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第三章 蔑むべきもの
鬼気迫る
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「春彦くん……?」
かすかに聴こえていた音曲は、春彦が奏でていたものだった。
彼は上衣も羽織りも袴も、すべて黒のものを着ている。一瞬カラスの群れと見分けがつかなかったほど、この漆黒の景色に溶け込んでいた。
雪江が今そうであるように、春彦もまた、厳しい表情で雪江を睨み据えていた。こんなにも敵意をむき出しにした彼を、桃子は見たことがなかった。
雪江が歯噛みする。
「あと少しのところだったのに。やはり、庭にいたカラスは東宮の眷属か。さっさと始末しておけばよかった」
「カラスだけではありません、南条の当主殿。あなたの力が弱まり結界が緩みかけた隙に、様々な神使を境内に入りこませました。南条はすでに、外からも内からも包囲されています。諦めて桃子さんを引き渡してください」
「寝ぼけたことを言わないで。この子は私の娘よ。なぜ赤の他人に――もはや憑坐でもなんでもない部外者に渡さなくてはならないの。うちの神職たちは何をしていたのかしら。こんなにもあっさり他家の侵入を許すだなんて」
目に見えて苛立つ雪江とは対照的に、春彦は終始冷静さを崩さなかった。
「東宮は獣使いですが、広義の動物という意味では人間を使役することも理論上は可能です。他生物に比べて脳の構造が複雑で、操ることが難しくはありましたが……屋敷に入りこむくらいのことはできました。心身に後遺症が残るものではありませんので、ご安心ください」
何から何まで、自分よりもかなり年少者の春彦にしてやられたことが、いっそう雪江の神経を逆なでした。
「本当に不愉快だわ。生意気にも、こんなところにまで現れて。南条家の中でもここまでの深層にたどり着けるのは、当主である私くらいのものなのに。まして東宮の者が単独で追ってこられるなど、ありえない。我ら一族と同等の結びを扱えるなどと」
「それは……。ここまで導いてくださった方がいたのです。僕の力ではありません」
「なんですって。誰なの、それは」
雪江は内部からの裏切りを危惧したようだが、春彦がそこまで律儀に答えることはなかった。
雪江がますます逆上していく。
「本当にいまいましい。お前など、もうこの子には指一本触れてはならない存在のはずでしょう」
「それを言うならば当主殿、あなたのほうこそ、この町の宝とも言える大切な巫女姫を、ご自分の勝手な都合と思い込みで殺害しようとするなんて、許されることではありません。桃子さんは現世に帰してもらいます」
春彦の合図とともに、大量のカラスが雪江に襲いかかる。
雪江の一瞬の隙をついて、春彦は桃子の手を引き寄せた。桃子が何かを言う間もなく、彼は強引に桃子を連れて、界層の上方を目指してものすごい速さで一気に飛躍した。
後方から、カラスを振り切ってきた雪江が、鬼のような形相で追ってくるのが見える。彼女はいたるところに傷を負い、血まみれになっていた。
桃子はもう母を見ていられなくなり、無心に叫んだ。
「もうやめて、お母様。春彦くんも、お願い、これ以上お母様を傷つけないで。お母様は、こんなことができるお体ではないのに」
桃子がいくら懇願しても、両者とも彼女の話に耳を貸すことはなかった。
雪江がもうすぐそこまで接近している。鬼気迫る母の様相に、桃子は声にならない悲鳴を漏らした。
「桃子さん、あなたを苦しまずに殺してあげたかったけど……。仕方がないから、あなたの体を二つの層に分断しましょう。一瞬で体が真二つに引き裂かれるから、即死できるはずよ」
雪江がそう言って手を伸ばしてきたので、桃子は恐怖で体をすくみ上らせた。
雪江の手がまさに桃子に触れようとしたとき、春彦が、間一髪のところで桃子の体を上層に向けて思いきり押し上げた。
勢いよく放り出された桃子の体を、しっかりと抱きとめる腕があった。――忍だ。ようやく、憑坐が介入できる層まで戻ってきたのだ。
「東宮、恩に着る」
忍は、春彦がなぜここにいるのか、一つも解せないまま礼を告げた。
「忍ちゃん……っ」
「桃子、遅れてすまない。一気に上まで行くぞ、しっかり掴まっていろ」
桃子が忍の手に渡ってからも、雪江はなお諦めずに桃子を手にかけようとしていた。追いつめられてもう後がないような、死に物狂いの形相だ。
忍は桃子を必死で守っていたが、空間を操ることにおいては、雪江のほうがわずかに長けているようだった。
忍は憑坐となってまだ日が浅く、加えてもともと巫女姫の家系に生まれ育ったがゆえに、荒神の力の使い方やその心得など、何一つ学ぶ機会もなかった。そうでなくても荒神の力は、一つ間違えれば容易く人の命を奪ってしまう。
この場で雪江を退けるのは造作もないが、それは雪江の命を奪うということでもあった。相手が本気で殺意を向けてきている分、こちらも手心を加えることはできない。
忍が躊躇しているあいだに、雪江が神力を飛ばして桃子の体を切り裂こうとしてきた。間一髪で防いだものの、当たっていれば、確実に桃子は命を落としていただろう。忍は肝が冷える思いだった。
なんとか桃子を守りたい。――が、彼女の母である雪江を手にかけたくもなかった。
忍の優しさは甘さともなり、それが致命的に判断を遅らせてもいる。
忍が思い切れないでいるのを悟った春彦が、叫ぶ。
「北条の君、あなたができないなら僕がやります。桃子さんは絶対に死なせない」
「東宮、お前――」
忍の迷い、そして春彦の強い覚悟が、正確に合致するように、それは起こった。
強烈な圧が春彦にのしかかり、その衝撃に耐えられずに、彼の眼鏡が粉々に砕け散る。しかし、視力を矯正する道具を失っても、彼の目は、どこまでも見通すことができる神の目になり変わっていた。
その瞬間、あっけなく雪江の心臓は貫かれた。
荒神の力を使ったのは、春彦だった。
桃子が大きく目を見開く。
「お、かあ、さま……」
現世に戻れたようだった。南根神社の境内の、鎮守の森に出ていた。辺りはもうすっかり明るい。
動かなくなった雪江が地面に横たわっている。おびただしい量の血が、今になってあふれ返り、地面を赤く侵食し始めていた。
桃子が震える足で母のそばまで行く。何を確かめなくても、母がこと切れていることは一目でわかった。開いたままの瞳には、驚くほど生命の躍動感が感じとれない。先ほどまであれほど必死に動いていた体は、今や微動だにしない。
雪江のかたわらで、ショックで固まっている桃子を、春彦が押しのけるようにどかせた。
「離れてください。今、蘇生させますから」
春彦自身も、焦っているのが見て取れた。彼は両手を雪江の胸元にかざし、慎重に力を使う。すると、みるみるうちに、雪江の体にあった無数の傷が修復されていった。
荒神の持つ、破壊と再生の性質。これは再生にあたるほうの力だった。
しばらくして、雪江が息を吹き返したのがわかった。もし少しでも蘇生が遅れていたら、助かってはいなかったかもしれない。
桃子は涙をぼろぼろこぼして泣いていた。
ほんの少しだけ、安堵した様子で春彦が告げる。
「また襲ってこられても困るので、今の段階で完治はさせません。命に別条のないところでとどめておきます。お気の毒ではありますが……」
のちほど、雪江は救急車で町内の総合病院へ運ばれることとなった。
かすかに聴こえていた音曲は、春彦が奏でていたものだった。
彼は上衣も羽織りも袴も、すべて黒のものを着ている。一瞬カラスの群れと見分けがつかなかったほど、この漆黒の景色に溶け込んでいた。
雪江が今そうであるように、春彦もまた、厳しい表情で雪江を睨み据えていた。こんなにも敵意をむき出しにした彼を、桃子は見たことがなかった。
雪江が歯噛みする。
「あと少しのところだったのに。やはり、庭にいたカラスは東宮の眷属か。さっさと始末しておけばよかった」
「カラスだけではありません、南条の当主殿。あなたの力が弱まり結界が緩みかけた隙に、様々な神使を境内に入りこませました。南条はすでに、外からも内からも包囲されています。諦めて桃子さんを引き渡してください」
「寝ぼけたことを言わないで。この子は私の娘よ。なぜ赤の他人に――もはや憑坐でもなんでもない部外者に渡さなくてはならないの。うちの神職たちは何をしていたのかしら。こんなにもあっさり他家の侵入を許すだなんて」
目に見えて苛立つ雪江とは対照的に、春彦は終始冷静さを崩さなかった。
「東宮は獣使いですが、広義の動物という意味では人間を使役することも理論上は可能です。他生物に比べて脳の構造が複雑で、操ることが難しくはありましたが……屋敷に入りこむくらいのことはできました。心身に後遺症が残るものではありませんので、ご安心ください」
何から何まで、自分よりもかなり年少者の春彦にしてやられたことが、いっそう雪江の神経を逆なでした。
「本当に不愉快だわ。生意気にも、こんなところにまで現れて。南条家の中でもここまでの深層にたどり着けるのは、当主である私くらいのものなのに。まして東宮の者が単独で追ってこられるなど、ありえない。我ら一族と同等の結びを扱えるなどと」
「それは……。ここまで導いてくださった方がいたのです。僕の力ではありません」
「なんですって。誰なの、それは」
雪江は内部からの裏切りを危惧したようだが、春彦がそこまで律儀に答えることはなかった。
雪江がますます逆上していく。
「本当にいまいましい。お前など、もうこの子には指一本触れてはならない存在のはずでしょう」
「それを言うならば当主殿、あなたのほうこそ、この町の宝とも言える大切な巫女姫を、ご自分の勝手な都合と思い込みで殺害しようとするなんて、許されることではありません。桃子さんは現世に帰してもらいます」
春彦の合図とともに、大量のカラスが雪江に襲いかかる。
雪江の一瞬の隙をついて、春彦は桃子の手を引き寄せた。桃子が何かを言う間もなく、彼は強引に桃子を連れて、界層の上方を目指してものすごい速さで一気に飛躍した。
後方から、カラスを振り切ってきた雪江が、鬼のような形相で追ってくるのが見える。彼女はいたるところに傷を負い、血まみれになっていた。
桃子はもう母を見ていられなくなり、無心に叫んだ。
「もうやめて、お母様。春彦くんも、お願い、これ以上お母様を傷つけないで。お母様は、こんなことができるお体ではないのに」
桃子がいくら懇願しても、両者とも彼女の話に耳を貸すことはなかった。
雪江がもうすぐそこまで接近している。鬼気迫る母の様相に、桃子は声にならない悲鳴を漏らした。
「桃子さん、あなたを苦しまずに殺してあげたかったけど……。仕方がないから、あなたの体を二つの層に分断しましょう。一瞬で体が真二つに引き裂かれるから、即死できるはずよ」
雪江がそう言って手を伸ばしてきたので、桃子は恐怖で体をすくみ上らせた。
雪江の手がまさに桃子に触れようとしたとき、春彦が、間一髪のところで桃子の体を上層に向けて思いきり押し上げた。
勢いよく放り出された桃子の体を、しっかりと抱きとめる腕があった。――忍だ。ようやく、憑坐が介入できる層まで戻ってきたのだ。
「東宮、恩に着る」
忍は、春彦がなぜここにいるのか、一つも解せないまま礼を告げた。
「忍ちゃん……っ」
「桃子、遅れてすまない。一気に上まで行くぞ、しっかり掴まっていろ」
桃子が忍の手に渡ってからも、雪江はなお諦めずに桃子を手にかけようとしていた。追いつめられてもう後がないような、死に物狂いの形相だ。
忍は桃子を必死で守っていたが、空間を操ることにおいては、雪江のほうがわずかに長けているようだった。
忍は憑坐となってまだ日が浅く、加えてもともと巫女姫の家系に生まれ育ったがゆえに、荒神の力の使い方やその心得など、何一つ学ぶ機会もなかった。そうでなくても荒神の力は、一つ間違えれば容易く人の命を奪ってしまう。
この場で雪江を退けるのは造作もないが、それは雪江の命を奪うということでもあった。相手が本気で殺意を向けてきている分、こちらも手心を加えることはできない。
忍が躊躇しているあいだに、雪江が神力を飛ばして桃子の体を切り裂こうとしてきた。間一髪で防いだものの、当たっていれば、確実に桃子は命を落としていただろう。忍は肝が冷える思いだった。
なんとか桃子を守りたい。――が、彼女の母である雪江を手にかけたくもなかった。
忍の優しさは甘さともなり、それが致命的に判断を遅らせてもいる。
忍が思い切れないでいるのを悟った春彦が、叫ぶ。
「北条の君、あなたができないなら僕がやります。桃子さんは絶対に死なせない」
「東宮、お前――」
忍の迷い、そして春彦の強い覚悟が、正確に合致するように、それは起こった。
強烈な圧が春彦にのしかかり、その衝撃に耐えられずに、彼の眼鏡が粉々に砕け散る。しかし、視力を矯正する道具を失っても、彼の目は、どこまでも見通すことができる神の目になり変わっていた。
その瞬間、あっけなく雪江の心臓は貫かれた。
荒神の力を使ったのは、春彦だった。
桃子が大きく目を見開く。
「お、かあ、さま……」
現世に戻れたようだった。南根神社の境内の、鎮守の森に出ていた。辺りはもうすっかり明るい。
動かなくなった雪江が地面に横たわっている。おびただしい量の血が、今になってあふれ返り、地面を赤く侵食し始めていた。
桃子が震える足で母のそばまで行く。何を確かめなくても、母がこと切れていることは一目でわかった。開いたままの瞳には、驚くほど生命の躍動感が感じとれない。先ほどまであれほど必死に動いていた体は、今や微動だにしない。
雪江のかたわらで、ショックで固まっている桃子を、春彦が押しのけるようにどかせた。
「離れてください。今、蘇生させますから」
春彦自身も、焦っているのが見て取れた。彼は両手を雪江の胸元にかざし、慎重に力を使う。すると、みるみるうちに、雪江の体にあった無数の傷が修復されていった。
荒神の持つ、破壊と再生の性質。これは再生にあたるほうの力だった。
しばらくして、雪江が息を吹き返したのがわかった。もし少しでも蘇生が遅れていたら、助かってはいなかったかもしれない。
桃子は涙をぼろぼろこぼして泣いていた。
ほんの少しだけ、安堵した様子で春彦が告げる。
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