けておられます。外で何をなさっているのか、僕に知らされることはほとんどありませんが、人づてに聞いた話では、僕の通っていた私学校の学園理事を務めていたとか、またどこかの地域では政治家でもあるらしいとか、おそらく他にいくつもの顔をお持ちです」
春彦は、初めて東宮家の事情を聞く桃子に、努めて噛み砕いて説明した。
「旦那様は仙狐という神使を体内に飼っています。平たく言えば神力を扱える狐の類で、これを体内で飼うことにより、自らの姿を自在に変化させられるようになるんです。とても高度な技で、習得するのは容易ではありません。その力によって、旦那様は名を変え姿を変え、峰外に出て秘密裏に情報を得ては、この町に有利となるよう様々な外部機関に働きかけています」
「そんなすごい方だったの。私、何も知らなかった。もしかしたら私がお会いしたときのお姿も、実は本当の旦那様ではなかったり……?」
「さすがに、大切なお客様にそんな失礼なことはなさいませんよ。あのとき桃子さんがお会いになられたのが、正真正銘の旦那様です」
春彦は苦笑していた。
「東宮の当主としては、旦那様は少々異質な方かもしれません。仙狐の変化を使う技は、東宮のものというより、長きにわたって山田に伝えられてきた秘術ですから。自己を滅し、主人と見分けがつかぬよう振る舞う影のための。
――ですが、旦那様の影役は、旦那様を不埒な刺客からお守りして、身代わりとして亡くなられたと聞いています。もしかしたら旦那様は、その影役の人生までも、お一人で引き受けて歩もうとなさっているのかもしれません。主がそこまで、影を省みる必要などないのに」
少し物悲しい目をしたあとに、春彦は、今度は志津音のことも話し始めていた。
「奥方様は伶人――雅楽師でいらっしゃいます。特に楽箏や和琴に造詣が深く、師範もなさっておいでです」
箏は、いわゆる「お琴」として一般的に知られる和楽器だ。現代日本で琴といえば、たいていは箏を指す。
箏に関しては、皇彦の腕前が特に素晴らしいものだったと、春彦は絶賛した。
「奥方様の楽才を如実に受け継がれたのが皇彦様で、僕は最後まであの方の足元にも及びませんでした。皇彦様の影を演じなければならない僕にとって、それは本当に高い高い壁で。せめても少しはましに演奏できたのが龍笛でしたが、それすらも皇彦様には遠く及ばない。学業や他の稽古事にしてもそうです。すべてが著しく秀でておられたので、僕などがあの方の影を務められるものなのかと、それが常の悩みでした」
悩みと言う割に、皇彦のことを語っているときの春彦は、今までになく生き生きとしていた。春彦がどれほど皇彦を慕っていたのかは、これだけでも十分伝わってきた。
桃子は、思わずこんなことを口にした。
「もしも、気を悪くさせてしまったらごめんね。春彦くんは、皇彦くん――ってそう呼んでいいのかな――彼のことを兄と呼ぶのは恐れ多いと以前話していたけど、記憶をなくしていた頃のあなたは、本当に自然に、皇彦くんのことを『兄』と口にしていたよ。それから志津音さんのことも、親だと話していたのを覚えているの。それってつまり、春彦くんの心の中では、本当は東宮の人たちのことを家族だと思っているということじゃないかな。
記憶を手放したことで、おうちのことや町のこと、いろんなしがらみから解放された春彦くんの本当の気持ちが、あのとき表れていたんじゃないかと思うの」
「僕の、本当の気持ち……?」
春彦が目を瞬かせていたので、桃子は失言したと思い、慌てて謝罪した。
「ご、ごめんなさい、やっぱり的外れな話だったかも」
「あ、いえ、違うんです。そんなこと、今まで考えたこともなかったもので……」
春彦はしばらく黙りこむ。そして、何かを考えついたように、ふと顔を上げて言った。
「桃子さん、いろいろ連れ回してしまった上で申し訳ないのですが……もう少しだけ、お付き合い願えませんか。あと一か所、どうしてもお連れしたい場所があるんです」
今日は学校どころではなかったのでやむなく欠席したが、明日からは通学したい旨を志津音に話した。志津音は桃子に言われる前から準備していたようで、桃子の荷物一式を、この部屋に届けさせてくれた。
西宮の家に置きっぱなしになっていたものまで戻ってきている。志津音が手配してくれたのか、それとも栄香あたりが気を利かせて運び込んでくれたのか。何にせよ、いろいろなところに迷惑をかけて肩身が狭くなるばかりだった。
特に、西宮家にはたいそう世話になったというのに、何の挨拶もしてこなかった。
――いや、挨拶など。
どんな言葉を並べ立てようが、所詮は厚顔無恥の極み。自分は彼らにとって、言い訳のしようもないほど不実になり果てた。
荷物の中に、覚えのない新品の書道用具一式が入っているのを見つけて、桃子は胸がつぶれる思いがした。
かつて西宮に、テストが終わったら何がしたいかを問われた。この送り主不明の品が誰からのものか、わからないはずなどない。
気持ちが晴れぬまま荷物の整理をしていると、春彦が訪ねてきた。部屋着の浴衣がよく似合っている。
学園の制服か、きちんとした和装でいるときの彼しか見たことがなかったので、今の格好は幾分か隙があり、桃子は密かにどきりとさせられていた。
「よかったら、少し散歩でもしませんか。敷地内を案内させてください」
春彦はそう言って、桃子を連れだった。
桃子も、よその家ですぐには寝付けないだろうと思っていたので、彼の申し出はありがたかった。
まだそれほど夜が更けている時間でもなかったため、軽く庭園や蔵周りにまでも足を運んだ。明るいうちに目にしたときも見事な庭園だと思ったが、暗くなって灯篭に灯りがともっている景色も、幻想的で美しかった。五月も半ばで、もう夜が冷えることもなくなっている。
季節の移り変わりを気にする余裕もなかったため、こうして落ち着ける時間を作ってくれた春彦に感謝した。
「桃子さんのお誕生日はいつですか」
唐突で少々面食らったが、素直に、四月のかなり早い時期であることを伝えた。
「うちの境内に咲いている桃の花が、ちょうど満開の時期だったらしいの。桜はまだ咲いていなくて、それで私は桃子になったんだって」
「奇遇ですね、僕も名前のとおりの春生まれなんです。桃子さんの生まれた日とも近いですよ」
春彦は嬉しそうに微笑んだ。
「お恥ずかしながら、僕はちっとも花を知らなくて。少し前まで、桃と桜の区別もついていませんでした。桃子さんと出会ってから、桃の花がどういう花かに興味がわいたんです。そうしたら、僕が昔からずっと綺麗だと思っていたこの庭の桜が、本当は桃だったということに気づきまして。単に僕が無知だっただけなんですけど、なんだかそれが嬉しくて。……すみません、とりとめのない話を」
「ううん。今の話、私も嬉しい」
桃子を見て、春彦はいとおしげに目を細めた。
「また春がくれば、この庭にも梅や桃や桜が咲くんですよ。まだ先ですが、来年、あなたと一緒に見られたら……」
言いかけてから、彼はすぐさま瞳をかげらせた。
「少し気が早すぎましたね。今後のこともわからないのに。――そうだ、大巫女様へのお目通りの件ですが。かの御方は、ちょうど鎮魂行に入られてしまったようで、しばらくは誰ともお会いにならないそうです。少なくとも、十日間は待たなければならないと」
鎮魂行とは、いわゆる瞑想に近い行法だった。
春彦が再び憑坐になったことは、きっと大巫女の耳にも届いている。
占がまともに機能しなくなった今、鎮魂行は、先見の手段として唯一残された方法なのかもしれない。
春彦は重い口ぶりで語った。
「桃子さん、僕は以前あなたを凌辱しました。その事実は一生なかったことにはできません。その上、今度はあなたのお母様までこの手にかけた。こんな人間が、あなたとさだめを共にしていいはずがない。ですから、とにかくまずは大巫女様のお話を伺いに行きましょう。――それに、桃子さんのお母様が、桃子さんのことを『荒神を滅ぼす最後の巫女姫』だと語ったことも気になります。大巫女様も同じ見解を持っていらしたそうですが、果たしてそれが本当かどうか……。
少なくとも、僕はあなたに滅ぼされるとは思えません。まずは、これらの不明点を明らかにしなければ。どうか今しばらく、東宮の――僕のそばでご辛抱ください。あなたに危険が及ばない限りは、あなたが嫌がることは二度としないと誓います」
「そんな、辛抱だなんて。私のほうが迷惑をかけているのに。それに春彦くんのしたことは、全部私を守るためだったじゃない。私が自力で抗えていれば、春彦くんが手を下す必要もなかった。あのときお母様に流されて、このまま死んでもいいって思いかけていた。でも春彦くんの顔を見たとき、もう一度生きたいって強く思えたの。
もしあのまま死んでいたら、現世に未練を残す死霊になっていたかもしれない。春彦くんには本当に感謝してる。これだけは、絶対に覆らないことだって言えるよ」
これが桃子の偽らざる本音だった。
たとえ雪江の命が助かっていなかったとしても、それでも彼を恨んだりはしなかっただろう。こんな親不孝なことを考える自分なのだから、荒神を滅ぼす巫女姫というのも案外真実なのかもしれない。それならやはり、あのまま死んでおくべきだったのか……。
桃子はそう考えて、かぶりを振った。
春彦が命懸けで助けてくれたことが、本当に嬉しかった。これからは、少しでも彼に報いるような生き方をしたい。だからせめて、まずは前を向こうと思った。
桃子の言葉を聞いても、春彦はやはり複雑な表情を浮かべていた。いくら礼や感謝を言い募ったところで、春彦から罪の意識が消えるわけではないのだろう。
(こんな話がしたかったわけじゃないのに……)
重い空気を払拭できないことがもどかしかった。できることなら、春彦とはすべての確執を取り除いて、先ほどのように、他愛もない話で笑い合っていたかった。彼は笑うと本当に可愛いのだ。暗く沈んだ顔ばかりしか見られないのは嫌だった。
それなら、まずは桃子のほうから歩み寄り、怒っても恨んでもいないということを、好意的な態度で地道に示していくしかないのではないか。
何より春彦と話がしたい――もっと彼のことを知りたかった。
「ねえ、春彦くん。東宮の旦那様も奥方様も、とても素敵な方々ね。私はまだほんの少しお話しさせていただいただけだけど、お二人がそれぞれ素晴らしい方だというのは、わかる気がするの。春彦くんには私の家のこと、恥ずかしいところまでいろいろ知られちゃったから――ってわけでもないんだけど、私も春彦くんのご家族のお話、聞いてみたいな。差し支えない範囲で、もしよかったらだけど」
桃子の急な要望に、春彦はやや面食らっているようだった。それでも、桃子が「家族」と言ったことまで無粋に否定したりはしなかった。
「そうですね……。僕がお話しできることはそう多くはないかもしれませんが、それでもよろしければ」
桃子はもちろん、一も二もなく頷いた。
春彦がぽつりぽつりと話し始める。
「本当は、旦那様と奥方様にお引き合わせする前に、僕から二人のことをご説明して、それから桃子さんをご紹介できればよかったんですが。実は、僕もそれほどあの方々をよく知っているわけではないんです。特に旦那様に関しては、たとえ近しい身内であっても、その内情を知らされることはほとんどありません。そういうお方なのです」
桃子は目を瞬かせた。
「それは、どういう……」
「旦那様は、一つ所の立場に収まることのない方です。峰外に出ることも多く、いつも頻繁に家を空けておられます。外で何をなさっているのか、僕に知らされることはほとんどありませんが、人づてに聞いた話では、僕の通っていた私学校の学園理事を務めていたとか、またどこかの地域では政治家でもあるらしいとか、おそらく他にいくつもの顔をお持ちです」
春彦は、初めて東宮家の事情を聞く桃子に、努めて噛み砕いて説明した。
「旦那様は仙狐という神使を体内に飼っています。平たく言えば神力を扱える狐の類で、これを体内で飼うことにより、自らの姿を自在に変化させられるようになるんです。とても高度な技で、習得するのは容易ではありません。その力によって、旦那様は名を変え姿を変え、峰外に出て秘密裏に情報を得ては、この町に有利となるよう様々な外部機関に働きかけています」
「そんなすごい方だったの。私、何も知らなかった。もしかしたら私がお会いしたときのお姿も、実は本当の旦那様ではなかったり……?」
「さすがに、大切なお客様にそんな失礼なことはなさいませんよ。あのとき桃子さんがお会いになられたのが、正真正銘の旦那様です」
春彦は苦笑していた。
「東宮の当主としては、旦那様は少々異質な方かもしれません。仙狐の変化を使う技は、東宮のものというより、長きにわたって山田に伝えられてきた秘術ですから。自己を滅し、主人と見分けがつかぬよう振る舞う影のための。
――ですが、旦那様の影役は、旦那様を不埒な刺客からお守りして、身代わりとして亡くなられたと聞いています。もしかしたら旦那様は、その影役の人生までも、お一人で引き受けて歩もうとなさっているのかもしれません。主がそこまで、影を省みる必要などないのに」
少し物悲しい目をしたあとに、春彦は、今度は志津音のことも話し始めていた。
「奥方様は伶人――雅楽師でいらっしゃいます。特に楽箏や和琴に造詣が深く、師範もなさっておいでです」
箏は、いわゆる「お琴」として一般的に知られる和楽器だ。現代日本で琴といえば、たいていは箏を指す。
箏に関しては、皇彦の腕前が特に素晴らしいものだったと、春彦は絶賛した。
「奥方様の楽才を如実に受け継がれたのが皇彦様で、僕は最後まであの方の足元にも及びませんでした。皇彦様の影を演じなければならない僕にとって、それは本当に高い高い壁で。せめても少しはましに演奏できたのが龍笛でしたが、それすらも皇彦様には遠く及ばない。学業や他の稽古事にしてもそうです。すべてが著しく秀でておられたので、僕などがあの方の影を務められるものなのかと、それが常の悩みでした」
悩みと言う割に、皇彦のことを語っているときの春彦は、今までになく生き生きとしていた。春彦がどれほど皇彦を慕っていたのかは、これだけでも十分伝わってきた。
桃子は、思わずこんなことを口にした。
「もしも、気を悪くさせてしまったらごめんね。春彦くんは、皇彦くん――ってそう呼んでいいのかな――彼のことを兄と呼ぶのは恐れ多いと以前話していたけど、記憶をなくしていた頃のあなたは、本当に自然に、皇彦くんのことを『兄』と口にしていたよ。それから志津音さんのことも、親だと話していたのを覚えているの。それってつまり、春彦くんの心の中では、本当は東宮の人たちのことを家族だと思っているということじゃないかな。
記憶を手放したことで、おうちのことや町のこと、いろんなしがらみから解放された春彦くんの本当の気持ちが、あのとき表れていたんじゃないかと思うの」
「僕の、本当の気持ち……?」
春彦が目を瞬かせていたので、桃子は失言したと思い、慌てて謝罪した。
「ご、ごめんなさい、やっぱり的外れな話だったかも」
「あ、いえ、違うんです。そんなこと、今まで考えたこともなかったもので……」
春彦はしばらく黙りこむ。そして、何かを考えついたように、ふと顔を上げて言った。
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