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第三章 蔑むべきもの
出せない答え
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救急車の付き添いは、雪江の弟である誠一が務めた。彼は千歳の父であり、桃子の叔父だ。
救急隊が到着するまでのあいだ、誠一には事情を説明せざるをえなかった。案の定、彼はひどく驚いていたが、それでもこちらの話を聞き入れてはくれた。
南根神社の臨時宮司を務めている誠一ですら、桃子のことに関して、雪江から何一つ聞かされてはいなかったらしい。彼の理解が早かったのは、今までの姉の不可解な言動の数々に、彼自身思うところがあったからだろう。
桃子、春彦、忍の三人は、救急車を追う形で別に車を出してもらい、ともに病院へ向かった。三人ともが気まずく、車中の空気は重たいものだった。
雪江は院内でできる検査の一通りを受けた。その間、彼女の意識はずっと戻らなかった。しかし、個室の入院ベッドに運ばれたころには、酸素吸入の必要もなくなり、抗生剤と補液の点滴のみの治療にとどまった。傷はわずかに残っていたが、完全に止血もしている。当然、命に別状はなかった。
そして、しばらくして雪江は目を覚ましていた。彼女は先ほどまでの出来事を一切覚えていなかった。そればかりか桃子のことまでも、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。桃子の顔を見ても、自分の娘とは認識できなかったのだ。
機転をきかせた誠一が、桃子たちを部屋から出して、すぐに担当医を呼んだ。
医師いわく、脳に明らかな異常は見られず、心因性の記憶障害である可能性が高いとのことだった。逆行性健忘であり、不快な体験や特定の人物を思い出せなくなることが多いのだという。一般常識的な知識は保持していたため、その説が濃厚だろうと、誠一はあとに桃子に説明した。
それから叔父はこうも告げた。しばらくは、桃子は雪江から離れて暮らしたほうが良いと。それには、桃子も同意せざるをえなかった。
互いを大切に思い合っているということが、やっとわかったのに。桃子は必死で泣くのをこらえ、唇を引き結んだ。
しばらくして、忍の両親までもが駆けつけた。連絡したのは忍だった。
今後、入院等の付き添いに南条の負担が増すのは目に見えており、ぜひとも先日の恩を返させてほしい、協力できることは何でもすると、二人は進んで申し出てくれたのだった。
北条に、含むところはもうあるはずもなかった。誠一は、ありがたいと素直に北条からの助力を受け入れた。長らく水面下で対立してきた北条と南条が、はからずも手を取り合うきっかけとなったのだ。
ひとまず当面で一番の問題は、雪江が療養するあいだ、いかにして町の守護結界を保持していくかについてだった。
話題がそこに転じたとき、憂慮に及ばないと、大人たちに臆せず正面から告げたのは春彦だった。
「今のような不測の事態に見舞われたときのために、東宮と西宮があるのです。守護結界が緩み、外部から良からぬものが入り込んだとしても我々が撃退します。それこそが、荒神の血をもっとも多く繋いできた家の本分であり、使命ですから」
大人たちは目を見張った。
彼らはそもそも、ずっと峰外にいた春彦のことをよく知らなかったのだ。今初めて彼の人となりを目の当たりにしていた。
東宮は昔から秘匿主義的な家と見なされていた。過去に一族が次々と不審な死を遂げた――暗殺の可能性が高い――と春彦から聞かされたとき、桃子は東宮のそのような家風に、合点がいったのだった。
大人たちはあらためて、憑坐の座を取り戻した春彦に目を向けた。そして、彼に宿る無視できない神気に新たな希望を見出してもいた。
忍の両親などは、息子が憑坐でなくなったことに安堵し、その座を引き継いだ春彦に感謝すらしているように見えた。先日の一件を鑑みれば無理もない話だった。
春彦の提言が、大人たちを幾分か前向きにさせたことには間違いなかった。
彼らは現在直面している問題について、しばらく話し込むことに決めたようだ。外部から産巣日町の秘密を探ろうとする者や、その加護を奪おうとする輩は、いつの世にも現れるものらしい。
大人だけの算段に、子どもは早々に締め出されていた。
しかし、三人ともほとんど徹夜だったこともあり、やっと解放されたという気持ちのほうが勝った。
待合室のロビーチェアでそれぞれ休んでいると、ふと忍が話を切り出した。
「桃子、東宮。三人で少し話がしたい。いいだろうか」
忍が持ちかけてくることを予期していたように、春彦はすぐに了承した。桃子も慌てて頷く。
話し合いに適した場所を忍が検討していると、場の空気が一変した。周囲にいたはずの人々の姿がぼやけ、彼らの声や息づかい、存在感までもが薄れた。すぐにわかった。これは、三人が違う界層に入ったのだ。
ただし、戻ろうと思えばすぐにでも現世に戻れるような、かなり浅めの層だ。
桃子はすぐさま春彦を見た。再び荒神の力を取り戻した、彼のなせる業だった。
春彦が忍に目配せする。
「これなら部外者に聞かれる心配もないでしょう」
「ああ、そうだな。助かる」
忍はあらためて、桃子と春彦の二人を交互に見つめた。
「桃子、東宮。お前たち二人は、今後どうしたいと考えている?」
忍らしい率直な切り出し方だった。これには、まず春彦が返答した。
「そうですね。質問の意図を明確に示していただくためにも、北条の君――まずは、あなたご自身の考えを先に伺わせてください」
春彦は、普段よりも毅然としているように見えた。熱くならず相手の出方を探ろうする姿勢は、春彦も忍も似たところがあるようだ。
忍が小さく頷く。
「自分の意見から述べるのが礼儀だな。回りくどいのは好かないので単刀直入に言わせてもらうが――私は桃子が好きだ。彼女を手に入れたいし、その上で、彼女を傷つけるすべてのものから守りたい。できることなら、今すぐにでも北条の家に連れ帰りたいと思っている」
突然そう言われて桃子は戸惑ったが、忍は堂々と顔を上げていた。
彼の言葉を受けて、ようやく春彦も口を開く。
「奇遇ですね。僕も桃子さんを東宮に連れ帰りたいと思っていました。今度こそ、この手で彼女を守りたいと考えています。もちろん選択権は桃子さんにあります。再び憑坐になったからといって、彼女の意思を無視していい理由にはならない。――ですが、もしも桃子さんの身に危険が迫るなら、そのときは何を犠牲にしてでも彼女の安全を最優先に動きます。たとえ、それが桃子さんの意思に反することであっても」
忍がわずかに眉を動かす。そして、縮こまっている桃子に容赦なく質問をぶつけた。
「桃子はどうしたい? 正直な気持ちを聞かせてくれないか。私たちに気兼ねなんてしなくていいから。家のことや巫女姫であることなど――それらすべてのしがらみも一旦抜きにして、ただ、お前が純粋にどうしたいのかを知りたい」
「わ、私は……」
桃子は何度も口を開け閉めしては、返答に窮していた。ようやく絞り出した言葉でさえも、先に述べた二人とは比較にならないほど、歯切れの悪いものだった。
「ごめんなさい、よくわからないの……。二人とも、あんなに真摯な言葉をくれたのに。私自身これからどうしていきたいのか、どうなりたいのかが少しも見えてこない。こんな不誠実な返事しかできなくて、ごめんなさい……」
肩を震わせる姿は痛ましく、これ以上無理に本音を聞き出そうとするのは、さすがに酷だと二人も気づいたようだった。
つまるところ、桃子には余裕がないのだ。今を生きるのに精いっぱいで、先のことにまで気が回らない。加えて身近な者からないがしろにされ続けてきたことで、自己を抑圧することにも慣れすぎている。桃子にとって、自分の気持ちと向き合うことほど難しく思えるものもなかった。
忍が申し訳なさそうに告げた。
「すまない。私も気が急くあまり結論を急ぎすぎた。ただでさえ、お前はこれまでもずっと大変な目に遭ってきたというのに。考える時間が必要なのは、当然のことだ」
「そうですね……。大事なことですし、すぐに答えを出すのは難しいでしょう。まずは、桃子さんの落ち着ける環境を取り戻すことが先決です。――それに、『わからない』というのも意見のうちだと思いますよ。現時点で、桃子さんがそう感じているということなのですから」
「ありがとう、二人とも……」
しかし、桃子の表情は、晴れるどころかますます暗くかげるばかりだった。
その様子を見て、忍は何かを決意したように顔を上げた。
「桃子、東宮。お前たち二人の思いはよくわかった。その上であらためて、もう一度だけ私の考えを聞いてほしい。あくまで私の考えであって、聞き入れてもらう必要はまったくない」
「伺いましょう」
春彦が言った。桃子も異論はなかったので、小さく頷く。
忍は少し緊張した面持ちで、心中を打ち明けた。
「桃子は――――東宮のもとに行くのが、最善だと思う」
忍の声は珍しく震えていた。
「雪江さんの命を奪ってまで桃子を守り抜いた東宮を見て、思ったんだ。私には到底真似できない、と。結果的に蘇生できたとはいえ、あの時点で雪江さんを救える保証はどこにもなかった。東宮、お前は桃子のためなら、ためらわずに自分の手を汚せる人間なのだな。私は桃子が悲しむとか、嫌われてしまうとか、そういう雑念に囚われて、みすみす彼女を危険にさらしただけだった。完全に負けたと思ったよ」
それに――と、忍は付言する。
「私では、誓約の儀は成立しなかった。西宮もそうだ。桃子は翌日すぐに月経を迎えている。しかし、東宮のときのみ、そうはならなかったのだろう。妊娠成立には至らなかったものの、荒神の痕跡を、体内から強制的に排除するような現象は起きていない。つまり、現時点で、お前が一番可能性を持った憑坐なのではないか」
忍の話を聞いて、春彦はややいぶかしむように問いかけた。
「……それはつまり、僕が桃子さんと誓約の儀を成立させることを、あなたは望んでいるということですか」
「そうだ。私は初めからそのつもりで、三人で話がしたいと言った。たとえ悪手でも……こんなばかげたことは、一刻も早く終わりにしなければならない。でないと、いつまでも桃子が傷つくばかりだ。彼女が巫女姫である以上は、どれほど拒もうと、真の意味で荒神からは逃れられない。荒神の求めに応じなければ、巫女姫の命はない。私も巫女姫家系の末裔だ、その事実は嫌というほど知っている。だから裏をかこうと、自分が巫女姫となり荒神を弑するつもりでいた。しかし、それももう叶わなくなってしまったからな」
忍の目は、今でもなお荒神――春彦を睨み据えており、とても身を引くつもりでいる人間には見えなかった。
それでも今の話をしたのは、現状がどうしようもなく八方塞がりだからに過ぎない。忍自身、本当は不本意極まりないのだろう。
忍は再度、念を押すように言った。
「言うまでもないが、最終的にどうするのかを決めるのはお前たち二人だ。……長々とすまなかったな」
表情をかげらせた忍を見て、桃子はとっさに声をかけようとしたが、結局は閉口するしかなかった。
それぞれが今まで必死にやってきた。春彦も忍も、どうにかしてさだめに抗おうと、試行錯誤して動いてきたはずなのだ。それなのに、結局最後はそのさだめに従わざるをえないというのか。
(誰も、望んでこうなったわけじゃないのに……)
桃子が言葉もないまま春彦を見やる。彼も複雑な表情を浮かべていた。
しかし、それでも桃子の視線に気づくと、彼はわずかに笑顔を見せた。理不尽さを何もかも呑み込んで、その上でなお思いやりを示すことができる――それが彼の強さだと思った。
「桃子さん、落ち着いてからでも、一度大巫女様にお話を伺いに行きましょう。それから今後の身の振り方を考える、でも遅くはないと思いますよ」
「そう……だね。ありがとう、春彦くん」
自然と礼が口をついて出た。たとえ、実の母親を一度は本当に殺された相手でも、それでも、春彦を嫌いになることは今後もきっとないのだろうと思えた。
(さようなら、お母様……)
その日から、桃子は東宮の家で暮らすことになった。
救急隊が到着するまでのあいだ、誠一には事情を説明せざるをえなかった。案の定、彼はひどく驚いていたが、それでもこちらの話を聞き入れてはくれた。
南根神社の臨時宮司を務めている誠一ですら、桃子のことに関して、雪江から何一つ聞かされてはいなかったらしい。彼の理解が早かったのは、今までの姉の不可解な言動の数々に、彼自身思うところがあったからだろう。
桃子、春彦、忍の三人は、救急車を追う形で別に車を出してもらい、ともに病院へ向かった。三人ともが気まずく、車中の空気は重たいものだった。
雪江は院内でできる検査の一通りを受けた。その間、彼女の意識はずっと戻らなかった。しかし、個室の入院ベッドに運ばれたころには、酸素吸入の必要もなくなり、抗生剤と補液の点滴のみの治療にとどまった。傷はわずかに残っていたが、完全に止血もしている。当然、命に別状はなかった。
そして、しばらくして雪江は目を覚ましていた。彼女は先ほどまでの出来事を一切覚えていなかった。そればかりか桃子のことまでも、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。桃子の顔を見ても、自分の娘とは認識できなかったのだ。
機転をきかせた誠一が、桃子たちを部屋から出して、すぐに担当医を呼んだ。
医師いわく、脳に明らかな異常は見られず、心因性の記憶障害である可能性が高いとのことだった。逆行性健忘であり、不快な体験や特定の人物を思い出せなくなることが多いのだという。一般常識的な知識は保持していたため、その説が濃厚だろうと、誠一はあとに桃子に説明した。
それから叔父はこうも告げた。しばらくは、桃子は雪江から離れて暮らしたほうが良いと。それには、桃子も同意せざるをえなかった。
互いを大切に思い合っているということが、やっとわかったのに。桃子は必死で泣くのをこらえ、唇を引き結んだ。
しばらくして、忍の両親までもが駆けつけた。連絡したのは忍だった。
今後、入院等の付き添いに南条の負担が増すのは目に見えており、ぜひとも先日の恩を返させてほしい、協力できることは何でもすると、二人は進んで申し出てくれたのだった。
北条に、含むところはもうあるはずもなかった。誠一は、ありがたいと素直に北条からの助力を受け入れた。長らく水面下で対立してきた北条と南条が、はからずも手を取り合うきっかけとなったのだ。
ひとまず当面で一番の問題は、雪江が療養するあいだ、いかにして町の守護結界を保持していくかについてだった。
話題がそこに転じたとき、憂慮に及ばないと、大人たちに臆せず正面から告げたのは春彦だった。
「今のような不測の事態に見舞われたときのために、東宮と西宮があるのです。守護結界が緩み、外部から良からぬものが入り込んだとしても我々が撃退します。それこそが、荒神の血をもっとも多く繋いできた家の本分であり、使命ですから」
大人たちは目を見張った。
彼らはそもそも、ずっと峰外にいた春彦のことをよく知らなかったのだ。今初めて彼の人となりを目の当たりにしていた。
東宮は昔から秘匿主義的な家と見なされていた。過去に一族が次々と不審な死を遂げた――暗殺の可能性が高い――と春彦から聞かされたとき、桃子は東宮のそのような家風に、合点がいったのだった。
大人たちはあらためて、憑坐の座を取り戻した春彦に目を向けた。そして、彼に宿る無視できない神気に新たな希望を見出してもいた。
忍の両親などは、息子が憑坐でなくなったことに安堵し、その座を引き継いだ春彦に感謝すらしているように見えた。先日の一件を鑑みれば無理もない話だった。
春彦の提言が、大人たちを幾分か前向きにさせたことには間違いなかった。
彼らは現在直面している問題について、しばらく話し込むことに決めたようだ。外部から産巣日町の秘密を探ろうとする者や、その加護を奪おうとする輩は、いつの世にも現れるものらしい。
大人だけの算段に、子どもは早々に締め出されていた。
しかし、三人ともほとんど徹夜だったこともあり、やっと解放されたという気持ちのほうが勝った。
待合室のロビーチェアでそれぞれ休んでいると、ふと忍が話を切り出した。
「桃子、東宮。三人で少し話がしたい。いいだろうか」
忍が持ちかけてくることを予期していたように、春彦はすぐに了承した。桃子も慌てて頷く。
話し合いに適した場所を忍が検討していると、場の空気が一変した。周囲にいたはずの人々の姿がぼやけ、彼らの声や息づかい、存在感までもが薄れた。すぐにわかった。これは、三人が違う界層に入ったのだ。
ただし、戻ろうと思えばすぐにでも現世に戻れるような、かなり浅めの層だ。
桃子はすぐさま春彦を見た。再び荒神の力を取り戻した、彼のなせる業だった。
春彦が忍に目配せする。
「これなら部外者に聞かれる心配もないでしょう」
「ああ、そうだな。助かる」
忍はあらためて、桃子と春彦の二人を交互に見つめた。
「桃子、東宮。お前たち二人は、今後どうしたいと考えている?」
忍らしい率直な切り出し方だった。これには、まず春彦が返答した。
「そうですね。質問の意図を明確に示していただくためにも、北条の君――まずは、あなたご自身の考えを先に伺わせてください」
春彦は、普段よりも毅然としているように見えた。熱くならず相手の出方を探ろうする姿勢は、春彦も忍も似たところがあるようだ。
忍が小さく頷く。
「自分の意見から述べるのが礼儀だな。回りくどいのは好かないので単刀直入に言わせてもらうが――私は桃子が好きだ。彼女を手に入れたいし、その上で、彼女を傷つけるすべてのものから守りたい。できることなら、今すぐにでも北条の家に連れ帰りたいと思っている」
突然そう言われて桃子は戸惑ったが、忍は堂々と顔を上げていた。
彼の言葉を受けて、ようやく春彦も口を開く。
「奇遇ですね。僕も桃子さんを東宮に連れ帰りたいと思っていました。今度こそ、この手で彼女を守りたいと考えています。もちろん選択権は桃子さんにあります。再び憑坐になったからといって、彼女の意思を無視していい理由にはならない。――ですが、もしも桃子さんの身に危険が迫るなら、そのときは何を犠牲にしてでも彼女の安全を最優先に動きます。たとえ、それが桃子さんの意思に反することであっても」
忍がわずかに眉を動かす。そして、縮こまっている桃子に容赦なく質問をぶつけた。
「桃子はどうしたい? 正直な気持ちを聞かせてくれないか。私たちに気兼ねなんてしなくていいから。家のことや巫女姫であることなど――それらすべてのしがらみも一旦抜きにして、ただ、お前が純粋にどうしたいのかを知りたい」
「わ、私は……」
桃子は何度も口を開け閉めしては、返答に窮していた。ようやく絞り出した言葉でさえも、先に述べた二人とは比較にならないほど、歯切れの悪いものだった。
「ごめんなさい、よくわからないの……。二人とも、あんなに真摯な言葉をくれたのに。私自身これからどうしていきたいのか、どうなりたいのかが少しも見えてこない。こんな不誠実な返事しかできなくて、ごめんなさい……」
肩を震わせる姿は痛ましく、これ以上無理に本音を聞き出そうとするのは、さすがに酷だと二人も気づいたようだった。
つまるところ、桃子には余裕がないのだ。今を生きるのに精いっぱいで、先のことにまで気が回らない。加えて身近な者からないがしろにされ続けてきたことで、自己を抑圧することにも慣れすぎている。桃子にとって、自分の気持ちと向き合うことほど難しく思えるものもなかった。
忍が申し訳なさそうに告げた。
「すまない。私も気が急くあまり結論を急ぎすぎた。ただでさえ、お前はこれまでもずっと大変な目に遭ってきたというのに。考える時間が必要なのは、当然のことだ」
「そうですね……。大事なことですし、すぐに答えを出すのは難しいでしょう。まずは、桃子さんの落ち着ける環境を取り戻すことが先決です。――それに、『わからない』というのも意見のうちだと思いますよ。現時点で、桃子さんがそう感じているということなのですから」
「ありがとう、二人とも……」
しかし、桃子の表情は、晴れるどころかますます暗くかげるばかりだった。
その様子を見て、忍は何かを決意したように顔を上げた。
「桃子、東宮。お前たち二人の思いはよくわかった。その上であらためて、もう一度だけ私の考えを聞いてほしい。あくまで私の考えであって、聞き入れてもらう必要はまったくない」
「伺いましょう」
春彦が言った。桃子も異論はなかったので、小さく頷く。
忍は少し緊張した面持ちで、心中を打ち明けた。
「桃子は――――東宮のもとに行くのが、最善だと思う」
忍の声は珍しく震えていた。
「雪江さんの命を奪ってまで桃子を守り抜いた東宮を見て、思ったんだ。私には到底真似できない、と。結果的に蘇生できたとはいえ、あの時点で雪江さんを救える保証はどこにもなかった。東宮、お前は桃子のためなら、ためらわずに自分の手を汚せる人間なのだな。私は桃子が悲しむとか、嫌われてしまうとか、そういう雑念に囚われて、みすみす彼女を危険にさらしただけだった。完全に負けたと思ったよ」
それに――と、忍は付言する。
「私では、誓約の儀は成立しなかった。西宮もそうだ。桃子は翌日すぐに月経を迎えている。しかし、東宮のときのみ、そうはならなかったのだろう。妊娠成立には至らなかったものの、荒神の痕跡を、体内から強制的に排除するような現象は起きていない。つまり、現時点で、お前が一番可能性を持った憑坐なのではないか」
忍の話を聞いて、春彦はややいぶかしむように問いかけた。
「……それはつまり、僕が桃子さんと誓約の儀を成立させることを、あなたは望んでいるということですか」
「そうだ。私は初めからそのつもりで、三人で話がしたいと言った。たとえ悪手でも……こんなばかげたことは、一刻も早く終わりにしなければならない。でないと、いつまでも桃子が傷つくばかりだ。彼女が巫女姫である以上は、どれほど拒もうと、真の意味で荒神からは逃れられない。荒神の求めに応じなければ、巫女姫の命はない。私も巫女姫家系の末裔だ、その事実は嫌というほど知っている。だから裏をかこうと、自分が巫女姫となり荒神を弑するつもりでいた。しかし、それももう叶わなくなってしまったからな」
忍の目は、今でもなお荒神――春彦を睨み据えており、とても身を引くつもりでいる人間には見えなかった。
それでも今の話をしたのは、現状がどうしようもなく八方塞がりだからに過ぎない。忍自身、本当は不本意極まりないのだろう。
忍は再度、念を押すように言った。
「言うまでもないが、最終的にどうするのかを決めるのはお前たち二人だ。……長々とすまなかったな」
表情をかげらせた忍を見て、桃子はとっさに声をかけようとしたが、結局は閉口するしかなかった。
それぞれが今まで必死にやってきた。春彦も忍も、どうにかしてさだめに抗おうと、試行錯誤して動いてきたはずなのだ。それなのに、結局最後はそのさだめに従わざるをえないというのか。
(誰も、望んでこうなったわけじゃないのに……)
桃子が言葉もないまま春彦を見やる。彼も複雑な表情を浮かべていた。
しかし、それでも桃子の視線に気づくと、彼はわずかに笑顔を見せた。理不尽さを何もかも呑み込んで、その上でなお思いやりを示すことができる――それが彼の強さだと思った。
「桃子さん、落ち着いてからでも、一度大巫女様にお話を伺いに行きましょう。それから今後の身の振り方を考える、でも遅くはないと思いますよ」
「そう……だね。ありがとう、春彦くん」
自然と礼が口をついて出た。たとえ、実の母親を一度は本当に殺された相手でも、それでも、春彦を嫌いになることは今後もきっとないのだろうと思えた。
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