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第四章 地の底を知るもの
東宮邸にて
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東宮の家に到着したころには、もう日は落ち始めていた。
東宮邸はどことなく西宮邸に似通うものがあった。敷地の広さや建物の外観、手入れの行き届いた優美な庭も、共通している部分が多い。建築物自体はさほど古くないようだが、それでも、昔からここにあることがわかる造りをしていた。
桃子は生まれたときからずっと産巣日町で暮らしてきたが、この東宮の家には一度も訪れたことがなかった。
東雲神社には、神事の際に家族に連れられたこともあったが、それもすべて形式ばったものばかりで、個人的に参拝したこともない。小さいうちからそうなので、同じ四方家であってもそういうものなのだと思っていた。
おそらく西宮も北条も、東宮との交流度合は似たようなものかもしれない。
同じ町に住んでいても、東宮は謎めいた家だった。同年代の子どもが同じ学園に通っていれば話は違ったかもしれないが、東宮はまだ幼いうちから子らを峰外に出していたため、桃子たちと接触する機会はただの一度もなかったのだ。
屋根のある古風な門構えをくぐると、庭の向こうに見える玄関前で、線の細い着物の女性が出迎えてくれた。東宮家の奥方――東宮志津音だった。
彼女は桃子の来訪をとても喜び、歓迎した。この女性が春彦の――と、桃子は不思議な気持ちで志津音を見つめた。
春彦は志津音に対しても、いつもの丁寧な口調で他人行儀に接していたが、志津音はあくまで彼を息子と見なしているようで、かいがいしく世話をしていた。
実子を一人失くしている志津音の境遇を思えば、ひどく彼女が気の毒だった。
以前春彦から、「奥方様にはよくしてもらった」という話も聞いていたので、決して何か確執があるわけではないのだろうし、あくまで春彦は、自分の立場をわきまえた上で線引きしているに過ぎないのかもしれない。
ふと、春彦の産みの母――代理出産を引き受けたという山田筋の女性は、今どうしているのだろうと気になった。しかし、志津音の前では聞きづらく、その疑問は胸の内に留めた。
二間続きの大部屋に通され、そこで初めて東宮家の当主と相対した。
紺に統一した正絹の羽織に長着という、落ち着いた出で立ちをしていた。選定の儀の際に見かけていたものの、あのときは宮司としての正服姿を遠目から視認したに過ぎず、あまりよく覚えていなかった。
が、やはり親子であり、春彦と似たところのある整った顔立ちをしていた。すっと立ち上がったその姿も良かった。
「南条桃子さん、よく来てくださいました。あなたは南条家からお預かりした大切なお嬢さんですが、同様に我が家においてもなくてはならない方だ。どうか気兼ねせずに過ごしてください」
桃子が想像していたよりもずっと、この当主は気質が穏やかであるように感じられた。
四方家の中でも一線を画す家柄である東宮の当主ならば、ある程度居丈高に振る舞ってもよさそうなものだが、そんなところは少しもない。
当主は桃子に屈託なく話しかけた。憑坐や巫女姫の話が出ることはついぞなく、聞かれたのは主に斉城学園での学業や生徒活動のことについてばかりだった。
もっと深刻な話をされるとばかり思い込んでいたため、少々肩透かしを食らった。
当主は春彦が町や学園生活に馴染めるかどうかを案じているようで、いろいろ息子に教えてやってほしいと頼まれた。
桃子も初めのうちは緊張していたが、彼の穏やかさに触れて、いつの間にか肩の力は抜けていた。
当主は、志津音とも非常に仲睦まじくあるように見えた。
考えてみれば、この当主は、わざわざ手間も費用もそれなりにかかる代理出産という形で春彦を出生させなくても、自らが山田筋の女性と直接関係を持ち、そのまま産ませることもできたはずなのだ。その手段をとらずに、自身の妻の実子ともなるよう事を進めたのは、ひとえに妻を大切にしているからではないか。
そう考えを巡らせると、桃子はこの夫妻の関係をとてもうらやましく思った。
とはいえ、いくら表面上で人が良く見えても、その真髄まで推し量ることはできない。
この当主は、嫌がる春彦を脅迫し、東宮の後継となるよう強要したとも聞いている。今桃子に見せている一面だけが、彼の持つ顔でないことは確かだろう。
それでも、それをわかった上でなお、桃子はこの当主に好感を抱いていた。親とは思っていないと春彦から聞かされていても、この当主の人となりが、春彦の実直な内面に少なからず影響を及ぼしているだろうことが、端々でうかがえたのだ。
当主との顔合わせを終えたあと、夕食と入浴のどちらを先に済ませたいかを志津音に問われ、桃子は遠慮がちに入浴と答えていた。度重なる環境の変化や心労がたたり、食欲はあまりわかなかった。
春彦は、何かあっては困ると桃子のそばを離れたがらなかったが、さすがに浴室までついてくるわけにもいかず、渋々桃子を志津音に任せていた。
浴室へと案内される折に、志津音は桃子の今までの苦労をたいそうねぎらってくれた。
それから、雪江が退いたことで町の守護結界が弱まっても、入り込んだ魔は東宮の勢力で祓うから心配はいらないと元気づけてくれもした。病院で春彦が話していたとおりで、桃子はとても励まされる思いだった。
志津音は、「桃子のような娘が欲しかったので、訪ねてきてくれて嬉しい」とまで言った。家族や親類は男ばかりで肩身が狭かったと苦笑いする彼女を見て、桃子は自然と笑みをこぼしていた。
志津音は話し方も仕草も非常に柔和で、男性と渡り合っていくような気の強いタイプには見えなかったため、なんとなく気持ちはわかる気がした。この短時間のあいだに、もうかなり打ち解けていた。
脱衣所まで来ると、誰もいないのをいいことに、志津音は少々込み入った話を桃子に打ち明けてきた。どうやら、本当はこれが一番話したかったことなのだろうと、すぐにわかる熱のこもった口ぶりだった。
「あの子には――春彦には母親がおりません。正確には私が実母ですが、あの子を産んでいない私を、頑なに母と呼ぼうとはしないのです。春彦の産みの母は、あの子を産んだときにその命を落としました。陣痛促進剤を用いて分娩にいたった際に、運悪く羊水塞栓症という重篤な疾患を発症して……。春彦はなんとか一命をとりとめましたが、母体死亡は避けられなかった。医療過誤ではなく、とても予測の難しい症例だったそうです。誰も悪くない、不幸な事故でしかなかったはずなのに、あの子は自分が母親を殺したと思い込んでいる。そういう傷を抱えた子なんです」
志津音は、自身も辛そうに目を伏せた。
「加えて皇彦を亡くしたことで、あの子の心には、さらに大きな影が落ちてしまった。春彦は決して認めたがらないけど、誰がなんと言おうと、あの二人は血を分けた兄弟です。二人の間にはとても強い絆がありました。拠り所としていた皇彦を失って、春彦はきっと身を裂かれる思いだったことでしょう。目に見えて自暴自棄になり、夫ともひどく争って、今までからは考えられないほど反抗的で無茶なこともしましたが……。
今日、あなたを連れて戻ってきたあの子の顔を見て、私は確信しました。あの子の新たな生きる希望となってくれたのが、桃子さん、あなただということを。……ごめんなさい、いきなりこんなことを言われても、かえって戸惑わせてしまうわね。でも、あなたには本当に感謝しているんです。ありがとう、桃子さん」
志津音は涙を必死で抑えているように見えた。
桃子は出会った当初の春彦を思い出していた。たしかにそれを思えば、志津音の心労はいかほどのものだったろうかと、理解できてしまうのだった。
東宮の当主と同じく、春彦もまた、桃子に見せている顔だけが彼のすべてではないのだろう。
桃子は、春彦のことをもっと知りたいと思った。
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桃子は生まれたときからずっと産巣日町で暮らしてきたが、この東宮の家には一度も訪れたことがなかった。
東雲神社には、神事の際に家族に連れられたこともあったが、それもすべて形式ばったものばかりで、個人的に参拝したこともない。小さいうちからそうなので、同じ四方家であってもそういうものなのだと思っていた。
おそらく西宮も北条も、東宮との交流度合は似たようなものかもしれない。
同じ町に住んでいても、東宮は謎めいた家だった。同年代の子どもが同じ学園に通っていれば話は違ったかもしれないが、東宮はまだ幼いうちから子らを峰外に出していたため、桃子たちと接触する機会はただの一度もなかったのだ。
屋根のある古風な門構えをくぐると、庭の向こうに見える玄関前で、線の細い着物の女性が出迎えてくれた。東宮家の奥方――東宮志津音だった。
彼女は桃子の来訪をとても喜び、歓迎した。この女性が春彦の――と、桃子は不思議な気持ちで志津音を見つめた。
春彦は志津音に対しても、いつもの丁寧な口調で他人行儀に接していたが、志津音はあくまで彼を息子と見なしているようで、かいがいしく世話をしていた。
実子を一人失くしている志津音の境遇を思えば、ひどく彼女が気の毒だった。
以前春彦から、「奥方様にはよくしてもらった」という話も聞いていたので、決して何か確執があるわけではないのだろうし、あくまで春彦は、自分の立場をわきまえた上で線引きしているに過ぎないのかもしれない。
ふと、春彦の産みの母――代理出産を引き受けたという山田筋の女性は、今どうしているのだろうと気になった。しかし、志津音の前では聞きづらく、その疑問は胸の内に留めた。
二間続きの大部屋に通され、そこで初めて東宮家の当主と相対した。
紺に統一した正絹の羽織に長着という、落ち着いた出で立ちをしていた。選定の儀の際に見かけていたものの、あのときは宮司としての正服姿を遠目から視認したに過ぎず、あまりよく覚えていなかった。
が、やはり親子であり、春彦と似たところのある整った顔立ちをしていた。すっと立ち上がったその姿も良かった。
「南条桃子さん、よく来てくださいました。あなたは南条家からお預かりした大切なお嬢さんですが、同様に我が家においてもなくてはならない方だ。どうか気兼ねせずに過ごしてください」
桃子が想像していたよりもずっと、この当主は気質が穏やかであるように感じられた。
四方家の中でも一線を画す家柄である東宮の当主ならば、ある程度居丈高に振る舞ってもよさそうなものだが、そんなところは少しもない。
当主は桃子に屈託なく話しかけた。憑坐や巫女姫の話が出ることはついぞなく、聞かれたのは主に斉城学園での学業や生徒活動のことについてばかりだった。
もっと深刻な話をされるとばかり思い込んでいたため、少々肩透かしを食らった。
当主は春彦が町や学園生活に馴染めるかどうかを案じているようで、いろいろ息子に教えてやってほしいと頼まれた。
桃子も初めのうちは緊張していたが、彼の穏やかさに触れて、いつの間にか肩の力は抜けていた。
当主は、志津音とも非常に仲睦まじくあるように見えた。
考えてみれば、この当主は、わざわざ手間も費用もそれなりにかかる代理出産という形で春彦を出生させなくても、自らが山田筋の女性と直接関係を持ち、そのまま産ませることもできたはずなのだ。その手段をとらずに、自身の妻の実子ともなるよう事を進めたのは、ひとえに妻を大切にしているからではないか。
そう考えを巡らせると、桃子はこの夫妻の関係をとてもうらやましく思った。
とはいえ、いくら表面上で人が良く見えても、その真髄まで推し量ることはできない。
この当主は、嫌がる春彦を脅迫し、東宮の後継となるよう強要したとも聞いている。今桃子に見せている一面だけが、彼の持つ顔でないことは確かだろう。
それでも、それをわかった上でなお、桃子はこの当主に好感を抱いていた。親とは思っていないと春彦から聞かされていても、この当主の人となりが、春彦の実直な内面に少なからず影響を及ぼしているだろうことが、端々でうかがえたのだ。
当主との顔合わせを終えたあと、夕食と入浴のどちらを先に済ませたいかを志津音に問われ、桃子は遠慮がちに入浴と答えていた。度重なる環境の変化や心労がたたり、食欲はあまりわかなかった。
春彦は、何かあっては困ると桃子のそばを離れたがらなかったが、さすがに浴室までついてくるわけにもいかず、渋々桃子を志津音に任せていた。
浴室へと案内される折に、志津音は桃子の今までの苦労をたいそうねぎらってくれた。
それから、雪江が退いたことで町の守護結界が弱まっても、入り込んだ魔は東宮の勢力で祓うから心配はいらないと元気づけてくれもした。病院で春彦が話していたとおりで、桃子はとても励まされる思いだった。
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志津音は話し方も仕草も非常に柔和で、男性と渡り合っていくような気の強いタイプには見えなかったため、なんとなく気持ちはわかる気がした。この短時間のあいだに、もうかなり打ち解けていた。
脱衣所まで来ると、誰もいないのをいいことに、志津音は少々込み入った話を桃子に打ち明けてきた。どうやら、本当はこれが一番話したかったことなのだろうと、すぐにわかる熱のこもった口ぶりだった。
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志津音は涙を必死で抑えているように見えた。
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