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女批判の男と女変薬
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中山は、デスクで仕事をしていた。
少し離れたところから、上司の声が聞こえる。
上司
「南くん、この前の資料良かったよ」
南
「ありがとうございます」
中山はキーボードを打ちながら、小さく舌打ちする。
「ちぇ……あんなぐらい俺でもできるっての。女だからって」
ぶつぶつと独り言のように呟く。
休憩時間。
男性社員に話しかける。
「女なんてさぁ……」
しかし、相手は曖昧に笑うだけで話を広げない。
「まぁまぁ」と話題を変えられる。
中山
「ちぇ、あいつら女の味方かよ」
不満だけが残る。
そんなこんなで仕事は終わった。
誰かに愚痴を聞いてもらいたい。
そう思い、中山は、この前見つけたBARに向かった。
中山
「ここだな」
中山は、BARワンダーに入った。
マスター
「いらっしゃい。こちらどうぞ」
コースターが置かれる。
店内は静かで、ジャズが流れている。
客は奥に、高齢の男と、かっぷくのいい作業着の男がいるだけだった。
中山は席に座る。
マスター
「何にしますか?」
中山
「とりあえずハイボールで」
マスター
「あいよ」
手際よくグラスを傾け、氷を鳴らし、ハイボールを差し出す。
マスター
「どうぞ」
中山は深いため息をついた。
マスター
「どうかしました? 浮かない顔ですね」
中山
「いやぁ……なんというか、女って楽でいいなぁ、得だなぁって思って」
マスターはグラスを磨きながら相槌を打つ。
マスター
「まぁ、そうとらえられる部分もありますね」
中山の愚痴は止まらない。
「だって大抵、デート代だって男が出すし、割り勘って言ったら冷める女ばっかだし、ちょっと可愛かったらチヤホヤされるし、本当に女って――」
そのとき。
奥の席から声が聞こえた。
爺さん
「そういえば、今日は新薬をおろしてくれるって話じゃったが」
作業着の男
「そう。これだ。自分の思い浮かべた女性に変身できる薬」
小瓶がカウンターに置かれる。
爺さん
「ほう……クマノミ印の女変薬《にょへんやく》か」
作業着の男は少し眉をしかめる。
「しかしなぁ、まだ戻れる薬ができてないんだ」
爺さん
「そりゃいざという時、大変じゃのぉ」
作業着の男
「だから価格は100万。そんな値段なら買うやつなんて――」
中山
「買う」
空気が止まる。
作業着の男
「え?」
中山は立ち上がり、二人のもとへ近づく。
中山
「その薬、売ってくれ」
作業着の男
「兄さん、100万やで?」
中山
「貯金はある。それに女になったら100万なんて余裕で稼げる」
爺さん
「性別関係なく、楽なことなどないと思うがのぅ」
作業着の男
「いや、しかし戻れる薬がまだ――」
中山は聞こうとしない。
中山
「マスター、チェック」
財布から一万円札を出し、そのまま店を飛び出す。
マスター
「お客さん、お釣りー!」
爺さん
「ふぉっふぉっふぉっ。人の話は最後まで聞くもんじゃ」
作業着の男
「ほんまやな」
数秒後。
中山は戻ってきて、100万円を差し出す。
爺さんはそれを素早く取り上げる。
「毎度あり」
小瓶を中山に渡す。
中山はそれを受け取り、再び店を飛び出した。
作業着の男
「爺さん、ずるいわ。俺にも取り分くれよ」
爺さん
「ふぉっふぉっふぉっ。戻れる薬を完成させるんじゃ」
「いくらでも払うからって泣きついてくるじゃろ」
作業着の男は腕を組む。
「それもそやな。ちょっと頑張ってみるか」
マスターも加わり、三人は次の薬の話を始める。
店内には、再び静かなジャズが流れていた。
そして中山は家に帰り、シャワーを浴び、パジャマに着替えた。
ベッドに腰を下ろし、
手のひらの上に女変薬を置く。
しばらく、それを眺める。
「なになに……
就寝前に、なりたい女性を思い浮かべて飲むこと、か……」
中山はゆっくりと蓋を開けた。
頭の中に、なりたい女性像を思い浮かべる。
「キャバ嬢なんて、酒飲んで男と話すだけで稼げるし……」
「セクシー女優なんて、男とやるだけで稼げる……」
独り言のように呟く。
「スタイル良くて……それでいて美人で……」
自分が思い描く“理想の女”の姿を、何度もなぞる。
そして、一気に薬を飲み干した。
中山
「……特に、今のところ変わりないか」
小瓶を置き、ベッドに横になる。
「とにかく、寝よ」
そう呟き、中山は目を閉じた。
翌朝。
中山は重たいまぶたをこすりながら起き上がった。
「トイレ……トイレ……」
眠気まなこでそう呟き、ふらふらとトイレへ向かう。
いつもの癖で立ったまま、ズボンとパンツを下ろし、
何の疑いもなく“そこ”をつかもうとして――
「あれ?」
手応えがない。
不思議に思い、下を見る。
「えっ…………」
一拍おいて、
「えええええええっ!? ない!?」
思考が追いつかない。
「まさか……!?」
尿意も忘れ、中山は洗面所へ駆け込んだ。
鏡の前に立ち、顔を上げる。
そこに映っていたのは――
昨夜、自分が思い浮かべていた“理想の女性”そのものだった。
中山
「……あ、あの薬……マジか……」
しばらく、鏡の前で固まったまま動けない。
「酔った勢いで買ったけど……」
喜びよりも、
圧倒的な驚きと混乱の方が、はるかに勝っていた。
しばらく鏡の前で立ち尽くしていたが、
限界だった尿意を思い出し、再びトイレへ戻る。
今度は――座って用を足す。
「……」
なんとも言えない、不思議な感覚。
違和感。
現実感のなさ。
流れる水の音を聞きながら、ようやく少しだけ頭が冷えてきた。
中山
「あ、そうだ……仕事……どうしよう」
洗面所で自分の顔を見つめながら、考える。
この姿で出社?
無理だ。
しばらく悩み――
「体調不良で休みとか、長く続かないし……」
一瞬の沈黙。
「退職代行使って、やめよう」
そう呟き、トイレから出る。
ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取り、検索画面を開く。
〈退職代行 即日〉
画面の光が、やけにまぶしく感じられた。
「退職代行『もうや~めた』か……ここにしよう」
中山はそのまま電話をかけた。
プルルルル……
ガチャ。
社長
「はい、有限会社不思議堂です」
中山
「え? 退職代行じゃないんですか?」
社長
「あ~、そっちか。普段はちょっと変わった薬作ったりしてるんやけど、退職代行もやってますねん。どうされました?」
中山は、近くに置いてあった女変薬のラベルを見る。
〈有限会社不思議堂〉
中山
「あ、あの……昨日、BARワンダーにおられませんでしたか?」
社長
「あ、おったけど……もしかして昨日の兄ちゃんか?」
中山
「は、はい。女になってしまって会社に行けなくなって……退職しようかと」
社長
「そうか、薬の効き目あったんやな。ほな、会社名と電話番号教えて」
中山は慌てながら会社情報を伝える。
社長
「はいはい。精神病とか適当な事言うてかけとくわ。まぁ代金は昨日100万も払って無いやろうから、またBARワンダーで会った時にでもええわ。それに服やらメイク道具も買わなあかんやろしな。ほな」
ガチャ。
通話が切れた。
しばらくスマホを見つめたまま、中山は固まる。
「……そうだ。服とか……女物ないや」
クローゼットを開ける。
スーツ。
ワイシャツ。
ネクタイ。
どれも今の自分には似合わない。
いや――着られない。
「……どうすんだよ」
鏡に映る“理想の女”は、パジャマ姿のままだった。
「とりあえず……買いに行かないとな……」
中山はそう呟き、クローゼットをもう一度見渡した。
どうにか男っぽく見えない服を選び、着替える。
鏡に映る自分は、確かに“女性”だった。
覚悟を決めて外に出る。
「な、何を……どこで買えばいいんだろ……」
右も左も分からないまま、とりあえずショッピングモールへ向かう。
すっぴんとはいえ、美人でスタイルのいい中山に、
すれ違う男性たちの視線が集まる。
――見られている。
その感覚に、背中がざわつく。
すると、前から一人のチャラそうな男が近づいてきた。
男
「お姉さん、ノーブラで男探してんの?」
中山
「ち、違います……」
男
「行こうよ。めちゃくちゃ美人じゃん」
そう言って、男は中山の腕を掴んだ。
中山
「や、やめてください!」
中山は必死にその手を振り払い、そのまま走り出した。
息を切らしながら家に戻り、鍵を閉める。
「……はぁ……はぁ……」
玄関に座り込む。
「……買い物は……通販にしよ……」
胸を押さえ、しばらく動けなかった。
――女って……大変かも。
ほんの少しだけ。
初日で、そう思った中山だった。
走って帰ってきた中山は、
まず冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲んだ。
「……はぁ……」
ようやく呼吸が落ち着く。
ベッドに腰を下ろし、スマホを取り出す。
大手通販サイト《アマゾネス》。
検索欄に
〈女性 下着〉
〈ワンピース〉
〈メイクセット 初心者〉
と打ち込む。
レビューを読みながら、サイズ表とにらめっこ。
「……めんどくさ」
ポチポチとカートに入れていく。
合計金額を見て、思わず目を細めた。
「……あの社長、言ってた通りやな。結構、金かかるな……女って」
画面に表示された合計金額は、想像以上だった。
「貯金なくなる前に……仕事探さないとな」
昨日まで、
“女は楽でいい”と思っていた。
けれど、今はもう、そんな余裕はない。
注文を確定させ、スマホを置く。
キッチンに向かい、買い置きしてあったインスタント食品にお湯を注ぐ。
静かな部屋に、湯気が立ちのぼる。
「……これも、もう男飯って言えないのか」
小さく呟きながら、
一人、黙ってそれを食べた。
腹ごしらえを終え、中山はベッドに腰を下ろし、天井を見つめたままぼーっと考えていた。
中山
「すっぴんは……まぁいいとして……」
少し間を置いて、ため息。
「下着が届かないと……外に出るのも怖いな……」
そう思った、その時。
スマホが震えた。
通知を確認し、眉をひそめる。
中山
「あ……前に口説いてた女性社員からだ。なんだろ……」
画面を開く。
〈急に辞めたので心配になって、今日、家の近くまで行きました。
私を口説いてたのに、女性と同棲してたんですね。最低ですね〉
中山は、しばらく画面を見つめたまま固まる。
中山
「……ちがうよ……」
小さく呟く。
「それ……俺だよ……」
もちろん、送れるはずもない。
「でも……もう今は……どうにもできない……」
スマホを伏せ、目を閉じる。
「……寝よ……」
そう呟き、そのまま布団に潜り込んだ。
こうして中山は、
“誰にも説明できない夜”を迎えたのだった。
翌朝。
ピンポーン。
「中山さーん、宅配便です」
眠気まなこで中山は起き上がり、そのまま扉を開けた。
宅配業者
「……こ、ここにサ、サイン……」
業者は視線を逸らし、どこか落ち着かない様子だった。
中山
「ん? どうかしました?」
宅配業者
「……む、胸が……」
中山
「……胸?」
言われて初めて、自分の姿に気づく。
パジャマのボタンが外れ、胸元がはだけていた。
中山
「っ……ご、ごめんなさい!」
慌ててパジャマを押さえ、急いでサインをする。
荷物を受け取り、すぐに扉を閉めた。
「……あ~……」
その場にしゃがみ込み、額を押さえる。
「男の感覚のまま……寝起きで出てしまった……」
心臓が、まだ少しドキドキしていた。
そして、中山は届いた荷物を開けた。
中山
「えっと……これが下着で……メイク道具……ワンピース……ストッキング……」
床に並べていくと、どれも自分のものなのに、まだ実感が湧かない。
「……ほんとに、女の生活始まってるな……」
しばらく眺めたあと、小さく息を吸う。
「とりあえず……やってみるか」
そう言って、箱ごと抱え、洗面所へ向かった。
鏡の前に置かれた新品の下着とメイク道具。
中山は一度、鏡の中の自分と目を合わせる。
「……失敗しても、誰も見てないしな」
そう自分に言い聞かせ、
人生で初めての“準備”を始めるのだった。
とりあえず、中山はパジャマとトランクスを脱いだ。
鏡に映るのは、見慣れない女性の裸。
中山
「……これが……マジで俺か……」
しばらく、その姿に見入ってしまう。
だが、すぐに我に返る。
「……こんなことしてる場合じゃない」
床に置いてあった下着を手に取る。
「とりあえず……パンツだな」
そう言って履く。
次にブラを手に取る。
中山
「セクシービデオで見て……だいたい付け方はわかるけど……」
少し間を置いて、
「……まさか、自分が付けることになるとは……」
小さく呟きながら、どうにか装着する。
その後、ワンピースとストッキングは、思ったより問題なく身につけられた。
「……あとは……メイクだよな……」
中山はスマホを取り出す。
〈メイクの仕方 初心者〉
検索結果を開きながら、眉をひそめる。
「洗顔料……化粧水……? 落とす時はメイク落とし……」
「……マジか……」
一瞬ため息をつきつつ、
「まぁ……とりあえず……見よう見まねでやってみるか……」
動画を再生し、鏡とスマホを交互に見ながら、手探りで進めていく。
何度も止めて、戻して、やり直して――
ようやく、形になった。
中山
「……できた……」
そう呟き、時計を見る。
「……もう、こんな時間?」
鏡に映る自分を見ながら、肩を落とす。
「……毎回……こんなことするのかよ……」
中山は、深くうなだれた。
「とりあえず……完成したし。まだ足りない物もあるし、仕事も見つけないとだし……外に出るか」
そう呟き、中山は玄関へ向かった。
靴箱から取り出したのは、人生で初めて履くハイヒール。
そっと足を入れ、立ち上がる。
「……なんだこれ……」
ぐらり、と身体が揺れる。
「安定……悪いな……」
一度深呼吸し、姿勢を整える。
「……ゆっくり歩いて行くか」
そう自分に言い聞かせ、ぎこちない足取りで一歩踏み出す。
カツ……カツ……。
聞き慣れない足音。
中山は、その音に少しだけ緊張しながら、扉を開けて外へ出た。
なんとかコンビニにたどり着き、
足りなかった化粧水、メイク落とし、そして食料品を買って外へ出た。
「……ふぅ……」
中山は、無意識に肩の力を抜く。
「とにかく……前みたいな変な視線は、なかったな……」
そう呟きながら歩いていると、
ふと、家とは反対方向にあるテナントビルが目に入った。
ネオンの看板。
中山
「……確か……」
少し考え、
「あそこのガールズバー……時給2000円~だったよな……」
一瞬、立ち止まる。
「夜になったら……ちょっと体験入店、行けるか……行ってみるか……」
自分でも、半信半疑のままそう呟き、
中山は買い物袋を持ち直して、家へ向かった。
とりあえず夜になり、中山はメイクを軽く直してから、ガールズバーへ向かった。
店の扉を開ける。
「いらっしゃいませー」
中山
「あ、あの……さっき体験入店お願いの電話した、中山貴子ですけど……」
ママ
「あ~、さっきの子ね。お酒は飲める?」
中山
「は、はい。飲めます」
ママ
「ちょうど新人好きのお客さんが来てるから、一緒に行きましょ」
中山
「はい……」
そう言って、ママの後ろについて席へ向かう。
ママ
「こちらターさん。ここの常連さんよ」
中山
「はじめまして……貴子です」
ターさん
「美人だね~。それに、ボインボイン」
遠慮のない視線が、中山の胸元に突き刺さる。
中山
「あ……ありがとうございます……」
簡単にお酒の作り方を教えると、ママは席を離れた。
ママ
「分からないことあったら、すぐ聞いてね」
「ターさん、新人ちゃんいじめないでね」
そう言って、奥へ下がっていく。
ターさん
「じゃあさ、テキーラ観覧車頼もうかな。貴子ちゃん、飲める方?」
中山
「は、はい……」
(いきなりテキーラ観覧車……?
まぁ……楽勝、楽勝……)
その時は、そう思っていた。
ターさん
「ママ~、テキーラ観覧車、12杯のやつ~」
ママ
「ターさん、いいの?」
ママは中山を見る。
「貴子ちゃん、大丈夫?」
中山
「だ、大丈夫です」
ママ
「そう。無理しないでね」
そう言って、準備に向かった。
ターさん
「俺、あんまり強くないからさ。頼むね」
中山
「え……あ、はい……」
(……ほとんど……俺一人で飲むやつ……?)
ほどなくして、ママが戻ってくる。
ママ
「お待たせ~」
テキーラ観覧車が、テーブルに置かれた。
ターさん
「ママありがとう~。さぁ、貴子ちゃん、飲んで」
中山は一杯手に取り、勢いで口に含む。
グイッ。
一杯目だけで、頭が少しふわっとする。
ターさん
「いい飲みっぷりだね~。どんどんいって~」
次々とグラスを差し出される。
一方、ターさんは――
自分の分を、ほんの少し口に含むだけだった。
そして、気づけば――
中山は、合計で十一杯も飲んでいた。
視界が揺れ、足元がおぼつかない。
ターさん
「貴子ちゃん、このあとアフターどう?」
そう言って、ターさんの手が中山の手を握る。
中山は、酔いが回りすぎて、頭がうまく働かない。
次の瞬間、
ターさんの手が、胸元へ伸びた。
それを見ていたママが、すぐに動いた。
ママ
「ターさん。おいたはダメよ~」
伸びていた手を、ぴしっと払いのける。
ターさん
「……なんだよ」
小さくつぶやき、手を下げた。
ママ
「貴子ちゃん、そろそろ時間ね」
そう言って、中山の肩を支え、店の外へ連れ出す。
外の空気が、やけに冷たい。
ママ
「大丈夫? だから無理しないでって言ったのに」
中山
「……すみません……」
ママ
「頑張れそうなら、また連絡して」
そう言って、封筒を差し出す。
「これ、今日のお給料ね」
中山
「あ……ありがとうございます……」
受け取った途端、足に力が入らず、ふらりと座り込む。
ママ
「大丈夫~? 送って行くわね」
そうして中山は、ママの車に乗せられ、
静かな夜道を通って家へ帰るのだった。
ママ
「ここで大丈夫? じゃあね。お疲れ様」
中山
「は、はい……ありがとうございます。お疲れ様です」
ママの車が走り去り、静かな夜が戻る。
中山は家に入るなり、急に気持ち悪くなり、トイレへ駆け込んだ。
しばらく、そこで動けない。
ようやく落ち着き、ふらつきながらトイレを出る。
テーブルに置いた封筒を手に取り、中を見る。
――一万円。
中山
「……一時間足らずで一万円は……確かにいいけど……」
少し考えて、
「あれだけ飲んで……割に合わないな……」
封筒を閉じ、ため息をつく。
「……でも、ママは……いい人っぽかったな……」
そう思ったものの、
体はまだ酒が残っていて、まっすぐ立つのもしんどい。
「……無理だ……」
どうにかベッドまでたどり着き、
そのまま倒れ込むように眠りについた。
昨夜の酒のせいで、中山は昼過ぎまで眠ってしまった。
中山
「……だいぶ寝てしまったなぁ……」
体を起こした瞬間、下腹部に鈍い違和感が走る。
「……お腹、痛い……昨日の酒のせいか?」
そう思いながら、トイレへ向かった。
下着を下ろした瞬間――
中山
「……え?」
一瞬、思考が止まる。
「血……?」
心臓がどくっと鳴る。
「も、もしかして……これが……生理ってやつか?」
頭が真っ白になる。
とりあえず落ち着こうと、急いで処理をし、トイレを出る。
手を洗いながら、スマホを取り出す。
〈生理 初めて どうする〉
検索結果を読み、目を見開く。
「……ナプキンってやつがいるのか……」
棚にあるはずもない。
「……買いに行くしかないか……」
中山はマスクをつけ、
ハイヒールではなく、普通のスニーカーを履く。
今は見た目より、歩きやすさだ。
急いで家を出て、コンビニへ向かった。
そしてコンビニに着き、生理用品コーナーの前に立つ中山。
中山
「……夜用? 薄型? 羽付き……?」
棚を見渡し、眉をひそめる。
「……なんだこりゃ……」
結局、よく分からないまま一つ手に取り、レジへ向かう。
男性店員
「袋は、ご利用ですか?」
中山
「は、はい……」
(当たり前だろ……そんなの……)
心の中でそう思いながら、会計を待つ。
しかし、店員は紙袋などには入れず、
そのままレジ袋に商品を入れた。
中山は一瞬、固まる。
(……そういうのって……見えないように、紙袋に入れるもんじゃないのか……)
思わず、胸の奥がざわつく。
(……だから男は……)
そこまで考えて、ふと違和感を覚える。
(……あれ?)
だが、今はそれどころじゃない。
中山は料金を払い、袋を受け取ると、足早に店を出た。
家に帰ってきた中山は、急いで新しい下着とナプキンを手に取り、トイレに入った。
説明書を見ながら、ぎこちなく手を動かす。
中山
「こ……これで、大丈夫か……?」
どうにかナプキンをつけ終え、トイレから出る。
中山
「……腰だるいし、腹も痛ぇし……」
ベッドに腰を下ろし、そのまま横になる。
中山
「こんなの……毎月、来るのかよ……」
天井を見つめながら、ぽつりと呟く。
中山
「生理痛で休みとか、正直……甘えだと思ってた……」
そう言ったあと、何か言い返そうとして、言葉が出てこない。
中山
「……思ってたけど……」
結局、そのまま何もする気が起きず、
中山はベッドに横たわったまま、目を閉じた。
とりあえず、稼がないといけない。
でも、今日は無理だ。
中山
「……ママに、メールしよ」
スマホを手に取り、ゆっくり文字を打つ。
「この前は、ありがとうございました。
ぜひ働かせていただきたいです。
ですが今日は生理痛がひどくて、
明日から、お願いいたします。
貴子」
送信して、しばらくスマホを見つめる。
――数分後。
ママから返信が届いた。
「わかったわ。
貴子ちゃん、美人だしスタイルもいいし、
絶対人気出るから。
明日、待ってるわね」
中山
「……ふぅ……」
思わず、息を吐く。
中山
「とりあえず……働き口は、見つかった……」
少しだけ安心したのと、
生理のだるさが一気に押し寄せてきて、
そのまま中山はベッドに倒れ込んだ。
そして、
何も考えられないまま、眠りに落ちていった。
昼寝してしまった中山。
中山「……あ、ナプキン替えてない」
気持ち悪さに気づき、トイレへ向かう。
交換しながら、小さくため息をついた。
中山「なんか昨日の酒、まだ残ってる気がする……なんだこれ」
トイレから出て、スマホで検索する。
「月経前や月経中の飲酒は体調が悪化する場合があります」
中山「マジかよ……そんなの全然知らないって……」
スマホを握ったまま、ベッドに腰を下ろす。
中山「楽勝だと思ってたのにな……つらい事ばっかじゃん」
腰の重さと腹の鈍い痛みに顔をしかめる。
中山「でも……100万も払ったんだ」
天井を見上げる。
中山「きっと、いい事だってあるよな……」
まだどこかで、そう思っている中山だった。
そして次の日の夜。
まだ生理二日目で身体は重かったが、稼がないと、と思い中山はガールズバーへ向かった。
中山「今日から、よろしくお願いします。」
ママ「よろしくね。それより体調大丈夫?今日はお酒飲まなくていいからね。」
中山「は、はい……まだ体調すぐれないので、そうさせていただきます。」
ママ「じゃあ、あのお客さんの前について。」
中山「はい。」
ママ「のぶさん、この子新人の貴子ちゃん。普段は飲めるんだけど、今日はちょっと我慢してあげてね。」
そう言ってママは別の席へ向かった。
中山「はじめまして、貴子です。よろしくお願いします。」
のぶ「よろしくね。めちゃくちゃ美人だよね。彼氏いるの?」
中山「い、今はいないです。」
のぶ「体調良くなったら飲みに行こうよ。同伴。」
中山「あ、はい……ぜひ。」
のぶ「約束だよ?」
中山「は、はい。」
のぶ「ちょっとトイレ。」
のぶが席を立つ。
すると隣にいた先輩店員が、さりげなく近づき小声で囁いた。
「……あの人、ちょっとしつこいから気をつけてね。」
中山「え……あ、はい。」
紳士そうなのになぁ……。
中山は、その時はまだ、軽く考えていた。
そして、のぶがトイレから戻ってきて、たわいもない話をしていたが、
中山は心の中で──
(ナプキン……変えなきゃ……)
ポーチを手に取り、
中山「ちょっと失礼します」
そう言って席を立つ。
のぶの後ろを通った、その瞬間。
ぬるっとした感触が、お尻に触れた。
中山「きゃッ」
思わず声が出る。
のぶ「ごめん、ごめん。ちょっと当たっちゃった」
笑っている。
中山は一瞬、相手の顔を見る。
目は逸らされていない。
中山「あ、そうなんですね……」
そう言うしかなかった。
足早にトイレへ向かう。
⸻
個室に入り、鍵をかけた瞬間、背中がぞわっとした。
(今の……絶対わざとだよな)
壁に手をつき、深く息を吐く。
ナプキンを替えながら、さっきの感触が頭から離れない。
(これ、男だったらキレてるよな……)
でも今は──
(揉めたら“面倒な女”になるのか……?)
鏡を見る。
さっきまで「美人で得だ」と思っていた顔が、
少しだけ強張って見えた。
(女って、こういうのも込みで働いてるのか……?)
胸の奥が、少し重くなる。
中山は、軽くリップを直し、
(仕事だ。稼がないと)
そう言い聞かせて、席に戻った。
そしてトイレから戻り、再びのぶの前に座る中山。
のぶ「本当に君、美人でスタイルいいよね」
そう言いながら、のぶの手が伸び、中山の手を撫で回す。
中山「あ、ありがとうこざいます……」
作り笑い。
心はまったく笑っていない。
のぶ「酒飲まなくていいからさ、アフター行こうよ」
ぐっと手を引かれる。
中山「あ、いや、あの……」
のぶ「断らないってことは、いいってこと?」
笑っているのに、目は笑っていない。
中山は言葉に詰まる。
(断ったら怒る? 店に迷惑かかる?
でも……行きたくない……)
何も言えないまま固まっていると、
ノゾミ「のぶさん、貴子ちゃん“女の子日”だからダメ!」
ノゾミが間に入り、のぶの手を引き離した。
のぶ「ちぇ、わかったよ。ママ、チェック」
ママ「はーい、のぶさんいつもありがとう」
伝票が出され、のぶは財布から金を出し、不満そうに帰っていった。
店内の空気が少しだけ軽くなる。
中山「あ、あの……ありがとうございます」
ノゾミ「断る勇気も大事。あなた美人だし、ああいうの、これから山ほど来るよ」
さらっと言う。
中山「は、はい……」
(山ほど……?)
胸の奥が、少し冷たくなる。
ノゾミ「慣れるけど、慣れちゃダメだからね」
その一言が、妙に刺さった。
やがて閉店時間。
片付けを終え、外に出る中山。
夜風が少し冷たい。
(楽勝って……なんだったんだろ)
ヒールの足がじんわり痛む。
今日もまた、何かを少し失った気がした。
そして何日か経ち、生理が終わった。
生理中はノゾミやママの助けもあり、酒を飲まずに働くことができた。
中山「今日から……お酒、飲めます」
ママ「そう? 助かるけど、無理はしないでね」
ノゾミ「少しでも変だと思ったら、すぐ言って」
その夜、店はほどよく混みはじめ、ママとノゾミはそれぞれ別の席についた。
そして中山の前に座ったのは、のぶだった。
のぶ「今日は飲めるんだね」
中山「……はい」
のぶ「じゃあさ、テキーラ観覧車いこっか」
体験入店の時の苦い記憶が、一瞬でよみがえる。
中山は、少し間を置いてから口を開いた。
中山「……ちゃんと、のぶさんも飲んでくれるなら」
のぶ「いいよ、飲む飲む」
その言葉に、中山は小さく息を吐き、
中山「ママ~、テキーラ観覧車お願いしま~す」
ママは一瞬だけ、心配そうな目を向けてから、
ママ「……のぶさん、ありがとうねぇ」
そう言って準備に向かった。
隣の席から、ノゾミが目だけで
「とばしすぎないで」
と合図を送ってくる。
「お待たせ~」
運ばれてきた観覧車。
中山とのぶは、それぞれグラスを取り、
「カンパーイ」
一週間ぶりの酒は、想像以上に強く回った。
それでも今回は、のぶも同じくらいのペースで飲んでいる。
――あの時よりは、マシだ。
そう思った矢先。
のぶ「なぁ……アフター行こうよ」
指先が伸びてきて、手を撫でる。
酔いと場の空気に押されて、中山の口が先に動いた。
中山「……じゃあ、この店で一番高いシャンパン、入れてくれるなら」
一瞬の沈黙。
のぶは、笑ってグラスを持ち上げた。
のぶ「いいよ。ママ~、一番高いやつ!」
そして、ママが一番高い二十万円のシャンパンを運んできた。
ママ「のぶさん、大丈夫? 本当に払える?」
のぶ「大丈夫だよ。心配なら、先にカード確認してもいいよ」
ママ「なら、いいわね」
そう言って、ママは慣れた手つきで
ポンッ
と軽い音を立て、シャンパンの栓を開けた。
ママ「私も一杯、いただいていいかしら」
のぶ「いいよ。その代わりさ……」
そう言いながら、のぶは中山の手を指先でなぞる。
のぶ「二人の邪魔は、しないでね~」
中山は、胸の奥がむっと重くなるのを感じた。
同時に、急にトイレに行きたくなる。
中山「あ、ちょっと……失礼します」
そう言って席を立ち、のぶの後ろを通りかかった瞬間だった。
前よりも、はっきりとした、いやらしい手つきで
お尻を撫でられる感触。
中山「きゃっ……」
のぶ「ごめーん。……わざと~」
中山は一瞬、言葉に詰まり、
とっさに作り笑いを浮かべた。
中山「もう~、セクハラ~」
そう言って、その場をやり過ごし、
足早にトイレへと逃げ込んだ。
そして席に戻る中山。
シャンパンは、ママとノゾミがほとんど飲んでくれていた。
のぶは、完全に酔いつぶれている。
中山は小声で、
「ママ、先輩……ありがとうございます」
ママは軽くウインクしただけだった。
やがて閉店時間。
ママ「のぶさん、起きて。閉店よ。これ今日のお会計」
のぶはふらふらとカードを差し出す。
ママは無言で処理し、カードを返す。
のぶ「貴子ちゃ~ん……約束~……アフター~」
舌足らずな声。
ママ「今日は無理よ。別日にね」
中山「別日に……同伴しましょう」
のぶ「わかったよ~……」
ママ「タクシー来たわ。行きましょ」
中山がふらつくのぶの肩を支え、店を出ようとした、その瞬間。
伸びてきた手が、
今度ははっきりと、
中山の胸を鷲掴みにした。
中山「きゃ……っ」
力が抜け、思わずその場に座り込む。
胸が痛いのか、
悔しいのか、
怖いのか。
気づけば、涙が勝手にこぼれていた。
ママ「のぶさん、出禁にするわよ」
ノゾミが駆け寄り、背中をさする。
ノゾミ「大丈夫? 貴子ちゃん」
のぶ「なんだよ……ちょっと触られたぐらいで泣きやがって」
吐き捨てるように笑う。
のぶ「これだから女は得だよな。こっちは高い金払ってんのによ~」
その言葉を聞いた瞬間、
中山の胸が、
ドクン と大きく鳴った。
(……男の時の、俺みたいだ)
あの頃、自分が吐いていた言葉が、
そのまま返ってきたようだった。
そして、のぶはタクシーに乗り、帰っていった。
店の前に、少しだけ静けさが戻る。
ノゾミ「……大丈夫?」
中山「は、はい……」
ママ「すごいじゃない。今日、よく頑張ったわね」
その一言を聞いた瞬間、
中山の瞳から、また涙が溢れた。
ノゾミ「ちょっと~、ママが泣かせた~」
中山「あ、いえ……すみません……
二人の、あったかさが……なんか……」
ノゾミ「さっき“女は得だ”とか言ってたけどさ~」
ノゾミは肩をすくめる。
ノゾミ「一回、女になってみろって感じだよね~」
ママ「ほんとそれ。
毎日メイクして、気を使って、愛想振りまいて……」
ノゾミ「男なんて化粧しなくていいし、生理もないしさ。
ねぇ、貴子ちゃん」
中山「……そうですね……」
言葉は出たけど、
胸の奥は、ずしっと重かった。
ママ「顔色、悪いわね。
片付けは私たちでやるから、少し休んでていいわよ」
中山「い、いえ……大丈夫です」
そう言って、中山は立ち上がる。
結局、三人で黙々と片付けを始めた。
店を出て、家までの道を歩いていた。
夜風が少し冷たい。
すると背後から、
「あ、この前のお姉さんじゃん」
中山の足が止まる。
「おっ、前と違って化粧もして、いい服着てるねぇ」
振り返ると、
女に変わった初日に声をかけてきたチャラい男だった。
「今日こそ遊ぼうよ~」
軽い口調とは裏腹に、
ぐっと腕を掴まれる。
中山「や、やめてください……」
振り払おうとしても、力が入らない。
その瞬間。
「何してる!」
低い声。
巡回中の警察官がこちらに近づいてきた。
男「やべ」
舌打ちし、男は走って逃げていった。
腕の感触が、まだ残っている。
恐怖が一気に押し寄せ、中山はその場に座り込んだ。
警察官「大丈夫ですか?
女性の夜道は危険ですよ。気をつけてくださいね」
“女性の夜道は危険”
その言葉が、胸に重く落ちる。
中山は、どうにか立ち上がる。
中山「……は、はい。すみません」
謝る理由なんてないのに、
自然と口から出た。
そして、早足で家へ向かった。
背後を、何度も振り返りながら。
どうにか家に辿り着いた中山。
中山「……まだ酒も残ってるし、嫌な感触も残ってるし……
シャワー浴びて、寝よ」
そう呟いて、バスルームへ向かう。
服を脱ぎ、鏡に映る自分の姿を見る。
中山「……美人は美人で、色々大変だな」
そう思いながら、浴室に入った。
シャワーを浴び、パジャマに着替え、髪を乾かす。
中山「……髪、長いのも大変だな……」
何気ないこと一つ一つが、少しずつ身に染みる。
ベッドに横になった瞬間、
頭の中に浮かんできたのは、のぶの言葉だった。
「これだから女って得だよな~」
胸が、きゅっと締めつけられる。
(……昔の俺の言葉だ)
そして、ノゾミの声。
「一回、女になってみろ」
なってみて、やっと分かった。
楽な立場なんて、どこにもない。
ただ、自分が
今をちゃんと頑張れていなかっただけ。
その言い訳を、
女批判にすり替えていただけだった。
今の中山には、
男の大変さも、女の大変さも、両方が分かる。
中山「……色々考えても、今は変わらないな。
明日は休みだし」
少しだけ、気持ちを切り替える。
「ショッピングでも行って、
メイク道具とか服とか、ちゃんと揃えよ」
そう呟いて、目を閉じた。
女は大変だと、分かってきた中山。
それでも――
どこかで、
この生活を少し楽しもうとしている自分も、確かにいた。
翌朝、中山は簡単に朝食をとった。
男の頃なら絶対にやらなかった洗顔料を手に取り、
泡立てて、丁寧に顔を洗う。
クローゼットから服を選び、着替え、メイクを始める。
中山「……だんだん、手際よくできるようになってきたな」
そう呟き、最後に軽く髪を整えた。
ハイヒールを履き、街に出る。
中山「ヒールにも、だいぶ慣れてきたな……」
そんなことを考えていた、その時だった。
男「すみませ~ん。ちょっとインタビューいいですか?」
中山「あ、いえ……ちょっと……」
男「めちゃくちゃ美人なので。
謝礼もお渡ししますよ」
中山は一瞬、足を止める。
男「マッサージ機のモニター体験をお願いしたくて」
マッサージ機の体験で、謝礼。
(……それくらいなら)
軽くそう思ってしまった。
中山「少しだけでしたら……」
男「ありがとうございます。では、こちらへ」
案内された先に停まっていたのは、
一台の大きな車だった。
中山は、車を見上げる。
(……なんか、見たことあるような……)
胸の奥が、わずかにざわつく。
それでも中山は、そのまま男と一緒に車に乗り込んだ。
案内されたワゴンのドアが閉まると、車内は独特の静けさに包まれた。
「こちらへ座ってください」
案内役の男に促され、中山は用意されていた椅子にちょこんと腰を下ろした。
ふと周囲を見渡すと、奥にはカメラを構えた男、そして案内役とは別に、体格の良い二人の男が待機しているのが目に入った。
(……なんで、こんなに人が?)
違和感を覚え、何気なく窓の外を見る。
景色はうっすらと曇って見えるものの、外を歩く人々は誰一人として、この派手な車内を覗き込もうとはしない。
(外からは中が見えない……これって、まさか『手品鏡号』!?)
事態を察した中山が、慌てて腰を浮かせようとしたその時だ。
「まあまあ、落ち着いて」
男がすかさず立ちはだかり、手のひらサイズの機械を差し出した。
「これ、最新のマッサージ機なんです。まずは肩とかに当てて、リラックスしてみてください」
「え……? あ、は、はい」
強引な雰囲気に呑まれ、中山は言われるがままスイッチを入れた。
ブゥゥゥン……と細かく震えるそれを、凝った肩に恐る恐る当てる。
「……あ、意外と……気持ちいいですね」
女になった身体は以前より敏感なのか、その振動は驚くほど心地よく感じられた。
思わず表情を緩めた中山を見て、男は満足げに目を細めた。
「いいでしょう~? リラックスできたみたいだ」
それが、合図だった。
「じゃあ、全身もほぐしていきましょうか」
待機していた二人の男たちが、それぞれ手に同じようなマッサージ機を握りしめ、ゆっくりと中山との距離を詰め始めた。
「失礼しますね」
「全身、凝ってるみたいですから」
男たちは中山の返事も待たず、両サイドから挟み込むようにしてマッサージ機を押し当てた。
ブゥゥゥン……。
「っ……!?」
一人は、女体化によって柔らかく膨らんだ胸元へ。
もう一人は、脚の付け根に近い太ももへ。
「ちょ、ちょっと待っ……あ、んっ!」
突然の挟み撃ちと、敏感な部分へ直接伝わる振動。
中山は驚きと、女の身体特有の鋭敏な反応に戸惑い、思わず甲高い声を上げて身をすくませた。
知らない男たちに囲まれ、強引に肌に触れられる感触。
中山は生理的な嫌悪感で鳥肌が立ち、逃げ出したい衝動に駆られたが、狭い車内と男たちの威圧感に気圧され、身体がすくんで動けない。
「い、いや……やめてくださ……」
抵抗しようと声を絞り出すが、男たちは聞く耳を持たない。
「股関節も固いですね。しっかりほぐしましょう」
下半身を担当していた男が、有無を言わせぬ手つきで中山の膝を掴み、グイッと強引に左右へ押し広げた。
抗う間もなく、無防備な太ももの内側が晒される。
「あっ……!」
同時に、上半身担当の男が、膨らんだ胸の頂点付近に狙いを定め、ブゥゥゥンと唸るマッサージ機を押し当ててきた。
女になったばかりの敏感な胸に走る、強烈な痺れ。
「んぅっ……! だ、め……っ!」
快感とは違う、強制的な刺激に中山が顔をしかめて身をよじると、案内役の男がヒラヒラと数枚の万札を目の前にちらつかせた。
「我慢してくださいよ。ほら、謝礼は弾みますから」
ニヤリと笑う男の顔と、目の前の現金。
逃げ場のない中山は、屈辱と混乱で涙目になりながら、唇を噛み締めることしかできなかった。
案内してきた男は、躊躇うことなくズボンのベルトに手をかけ、下着ごと足元へ脱ぎ捨てた。
「ほら……これなら、文句ないでしょう?」
男はニヤリと笑うと、さらに数枚の万札を取り出し、中山の目の前にヒラつかせた。
そして、露わになった自身の熱く猛るモノを、中山の顔のすぐそばまで近づける。
「謝礼、もっと弾みますから。ね?」
「ひっ……!」
目の前に突きつけられた男の欲望と、積み上げられる現金。
逃げ場のない狭い車内で、男たちの熱気と威圧感に囲まれ、中山は恐怖と混乱で思考が真っ白になった。
中山の脳裏に、男だった頃に気楽に見ていた動画の記憶がよぎる。
『女はいいよな、寝て気持ちよくなってるだけで、金まで貰えて』
画面の向こうの女優を見て、そう羨んでいたはずだった。
しかし、当事者となって初めて突きつけられた現実は、そんな甘いものではなかった。
男たちの容赦ない視線、逃げ場のない圧迫感、そして意思を無視して迫りくる暴力的なまでの愛撫と、目の前の男の生々しい欲望。
「……ちがう、こんなの……」
恐怖と嫌悪感で縮み上がる心。
そこには、かつて想像していた「楽な仕事」など微塵もなく、ただただ力のない者が踏みにじられる恐怖があるだけだった。
無理やりに顎を掴まれ、口内を男の熱い塊で塞がれる。
「んぐ……っ、んッ……!」
喉の奥まで突き込まれる苦しさと、鼻につく男の臭い。
それと同時に、全身を駆け巡るマッサージ機の強烈な振動。
敏感になった胸の突起と、無防備に広げられた股間を、容赦ない機械の動きが責め立てる。
「ふ……っ、ぁ……!?」
ビクン、ビクンと、意思とは無関係に跳ね上がる身体。
女になった脳髄が、この過剰な刺激を「快感」として処理しようとしているのか、それともただの生態反応なのか。
(あ、れ……? これ、なに……?)
恐怖と嫌悪感、そして身体の芯から湧き上がる正体不明の熱。
すべてが混ざり合い、中山は自分が今、何をされているのか、気持ちいいのか苦しいのかさえ、もうわからなくなっていた。
「グッ、オェ……ッ!?」
男の大きな手が、中山の後頭部をガシッと鷲掴みにした。
逃げようとする動きを封じ込めると、男は自身の快楽のためだけに、強引に腰を打ち付け、中山の頭を前後に激しく揺さぶり始めた。
ズプッ、グッ、オグッ……!
喉の奥深くまで突き刺さる硬い異物感と、鼻を塞ぐ男の獣臭い匂い。
息継ぎも許されず、ただただ喉を犯される苦痛に、中山の目から生理的な涙がボロボロと溢れ出した。
(……嘘だ、こんなの)
男だった頃、画面越しに見た女優たちは、とろけるような顔で奉仕していた。
だから、フェラチオはされる側だけでなく、する側の女にとっても気持ちいい行為なのだと、勝手に思い込んでいた。
けれど、現実は違った。
(苦しい……! ただ、苦しいだけじゃん……!)
そこには快感など微塵もない。
あるのは、呼吸を奪われ、人格を無視された単なる「穴」として扱われる、絶望的な窒息感と屈辱だけだった。
「い、イクッ……!」
男の腰がビクンと跳ね上がり、喉の奥に熱い塊がドクドクと吐き出された。
中山は反射的にむせ返りそうになるのを必死に堪え、口の中に広がる生温かい感触と、鼻に抜ける強烈な匂いに涙目で耐えた。
しばらくして男が満足げに息を吐きながら離れると、中山はたまらず咳き込み、口元を手で覆った。
惨めで、汚された感覚。早くここから立ち去りたい。
しかし、男はまだ終わらせるつもりがないのか、さらに分厚い札束を無造作に取り出し、中山の目の前に積み上げた。
「……いい飲みっぷりでしたよ。さらに謝礼弾みますから、これ以上、どうですか?」
ニヤリと下卑た笑みを浮かべ、さらなる行為を要求してくる男たち。
だが、今のたった一回の行為で、中山の幻想は完全に打ち砕かれていた。これ以上は、心が持たない。
「い、いえ……」
震える手で乱れた服を合わせ、中山は逃げるように視線を逸らした。
「ちょっと急いでるので……失礼します」
精一杯の強がりで断りを入れ、逃げる隙を伺うように身体をドアの方へと向けた。
「はい、カット~」
軽い声が響き、撮影が終わった。
男「いやぁ……お姉さん、めちゃくちゃ美人でスタイルもいいし、
絶対人気出ますよ」
中山は、うまく言葉が返せず、曖昧に頷くだけだった。
男「うちの専属女優にならない?
センスあると思うんだけどなぁ」
中山「……いえ、結構です」
それだけ言って、車のドアを開ける。
逃げるように、その場を離れた。
——あんなの、
女性も喜んでやってると思ってた。
でも、違った。
駅のトイレに駆け込み、鏡の前に立つ。
軽く口をすすぎ、
崩れたメイクを直す。
中山「……ふぅ……」
喉の奥に残る違和感が、
なかなか消えなかった。
中山「……とりあえず、もらった謝礼で買い物して、
気分変えよ」
そう呟き、トイレを出る。
ショッピングモールの中を歩きながら、
中山はさっきまで見ていた世界と、
今いる日常との落差に、少しだけ戸惑っていた。
買い物中、スマホが鳴った。
画面を見ると、あの社長からだ。
中山は人混みを抜け、ショッピングモールの外に出て電話に出る。
中山「はい、中山です」
社長「おぉ、兄ちゃん……いや、今はお姉さんか。今日、BAR来れるか?」
中山「あ、はい。今日休みなので。退職代行のお金も払わないとと思ってましたし」
社長「そか。ほな、待ってるわ」
電話が切れた。
中山はしばらくスマホを見つめる。
――色々ありすぎて、すっかり忘れてたな……
女になったこと、働き始めたこと、生理、セクハラ、あの車の出来事。
目の前のことで必死で、「始まり」を忘れていた。
中山は小さく息を吐き、買い物袋を持ち直す。
「……行くか」
さっと必要な物だけを買い、家路についた。
そして夜になり、中山はBARワンダーに向かった。
店の前に立ち、ふと足を止める。
――ここが始まりだったな。
そんなことを思いながら、扉を開ける。
マスター「いらっしゃい」
社長「おー、兄ちゃん……いや、姉ちゃん。こっちや」
爺さん「それにしても、えらい美人になったもんじゃのぅ」
マスター「それにボインボイン」
中山「ちょっとマスター」
セクハラ発言にもツッコめる余裕が、いつの間にかできていた。
社長「どや、女になって」
中山「……正直、思ってたのと違って、大変でした」
爺さん「ふぉっふぉっふぉっ。そうじゃろ、そうじゃろ。
性別で楽か苦か、そんな単純なもんじゃない」
中山「そうですね……あの時の俺に言ってやりたいです」
社長「そうかぁ。
実はな、戻れる薬、完成したんやけど……どうする?」
中山は少し考えてから、首を横に振った。
中山「今は、このままで頑張ってみます。
今、男に戻っても、きっと後悔します。
“女のままでいとけば良かった”って言い訳しそうで……
それに、今、楽しいです」
社長「……そうか。わかった。
戻りたくなったら、いつでも連絡してき」
社長はそう言ってから、ふと思い出したように爺さんを見る。
社長「てか爺さん、戻りたいって泣きついてくるって言うてたやん。
やっぱ、この前の取り分くれ」
そう言って手を出すが、
爺さんは、その手をパシッと払った。
爺さん「もうないわい」
社長「何に使ってん。100万も」
マスター「この店の飲み代のツケでもらった」
社長「なんぼ飲むねん、爺さん」
中山「あ、あの……100万は無理ですが、退職代行のお金です」
そう言って、中山は社長の前に10万円を置いた。
社長「……こんな稼いだんかいな」
中山「今日、インタビューって言われて……」
そう言って、今日あった出来事を話す。
マスター「え?俺、あのシリーズ好きなんだよね」
爺さん「マスターは、ほんにスケベじゃのぅ」
マスター「絶対買お。いつ出るの?」
そう言って、中山の胸に視線をやる。
中山「セクハラ代、100万です」
爺さん「金は天下の回りもの、じゃな。ふぉっふぉっふぉっ」
――性別で楽、得、苦。
そんなもんはない。
今とどう向き合うか。
今をどう頑張るかじゃ。
爺さんは、いつものように笑った。
ふぉっふぉっふぉっ。
おわり
少し離れたところから、上司の声が聞こえる。
上司
「南くん、この前の資料良かったよ」
南
「ありがとうございます」
中山はキーボードを打ちながら、小さく舌打ちする。
「ちぇ……あんなぐらい俺でもできるっての。女だからって」
ぶつぶつと独り言のように呟く。
休憩時間。
男性社員に話しかける。
「女なんてさぁ……」
しかし、相手は曖昧に笑うだけで話を広げない。
「まぁまぁ」と話題を変えられる。
中山
「ちぇ、あいつら女の味方かよ」
不満だけが残る。
そんなこんなで仕事は終わった。
誰かに愚痴を聞いてもらいたい。
そう思い、中山は、この前見つけたBARに向かった。
中山
「ここだな」
中山は、BARワンダーに入った。
マスター
「いらっしゃい。こちらどうぞ」
コースターが置かれる。
店内は静かで、ジャズが流れている。
客は奥に、高齢の男と、かっぷくのいい作業着の男がいるだけだった。
中山は席に座る。
マスター
「何にしますか?」
中山
「とりあえずハイボールで」
マスター
「あいよ」
手際よくグラスを傾け、氷を鳴らし、ハイボールを差し出す。
マスター
「どうぞ」
中山は深いため息をついた。
マスター
「どうかしました? 浮かない顔ですね」
中山
「いやぁ……なんというか、女って楽でいいなぁ、得だなぁって思って」
マスターはグラスを磨きながら相槌を打つ。
マスター
「まぁ、そうとらえられる部分もありますね」
中山の愚痴は止まらない。
「だって大抵、デート代だって男が出すし、割り勘って言ったら冷める女ばっかだし、ちょっと可愛かったらチヤホヤされるし、本当に女って――」
そのとき。
奥の席から声が聞こえた。
爺さん
「そういえば、今日は新薬をおろしてくれるって話じゃったが」
作業着の男
「そう。これだ。自分の思い浮かべた女性に変身できる薬」
小瓶がカウンターに置かれる。
爺さん
「ほう……クマノミ印の女変薬《にょへんやく》か」
作業着の男は少し眉をしかめる。
「しかしなぁ、まだ戻れる薬ができてないんだ」
爺さん
「そりゃいざという時、大変じゃのぉ」
作業着の男
「だから価格は100万。そんな値段なら買うやつなんて――」
中山
「買う」
空気が止まる。
作業着の男
「え?」
中山は立ち上がり、二人のもとへ近づく。
中山
「その薬、売ってくれ」
作業着の男
「兄さん、100万やで?」
中山
「貯金はある。それに女になったら100万なんて余裕で稼げる」
爺さん
「性別関係なく、楽なことなどないと思うがのぅ」
作業着の男
「いや、しかし戻れる薬がまだ――」
中山は聞こうとしない。
中山
「マスター、チェック」
財布から一万円札を出し、そのまま店を飛び出す。
マスター
「お客さん、お釣りー!」
爺さん
「ふぉっふぉっふぉっ。人の話は最後まで聞くもんじゃ」
作業着の男
「ほんまやな」
数秒後。
中山は戻ってきて、100万円を差し出す。
爺さんはそれを素早く取り上げる。
「毎度あり」
小瓶を中山に渡す。
中山はそれを受け取り、再び店を飛び出した。
作業着の男
「爺さん、ずるいわ。俺にも取り分くれよ」
爺さん
「ふぉっふぉっふぉっ。戻れる薬を完成させるんじゃ」
「いくらでも払うからって泣きついてくるじゃろ」
作業着の男は腕を組む。
「それもそやな。ちょっと頑張ってみるか」
マスターも加わり、三人は次の薬の話を始める。
店内には、再び静かなジャズが流れていた。
そして中山は家に帰り、シャワーを浴び、パジャマに着替えた。
ベッドに腰を下ろし、
手のひらの上に女変薬を置く。
しばらく、それを眺める。
「なになに……
就寝前に、なりたい女性を思い浮かべて飲むこと、か……」
中山はゆっくりと蓋を開けた。
頭の中に、なりたい女性像を思い浮かべる。
「キャバ嬢なんて、酒飲んで男と話すだけで稼げるし……」
「セクシー女優なんて、男とやるだけで稼げる……」
独り言のように呟く。
「スタイル良くて……それでいて美人で……」
自分が思い描く“理想の女”の姿を、何度もなぞる。
そして、一気に薬を飲み干した。
中山
「……特に、今のところ変わりないか」
小瓶を置き、ベッドに横になる。
「とにかく、寝よ」
そう呟き、中山は目を閉じた。
翌朝。
中山は重たいまぶたをこすりながら起き上がった。
「トイレ……トイレ……」
眠気まなこでそう呟き、ふらふらとトイレへ向かう。
いつもの癖で立ったまま、ズボンとパンツを下ろし、
何の疑いもなく“そこ”をつかもうとして――
「あれ?」
手応えがない。
不思議に思い、下を見る。
「えっ…………」
一拍おいて、
「えええええええっ!? ない!?」
思考が追いつかない。
「まさか……!?」
尿意も忘れ、中山は洗面所へ駆け込んだ。
鏡の前に立ち、顔を上げる。
そこに映っていたのは――
昨夜、自分が思い浮かべていた“理想の女性”そのものだった。
中山
「……あ、あの薬……マジか……」
しばらく、鏡の前で固まったまま動けない。
「酔った勢いで買ったけど……」
喜びよりも、
圧倒的な驚きと混乱の方が、はるかに勝っていた。
しばらく鏡の前で立ち尽くしていたが、
限界だった尿意を思い出し、再びトイレへ戻る。
今度は――座って用を足す。
「……」
なんとも言えない、不思議な感覚。
違和感。
現実感のなさ。
流れる水の音を聞きながら、ようやく少しだけ頭が冷えてきた。
中山
「あ、そうだ……仕事……どうしよう」
洗面所で自分の顔を見つめながら、考える。
この姿で出社?
無理だ。
しばらく悩み――
「体調不良で休みとか、長く続かないし……」
一瞬の沈黙。
「退職代行使って、やめよう」
そう呟き、トイレから出る。
ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取り、検索画面を開く。
〈退職代行 即日〉
画面の光が、やけにまぶしく感じられた。
「退職代行『もうや~めた』か……ここにしよう」
中山はそのまま電話をかけた。
プルルルル……
ガチャ。
社長
「はい、有限会社不思議堂です」
中山
「え? 退職代行じゃないんですか?」
社長
「あ~、そっちか。普段はちょっと変わった薬作ったりしてるんやけど、退職代行もやってますねん。どうされました?」
中山は、近くに置いてあった女変薬のラベルを見る。
〈有限会社不思議堂〉
中山
「あ、あの……昨日、BARワンダーにおられませんでしたか?」
社長
「あ、おったけど……もしかして昨日の兄ちゃんか?」
中山
「は、はい。女になってしまって会社に行けなくなって……退職しようかと」
社長
「そうか、薬の効き目あったんやな。ほな、会社名と電話番号教えて」
中山は慌てながら会社情報を伝える。
社長
「はいはい。精神病とか適当な事言うてかけとくわ。まぁ代金は昨日100万も払って無いやろうから、またBARワンダーで会った時にでもええわ。それに服やらメイク道具も買わなあかんやろしな。ほな」
ガチャ。
通話が切れた。
しばらくスマホを見つめたまま、中山は固まる。
「……そうだ。服とか……女物ないや」
クローゼットを開ける。
スーツ。
ワイシャツ。
ネクタイ。
どれも今の自分には似合わない。
いや――着られない。
「……どうすんだよ」
鏡に映る“理想の女”は、パジャマ姿のままだった。
「とりあえず……買いに行かないとな……」
中山はそう呟き、クローゼットをもう一度見渡した。
どうにか男っぽく見えない服を選び、着替える。
鏡に映る自分は、確かに“女性”だった。
覚悟を決めて外に出る。
「な、何を……どこで買えばいいんだろ……」
右も左も分からないまま、とりあえずショッピングモールへ向かう。
すっぴんとはいえ、美人でスタイルのいい中山に、
すれ違う男性たちの視線が集まる。
――見られている。
その感覚に、背中がざわつく。
すると、前から一人のチャラそうな男が近づいてきた。
男
「お姉さん、ノーブラで男探してんの?」
中山
「ち、違います……」
男
「行こうよ。めちゃくちゃ美人じゃん」
そう言って、男は中山の腕を掴んだ。
中山
「や、やめてください!」
中山は必死にその手を振り払い、そのまま走り出した。
息を切らしながら家に戻り、鍵を閉める。
「……はぁ……はぁ……」
玄関に座り込む。
「……買い物は……通販にしよ……」
胸を押さえ、しばらく動けなかった。
――女って……大変かも。
ほんの少しだけ。
初日で、そう思った中山だった。
走って帰ってきた中山は、
まず冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲んだ。
「……はぁ……」
ようやく呼吸が落ち着く。
ベッドに腰を下ろし、スマホを取り出す。
大手通販サイト《アマゾネス》。
検索欄に
〈女性 下着〉
〈ワンピース〉
〈メイクセット 初心者〉
と打ち込む。
レビューを読みながら、サイズ表とにらめっこ。
「……めんどくさ」
ポチポチとカートに入れていく。
合計金額を見て、思わず目を細めた。
「……あの社長、言ってた通りやな。結構、金かかるな……女って」
画面に表示された合計金額は、想像以上だった。
「貯金なくなる前に……仕事探さないとな」
昨日まで、
“女は楽でいい”と思っていた。
けれど、今はもう、そんな余裕はない。
注文を確定させ、スマホを置く。
キッチンに向かい、買い置きしてあったインスタント食品にお湯を注ぐ。
静かな部屋に、湯気が立ちのぼる。
「……これも、もう男飯って言えないのか」
小さく呟きながら、
一人、黙ってそれを食べた。
腹ごしらえを終え、中山はベッドに腰を下ろし、天井を見つめたままぼーっと考えていた。
中山
「すっぴんは……まぁいいとして……」
少し間を置いて、ため息。
「下着が届かないと……外に出るのも怖いな……」
そう思った、その時。
スマホが震えた。
通知を確認し、眉をひそめる。
中山
「あ……前に口説いてた女性社員からだ。なんだろ……」
画面を開く。
〈急に辞めたので心配になって、今日、家の近くまで行きました。
私を口説いてたのに、女性と同棲してたんですね。最低ですね〉
中山は、しばらく画面を見つめたまま固まる。
中山
「……ちがうよ……」
小さく呟く。
「それ……俺だよ……」
もちろん、送れるはずもない。
「でも……もう今は……どうにもできない……」
スマホを伏せ、目を閉じる。
「……寝よ……」
そう呟き、そのまま布団に潜り込んだ。
こうして中山は、
“誰にも説明できない夜”を迎えたのだった。
翌朝。
ピンポーン。
「中山さーん、宅配便です」
眠気まなこで中山は起き上がり、そのまま扉を開けた。
宅配業者
「……こ、ここにサ、サイン……」
業者は視線を逸らし、どこか落ち着かない様子だった。
中山
「ん? どうかしました?」
宅配業者
「……む、胸が……」
中山
「……胸?」
言われて初めて、自分の姿に気づく。
パジャマのボタンが外れ、胸元がはだけていた。
中山
「っ……ご、ごめんなさい!」
慌ててパジャマを押さえ、急いでサインをする。
荷物を受け取り、すぐに扉を閉めた。
「……あ~……」
その場にしゃがみ込み、額を押さえる。
「男の感覚のまま……寝起きで出てしまった……」
心臓が、まだ少しドキドキしていた。
そして、中山は届いた荷物を開けた。
中山
「えっと……これが下着で……メイク道具……ワンピース……ストッキング……」
床に並べていくと、どれも自分のものなのに、まだ実感が湧かない。
「……ほんとに、女の生活始まってるな……」
しばらく眺めたあと、小さく息を吸う。
「とりあえず……やってみるか」
そう言って、箱ごと抱え、洗面所へ向かった。
鏡の前に置かれた新品の下着とメイク道具。
中山は一度、鏡の中の自分と目を合わせる。
「……失敗しても、誰も見てないしな」
そう自分に言い聞かせ、
人生で初めての“準備”を始めるのだった。
とりあえず、中山はパジャマとトランクスを脱いだ。
鏡に映るのは、見慣れない女性の裸。
中山
「……これが……マジで俺か……」
しばらく、その姿に見入ってしまう。
だが、すぐに我に返る。
「……こんなことしてる場合じゃない」
床に置いてあった下着を手に取る。
「とりあえず……パンツだな」
そう言って履く。
次にブラを手に取る。
中山
「セクシービデオで見て……だいたい付け方はわかるけど……」
少し間を置いて、
「……まさか、自分が付けることになるとは……」
小さく呟きながら、どうにか装着する。
その後、ワンピースとストッキングは、思ったより問題なく身につけられた。
「……あとは……メイクだよな……」
中山はスマホを取り出す。
〈メイクの仕方 初心者〉
検索結果を開きながら、眉をひそめる。
「洗顔料……化粧水……? 落とす時はメイク落とし……」
「……マジか……」
一瞬ため息をつきつつ、
「まぁ……とりあえず……見よう見まねでやってみるか……」
動画を再生し、鏡とスマホを交互に見ながら、手探りで進めていく。
何度も止めて、戻して、やり直して――
ようやく、形になった。
中山
「……できた……」
そう呟き、時計を見る。
「……もう、こんな時間?」
鏡に映る自分を見ながら、肩を落とす。
「……毎回……こんなことするのかよ……」
中山は、深くうなだれた。
「とりあえず……完成したし。まだ足りない物もあるし、仕事も見つけないとだし……外に出るか」
そう呟き、中山は玄関へ向かった。
靴箱から取り出したのは、人生で初めて履くハイヒール。
そっと足を入れ、立ち上がる。
「……なんだこれ……」
ぐらり、と身体が揺れる。
「安定……悪いな……」
一度深呼吸し、姿勢を整える。
「……ゆっくり歩いて行くか」
そう自分に言い聞かせ、ぎこちない足取りで一歩踏み出す。
カツ……カツ……。
聞き慣れない足音。
中山は、その音に少しだけ緊張しながら、扉を開けて外へ出た。
なんとかコンビニにたどり着き、
足りなかった化粧水、メイク落とし、そして食料品を買って外へ出た。
「……ふぅ……」
中山は、無意識に肩の力を抜く。
「とにかく……前みたいな変な視線は、なかったな……」
そう呟きながら歩いていると、
ふと、家とは反対方向にあるテナントビルが目に入った。
ネオンの看板。
中山
「……確か……」
少し考え、
「あそこのガールズバー……時給2000円~だったよな……」
一瞬、立ち止まる。
「夜になったら……ちょっと体験入店、行けるか……行ってみるか……」
自分でも、半信半疑のままそう呟き、
中山は買い物袋を持ち直して、家へ向かった。
とりあえず夜になり、中山はメイクを軽く直してから、ガールズバーへ向かった。
店の扉を開ける。
「いらっしゃいませー」
中山
「あ、あの……さっき体験入店お願いの電話した、中山貴子ですけど……」
ママ
「あ~、さっきの子ね。お酒は飲める?」
中山
「は、はい。飲めます」
ママ
「ちょうど新人好きのお客さんが来てるから、一緒に行きましょ」
中山
「はい……」
そう言って、ママの後ろについて席へ向かう。
ママ
「こちらターさん。ここの常連さんよ」
中山
「はじめまして……貴子です」
ターさん
「美人だね~。それに、ボインボイン」
遠慮のない視線が、中山の胸元に突き刺さる。
中山
「あ……ありがとうございます……」
簡単にお酒の作り方を教えると、ママは席を離れた。
ママ
「分からないことあったら、すぐ聞いてね」
「ターさん、新人ちゃんいじめないでね」
そう言って、奥へ下がっていく。
ターさん
「じゃあさ、テキーラ観覧車頼もうかな。貴子ちゃん、飲める方?」
中山
「は、はい……」
(いきなりテキーラ観覧車……?
まぁ……楽勝、楽勝……)
その時は、そう思っていた。
ターさん
「ママ~、テキーラ観覧車、12杯のやつ~」
ママ
「ターさん、いいの?」
ママは中山を見る。
「貴子ちゃん、大丈夫?」
中山
「だ、大丈夫です」
ママ
「そう。無理しないでね」
そう言って、準備に向かった。
ターさん
「俺、あんまり強くないからさ。頼むね」
中山
「え……あ、はい……」
(……ほとんど……俺一人で飲むやつ……?)
ほどなくして、ママが戻ってくる。
ママ
「お待たせ~」
テキーラ観覧車が、テーブルに置かれた。
ターさん
「ママありがとう~。さぁ、貴子ちゃん、飲んで」
中山は一杯手に取り、勢いで口に含む。
グイッ。
一杯目だけで、頭が少しふわっとする。
ターさん
「いい飲みっぷりだね~。どんどんいって~」
次々とグラスを差し出される。
一方、ターさんは――
自分の分を、ほんの少し口に含むだけだった。
そして、気づけば――
中山は、合計で十一杯も飲んでいた。
視界が揺れ、足元がおぼつかない。
ターさん
「貴子ちゃん、このあとアフターどう?」
そう言って、ターさんの手が中山の手を握る。
中山は、酔いが回りすぎて、頭がうまく働かない。
次の瞬間、
ターさんの手が、胸元へ伸びた。
それを見ていたママが、すぐに動いた。
ママ
「ターさん。おいたはダメよ~」
伸びていた手を、ぴしっと払いのける。
ターさん
「……なんだよ」
小さくつぶやき、手を下げた。
ママ
「貴子ちゃん、そろそろ時間ね」
そう言って、中山の肩を支え、店の外へ連れ出す。
外の空気が、やけに冷たい。
ママ
「大丈夫? だから無理しないでって言ったのに」
中山
「……すみません……」
ママ
「頑張れそうなら、また連絡して」
そう言って、封筒を差し出す。
「これ、今日のお給料ね」
中山
「あ……ありがとうございます……」
受け取った途端、足に力が入らず、ふらりと座り込む。
ママ
「大丈夫~? 送って行くわね」
そうして中山は、ママの車に乗せられ、
静かな夜道を通って家へ帰るのだった。
ママ
「ここで大丈夫? じゃあね。お疲れ様」
中山
「は、はい……ありがとうございます。お疲れ様です」
ママの車が走り去り、静かな夜が戻る。
中山は家に入るなり、急に気持ち悪くなり、トイレへ駆け込んだ。
しばらく、そこで動けない。
ようやく落ち着き、ふらつきながらトイレを出る。
テーブルに置いた封筒を手に取り、中を見る。
――一万円。
中山
「……一時間足らずで一万円は……確かにいいけど……」
少し考えて、
「あれだけ飲んで……割に合わないな……」
封筒を閉じ、ため息をつく。
「……でも、ママは……いい人っぽかったな……」
そう思ったものの、
体はまだ酒が残っていて、まっすぐ立つのもしんどい。
「……無理だ……」
どうにかベッドまでたどり着き、
そのまま倒れ込むように眠りについた。
昨夜の酒のせいで、中山は昼過ぎまで眠ってしまった。
中山
「……だいぶ寝てしまったなぁ……」
体を起こした瞬間、下腹部に鈍い違和感が走る。
「……お腹、痛い……昨日の酒のせいか?」
そう思いながら、トイレへ向かった。
下着を下ろした瞬間――
中山
「……え?」
一瞬、思考が止まる。
「血……?」
心臓がどくっと鳴る。
「も、もしかして……これが……生理ってやつか?」
頭が真っ白になる。
とりあえず落ち着こうと、急いで処理をし、トイレを出る。
手を洗いながら、スマホを取り出す。
〈生理 初めて どうする〉
検索結果を読み、目を見開く。
「……ナプキンってやつがいるのか……」
棚にあるはずもない。
「……買いに行くしかないか……」
中山はマスクをつけ、
ハイヒールではなく、普通のスニーカーを履く。
今は見た目より、歩きやすさだ。
急いで家を出て、コンビニへ向かった。
そしてコンビニに着き、生理用品コーナーの前に立つ中山。
中山
「……夜用? 薄型? 羽付き……?」
棚を見渡し、眉をひそめる。
「……なんだこりゃ……」
結局、よく分からないまま一つ手に取り、レジへ向かう。
男性店員
「袋は、ご利用ですか?」
中山
「は、はい……」
(当たり前だろ……そんなの……)
心の中でそう思いながら、会計を待つ。
しかし、店員は紙袋などには入れず、
そのままレジ袋に商品を入れた。
中山は一瞬、固まる。
(……そういうのって……見えないように、紙袋に入れるもんじゃないのか……)
思わず、胸の奥がざわつく。
(……だから男は……)
そこまで考えて、ふと違和感を覚える。
(……あれ?)
だが、今はそれどころじゃない。
中山は料金を払い、袋を受け取ると、足早に店を出た。
家に帰ってきた中山は、急いで新しい下着とナプキンを手に取り、トイレに入った。
説明書を見ながら、ぎこちなく手を動かす。
中山
「こ……これで、大丈夫か……?」
どうにかナプキンをつけ終え、トイレから出る。
中山
「……腰だるいし、腹も痛ぇし……」
ベッドに腰を下ろし、そのまま横になる。
中山
「こんなの……毎月、来るのかよ……」
天井を見つめながら、ぽつりと呟く。
中山
「生理痛で休みとか、正直……甘えだと思ってた……」
そう言ったあと、何か言い返そうとして、言葉が出てこない。
中山
「……思ってたけど……」
結局、そのまま何もする気が起きず、
中山はベッドに横たわったまま、目を閉じた。
とりあえず、稼がないといけない。
でも、今日は無理だ。
中山
「……ママに、メールしよ」
スマホを手に取り、ゆっくり文字を打つ。
「この前は、ありがとうございました。
ぜひ働かせていただきたいです。
ですが今日は生理痛がひどくて、
明日から、お願いいたします。
貴子」
送信して、しばらくスマホを見つめる。
――数分後。
ママから返信が届いた。
「わかったわ。
貴子ちゃん、美人だしスタイルもいいし、
絶対人気出るから。
明日、待ってるわね」
中山
「……ふぅ……」
思わず、息を吐く。
中山
「とりあえず……働き口は、見つかった……」
少しだけ安心したのと、
生理のだるさが一気に押し寄せてきて、
そのまま中山はベッドに倒れ込んだ。
そして、
何も考えられないまま、眠りに落ちていった。
昼寝してしまった中山。
中山「……あ、ナプキン替えてない」
気持ち悪さに気づき、トイレへ向かう。
交換しながら、小さくため息をついた。
中山「なんか昨日の酒、まだ残ってる気がする……なんだこれ」
トイレから出て、スマホで検索する。
「月経前や月経中の飲酒は体調が悪化する場合があります」
中山「マジかよ……そんなの全然知らないって……」
スマホを握ったまま、ベッドに腰を下ろす。
中山「楽勝だと思ってたのにな……つらい事ばっかじゃん」
腰の重さと腹の鈍い痛みに顔をしかめる。
中山「でも……100万も払ったんだ」
天井を見上げる。
中山「きっと、いい事だってあるよな……」
まだどこかで、そう思っている中山だった。
そして次の日の夜。
まだ生理二日目で身体は重かったが、稼がないと、と思い中山はガールズバーへ向かった。
中山「今日から、よろしくお願いします。」
ママ「よろしくね。それより体調大丈夫?今日はお酒飲まなくていいからね。」
中山「は、はい……まだ体調すぐれないので、そうさせていただきます。」
ママ「じゃあ、あのお客さんの前について。」
中山「はい。」
ママ「のぶさん、この子新人の貴子ちゃん。普段は飲めるんだけど、今日はちょっと我慢してあげてね。」
そう言ってママは別の席へ向かった。
中山「はじめまして、貴子です。よろしくお願いします。」
のぶ「よろしくね。めちゃくちゃ美人だよね。彼氏いるの?」
中山「い、今はいないです。」
のぶ「体調良くなったら飲みに行こうよ。同伴。」
中山「あ、はい……ぜひ。」
のぶ「約束だよ?」
中山「は、はい。」
のぶ「ちょっとトイレ。」
のぶが席を立つ。
すると隣にいた先輩店員が、さりげなく近づき小声で囁いた。
「……あの人、ちょっとしつこいから気をつけてね。」
中山「え……あ、はい。」
紳士そうなのになぁ……。
中山は、その時はまだ、軽く考えていた。
そして、のぶがトイレから戻ってきて、たわいもない話をしていたが、
中山は心の中で──
(ナプキン……変えなきゃ……)
ポーチを手に取り、
中山「ちょっと失礼します」
そう言って席を立つ。
のぶの後ろを通った、その瞬間。
ぬるっとした感触が、お尻に触れた。
中山「きゃッ」
思わず声が出る。
のぶ「ごめん、ごめん。ちょっと当たっちゃった」
笑っている。
中山は一瞬、相手の顔を見る。
目は逸らされていない。
中山「あ、そうなんですね……」
そう言うしかなかった。
足早にトイレへ向かう。
⸻
個室に入り、鍵をかけた瞬間、背中がぞわっとした。
(今の……絶対わざとだよな)
壁に手をつき、深く息を吐く。
ナプキンを替えながら、さっきの感触が頭から離れない。
(これ、男だったらキレてるよな……)
でも今は──
(揉めたら“面倒な女”になるのか……?)
鏡を見る。
さっきまで「美人で得だ」と思っていた顔が、
少しだけ強張って見えた。
(女って、こういうのも込みで働いてるのか……?)
胸の奥が、少し重くなる。
中山は、軽くリップを直し、
(仕事だ。稼がないと)
そう言い聞かせて、席に戻った。
そしてトイレから戻り、再びのぶの前に座る中山。
のぶ「本当に君、美人でスタイルいいよね」
そう言いながら、のぶの手が伸び、中山の手を撫で回す。
中山「あ、ありがとうこざいます……」
作り笑い。
心はまったく笑っていない。
のぶ「酒飲まなくていいからさ、アフター行こうよ」
ぐっと手を引かれる。
中山「あ、いや、あの……」
のぶ「断らないってことは、いいってこと?」
笑っているのに、目は笑っていない。
中山は言葉に詰まる。
(断ったら怒る? 店に迷惑かかる?
でも……行きたくない……)
何も言えないまま固まっていると、
ノゾミ「のぶさん、貴子ちゃん“女の子日”だからダメ!」
ノゾミが間に入り、のぶの手を引き離した。
のぶ「ちぇ、わかったよ。ママ、チェック」
ママ「はーい、のぶさんいつもありがとう」
伝票が出され、のぶは財布から金を出し、不満そうに帰っていった。
店内の空気が少しだけ軽くなる。
中山「あ、あの……ありがとうございます」
ノゾミ「断る勇気も大事。あなた美人だし、ああいうの、これから山ほど来るよ」
さらっと言う。
中山「は、はい……」
(山ほど……?)
胸の奥が、少し冷たくなる。
ノゾミ「慣れるけど、慣れちゃダメだからね」
その一言が、妙に刺さった。
やがて閉店時間。
片付けを終え、外に出る中山。
夜風が少し冷たい。
(楽勝って……なんだったんだろ)
ヒールの足がじんわり痛む。
今日もまた、何かを少し失った気がした。
そして何日か経ち、生理が終わった。
生理中はノゾミやママの助けもあり、酒を飲まずに働くことができた。
中山「今日から……お酒、飲めます」
ママ「そう? 助かるけど、無理はしないでね」
ノゾミ「少しでも変だと思ったら、すぐ言って」
その夜、店はほどよく混みはじめ、ママとノゾミはそれぞれ別の席についた。
そして中山の前に座ったのは、のぶだった。
のぶ「今日は飲めるんだね」
中山「……はい」
のぶ「じゃあさ、テキーラ観覧車いこっか」
体験入店の時の苦い記憶が、一瞬でよみがえる。
中山は、少し間を置いてから口を開いた。
中山「……ちゃんと、のぶさんも飲んでくれるなら」
のぶ「いいよ、飲む飲む」
その言葉に、中山は小さく息を吐き、
中山「ママ~、テキーラ観覧車お願いしま~す」
ママは一瞬だけ、心配そうな目を向けてから、
ママ「……のぶさん、ありがとうねぇ」
そう言って準備に向かった。
隣の席から、ノゾミが目だけで
「とばしすぎないで」
と合図を送ってくる。
「お待たせ~」
運ばれてきた観覧車。
中山とのぶは、それぞれグラスを取り、
「カンパーイ」
一週間ぶりの酒は、想像以上に強く回った。
それでも今回は、のぶも同じくらいのペースで飲んでいる。
――あの時よりは、マシだ。
そう思った矢先。
のぶ「なぁ……アフター行こうよ」
指先が伸びてきて、手を撫でる。
酔いと場の空気に押されて、中山の口が先に動いた。
中山「……じゃあ、この店で一番高いシャンパン、入れてくれるなら」
一瞬の沈黙。
のぶは、笑ってグラスを持ち上げた。
のぶ「いいよ。ママ~、一番高いやつ!」
そして、ママが一番高い二十万円のシャンパンを運んできた。
ママ「のぶさん、大丈夫? 本当に払える?」
のぶ「大丈夫だよ。心配なら、先にカード確認してもいいよ」
ママ「なら、いいわね」
そう言って、ママは慣れた手つきで
ポンッ
と軽い音を立て、シャンパンの栓を開けた。
ママ「私も一杯、いただいていいかしら」
のぶ「いいよ。その代わりさ……」
そう言いながら、のぶは中山の手を指先でなぞる。
のぶ「二人の邪魔は、しないでね~」
中山は、胸の奥がむっと重くなるのを感じた。
同時に、急にトイレに行きたくなる。
中山「あ、ちょっと……失礼します」
そう言って席を立ち、のぶの後ろを通りかかった瞬間だった。
前よりも、はっきりとした、いやらしい手つきで
お尻を撫でられる感触。
中山「きゃっ……」
のぶ「ごめーん。……わざと~」
中山は一瞬、言葉に詰まり、
とっさに作り笑いを浮かべた。
中山「もう~、セクハラ~」
そう言って、その場をやり過ごし、
足早にトイレへと逃げ込んだ。
そして席に戻る中山。
シャンパンは、ママとノゾミがほとんど飲んでくれていた。
のぶは、完全に酔いつぶれている。
中山は小声で、
「ママ、先輩……ありがとうございます」
ママは軽くウインクしただけだった。
やがて閉店時間。
ママ「のぶさん、起きて。閉店よ。これ今日のお会計」
のぶはふらふらとカードを差し出す。
ママは無言で処理し、カードを返す。
のぶ「貴子ちゃ~ん……約束~……アフター~」
舌足らずな声。
ママ「今日は無理よ。別日にね」
中山「別日に……同伴しましょう」
のぶ「わかったよ~……」
ママ「タクシー来たわ。行きましょ」
中山がふらつくのぶの肩を支え、店を出ようとした、その瞬間。
伸びてきた手が、
今度ははっきりと、
中山の胸を鷲掴みにした。
中山「きゃ……っ」
力が抜け、思わずその場に座り込む。
胸が痛いのか、
悔しいのか、
怖いのか。
気づけば、涙が勝手にこぼれていた。
ママ「のぶさん、出禁にするわよ」
ノゾミが駆け寄り、背中をさする。
ノゾミ「大丈夫? 貴子ちゃん」
のぶ「なんだよ……ちょっと触られたぐらいで泣きやがって」
吐き捨てるように笑う。
のぶ「これだから女は得だよな。こっちは高い金払ってんのによ~」
その言葉を聞いた瞬間、
中山の胸が、
ドクン と大きく鳴った。
(……男の時の、俺みたいだ)
あの頃、自分が吐いていた言葉が、
そのまま返ってきたようだった。
そして、のぶはタクシーに乗り、帰っていった。
店の前に、少しだけ静けさが戻る。
ノゾミ「……大丈夫?」
中山「は、はい……」
ママ「すごいじゃない。今日、よく頑張ったわね」
その一言を聞いた瞬間、
中山の瞳から、また涙が溢れた。
ノゾミ「ちょっと~、ママが泣かせた~」
中山「あ、いえ……すみません……
二人の、あったかさが……なんか……」
ノゾミ「さっき“女は得だ”とか言ってたけどさ~」
ノゾミは肩をすくめる。
ノゾミ「一回、女になってみろって感じだよね~」
ママ「ほんとそれ。
毎日メイクして、気を使って、愛想振りまいて……」
ノゾミ「男なんて化粧しなくていいし、生理もないしさ。
ねぇ、貴子ちゃん」
中山「……そうですね……」
言葉は出たけど、
胸の奥は、ずしっと重かった。
ママ「顔色、悪いわね。
片付けは私たちでやるから、少し休んでていいわよ」
中山「い、いえ……大丈夫です」
そう言って、中山は立ち上がる。
結局、三人で黙々と片付けを始めた。
店を出て、家までの道を歩いていた。
夜風が少し冷たい。
すると背後から、
「あ、この前のお姉さんじゃん」
中山の足が止まる。
「おっ、前と違って化粧もして、いい服着てるねぇ」
振り返ると、
女に変わった初日に声をかけてきたチャラい男だった。
「今日こそ遊ぼうよ~」
軽い口調とは裏腹に、
ぐっと腕を掴まれる。
中山「や、やめてください……」
振り払おうとしても、力が入らない。
その瞬間。
「何してる!」
低い声。
巡回中の警察官がこちらに近づいてきた。
男「やべ」
舌打ちし、男は走って逃げていった。
腕の感触が、まだ残っている。
恐怖が一気に押し寄せ、中山はその場に座り込んだ。
警察官「大丈夫ですか?
女性の夜道は危険ですよ。気をつけてくださいね」
“女性の夜道は危険”
その言葉が、胸に重く落ちる。
中山は、どうにか立ち上がる。
中山「……は、はい。すみません」
謝る理由なんてないのに、
自然と口から出た。
そして、早足で家へ向かった。
背後を、何度も振り返りながら。
どうにか家に辿り着いた中山。
中山「……まだ酒も残ってるし、嫌な感触も残ってるし……
シャワー浴びて、寝よ」
そう呟いて、バスルームへ向かう。
服を脱ぎ、鏡に映る自分の姿を見る。
中山「……美人は美人で、色々大変だな」
そう思いながら、浴室に入った。
シャワーを浴び、パジャマに着替え、髪を乾かす。
中山「……髪、長いのも大変だな……」
何気ないこと一つ一つが、少しずつ身に染みる。
ベッドに横になった瞬間、
頭の中に浮かんできたのは、のぶの言葉だった。
「これだから女って得だよな~」
胸が、きゅっと締めつけられる。
(……昔の俺の言葉だ)
そして、ノゾミの声。
「一回、女になってみろ」
なってみて、やっと分かった。
楽な立場なんて、どこにもない。
ただ、自分が
今をちゃんと頑張れていなかっただけ。
その言い訳を、
女批判にすり替えていただけだった。
今の中山には、
男の大変さも、女の大変さも、両方が分かる。
中山「……色々考えても、今は変わらないな。
明日は休みだし」
少しだけ、気持ちを切り替える。
「ショッピングでも行って、
メイク道具とか服とか、ちゃんと揃えよ」
そう呟いて、目を閉じた。
女は大変だと、分かってきた中山。
それでも――
どこかで、
この生活を少し楽しもうとしている自分も、確かにいた。
翌朝、中山は簡単に朝食をとった。
男の頃なら絶対にやらなかった洗顔料を手に取り、
泡立てて、丁寧に顔を洗う。
クローゼットから服を選び、着替え、メイクを始める。
中山「……だんだん、手際よくできるようになってきたな」
そう呟き、最後に軽く髪を整えた。
ハイヒールを履き、街に出る。
中山「ヒールにも、だいぶ慣れてきたな……」
そんなことを考えていた、その時だった。
男「すみませ~ん。ちょっとインタビューいいですか?」
中山「あ、いえ……ちょっと……」
男「めちゃくちゃ美人なので。
謝礼もお渡ししますよ」
中山は一瞬、足を止める。
男「マッサージ機のモニター体験をお願いしたくて」
マッサージ機の体験で、謝礼。
(……それくらいなら)
軽くそう思ってしまった。
中山「少しだけでしたら……」
男「ありがとうございます。では、こちらへ」
案内された先に停まっていたのは、
一台の大きな車だった。
中山は、車を見上げる。
(……なんか、見たことあるような……)
胸の奥が、わずかにざわつく。
それでも中山は、そのまま男と一緒に車に乗り込んだ。
案内されたワゴンのドアが閉まると、車内は独特の静けさに包まれた。
「こちらへ座ってください」
案内役の男に促され、中山は用意されていた椅子にちょこんと腰を下ろした。
ふと周囲を見渡すと、奥にはカメラを構えた男、そして案内役とは別に、体格の良い二人の男が待機しているのが目に入った。
(……なんで、こんなに人が?)
違和感を覚え、何気なく窓の外を見る。
景色はうっすらと曇って見えるものの、外を歩く人々は誰一人として、この派手な車内を覗き込もうとはしない。
(外からは中が見えない……これって、まさか『手品鏡号』!?)
事態を察した中山が、慌てて腰を浮かせようとしたその時だ。
「まあまあ、落ち着いて」
男がすかさず立ちはだかり、手のひらサイズの機械を差し出した。
「これ、最新のマッサージ機なんです。まずは肩とかに当てて、リラックスしてみてください」
「え……? あ、は、はい」
強引な雰囲気に呑まれ、中山は言われるがままスイッチを入れた。
ブゥゥゥン……と細かく震えるそれを、凝った肩に恐る恐る当てる。
「……あ、意外と……気持ちいいですね」
女になった身体は以前より敏感なのか、その振動は驚くほど心地よく感じられた。
思わず表情を緩めた中山を見て、男は満足げに目を細めた。
「いいでしょう~? リラックスできたみたいだ」
それが、合図だった。
「じゃあ、全身もほぐしていきましょうか」
待機していた二人の男たちが、それぞれ手に同じようなマッサージ機を握りしめ、ゆっくりと中山との距離を詰め始めた。
「失礼しますね」
「全身、凝ってるみたいですから」
男たちは中山の返事も待たず、両サイドから挟み込むようにしてマッサージ機を押し当てた。
ブゥゥゥン……。
「っ……!?」
一人は、女体化によって柔らかく膨らんだ胸元へ。
もう一人は、脚の付け根に近い太ももへ。
「ちょ、ちょっと待っ……あ、んっ!」
突然の挟み撃ちと、敏感な部分へ直接伝わる振動。
中山は驚きと、女の身体特有の鋭敏な反応に戸惑い、思わず甲高い声を上げて身をすくませた。
知らない男たちに囲まれ、強引に肌に触れられる感触。
中山は生理的な嫌悪感で鳥肌が立ち、逃げ出したい衝動に駆られたが、狭い車内と男たちの威圧感に気圧され、身体がすくんで動けない。
「い、いや……やめてくださ……」
抵抗しようと声を絞り出すが、男たちは聞く耳を持たない。
「股関節も固いですね。しっかりほぐしましょう」
下半身を担当していた男が、有無を言わせぬ手つきで中山の膝を掴み、グイッと強引に左右へ押し広げた。
抗う間もなく、無防備な太ももの内側が晒される。
「あっ……!」
同時に、上半身担当の男が、膨らんだ胸の頂点付近に狙いを定め、ブゥゥゥンと唸るマッサージ機を押し当ててきた。
女になったばかりの敏感な胸に走る、強烈な痺れ。
「んぅっ……! だ、め……っ!」
快感とは違う、強制的な刺激に中山が顔をしかめて身をよじると、案内役の男がヒラヒラと数枚の万札を目の前にちらつかせた。
「我慢してくださいよ。ほら、謝礼は弾みますから」
ニヤリと笑う男の顔と、目の前の現金。
逃げ場のない中山は、屈辱と混乱で涙目になりながら、唇を噛み締めることしかできなかった。
案内してきた男は、躊躇うことなくズボンのベルトに手をかけ、下着ごと足元へ脱ぎ捨てた。
「ほら……これなら、文句ないでしょう?」
男はニヤリと笑うと、さらに数枚の万札を取り出し、中山の目の前にヒラつかせた。
そして、露わになった自身の熱く猛るモノを、中山の顔のすぐそばまで近づける。
「謝礼、もっと弾みますから。ね?」
「ひっ……!」
目の前に突きつけられた男の欲望と、積み上げられる現金。
逃げ場のない狭い車内で、男たちの熱気と威圧感に囲まれ、中山は恐怖と混乱で思考が真っ白になった。
中山の脳裏に、男だった頃に気楽に見ていた動画の記憶がよぎる。
『女はいいよな、寝て気持ちよくなってるだけで、金まで貰えて』
画面の向こうの女優を見て、そう羨んでいたはずだった。
しかし、当事者となって初めて突きつけられた現実は、そんな甘いものではなかった。
男たちの容赦ない視線、逃げ場のない圧迫感、そして意思を無視して迫りくる暴力的なまでの愛撫と、目の前の男の生々しい欲望。
「……ちがう、こんなの……」
恐怖と嫌悪感で縮み上がる心。
そこには、かつて想像していた「楽な仕事」など微塵もなく、ただただ力のない者が踏みにじられる恐怖があるだけだった。
無理やりに顎を掴まれ、口内を男の熱い塊で塞がれる。
「んぐ……っ、んッ……!」
喉の奥まで突き込まれる苦しさと、鼻につく男の臭い。
それと同時に、全身を駆け巡るマッサージ機の強烈な振動。
敏感になった胸の突起と、無防備に広げられた股間を、容赦ない機械の動きが責め立てる。
「ふ……っ、ぁ……!?」
ビクン、ビクンと、意思とは無関係に跳ね上がる身体。
女になった脳髄が、この過剰な刺激を「快感」として処理しようとしているのか、それともただの生態反応なのか。
(あ、れ……? これ、なに……?)
恐怖と嫌悪感、そして身体の芯から湧き上がる正体不明の熱。
すべてが混ざり合い、中山は自分が今、何をされているのか、気持ちいいのか苦しいのかさえ、もうわからなくなっていた。
「グッ、オェ……ッ!?」
男の大きな手が、中山の後頭部をガシッと鷲掴みにした。
逃げようとする動きを封じ込めると、男は自身の快楽のためだけに、強引に腰を打ち付け、中山の頭を前後に激しく揺さぶり始めた。
ズプッ、グッ、オグッ……!
喉の奥深くまで突き刺さる硬い異物感と、鼻を塞ぐ男の獣臭い匂い。
息継ぎも許されず、ただただ喉を犯される苦痛に、中山の目から生理的な涙がボロボロと溢れ出した。
(……嘘だ、こんなの)
男だった頃、画面越しに見た女優たちは、とろけるような顔で奉仕していた。
だから、フェラチオはされる側だけでなく、する側の女にとっても気持ちいい行為なのだと、勝手に思い込んでいた。
けれど、現実は違った。
(苦しい……! ただ、苦しいだけじゃん……!)
そこには快感など微塵もない。
あるのは、呼吸を奪われ、人格を無視された単なる「穴」として扱われる、絶望的な窒息感と屈辱だけだった。
「い、イクッ……!」
男の腰がビクンと跳ね上がり、喉の奥に熱い塊がドクドクと吐き出された。
中山は反射的にむせ返りそうになるのを必死に堪え、口の中に広がる生温かい感触と、鼻に抜ける強烈な匂いに涙目で耐えた。
しばらくして男が満足げに息を吐きながら離れると、中山はたまらず咳き込み、口元を手で覆った。
惨めで、汚された感覚。早くここから立ち去りたい。
しかし、男はまだ終わらせるつもりがないのか、さらに分厚い札束を無造作に取り出し、中山の目の前に積み上げた。
「……いい飲みっぷりでしたよ。さらに謝礼弾みますから、これ以上、どうですか?」
ニヤリと下卑た笑みを浮かべ、さらなる行為を要求してくる男たち。
だが、今のたった一回の行為で、中山の幻想は完全に打ち砕かれていた。これ以上は、心が持たない。
「い、いえ……」
震える手で乱れた服を合わせ、中山は逃げるように視線を逸らした。
「ちょっと急いでるので……失礼します」
精一杯の強がりで断りを入れ、逃げる隙を伺うように身体をドアの方へと向けた。
「はい、カット~」
軽い声が響き、撮影が終わった。
男「いやぁ……お姉さん、めちゃくちゃ美人でスタイルもいいし、
絶対人気出ますよ」
中山は、うまく言葉が返せず、曖昧に頷くだけだった。
男「うちの専属女優にならない?
センスあると思うんだけどなぁ」
中山「……いえ、結構です」
それだけ言って、車のドアを開ける。
逃げるように、その場を離れた。
——あんなの、
女性も喜んでやってると思ってた。
でも、違った。
駅のトイレに駆け込み、鏡の前に立つ。
軽く口をすすぎ、
崩れたメイクを直す。
中山「……ふぅ……」
喉の奥に残る違和感が、
なかなか消えなかった。
中山「……とりあえず、もらった謝礼で買い物して、
気分変えよ」
そう呟き、トイレを出る。
ショッピングモールの中を歩きながら、
中山はさっきまで見ていた世界と、
今いる日常との落差に、少しだけ戸惑っていた。
買い物中、スマホが鳴った。
画面を見ると、あの社長からだ。
中山は人混みを抜け、ショッピングモールの外に出て電話に出る。
中山「はい、中山です」
社長「おぉ、兄ちゃん……いや、今はお姉さんか。今日、BAR来れるか?」
中山「あ、はい。今日休みなので。退職代行のお金も払わないとと思ってましたし」
社長「そか。ほな、待ってるわ」
電話が切れた。
中山はしばらくスマホを見つめる。
――色々ありすぎて、すっかり忘れてたな……
女になったこと、働き始めたこと、生理、セクハラ、あの車の出来事。
目の前のことで必死で、「始まり」を忘れていた。
中山は小さく息を吐き、買い物袋を持ち直す。
「……行くか」
さっと必要な物だけを買い、家路についた。
そして夜になり、中山はBARワンダーに向かった。
店の前に立ち、ふと足を止める。
――ここが始まりだったな。
そんなことを思いながら、扉を開ける。
マスター「いらっしゃい」
社長「おー、兄ちゃん……いや、姉ちゃん。こっちや」
爺さん「それにしても、えらい美人になったもんじゃのぅ」
マスター「それにボインボイン」
中山「ちょっとマスター」
セクハラ発言にもツッコめる余裕が、いつの間にかできていた。
社長「どや、女になって」
中山「……正直、思ってたのと違って、大変でした」
爺さん「ふぉっふぉっふぉっ。そうじゃろ、そうじゃろ。
性別で楽か苦か、そんな単純なもんじゃない」
中山「そうですね……あの時の俺に言ってやりたいです」
社長「そうかぁ。
実はな、戻れる薬、完成したんやけど……どうする?」
中山は少し考えてから、首を横に振った。
中山「今は、このままで頑張ってみます。
今、男に戻っても、きっと後悔します。
“女のままでいとけば良かった”って言い訳しそうで……
それに、今、楽しいです」
社長「……そうか。わかった。
戻りたくなったら、いつでも連絡してき」
社長はそう言ってから、ふと思い出したように爺さんを見る。
社長「てか爺さん、戻りたいって泣きついてくるって言うてたやん。
やっぱ、この前の取り分くれ」
そう言って手を出すが、
爺さんは、その手をパシッと払った。
爺さん「もうないわい」
社長「何に使ってん。100万も」
マスター「この店の飲み代のツケでもらった」
社長「なんぼ飲むねん、爺さん」
中山「あ、あの……100万は無理ですが、退職代行のお金です」
そう言って、中山は社長の前に10万円を置いた。
社長「……こんな稼いだんかいな」
中山「今日、インタビューって言われて……」
そう言って、今日あった出来事を話す。
マスター「え?俺、あのシリーズ好きなんだよね」
爺さん「マスターは、ほんにスケベじゃのぅ」
マスター「絶対買お。いつ出るの?」
そう言って、中山の胸に視線をやる。
中山「セクハラ代、100万です」
爺さん「金は天下の回りもの、じゃな。ふぉっふぉっふぉっ」
――性別で楽、得、苦。
そんなもんはない。
今とどう向き合うか。
今をどう頑張るかじゃ。
爺さんは、いつものように笑った。
ふぉっふぉっふぉっ。
おわり
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