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隣の旦那が私の子を妊娠した日
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第一章
西野ゆうじが妊娠したという話は、まだ誰にも知られていない。
知っているのは、恵子と、ゆうじ本人、それから病院のごく限られた医師だけだった。
「奥さんには……言わないんですか?」
恵子がそう聞くと、ゆうじは一瞬だけ視線を落とした。
「言えないですよ。
だって、どう説明すればいいんです?」
もっともな答えだった。
男の腹に命が宿るなど、正気の沙汰ではない。
けれど恵子は、その“正気じゃない現実”の中心に、自分がいることを感じていた。
六週間前。
雷の夜。
停電した家の前で、二人は立ち尽くしていた。
触れ合ったのは、肩と指先だけ。
抱き合うことも、口づけもなかった。
それなのに、胸の奥で何かが深く、静かに重なった感覚だけが残っている。
「……恵子さん」
ゆうじが、ためらいがちに口を開く。
「俺、昔からなんです。
人を好きになると……体の調子、変になるんですよ」
冗談めかして言っているようで、声は震えていた。
「前にも、一度だけありました。
高校の時、どうしても忘れられなかった人がいて……」
その時は、数日で治まった。
腹痛と高熱だけで終わった、と彼は言う。
「でも今回は、違う。
はっきり“いる”って、わかるんです」
恵子は、思わず彼の腹部に目を向ける。
服の上からでは、まだ何もわからない。
それでも――
そこにあるはずのないものを、確かに感じてしまった。
その夜、恵子は眠れなかった。
自分が妊娠できなかった年月。
欲しくて、欲しくて、諦めるしかなかった未来。
それを、
自分ではない身体が、代わりに抱えている。
しかも、それが――
想ってしまった相手の体だという現実。
これは、罰なのか。
それとも、救いなのか。
布団の中で目を閉じたとき、
恵子の耳元で、誰かの声がした気がした。
「想いは、行き場を失うと、形を持つ」
その声が、夢だったのか、
それとも――ずっと昔から、この町に残っていたものなのか。
恵子には、まだわからなかった。
第二章 西野の妻
最初におかしいと思ったのは、ゆうじの匂いだった。
洗濯物を取り込んだとき、
彼のシャツだけ、微かに違う匂いが混じっていた。
香水でも、他人の柔軟剤でもない。
もっと生々しくて、もっと曖昧な――人の体温に近い匂い。
「最近、体調どう?」
そう聞くと、ゆうじは一拍遅れてから笑った。
「うん、まあまあ」
その笑い方が、少しだけよそよそしかった。
結婚して七年。
私は彼の「嘘の前触れ」を、ほとんど見逃さなくなっていた。
視線が合わない。
質問に対して、答えが半拍遅れる。
それでも、浮気だとは思わなかった。
なぜなら――
私たちは、ずっと子供のことで悩んでいたから。
病院にも通った。
検査もした。
原因は「わからないまま」だった。
夜の生活も、いつの間にか、
「しなきゃいけないこと」みたいになっていった。
だから、ゆうじが時々、
自分の腹を無意識に撫でる仕草をしていても、
最初は気づかなかった。
気づいたのは、夜中だった。
隣で眠る彼が、うなされていた。
「……だめだ……」
苦しそうに眉をひそめ、
腹部を押さえながら、何度も寝返りを打つ。
「ゆうじ?」
声をかけると、彼ははっと目を覚ました。
「あ……ごめん。起こした?」
そのとき、私は見てしまった。
パジャマの上からでもわかる、
ほんのわずかな――不自然な丸み。
「……太った?」
冗談めかして言うと、
彼は一瞬、言葉を失った。
「いや……気のせいだよ」
その否定が、あまりにも早すぎた。
翌日、私は隣家の南さんと、ゴミ捨て場で会った。
南 恵子。
静かで、丁寧で、
どこか「欠けたもの」を抱えているような女性。
「最近、寒暖差すごいですね」
他愛もない会話。
それなのに、彼女の声を聞いた瞬間、
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
理由はわからない。
ただ、触れてはいけない場所に近づいた感覚だけが残った。
その日の夜、ゆうじが言った。
「しばらく、病院に通うかもしれない」
「どこか悪いの?」
「……ちゃんとしたら、話す」
その言い方が、決定的だった。
夫婦なのに、
“今は言えない”という線を、はっきり引かれた。
私は、その夜、久しぶりに泣いた。
子供ができないこと。
女として、選ばれなかったような感覚。
そして――
何かを、隣の家に奪われつつある予感。
翌朝、鏡に映った自分は、
妊娠できなかった女の顔をしていた。
その数日後、
ゆうじのカバンの中から、病院の封筒を見つける。
診療科:産科。
一瞬、意味が理解できなかった。
次の瞬間、
全身の血の気が引いた。
「……冗談でしょ」
男性が、産科にかかる理由なんて、
一つも思い浮かばない。
けれど、
思い浮かばないからこそ、
一番恐ろしい想像が、頭を占領し始めていた。
その夜、
私は初めて、隣家の灯りを長く見つめた。
カーテンの向こうに、
恵子さんの影が揺れる。
なぜか、その影が――
何かを、抱いているように見えた。
第三章 訪問
インターホンを押した瞬間、
自分が何を聞きに来たのか、はっきりとはわかっていなかった。
ただ、行かなければいけない気がした。
逃げたままでは、
この違和感は、きっと形を変えて増殖する。
「……はい」
扉が開き、南 恵子が立っていた。
思ったよりも、ずっと普通だった。
疲れた様子も、怯えた表情もない。
ただ、少しだけ――張りつめている。
「あの……突然すみません。
お隣の、西野の妻です」
恵子は一瞬、ほんの一瞬だけ目を見開き、
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……どうぞ」
部屋は整っていた。
生活感はあるのに、音がない。
まるで、誰かの気配を必要以上に消しているような空間。
テーブルに向かい合って座ると、
沈黙が重く落ちた。
どちらから切り出すべきか、
わからないまま、時間だけが過ぎる。
先に口を開いたのは、恵子だった。
「……ご主人、体調、悪いですよね」
その一言で、私は確信した。
――知っている。
「病院に、行ってます」
そう答えると、恵子は視線を落とした。
「……産科、ですよね」
心臓が、はっきりと音を立てた。
「……どうして、それを」
「私も、行ってましたから」
その言葉に、嘘はなかった。
むしろ、あまりにも静かすぎて、
言い訳の余地すら感じさせない。
私は、思っていた質問を、口に出せなくなっていた。
浮気しているのか。
関係があったのか。
裏切られたのか。
――どれも、違う。
そう直感的にわかってしまった。
「……南さん」
声が、思ったよりも低くなった。
「あなた、あの人と……」
「してません」
即答だった。
間も、迷いもない。
「触れてもいません。
誓って言えます」
普通なら、
それでも疑ったと思う。
でも、その時の私は、
疑う理由そのものが、ずれていることに気づき始めていた。
「じゃあ、どうして……」
恵子は、少しだけ苦しそうに笑った。
「わかりません。
ただ……私、ずっと子供が欲しかった」
その言葉が、胸に刺さる。
「欲しくて、欲しくて、
でも諦めたふりをして……
それでも、心のどこかで、手放せなかった」
私は、何も言えなかった。
同じだったから。
「……あの夜、雷が鳴って」
恵子は、そこで言葉を切った。
「何もしていないのに、
“想ってしまった”んです」
その瞬間、
私の中で、何かが静かに崩れた。
浮気じゃない。
欲望でも、裏切りでもない。
想いが、勝手に形を取っただけ。
「……昔、聞いたことがあります」
私の口から、思いがけず言葉が出た。
「この町で、
“想いが強すぎると、産まれてしまう”って話」
恵子は、顔を上げた。
「……知ってるんですか」
「祖母が、言ってました。
“産むべき人が産めないとき、
別の身体が、代わりになることがある”って」
部屋の空気が、ひどく冷えた。
それでも、不思議と怖くはなかった。
怖いのは、
誰かが悪者になることだったから。
「……南さん」
私は、ゆっくり息を吸う。
「これ、あなたのせいじゃない」
恵子の目が、揺れた。
「私のせいでもない。
……たぶん、あの人のせいでもない」
言葉にして、ようやく理解する。
これは、
誰かの過失じゃない。
どうしようもなく、愛が余ってしまった結果だ。
そのとき、
恵子の部屋の奥で、
何かが、微かに鳴いた気がした。
赤ん坊の声のような、
それでいて、まだこの世のものではない音。
私たちは、同時に、そちらを見た。
言葉は、いらなかった。
――もう、戻れない。
第四章 古い話
この町では、昔から「産まれないもの」があった。
正式な記録には残っていない。
役所の資料にも、郷土史にも、はっきりとは書かれていない。
ただ、年寄りたちの口伝えだけが、細く残っている。
私がそれを思い出したのは、
恵子の家を出てからだった。
祖母は、よく言っていた。
「この町ではな、
子供が欲しいと願いすぎた人ほど、
“自分の腹では産めない”ことがある」
意味がわからず、笑った記憶がある。
「その代わりな、
想いが強すぎると、
別の身体に宿ることがあるんや」
そのとき祖母は、決まって声を潜めた。
「そうして産まれた子は、
“祝われへん”」
理由を聞くと、
祖母は必ず話を打ち切った。
――触れたらあかん話や。
その夜、
私は眠れなかった。
ゆうじの寝息を聞きながら、
彼の腹部に、無意識に視線が向く。
まだ、目立つほどではない。
それでも、そこには確かに“変化”があった。
そして、気づいてしまう。
私が触れたいと思った瞬間だけ、
腹の内側が、わずかに動く。
錯覚だと思いたかった。
でも、何度試しても、同じだった。
「……聞こえてるの?」
そう呟いた瞬間、
内側から、こん、と小さな衝撃が返ってきた。
翌日、私は町外れの古い神社を訪ねた。
今ではほとんど人が来ない。
鳥居はひび割れ、
拝殿の鈴も、半分錆びている。
そこにいたのは、
ひとりの年老いた巫女だった。
事情を説明すると、
彼女は驚きもせず、静かに言った。
「……また、産まれたんやね」
心臓が跳ねる。
「“想い子”や」
その言葉を聞いた瞬間、
恵子の顔が浮かんだ。
「本来、産まれるはずやった人の想いを、
別の身体が引き受けてしもた子」
巫女は、私の腹ではなく、
胸元を見つめていた。
「その子はな、
愛されたい気持ちが、先に出来上がってる」
だから、普通の赤ん坊とは違う。
泣く前に、
誰かの感情を感じ取る。
触れられる前に、
触れられることを知っている。
「産まれたあと、
一番最初に抱く人間を、
“親”やと思い込む」
血でも、理屈でもない。
想いで、選ぶ。
その帰り道、
嫌な予感が消えなかった。
家に戻ると、
ゆうじがソファに座り、腹を抱えていた。
「……さっき、な」
顔色が悪い。
「名前、呼ばれた気がする」
「……誰に?」
「わからん。
でも、
“お母さん”って」
私は、息を呑んだ。
まだ、産まれてもいないのに。
その夜、
私は夢を見た。
暗い水の中で、
小さな影が、こちらを見上げている。
口は動かないのに、
声だけが、直接胸に届く。
――はやく
――だいて
目を覚ますと、
腹の奥が、じん、と熱を持っていた。
それは、母性じゃなかった。
もっと原始的で、
拒めない、
“呼ばれている”感覚だった。
翌朝、
恵子から、短いメッセージが届く。
《昨日の夜、
私の部屋で、
赤ちゃんの声がした》
まだ、誰も産んでいないのに。
――この子は、
もう、私たちを“親”として認識し始めている。
そのことだけは、
はっきりわかっていた。
第五章 訪問者
インターホンが鳴ったのは、夕方だった。
西野ゆうじは、その音を聞いた瞬間、
腹の奥がきゅっと縮むのを感じた。
理由はわからない。
ただ、来てほしくない人が来た、
そんな確信だけがあった。
扉を開けると、
そこに立っていたのは、南 正人だった。
隣の家の夫。
穏やかで、無口で、
いつも感情を表に出さない男。
「……少し、話せますか」
声は低く、落ち着いている。
怒っているようにも、詰め寄るようにも見えない。
それが、逆に不気味だった。
「……どうぞ」
リビングに通すと、
正人はゆうじの腹部に、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
――見た。
そう確信した。
「病院のこと、聞きました」
単刀直入だった。
「……恵子から?」
「いえ。
町の噂です」
その言葉に、ゆうじの喉が鳴る。
まだ、広まっているはずはない。
それでも――
この町は、隠し事が苦手だ。
「あなたが、妊娠していると」
否定しなかった。
否定できなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、正人が静かに言った。
「……それは、
あなたの意思ですか」
意味が、すぐには理解できなかった。
「俺の、ですか?」
「ええ」
正人は、ソファには座らなかった。
立ったまま、逃げ場を塞ぐように、ゆうじを見下ろしている。
「“欲しい”と思いましたか」
ゆうじは、答えに詰まった。
欲しい。
欲しくない。
そんな単純な話ではない。
「……気づいたら、
そこに、いたんです」
そう言うしかなかった。
正人は、ゆっくりとうなずいた。
「やっぱり」
その反応が、決定的だった。
「……知ってたんですか」
「ええ。
可能性は」
正人は、初めて視線を上げた。
その目には、怒りも嫉妬もない。
あるのは、諦めに似た覚悟だけだった。
「この町では、
産まれるはずの子が、
産まれないことがあります」
ゆうじは、息を呑む。
「そして、その想いは、
行き場を失うと……
近くにいる、別の身体を選ぶ」
ゆうじの腹が、
その言葉に反応するように、微かに動いた。
正人は、それを見逃さなかった。
「……反応するんですね」
「……はい」
「なら、はっきり言います」
正人は、一歩、距離を詰めた。
「それは、
あなたの子じゃない」
ゆうじは、何も言えなかった。
「私と、恵子の間に、
ずっと、来られなかったものです」
声は穏やかなままだ。
「でも……
私たちの身体では、
受け止めきれなかった」
一拍置いて、正人は続けた。
「あなたが、
代わりに、引き受けた」
ゆうじの背中を、冷たい汗が伝う。
「……じゃあ、俺は……」
「犠牲でも、被害者でもない」
正人は、きっぱり言った。
「選ばれたんです」
その言葉が、
祝福なのか、呪いなのか、
ゆうじには判断できなかった。
「ひとつだけ、約束してください」
正人は、初めて感情をにじませた。
「この子を、
“自分のもの”だと思わないこと」
ゆうじの腹が、
その瞬間、強く、はっきりと動いた。
まるで、拒否するように。
正人は、それを見て、
ほんのわずかに目を伏せた。
「……もう、
そう簡単な話じゃないようですね」
帰り際、
正人は玄関で振り返った。
「産まれたら……
最初に抱くのは、
誰になると思いますか」
答える前に、扉は閉まった。
ゆうじは、その場に立ち尽くし、
腹に手を当てる。
内側から、
確かに“意思”が返ってきた。
――ちがう
――あのひとじゃない
誰の声なのか。
もう、わからなかった。
第六章 反転
南 正人が異変に気づいたのは、
ゆうじの家を訪ねた翌朝だった。
目覚めた瞬間、
身体が、自分のものではない感覚に包まれていた。
喉の奥が、ひどく重い。
胃がむかつくというより、
内側から、何かが押し上げてくる感じ。
洗面所で顔を洗い、
鏡に映る自分を見て、正人は眉をひそめた。
——顔色が、悪すぎる。
「……疲れか」
そう呟いた声は、
思ったよりも低く、掠れていた。
その日の昼、
会議中に、急に立ちくらみがした。
視界が歪み、
腹の奥が、きゅっと締めつけられる。
(……腹?)
違和感は、そこだった。
痛みではない。
鈍い、熱の塊のような感覚。
その夜、
正人は、隣家の灯りを無意識に見ていた。
西野の家。
そして、その中にいる、彼の妻。
会話を交わしたことは、ほとんどない。
顔を合わせれば、軽く会釈する程度。
それなのに。
彼女の姿を思い浮かべた瞬間、
腹の奥が、はっきりと反応した。
「……まさか」
否定しようとした、その時。
——こん。
内側から、
小さく、しかし確かな衝撃。
正人は、その場に膝をついた。
翌日、
彼は一人で病院に向かった。
検査結果を告げる医師は、
ゆうじの時と、まったく同じ表情をしていた。
「……医学的な説明は、できません」
沈黙。
「ですが」
一拍置いて、医師は続ける。
「妊娠反応が、出ています」
正人は、静かに目を閉じた。
——やはり。
驚きは、なかった。
むしろ、
ようやく揃ったという感覚に近い。
帰り道、
正人は、町外れの神社へ向かった。
老いた巫女は、彼を見るなり、深く息を吐いた。
「……二つ、同時に来たか」
「想い子、ですか」
正人がそう言うと、
巫女は、ゆっくりとうなずいた。
「せやけど、今回は、ちょっと違う」
彼女は、正人の腹部に視線を落とす。
「循環してる」
意味を尋ねる前に、巫女は続けた。
「恵子の想いが、ゆうじに宿り、
ゆうじの妻の想いが、あんたに宿った」
正人の喉が鳴る。
「じゃあ……」
「この町で、
産まれなかった想いが、
互いの夫を“器”に選んだ」
逃げ道は、なかった。
その夜、
正人は初めて、恵子に打ち明けた。
すべてを。
恵子は、長い沈黙のあと、
小さく、笑った。
「……やっぱり」
「……怒らないのか」
「怒れないよ」
恵子は、正人の腹に、そっと手を当てる。
その瞬間、
内側で、確かに“応え”があった。
恵子の目が、揺れる。
「……この子、
私のこと、知ってる」
正人は、その言葉で理解した。
これは、罰でも、救いでもない。
行き場を失った愛が、
家族という形を探して、
暴走しているだけなのだと。
同じ夜、
西野の妻もまた、
同じ感覚を覚えていた。
腹の奥で、
ふたつの気配が、
互いを探すように、微かに響き合っている。
——この町は、
もう、後戻りできない。
第七章 ずっと、そうだった
最初に気づいたのは、
西野の妻のほうだった。
夕方、キッチンで包丁を持ったまま、
ふと、南家の窓に明かりが灯るのを見たとき。
胸の奥が、
懐かしい痛みを思い出した。
「……また、見てる」
自分で自分に呆れた。
南 正人。
隣の家の夫。
無口で、目立たなくて、
感情を表に出さない男。
結婚した当初から、
なぜか気になっていた。
視線が合えば、すぐに逸らす。
会話も、必要最低限。
それなのに。
彼がゴミ袋を持って外に出るだけで、
心臓が、ほんの少し速くなる。
「どうして……」
答えは、ずっと出ていた。
好きだった。
でも、それは
奪いたいとか、壊したいとか、
そういう感情じゃなかった。
ただ、
同じ空間にいるだけで、
安心する。
それだけ。
一方で、
南 正人も、同じことを思っていた。
恵子と結婚してからも、
西野の妻を見かけるたび、
胸の奥が、静かに波打つ。
話したいわけじゃない。
触れたいわけでもない。
ただ、
存在を確認できれば、それでよかった。
だからこそ、
自分の感情に名前をつけなかった。
名前をつけた瞬間、
越えてはいけない線が、
はっきりしてしまうから。
ゆうじも、
恵子に対して、同じだった。
激しい恋じゃない。
衝動でもない。
「この人が、
母になるはずだったんだ」
そんな、
根拠のない確信。
それが、
雷の夜、形を持ってしまった。
四人が集まったのは、
誰もいない夜の南家だった。
説明は、もう要らなかった。
正人が、静かに言う。
「……俺たち、
最初から、間違ってたわけじゃない」
西野の妻が、うなずく。
「好きでも、
選ばないって決めただけ」
恵子は、
自分の腹ではなく、
正人の腹に手を当てる。
そこには、
自分の想いの残骸が、確かにいる。
「愛さなかったわけじゃない」
ゆうじが、ぽつりと呟く。
「ただ、
正しい形を選んだだけや」
その“正しさ”が、
想いの行き場を奪った。
だから、
身体が代わりに、
選択してしまった。
その瞬間、
二人の腹が、同時に動いた。
まるで、
互いを呼び合うように。
——ここにいる
——みつけた
声にならない声が、
四人の胸に、同時に届く。
西野の妻は、
ようやく理解した。
これは、罰じゃない。
裏切りでもない。
ずっと心にしまってきた「好き」が、
遅れて、形になっただけ。
「……どうする?」
誰かが、そう聞いた。
答えは、まだない。
ただ一つ、
はっきりしていることがある。
この子たちは、
間違いから生まれたんじゃない。
選ばれなかった愛が、
遠回りして、辿り着いただけだ。
第八章 選択肢
四人で集まるのは、これが三度目だった。
夜。
カーテンを閉め切った南家のリビング。
テレビはつけていない。
時計の秒針だけが、やけに大きな音を立てている。
最初に口を開いたのは、
西野の妻だった。
「……入れ替える、っていうのは」
声は、落ち着いていた。
「子供、よね」
誰も否定しなかった。
正人と、ゆうじ。
それぞれの腹に宿った命。
本来、
恵子の想いはゆうじの中に、
西野の妻の想いは正人の中にある。
ならば。
「産まれたあと、
“本来の母”のところへ戻す」
理屈としては、
一番わかりやすい。
恵子は、両手を膝の上で組んだまま、
ゆっくりとうなずいた。
「……その方が、
この町的には、正しいんだと思う」
言いながら、
声がわずかに震えた。
正しい。
その言葉が、
もう何度も、彼女を傷つけてきた。
「でも」
今度は、ゆうじが言った。
「それって……
俺たち、どうなるんですか」
誰も、すぐには答えられなかった。
ゆうじは、自分の腹に手を当てる。
「俺、
この中にいる子のこと……
もう、“他人”やと思えない」
それは、正人も同じだった。
朝、目が覚めたとき。
無意識に腹を守るように、身体が丸くなる。
それが、
“役目”なのか、
“愛着”なのか、
もう区別がつかない。
「……じゃあ」
西野の妻が、
視線を上げる。
「私たちが、
入れ替わる?」
空気が、はっきりと変わった。
「夫婦ごと、入れ替える」
正人と、恵子。
ゆうじと、西野の妻。
想いの向きも、
子供の行き先も、
全部、一直線になる。
「それ、
現実的じゃないでしょ」
恵子が、かすかに笑った。
「戸籍は?
世間は?
親は?」
「でも」
西野の妻は、
視線を逸らさなかった。
「嫌じゃない、でしょ」
その一言が、
四人の胸を、同時に突いた。
嫌じゃない。
それが、
一番、言ってはいけない本音だった。
正人は、目を閉じる。
もし、最初から、
この組み合わせだったら。
もし、
あの雷の夜がなかったら。
そんな「もし」を、
考えてしまう時点で、
もう答えは半分、出ている。
恵子が、小さく言った。
「……どっちも、
間違いじゃない気がする」
子供を入れ替える。
妻を入れ替える。
どちらも、
誰かを切り捨てる選択で、
同時に、誰かを救う選択だ。
そのとき。
二人の腹が、
同時に、強く動いた。
今までで、一番はっきりと。
四人は、言葉を失った。
——ちがう
——それじゃない
声は、
誰の耳にも、同じように届いた。
西野の妻が、
ゆっくり息を吐く。
「……この子たち」
「私たちが決める前に、
もう、意思を持ってる」
正人は、静かに言った。
「入れ替えるかどうか、じゃない」
「誰と、産まれるかや」
その夜、
結論は出なかった。
でも、
一つだけ、はっきりした。
もう、
「元に戻す」選択肢は、
どこにも存在しない。
残っているのは、
新しい形を選ぶか、
それとも、町に従うか。
嫌いではない。
その感情が、
一番残酷な答えだと、
四人とも、気づいてしまっていた。
第九章 調べて、たどり着いたもの
最初に調べ始めたのは、
「正しい答え」を見つけるためじゃなかった。
間違っていない理由が、欲しかっただけだ。
恵子が古い資料館の閲覧室に通い始めたのは、
あの四人での話し合いの翌日からだった。
町史。
郷土研究誌。
廃刊になったローカル新聞。
どれも、はっきりとは書いていない。
ただ、断片的に、同じ言葉が何度も出てくる。
――「想いの循環」
――「身代わりの器」
――「縁をほどく前の、承認」
「……承認、か」
声に出すと、
それだけで少し、楽になった。
罰でも、裁きでもない。
許されるための、手順。
同じ頃、正人も別の場所で調べていた。
町外れの神社。
今は使われていない社務所の奥。
埃をかぶった木箱の中から、
一冊の古い帳面が見つかった。
達筆でも、読みやすくもない文字。
想いが二重に宿りしとき
血を正さず、縁を正せ
子を返すか
縁を返すか
いずれを選ぶにも
先に
想いを、重ねて示すべし
正人は、そこで初めて、
「身体」が出てくる理由を理解した。
これは、快楽のためじゃない。
背徳のためでもない。
嘘をつかないためだ。
言葉はいくらでも誤魔化せる。
理屈も、制度も、後から整えられる。
でも、
想いが本当に向いている相手と、
身体が拒まなかったかどうか。
それだけは、
誤魔化しようがない。
夜、四人は再び集まった。
テーブルの上には、
コピーした資料や、書き写したメモ。
誰も、すぐには口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、
西野の妻だった。
「……あったんだね」
責める声じゃない。
驚きと、安堵が混じった声。
「ちゃんと、
“逃げ道”として」
ゆうじは、資料に目を落としたまま言った。
「これ、
やらなあかん、って話じゃないですよね」
正人は、ゆっくり首を振る。
「逆や」
「やらずに、
形だけ整える方が、
この町では“歪み”になる」
恵子は、深く息を吸った。
「……つまり」
「私たちは、
もう一回、
自分の気持ちを
誤魔化さずに確認する」
それが終われば。
• 子供を、それぞれ“本来の母”に返すこと
• 夫婦を解消し、組み替えること
どちらを選んでも、
町は口出ししない。
それが、この町のやり方だった。
西野の妻が、ぽつりと言う。
「……嫌じゃない、って思ってる時点で」
「もう、
確認は終わってる気もする」
誰も、否定しなかった。
ただ、
確認しないまま進むことだけは、
四人とも、選べなかった。
正人が、静かに言った。
「これは、
誰かを失う儀式やない」
「これから、どう生きるかを、
身体ごと認めるための段取りや」
窓の外で、
風が、古い木を鳴らした。
どこかで、
あの社の鈴の音がした気がした。
まだ、夜ではない。
まだ、始まってもいない。
けれど、
四人は同時に理解していた。
――もう、
この話は、避けて通れないところまで来ている。
雨の匂いが、肌にまとわりつくような、湿度の高い夜だった。
町外れにひっそりと佇む古びたホテルの、重い扉が軋む音を立てて開く。
チェックインの手続きは短く、事務的で、感情の入り込む余地はない。
鍵を受け取った四人は、言葉もなく長い廊下を歩いた。
足音だけが、厚い絨毯に吸い込まれていく。
南恵子と正人。
西野ゆうじと、その妻。
傍から見れば奇妙な組み合わせだった。
だが彼らの間に漂う空気は、不倫旅行にありがちな浮つきとは程遠い。
これから厳粛な法事でも執り行うかのような、張り詰めた緊張だけが、静かに満ちていた。
通されたのは、二つの寝室がコネクティングドアで繋がれた、広いスイートルーム。
窓の外には、町の灯りが雨に滲み、ぼんやりと揺れている。
外界から切り離されたこの密室は、今宵、彼らの運命を書き換えるための祭壇だった。
部屋の中央で、四人は向かい合う。
誰も目を逸らさない。
罪悪感はすでに燃え尽き、覚悟という名の熱だけが残っていた。
「……始めましょうか」
誰の口から出たのかもわからない、その一言が合図となる。
正人は、ゆっくりと隣家の妻へ向き直った。
彼の内には、彼女が長年抱え続けてきた思慕が、物理的な重みをもって宿っている。
そしてゆうじもまた、恵子の渇望をその身に受け止め、彼女の前に立った。
「……ずっと、苦しかったでしょう」
西野の妻が、震える指先を正人の腹部へと伸ばす。
そこには、本来なら自分の胎内に在るはずだった情念が、命として脈打っていた。
シャツ越しに伝わる熱に触れた瞬間、彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
それは悲しみではない。
ようやく在るべき場所に、手が届いたという安堵だった。
正人は無言のまま、その手を自身の掌で覆い、強く押し当てる。
拒絶ではない。
それは、逃げないという誓いだった。
一方、恵子はゆうじの前に立ち、その穏やかな眼差しを見つめ返していた。
彼の身体からは、不思議と懐かしい匂いがする。
それは、正人にはどうしても届けることのできなかった、彼女自身の純粋な想いの名残だった。
ゆうじが、恵子の頬にそっと触れる。
その指は熱を帯び、驚くほど優しい。
「君の想いは、僕が守る」
囁きは短く、それでいて確かだった。
その響きが、恵子の中で凍りついていた時間を、静かに溶かしていく。
四人は示し合わせたように、それぞれの相手の手を取り、部屋を分かつ扉の向こうへと進んだ。
ベッドサイドの灯りだけが、薄闇に浮かぶ影を柔らかく縁取っている。
衣類が床に落ちる音は、衣擦れというより、古い殻を脱ぎ捨てる音に近かった。
正人は、西野の妻を抱き寄せる。
華奢な背中に腕を回し、肌と肌を密着させる。
これまで「隣人」という壁越しにしか感じられなかった体温が、今は遮るものなく溶け合っていた。
彼の内に宿る〈彼女の想い〉が、彼女自身の体温と共鳴し、理性を静かに焼き尽くしていく。
恵子は、ゆうじの腕の中で、かつてない充足を覚えていた。
唇を重ね、呼吸を交わすたび、自分の一部が彼へ還り、そして彼の一部が自分へと流れ込んでくる。
それは肉体を超えた、魂の縫合に近い感覚だった。
触れ合う皮膚の滑らかさ。
首筋にかかる吐息。
早鐘を打つ鼓動。
それらすべてが、この「交換」こそが正解なのだと、細胞の奥で静かに訴えかけてくる。
背徳の味は、なかった。
あるのは、長い時間をかけて探してきたピースが、正しい場所に収まった瞬間の、圧倒的な肯定だけ。
夜が深まるにつれ、部屋の輪郭は雨音とともに溶けていく。
四人の吐息と、シーツのかすかな擦過音は、町に降り続く雨と混じり合い、やがてすべてを優しく覆い隠した。
それは、四人が「夫婦」を脱ぎ捨て、
真実の「対」へと生まれ変わる、
長い夜の始まりだった。
第十章 増える重み
異変に最初に気づいたのは、
西野の妻自身だった。
朝、目覚めた瞬間、
身体がいつもより重かった。
寝不足のせいではない。
疲労でもない。
内側に、もう一段、重みが増えた感覚。
洗面所で歯を磨きながら、
ふと手が腹部に伸びる。
まだ何も形はない。
それでも、触れた瞬間、確信があった。
――いる。
喉の奥が、ひくりと鳴った。
「……嘘」
その日の午後、
彼女は一人で病院に行った。
医師の表情は、
これまで何度も見てきた“困惑”のそれだった。
「……通常では考えられませんが」
沈黙。
「妊娠反応が、出ています」
帰り道、雨はもう降っていなかった。
それなのに、空気はまだ湿っていた。
彼女は、町外れの道で立ち止まる。
これで、四人のうち
三人が、同時に“宿している”。
循環。
承認。
儀式。
――全部、通ったはずだった。
それなのに。
夜、再び集まった四人の空気は、
これまでで一番、重かった。
「……私も」
西野の妻は、静かに言った。
「妊娠、してる」
一瞬、誰も言葉を出せなかった。
ゆうじの顔から血の気が引き、
正人は、反射的に彼女の腹を見る。
恵子だけが、遅れて、目を伏せた。
「……どういう、こと?」
ゆうじの声は、かすれていた。
「わからない」
西野の妻は、首を振る。
「でも、
あの夜のあとから、
身体が……変わった」
正人は、ゆっくり息を吐いた。
「……儀式が、終わってなかったんや」
誰も反論しなかった。
承認は、確かにされた。
想いの向きも、身体は受け入れた。
けれど――
欲しかったものが、重なりすぎた。
「町の話では」
正人は、低く続ける。
「想いが整理されないまま重なると、
“余り”が出る」
その“余り”が、
最後に、
最も不安定な場所に宿る。
西野の妻は、唇を噛んだ。
「……じゃあ、
この子は、誰の?」
答えは、
誰も持っていなかった。
恵子が、ようやく口を開く。
「……嫌な言い方だけど」
視線を上げないまま、言う。
「私たち、
もう“正解”を選べる段階、
過ぎてる気がする」
沈黙。
三つの命。
四つの想い。
そして、
どれも間違いじゃないという現実。
ゆうじが、頭を抱えた。
「入れ替える話も、
離婚の話も……
もう、意味ないやん」
正人は、静かにうなずいた。
「泥沼や」
その言葉は、
自嘲でも、後悔でもなかった。
事実の確認だった。
西野の妻は、
自分の腹に手を当てる。
そこには、
誰か一人の想いでは説明できない、
曖昧で、しかし確かな重みがある。
「……この町」
彼女は、ぽつりと言った。
「たぶん、
“整理”はさせてくれへん」
「ただ、
背負わせるだけ」
その夜、
誰も結論を出さなかった。
出せなかった、ではない。
出すという発想そのものが、
崩れてしまった。
雨は、また降り始めていた。
町は、
まだ何も言わない。
それが一番、
恐ろしかった。
朝、恵子が口を押さえて洗面所に駆け込んだ。
吐き気は一瞬で、胃の中に出るものは何もない。
代わりに残ったのは、腹の奥に沈んだ、はっきりした違和感だった。
検査薬は、迷わなかった。
陽性。
恵子は結果を持ったまま、リビングに戻る。
正人は、いつも通りテーブルに座っていた。
「……妊娠、してた」
正人は、数秒だけ黙り込み、
それから静かに言った。
「……そうか」
それ以上、何も言わない。
驚きも、喜びも、否定もない。
「……その反応、なに?」
恵子が聞くと、正人は視線を落とした。
「昨日から、
腹が……変やった」
同じ頃、ほぼ同時刻。
西野の妻も、
ゆうじも、
それぞれ同じ結果を突きつけられていた。
その夜、四人は顔を合わせた。
「……私も」
「俺もや」
短い言葉が、順に落ちる。
最後に、正人が言った。
「……全員、やな」
四人全員が、妊娠している。
理由も、順序も、
もう意味を持たない。
儀式は終わったはずだった。
けれど、承認は終わっていなかった。
町は、
整理を許さなかった。
ただ、
全部を引き受けさせただけだった。
最終章 町は、何も言わない
町は、最後まで、何も言わなかった。
役所からも、神社からも、
誰かが止めに来ることはなかった。
噂だけが、湿った空気のように、じわじわと広がっていく。
――四人、らしい。
――全部、宿ったらしい。
――もう、戻れんのやと。
確認する者はいない。
否定する者もいない。
この町は昔から、起きてしまったことを事実として受け取るだけだった。
四人は、しばらく同じ家で暮らした。
どこかの「正解」を選ぶためではない。
ただ、分けられなかったからだ。
朝、誰かが吐き気をこらえ、
別の誰かが水を差し出す。
夜、腹の奥が同時にざわめき、
理由もなく眠れなくなる。
医師は首を振り続けた。
説明はできない。
経過を見るしかない。
月日が過ぎるにつれ、
四人の腹は、それぞれ違う形で膨らみ始めた。
恵子の中の命は、静かだった。
ほとんど主張しない。
まるで、「ここにいるだけでいい」と言うように。
正人の中の命は、強かった。
夜になると、決まって動く。
西野の妻が近くにいると、特に。
ゆうじの中の命は、せっかちだった。
何かを急かすように、頻繁に存在を主張する。
恵子が触れると、すぐに応えた。
そして、西野の妻の中の命だけが、
不思議と、誰にも似ていなかった。
それは、四人の誰の想いでも説明できない重みを持っていた。
まるで、余ったものが最後に集められた器のように。
「……これ」
ある夜、西野の妻が言った。
「町の言う“余り”なんじゃない?」
誰も否定しなかった。
選ばれなかった感情。
諦めたふりをした未来。
口にしなかった「本当は」。
それらが、
最後にひとつの場所に集まった。
出産は、同じ月だった。
同じ病院で、
同じ廊下を、
四人はそれぞれの足で歩いた。
順番は、決めなかった。
決める意味がなかった。
泣き声は、四つ。
似ていないようで、
どこか同じ調子を持っていた。
医師も、助産師も、
それ以上、何も言わなかった。
戸籍は、あとから整えられた。
町は、必要なだけ黙認した。
誰も、「どういう関係ですか」とは聞かなかった。
四人は、話し合った末、
入れ替えもしなかったし、完全に分かれもしなかった。
一緒に住む家は、二つ。
家族は、ひとつ。
子供たちは、
誰を母と呼ぶか、
誰を父と呼ぶかを、自然に選んだ。
その選び方は、
血でも、制度でもなかった。
ただ、
一番最初に、
一番長く、
一番安心して抱いた相手。
それだけだった。
町の雨は、
その年も変わらず降った。
誰かが幸せになったとも、
誰かが罰を受けたとも、
町は判断しない。
ただ、
想いが多すぎた結果が、そこに残った。
四人は、ときどき考える。
もし、あの夜、
何もしなければよかったのか。
もし、最初から違う相手を選んでいればよかったのか。
答えは、出ない。
ただ、
子供たちが眠る姿を見て、
四人は同時に思う。
――嫌いではなかった。
――だから、ここまで来た。
町は、今日も静かだ。
何も祝わず、
何も裁かず、
ただ、すべてを受け入れている。
それが、この町のやり方だった。
そしてそれは、
四人にとっても、
もう一つの「家族の形」だった。
余話 噂
それからしばらくして、
町に、また雨の匂いが残る頃だった。
「聞いた?」
誰かが、声を潜めて言う。
「南のとこだけちゃうらしいで」
誰も名前は出さない。
出さなくても、わかる。
「……両隣の旦那も、やて」
笑い話みたいな口調だった。
冗談やろ、という含みを、ちゃんと残した言い方。
「妊娠したとか、
してへんとか」
曖昧に、濁して、
でも、完全には否定しない。
ゴミ出しの時間。
回覧板の受け渡し。
夕方のスーパー。
誰かが、男の腹に目をやり、
誰かが、気まずそうに視線を逸らす。
病院は、何も言わない。
神社も、何も言わない。
役所は、書類を静かに処理するだけだ。
「この町な」
年寄りが、ぽつりと呟く。
「昔から、
想いが余ると、伝染るんや」
誰が最初だったのか。
どこまでが本当なのか。
もう、確かめる人はいない。
ただ、
あの一角だけ、
妙にベビーカーが増えた。
妙に、男たちが腹を庇う仕草をする。
妙に、
「夫婦」という言葉が、
意味を失っていく。
それでも、
町は何も変わらない。
雨は降り、
洗濯物は乾き、
子供は泣いて、笑う。
誰かが、冗談めかして言う。
「次は、向かいの旦那ちゃうか」
笑い声が起きる。
でも、その笑いは、
どこか慎重で、
少しだけ距離を取っていた。
――冗談で済むうちは、
まだ、安全だから。
真実が何だったのかは、
最後まで、わからない。
ただ一つ、
町の誰もが、心の奥で知っている。
ここでは、
想いを持ちすぎると、
身体が先に答えてしまうことがある。
それだけだ。
そして今日も、
雨の匂いが、
静かに町にまとわりついている。
妊娠したとか、
しないとか。
その曖昧さごと、
町は、受け入れていた。
——終わり。
西野ゆうじが妊娠したという話は、まだ誰にも知られていない。
知っているのは、恵子と、ゆうじ本人、それから病院のごく限られた医師だけだった。
「奥さんには……言わないんですか?」
恵子がそう聞くと、ゆうじは一瞬だけ視線を落とした。
「言えないですよ。
だって、どう説明すればいいんです?」
もっともな答えだった。
男の腹に命が宿るなど、正気の沙汰ではない。
けれど恵子は、その“正気じゃない現実”の中心に、自分がいることを感じていた。
六週間前。
雷の夜。
停電した家の前で、二人は立ち尽くしていた。
触れ合ったのは、肩と指先だけ。
抱き合うことも、口づけもなかった。
それなのに、胸の奥で何かが深く、静かに重なった感覚だけが残っている。
「……恵子さん」
ゆうじが、ためらいがちに口を開く。
「俺、昔からなんです。
人を好きになると……体の調子、変になるんですよ」
冗談めかして言っているようで、声は震えていた。
「前にも、一度だけありました。
高校の時、どうしても忘れられなかった人がいて……」
その時は、数日で治まった。
腹痛と高熱だけで終わった、と彼は言う。
「でも今回は、違う。
はっきり“いる”って、わかるんです」
恵子は、思わず彼の腹部に目を向ける。
服の上からでは、まだ何もわからない。
それでも――
そこにあるはずのないものを、確かに感じてしまった。
その夜、恵子は眠れなかった。
自分が妊娠できなかった年月。
欲しくて、欲しくて、諦めるしかなかった未来。
それを、
自分ではない身体が、代わりに抱えている。
しかも、それが――
想ってしまった相手の体だという現実。
これは、罰なのか。
それとも、救いなのか。
布団の中で目を閉じたとき、
恵子の耳元で、誰かの声がした気がした。
「想いは、行き場を失うと、形を持つ」
その声が、夢だったのか、
それとも――ずっと昔から、この町に残っていたものなのか。
恵子には、まだわからなかった。
第二章 西野の妻
最初におかしいと思ったのは、ゆうじの匂いだった。
洗濯物を取り込んだとき、
彼のシャツだけ、微かに違う匂いが混じっていた。
香水でも、他人の柔軟剤でもない。
もっと生々しくて、もっと曖昧な――人の体温に近い匂い。
「最近、体調どう?」
そう聞くと、ゆうじは一拍遅れてから笑った。
「うん、まあまあ」
その笑い方が、少しだけよそよそしかった。
結婚して七年。
私は彼の「嘘の前触れ」を、ほとんど見逃さなくなっていた。
視線が合わない。
質問に対して、答えが半拍遅れる。
それでも、浮気だとは思わなかった。
なぜなら――
私たちは、ずっと子供のことで悩んでいたから。
病院にも通った。
検査もした。
原因は「わからないまま」だった。
夜の生活も、いつの間にか、
「しなきゃいけないこと」みたいになっていった。
だから、ゆうじが時々、
自分の腹を無意識に撫でる仕草をしていても、
最初は気づかなかった。
気づいたのは、夜中だった。
隣で眠る彼が、うなされていた。
「……だめだ……」
苦しそうに眉をひそめ、
腹部を押さえながら、何度も寝返りを打つ。
「ゆうじ?」
声をかけると、彼ははっと目を覚ました。
「あ……ごめん。起こした?」
そのとき、私は見てしまった。
パジャマの上からでもわかる、
ほんのわずかな――不自然な丸み。
「……太った?」
冗談めかして言うと、
彼は一瞬、言葉を失った。
「いや……気のせいだよ」
その否定が、あまりにも早すぎた。
翌日、私は隣家の南さんと、ゴミ捨て場で会った。
南 恵子。
静かで、丁寧で、
どこか「欠けたもの」を抱えているような女性。
「最近、寒暖差すごいですね」
他愛もない会話。
それなのに、彼女の声を聞いた瞬間、
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
理由はわからない。
ただ、触れてはいけない場所に近づいた感覚だけが残った。
その日の夜、ゆうじが言った。
「しばらく、病院に通うかもしれない」
「どこか悪いの?」
「……ちゃんとしたら、話す」
その言い方が、決定的だった。
夫婦なのに、
“今は言えない”という線を、はっきり引かれた。
私は、その夜、久しぶりに泣いた。
子供ができないこと。
女として、選ばれなかったような感覚。
そして――
何かを、隣の家に奪われつつある予感。
翌朝、鏡に映った自分は、
妊娠できなかった女の顔をしていた。
その数日後、
ゆうじのカバンの中から、病院の封筒を見つける。
診療科:産科。
一瞬、意味が理解できなかった。
次の瞬間、
全身の血の気が引いた。
「……冗談でしょ」
男性が、産科にかかる理由なんて、
一つも思い浮かばない。
けれど、
思い浮かばないからこそ、
一番恐ろしい想像が、頭を占領し始めていた。
その夜、
私は初めて、隣家の灯りを長く見つめた。
カーテンの向こうに、
恵子さんの影が揺れる。
なぜか、その影が――
何かを、抱いているように見えた。
第三章 訪問
インターホンを押した瞬間、
自分が何を聞きに来たのか、はっきりとはわかっていなかった。
ただ、行かなければいけない気がした。
逃げたままでは、
この違和感は、きっと形を変えて増殖する。
「……はい」
扉が開き、南 恵子が立っていた。
思ったよりも、ずっと普通だった。
疲れた様子も、怯えた表情もない。
ただ、少しだけ――張りつめている。
「あの……突然すみません。
お隣の、西野の妻です」
恵子は一瞬、ほんの一瞬だけ目を見開き、
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……どうぞ」
部屋は整っていた。
生活感はあるのに、音がない。
まるで、誰かの気配を必要以上に消しているような空間。
テーブルに向かい合って座ると、
沈黙が重く落ちた。
どちらから切り出すべきか、
わからないまま、時間だけが過ぎる。
先に口を開いたのは、恵子だった。
「……ご主人、体調、悪いですよね」
その一言で、私は確信した。
――知っている。
「病院に、行ってます」
そう答えると、恵子は視線を落とした。
「……産科、ですよね」
心臓が、はっきりと音を立てた。
「……どうして、それを」
「私も、行ってましたから」
その言葉に、嘘はなかった。
むしろ、あまりにも静かすぎて、
言い訳の余地すら感じさせない。
私は、思っていた質問を、口に出せなくなっていた。
浮気しているのか。
関係があったのか。
裏切られたのか。
――どれも、違う。
そう直感的にわかってしまった。
「……南さん」
声が、思ったよりも低くなった。
「あなた、あの人と……」
「してません」
即答だった。
間も、迷いもない。
「触れてもいません。
誓って言えます」
普通なら、
それでも疑ったと思う。
でも、その時の私は、
疑う理由そのものが、ずれていることに気づき始めていた。
「じゃあ、どうして……」
恵子は、少しだけ苦しそうに笑った。
「わかりません。
ただ……私、ずっと子供が欲しかった」
その言葉が、胸に刺さる。
「欲しくて、欲しくて、
でも諦めたふりをして……
それでも、心のどこかで、手放せなかった」
私は、何も言えなかった。
同じだったから。
「……あの夜、雷が鳴って」
恵子は、そこで言葉を切った。
「何もしていないのに、
“想ってしまった”んです」
その瞬間、
私の中で、何かが静かに崩れた。
浮気じゃない。
欲望でも、裏切りでもない。
想いが、勝手に形を取っただけ。
「……昔、聞いたことがあります」
私の口から、思いがけず言葉が出た。
「この町で、
“想いが強すぎると、産まれてしまう”って話」
恵子は、顔を上げた。
「……知ってるんですか」
「祖母が、言ってました。
“産むべき人が産めないとき、
別の身体が、代わりになることがある”って」
部屋の空気が、ひどく冷えた。
それでも、不思議と怖くはなかった。
怖いのは、
誰かが悪者になることだったから。
「……南さん」
私は、ゆっくり息を吸う。
「これ、あなたのせいじゃない」
恵子の目が、揺れた。
「私のせいでもない。
……たぶん、あの人のせいでもない」
言葉にして、ようやく理解する。
これは、
誰かの過失じゃない。
どうしようもなく、愛が余ってしまった結果だ。
そのとき、
恵子の部屋の奥で、
何かが、微かに鳴いた気がした。
赤ん坊の声のような、
それでいて、まだこの世のものではない音。
私たちは、同時に、そちらを見た。
言葉は、いらなかった。
――もう、戻れない。
第四章 古い話
この町では、昔から「産まれないもの」があった。
正式な記録には残っていない。
役所の資料にも、郷土史にも、はっきりとは書かれていない。
ただ、年寄りたちの口伝えだけが、細く残っている。
私がそれを思い出したのは、
恵子の家を出てからだった。
祖母は、よく言っていた。
「この町ではな、
子供が欲しいと願いすぎた人ほど、
“自分の腹では産めない”ことがある」
意味がわからず、笑った記憶がある。
「その代わりな、
想いが強すぎると、
別の身体に宿ることがあるんや」
そのとき祖母は、決まって声を潜めた。
「そうして産まれた子は、
“祝われへん”」
理由を聞くと、
祖母は必ず話を打ち切った。
――触れたらあかん話や。
その夜、
私は眠れなかった。
ゆうじの寝息を聞きながら、
彼の腹部に、無意識に視線が向く。
まだ、目立つほどではない。
それでも、そこには確かに“変化”があった。
そして、気づいてしまう。
私が触れたいと思った瞬間だけ、
腹の内側が、わずかに動く。
錯覚だと思いたかった。
でも、何度試しても、同じだった。
「……聞こえてるの?」
そう呟いた瞬間、
内側から、こん、と小さな衝撃が返ってきた。
翌日、私は町外れの古い神社を訪ねた。
今ではほとんど人が来ない。
鳥居はひび割れ、
拝殿の鈴も、半分錆びている。
そこにいたのは、
ひとりの年老いた巫女だった。
事情を説明すると、
彼女は驚きもせず、静かに言った。
「……また、産まれたんやね」
心臓が跳ねる。
「“想い子”や」
その言葉を聞いた瞬間、
恵子の顔が浮かんだ。
「本来、産まれるはずやった人の想いを、
別の身体が引き受けてしもた子」
巫女は、私の腹ではなく、
胸元を見つめていた。
「その子はな、
愛されたい気持ちが、先に出来上がってる」
だから、普通の赤ん坊とは違う。
泣く前に、
誰かの感情を感じ取る。
触れられる前に、
触れられることを知っている。
「産まれたあと、
一番最初に抱く人間を、
“親”やと思い込む」
血でも、理屈でもない。
想いで、選ぶ。
その帰り道、
嫌な予感が消えなかった。
家に戻ると、
ゆうじがソファに座り、腹を抱えていた。
「……さっき、な」
顔色が悪い。
「名前、呼ばれた気がする」
「……誰に?」
「わからん。
でも、
“お母さん”って」
私は、息を呑んだ。
まだ、産まれてもいないのに。
その夜、
私は夢を見た。
暗い水の中で、
小さな影が、こちらを見上げている。
口は動かないのに、
声だけが、直接胸に届く。
――はやく
――だいて
目を覚ますと、
腹の奥が、じん、と熱を持っていた。
それは、母性じゃなかった。
もっと原始的で、
拒めない、
“呼ばれている”感覚だった。
翌朝、
恵子から、短いメッセージが届く。
《昨日の夜、
私の部屋で、
赤ちゃんの声がした》
まだ、誰も産んでいないのに。
――この子は、
もう、私たちを“親”として認識し始めている。
そのことだけは、
はっきりわかっていた。
第五章 訪問者
インターホンが鳴ったのは、夕方だった。
西野ゆうじは、その音を聞いた瞬間、
腹の奥がきゅっと縮むのを感じた。
理由はわからない。
ただ、来てほしくない人が来た、
そんな確信だけがあった。
扉を開けると、
そこに立っていたのは、南 正人だった。
隣の家の夫。
穏やかで、無口で、
いつも感情を表に出さない男。
「……少し、話せますか」
声は低く、落ち着いている。
怒っているようにも、詰め寄るようにも見えない。
それが、逆に不気味だった。
「……どうぞ」
リビングに通すと、
正人はゆうじの腹部に、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
――見た。
そう確信した。
「病院のこと、聞きました」
単刀直入だった。
「……恵子から?」
「いえ。
町の噂です」
その言葉に、ゆうじの喉が鳴る。
まだ、広まっているはずはない。
それでも――
この町は、隠し事が苦手だ。
「あなたが、妊娠していると」
否定しなかった。
否定できなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、正人が静かに言った。
「……それは、
あなたの意思ですか」
意味が、すぐには理解できなかった。
「俺の、ですか?」
「ええ」
正人は、ソファには座らなかった。
立ったまま、逃げ場を塞ぐように、ゆうじを見下ろしている。
「“欲しい”と思いましたか」
ゆうじは、答えに詰まった。
欲しい。
欲しくない。
そんな単純な話ではない。
「……気づいたら、
そこに、いたんです」
そう言うしかなかった。
正人は、ゆっくりとうなずいた。
「やっぱり」
その反応が、決定的だった。
「……知ってたんですか」
「ええ。
可能性は」
正人は、初めて視線を上げた。
その目には、怒りも嫉妬もない。
あるのは、諦めに似た覚悟だけだった。
「この町では、
産まれるはずの子が、
産まれないことがあります」
ゆうじは、息を呑む。
「そして、その想いは、
行き場を失うと……
近くにいる、別の身体を選ぶ」
ゆうじの腹が、
その言葉に反応するように、微かに動いた。
正人は、それを見逃さなかった。
「……反応するんですね」
「……はい」
「なら、はっきり言います」
正人は、一歩、距離を詰めた。
「それは、
あなたの子じゃない」
ゆうじは、何も言えなかった。
「私と、恵子の間に、
ずっと、来られなかったものです」
声は穏やかなままだ。
「でも……
私たちの身体では、
受け止めきれなかった」
一拍置いて、正人は続けた。
「あなたが、
代わりに、引き受けた」
ゆうじの背中を、冷たい汗が伝う。
「……じゃあ、俺は……」
「犠牲でも、被害者でもない」
正人は、きっぱり言った。
「選ばれたんです」
その言葉が、
祝福なのか、呪いなのか、
ゆうじには判断できなかった。
「ひとつだけ、約束してください」
正人は、初めて感情をにじませた。
「この子を、
“自分のもの”だと思わないこと」
ゆうじの腹が、
その瞬間、強く、はっきりと動いた。
まるで、拒否するように。
正人は、それを見て、
ほんのわずかに目を伏せた。
「……もう、
そう簡単な話じゃないようですね」
帰り際、
正人は玄関で振り返った。
「産まれたら……
最初に抱くのは、
誰になると思いますか」
答える前に、扉は閉まった。
ゆうじは、その場に立ち尽くし、
腹に手を当てる。
内側から、
確かに“意思”が返ってきた。
――ちがう
――あのひとじゃない
誰の声なのか。
もう、わからなかった。
第六章 反転
南 正人が異変に気づいたのは、
ゆうじの家を訪ねた翌朝だった。
目覚めた瞬間、
身体が、自分のものではない感覚に包まれていた。
喉の奥が、ひどく重い。
胃がむかつくというより、
内側から、何かが押し上げてくる感じ。
洗面所で顔を洗い、
鏡に映る自分を見て、正人は眉をひそめた。
——顔色が、悪すぎる。
「……疲れか」
そう呟いた声は、
思ったよりも低く、掠れていた。
その日の昼、
会議中に、急に立ちくらみがした。
視界が歪み、
腹の奥が、きゅっと締めつけられる。
(……腹?)
違和感は、そこだった。
痛みではない。
鈍い、熱の塊のような感覚。
その夜、
正人は、隣家の灯りを無意識に見ていた。
西野の家。
そして、その中にいる、彼の妻。
会話を交わしたことは、ほとんどない。
顔を合わせれば、軽く会釈する程度。
それなのに。
彼女の姿を思い浮かべた瞬間、
腹の奥が、はっきりと反応した。
「……まさか」
否定しようとした、その時。
——こん。
内側から、
小さく、しかし確かな衝撃。
正人は、その場に膝をついた。
翌日、
彼は一人で病院に向かった。
検査結果を告げる医師は、
ゆうじの時と、まったく同じ表情をしていた。
「……医学的な説明は、できません」
沈黙。
「ですが」
一拍置いて、医師は続ける。
「妊娠反応が、出ています」
正人は、静かに目を閉じた。
——やはり。
驚きは、なかった。
むしろ、
ようやく揃ったという感覚に近い。
帰り道、
正人は、町外れの神社へ向かった。
老いた巫女は、彼を見るなり、深く息を吐いた。
「……二つ、同時に来たか」
「想い子、ですか」
正人がそう言うと、
巫女は、ゆっくりとうなずいた。
「せやけど、今回は、ちょっと違う」
彼女は、正人の腹部に視線を落とす。
「循環してる」
意味を尋ねる前に、巫女は続けた。
「恵子の想いが、ゆうじに宿り、
ゆうじの妻の想いが、あんたに宿った」
正人の喉が鳴る。
「じゃあ……」
「この町で、
産まれなかった想いが、
互いの夫を“器”に選んだ」
逃げ道は、なかった。
その夜、
正人は初めて、恵子に打ち明けた。
すべてを。
恵子は、長い沈黙のあと、
小さく、笑った。
「……やっぱり」
「……怒らないのか」
「怒れないよ」
恵子は、正人の腹に、そっと手を当てる。
その瞬間、
内側で、確かに“応え”があった。
恵子の目が、揺れる。
「……この子、
私のこと、知ってる」
正人は、その言葉で理解した。
これは、罰でも、救いでもない。
行き場を失った愛が、
家族という形を探して、
暴走しているだけなのだと。
同じ夜、
西野の妻もまた、
同じ感覚を覚えていた。
腹の奥で、
ふたつの気配が、
互いを探すように、微かに響き合っている。
——この町は、
もう、後戻りできない。
第七章 ずっと、そうだった
最初に気づいたのは、
西野の妻のほうだった。
夕方、キッチンで包丁を持ったまま、
ふと、南家の窓に明かりが灯るのを見たとき。
胸の奥が、
懐かしい痛みを思い出した。
「……また、見てる」
自分で自分に呆れた。
南 正人。
隣の家の夫。
無口で、目立たなくて、
感情を表に出さない男。
結婚した当初から、
なぜか気になっていた。
視線が合えば、すぐに逸らす。
会話も、必要最低限。
それなのに。
彼がゴミ袋を持って外に出るだけで、
心臓が、ほんの少し速くなる。
「どうして……」
答えは、ずっと出ていた。
好きだった。
でも、それは
奪いたいとか、壊したいとか、
そういう感情じゃなかった。
ただ、
同じ空間にいるだけで、
安心する。
それだけ。
一方で、
南 正人も、同じことを思っていた。
恵子と結婚してからも、
西野の妻を見かけるたび、
胸の奥が、静かに波打つ。
話したいわけじゃない。
触れたいわけでもない。
ただ、
存在を確認できれば、それでよかった。
だからこそ、
自分の感情に名前をつけなかった。
名前をつけた瞬間、
越えてはいけない線が、
はっきりしてしまうから。
ゆうじも、
恵子に対して、同じだった。
激しい恋じゃない。
衝動でもない。
「この人が、
母になるはずだったんだ」
そんな、
根拠のない確信。
それが、
雷の夜、形を持ってしまった。
四人が集まったのは、
誰もいない夜の南家だった。
説明は、もう要らなかった。
正人が、静かに言う。
「……俺たち、
最初から、間違ってたわけじゃない」
西野の妻が、うなずく。
「好きでも、
選ばないって決めただけ」
恵子は、
自分の腹ではなく、
正人の腹に手を当てる。
そこには、
自分の想いの残骸が、確かにいる。
「愛さなかったわけじゃない」
ゆうじが、ぽつりと呟く。
「ただ、
正しい形を選んだだけや」
その“正しさ”が、
想いの行き場を奪った。
だから、
身体が代わりに、
選択してしまった。
その瞬間、
二人の腹が、同時に動いた。
まるで、
互いを呼び合うように。
——ここにいる
——みつけた
声にならない声が、
四人の胸に、同時に届く。
西野の妻は、
ようやく理解した。
これは、罰じゃない。
裏切りでもない。
ずっと心にしまってきた「好き」が、
遅れて、形になっただけ。
「……どうする?」
誰かが、そう聞いた。
答えは、まだない。
ただ一つ、
はっきりしていることがある。
この子たちは、
間違いから生まれたんじゃない。
選ばれなかった愛が、
遠回りして、辿り着いただけだ。
第八章 選択肢
四人で集まるのは、これが三度目だった。
夜。
カーテンを閉め切った南家のリビング。
テレビはつけていない。
時計の秒針だけが、やけに大きな音を立てている。
最初に口を開いたのは、
西野の妻だった。
「……入れ替える、っていうのは」
声は、落ち着いていた。
「子供、よね」
誰も否定しなかった。
正人と、ゆうじ。
それぞれの腹に宿った命。
本来、
恵子の想いはゆうじの中に、
西野の妻の想いは正人の中にある。
ならば。
「産まれたあと、
“本来の母”のところへ戻す」
理屈としては、
一番わかりやすい。
恵子は、両手を膝の上で組んだまま、
ゆっくりとうなずいた。
「……その方が、
この町的には、正しいんだと思う」
言いながら、
声がわずかに震えた。
正しい。
その言葉が、
もう何度も、彼女を傷つけてきた。
「でも」
今度は、ゆうじが言った。
「それって……
俺たち、どうなるんですか」
誰も、すぐには答えられなかった。
ゆうじは、自分の腹に手を当てる。
「俺、
この中にいる子のこと……
もう、“他人”やと思えない」
それは、正人も同じだった。
朝、目が覚めたとき。
無意識に腹を守るように、身体が丸くなる。
それが、
“役目”なのか、
“愛着”なのか、
もう区別がつかない。
「……じゃあ」
西野の妻が、
視線を上げる。
「私たちが、
入れ替わる?」
空気が、はっきりと変わった。
「夫婦ごと、入れ替える」
正人と、恵子。
ゆうじと、西野の妻。
想いの向きも、
子供の行き先も、
全部、一直線になる。
「それ、
現実的じゃないでしょ」
恵子が、かすかに笑った。
「戸籍は?
世間は?
親は?」
「でも」
西野の妻は、
視線を逸らさなかった。
「嫌じゃない、でしょ」
その一言が、
四人の胸を、同時に突いた。
嫌じゃない。
それが、
一番、言ってはいけない本音だった。
正人は、目を閉じる。
もし、最初から、
この組み合わせだったら。
もし、
あの雷の夜がなかったら。
そんな「もし」を、
考えてしまう時点で、
もう答えは半分、出ている。
恵子が、小さく言った。
「……どっちも、
間違いじゃない気がする」
子供を入れ替える。
妻を入れ替える。
どちらも、
誰かを切り捨てる選択で、
同時に、誰かを救う選択だ。
そのとき。
二人の腹が、
同時に、強く動いた。
今までで、一番はっきりと。
四人は、言葉を失った。
——ちがう
——それじゃない
声は、
誰の耳にも、同じように届いた。
西野の妻が、
ゆっくり息を吐く。
「……この子たち」
「私たちが決める前に、
もう、意思を持ってる」
正人は、静かに言った。
「入れ替えるかどうか、じゃない」
「誰と、産まれるかや」
その夜、
結論は出なかった。
でも、
一つだけ、はっきりした。
もう、
「元に戻す」選択肢は、
どこにも存在しない。
残っているのは、
新しい形を選ぶか、
それとも、町に従うか。
嫌いではない。
その感情が、
一番残酷な答えだと、
四人とも、気づいてしまっていた。
第九章 調べて、たどり着いたもの
最初に調べ始めたのは、
「正しい答え」を見つけるためじゃなかった。
間違っていない理由が、欲しかっただけだ。
恵子が古い資料館の閲覧室に通い始めたのは、
あの四人での話し合いの翌日からだった。
町史。
郷土研究誌。
廃刊になったローカル新聞。
どれも、はっきりとは書いていない。
ただ、断片的に、同じ言葉が何度も出てくる。
――「想いの循環」
――「身代わりの器」
――「縁をほどく前の、承認」
「……承認、か」
声に出すと、
それだけで少し、楽になった。
罰でも、裁きでもない。
許されるための、手順。
同じ頃、正人も別の場所で調べていた。
町外れの神社。
今は使われていない社務所の奥。
埃をかぶった木箱の中から、
一冊の古い帳面が見つかった。
達筆でも、読みやすくもない文字。
想いが二重に宿りしとき
血を正さず、縁を正せ
子を返すか
縁を返すか
いずれを選ぶにも
先に
想いを、重ねて示すべし
正人は、そこで初めて、
「身体」が出てくる理由を理解した。
これは、快楽のためじゃない。
背徳のためでもない。
嘘をつかないためだ。
言葉はいくらでも誤魔化せる。
理屈も、制度も、後から整えられる。
でも、
想いが本当に向いている相手と、
身体が拒まなかったかどうか。
それだけは、
誤魔化しようがない。
夜、四人は再び集まった。
テーブルの上には、
コピーした資料や、書き写したメモ。
誰も、すぐには口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、
西野の妻だった。
「……あったんだね」
責める声じゃない。
驚きと、安堵が混じった声。
「ちゃんと、
“逃げ道”として」
ゆうじは、資料に目を落としたまま言った。
「これ、
やらなあかん、って話じゃないですよね」
正人は、ゆっくり首を振る。
「逆や」
「やらずに、
形だけ整える方が、
この町では“歪み”になる」
恵子は、深く息を吸った。
「……つまり」
「私たちは、
もう一回、
自分の気持ちを
誤魔化さずに確認する」
それが終われば。
• 子供を、それぞれ“本来の母”に返すこと
• 夫婦を解消し、組み替えること
どちらを選んでも、
町は口出ししない。
それが、この町のやり方だった。
西野の妻が、ぽつりと言う。
「……嫌じゃない、って思ってる時点で」
「もう、
確認は終わってる気もする」
誰も、否定しなかった。
ただ、
確認しないまま進むことだけは、
四人とも、選べなかった。
正人が、静かに言った。
「これは、
誰かを失う儀式やない」
「これから、どう生きるかを、
身体ごと認めるための段取りや」
窓の外で、
風が、古い木を鳴らした。
どこかで、
あの社の鈴の音がした気がした。
まだ、夜ではない。
まだ、始まってもいない。
けれど、
四人は同時に理解していた。
――もう、
この話は、避けて通れないところまで来ている。
雨の匂いが、肌にまとわりつくような、湿度の高い夜だった。
町外れにひっそりと佇む古びたホテルの、重い扉が軋む音を立てて開く。
チェックインの手続きは短く、事務的で、感情の入り込む余地はない。
鍵を受け取った四人は、言葉もなく長い廊下を歩いた。
足音だけが、厚い絨毯に吸い込まれていく。
南恵子と正人。
西野ゆうじと、その妻。
傍から見れば奇妙な組み合わせだった。
だが彼らの間に漂う空気は、不倫旅行にありがちな浮つきとは程遠い。
これから厳粛な法事でも執り行うかのような、張り詰めた緊張だけが、静かに満ちていた。
通されたのは、二つの寝室がコネクティングドアで繋がれた、広いスイートルーム。
窓の外には、町の灯りが雨に滲み、ぼんやりと揺れている。
外界から切り離されたこの密室は、今宵、彼らの運命を書き換えるための祭壇だった。
部屋の中央で、四人は向かい合う。
誰も目を逸らさない。
罪悪感はすでに燃え尽き、覚悟という名の熱だけが残っていた。
「……始めましょうか」
誰の口から出たのかもわからない、その一言が合図となる。
正人は、ゆっくりと隣家の妻へ向き直った。
彼の内には、彼女が長年抱え続けてきた思慕が、物理的な重みをもって宿っている。
そしてゆうじもまた、恵子の渇望をその身に受け止め、彼女の前に立った。
「……ずっと、苦しかったでしょう」
西野の妻が、震える指先を正人の腹部へと伸ばす。
そこには、本来なら自分の胎内に在るはずだった情念が、命として脈打っていた。
シャツ越しに伝わる熱に触れた瞬間、彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
それは悲しみではない。
ようやく在るべき場所に、手が届いたという安堵だった。
正人は無言のまま、その手を自身の掌で覆い、強く押し当てる。
拒絶ではない。
それは、逃げないという誓いだった。
一方、恵子はゆうじの前に立ち、その穏やかな眼差しを見つめ返していた。
彼の身体からは、不思議と懐かしい匂いがする。
それは、正人にはどうしても届けることのできなかった、彼女自身の純粋な想いの名残だった。
ゆうじが、恵子の頬にそっと触れる。
その指は熱を帯び、驚くほど優しい。
「君の想いは、僕が守る」
囁きは短く、それでいて確かだった。
その響きが、恵子の中で凍りついていた時間を、静かに溶かしていく。
四人は示し合わせたように、それぞれの相手の手を取り、部屋を分かつ扉の向こうへと進んだ。
ベッドサイドの灯りだけが、薄闇に浮かぶ影を柔らかく縁取っている。
衣類が床に落ちる音は、衣擦れというより、古い殻を脱ぎ捨てる音に近かった。
正人は、西野の妻を抱き寄せる。
華奢な背中に腕を回し、肌と肌を密着させる。
これまで「隣人」という壁越しにしか感じられなかった体温が、今は遮るものなく溶け合っていた。
彼の内に宿る〈彼女の想い〉が、彼女自身の体温と共鳴し、理性を静かに焼き尽くしていく。
恵子は、ゆうじの腕の中で、かつてない充足を覚えていた。
唇を重ね、呼吸を交わすたび、自分の一部が彼へ還り、そして彼の一部が自分へと流れ込んでくる。
それは肉体を超えた、魂の縫合に近い感覚だった。
触れ合う皮膚の滑らかさ。
首筋にかかる吐息。
早鐘を打つ鼓動。
それらすべてが、この「交換」こそが正解なのだと、細胞の奥で静かに訴えかけてくる。
背徳の味は、なかった。
あるのは、長い時間をかけて探してきたピースが、正しい場所に収まった瞬間の、圧倒的な肯定だけ。
夜が深まるにつれ、部屋の輪郭は雨音とともに溶けていく。
四人の吐息と、シーツのかすかな擦過音は、町に降り続く雨と混じり合い、やがてすべてを優しく覆い隠した。
それは、四人が「夫婦」を脱ぎ捨て、
真実の「対」へと生まれ変わる、
長い夜の始まりだった。
第十章 増える重み
異変に最初に気づいたのは、
西野の妻自身だった。
朝、目覚めた瞬間、
身体がいつもより重かった。
寝不足のせいではない。
疲労でもない。
内側に、もう一段、重みが増えた感覚。
洗面所で歯を磨きながら、
ふと手が腹部に伸びる。
まだ何も形はない。
それでも、触れた瞬間、確信があった。
――いる。
喉の奥が、ひくりと鳴った。
「……嘘」
その日の午後、
彼女は一人で病院に行った。
医師の表情は、
これまで何度も見てきた“困惑”のそれだった。
「……通常では考えられませんが」
沈黙。
「妊娠反応が、出ています」
帰り道、雨はもう降っていなかった。
それなのに、空気はまだ湿っていた。
彼女は、町外れの道で立ち止まる。
これで、四人のうち
三人が、同時に“宿している”。
循環。
承認。
儀式。
――全部、通ったはずだった。
それなのに。
夜、再び集まった四人の空気は、
これまでで一番、重かった。
「……私も」
西野の妻は、静かに言った。
「妊娠、してる」
一瞬、誰も言葉を出せなかった。
ゆうじの顔から血の気が引き、
正人は、反射的に彼女の腹を見る。
恵子だけが、遅れて、目を伏せた。
「……どういう、こと?」
ゆうじの声は、かすれていた。
「わからない」
西野の妻は、首を振る。
「でも、
あの夜のあとから、
身体が……変わった」
正人は、ゆっくり息を吐いた。
「……儀式が、終わってなかったんや」
誰も反論しなかった。
承認は、確かにされた。
想いの向きも、身体は受け入れた。
けれど――
欲しかったものが、重なりすぎた。
「町の話では」
正人は、低く続ける。
「想いが整理されないまま重なると、
“余り”が出る」
その“余り”が、
最後に、
最も不安定な場所に宿る。
西野の妻は、唇を噛んだ。
「……じゃあ、
この子は、誰の?」
答えは、
誰も持っていなかった。
恵子が、ようやく口を開く。
「……嫌な言い方だけど」
視線を上げないまま、言う。
「私たち、
もう“正解”を選べる段階、
過ぎてる気がする」
沈黙。
三つの命。
四つの想い。
そして、
どれも間違いじゃないという現実。
ゆうじが、頭を抱えた。
「入れ替える話も、
離婚の話も……
もう、意味ないやん」
正人は、静かにうなずいた。
「泥沼や」
その言葉は、
自嘲でも、後悔でもなかった。
事実の確認だった。
西野の妻は、
自分の腹に手を当てる。
そこには、
誰か一人の想いでは説明できない、
曖昧で、しかし確かな重みがある。
「……この町」
彼女は、ぽつりと言った。
「たぶん、
“整理”はさせてくれへん」
「ただ、
背負わせるだけ」
その夜、
誰も結論を出さなかった。
出せなかった、ではない。
出すという発想そのものが、
崩れてしまった。
雨は、また降り始めていた。
町は、
まだ何も言わない。
それが一番、
恐ろしかった。
朝、恵子が口を押さえて洗面所に駆け込んだ。
吐き気は一瞬で、胃の中に出るものは何もない。
代わりに残ったのは、腹の奥に沈んだ、はっきりした違和感だった。
検査薬は、迷わなかった。
陽性。
恵子は結果を持ったまま、リビングに戻る。
正人は、いつも通りテーブルに座っていた。
「……妊娠、してた」
正人は、数秒だけ黙り込み、
それから静かに言った。
「……そうか」
それ以上、何も言わない。
驚きも、喜びも、否定もない。
「……その反応、なに?」
恵子が聞くと、正人は視線を落とした。
「昨日から、
腹が……変やった」
同じ頃、ほぼ同時刻。
西野の妻も、
ゆうじも、
それぞれ同じ結果を突きつけられていた。
その夜、四人は顔を合わせた。
「……私も」
「俺もや」
短い言葉が、順に落ちる。
最後に、正人が言った。
「……全員、やな」
四人全員が、妊娠している。
理由も、順序も、
もう意味を持たない。
儀式は終わったはずだった。
けれど、承認は終わっていなかった。
町は、
整理を許さなかった。
ただ、
全部を引き受けさせただけだった。
最終章 町は、何も言わない
町は、最後まで、何も言わなかった。
役所からも、神社からも、
誰かが止めに来ることはなかった。
噂だけが、湿った空気のように、じわじわと広がっていく。
――四人、らしい。
――全部、宿ったらしい。
――もう、戻れんのやと。
確認する者はいない。
否定する者もいない。
この町は昔から、起きてしまったことを事実として受け取るだけだった。
四人は、しばらく同じ家で暮らした。
どこかの「正解」を選ぶためではない。
ただ、分けられなかったからだ。
朝、誰かが吐き気をこらえ、
別の誰かが水を差し出す。
夜、腹の奥が同時にざわめき、
理由もなく眠れなくなる。
医師は首を振り続けた。
説明はできない。
経過を見るしかない。
月日が過ぎるにつれ、
四人の腹は、それぞれ違う形で膨らみ始めた。
恵子の中の命は、静かだった。
ほとんど主張しない。
まるで、「ここにいるだけでいい」と言うように。
正人の中の命は、強かった。
夜になると、決まって動く。
西野の妻が近くにいると、特に。
ゆうじの中の命は、せっかちだった。
何かを急かすように、頻繁に存在を主張する。
恵子が触れると、すぐに応えた。
そして、西野の妻の中の命だけが、
不思議と、誰にも似ていなかった。
それは、四人の誰の想いでも説明できない重みを持っていた。
まるで、余ったものが最後に集められた器のように。
「……これ」
ある夜、西野の妻が言った。
「町の言う“余り”なんじゃない?」
誰も否定しなかった。
選ばれなかった感情。
諦めたふりをした未来。
口にしなかった「本当は」。
それらが、
最後にひとつの場所に集まった。
出産は、同じ月だった。
同じ病院で、
同じ廊下を、
四人はそれぞれの足で歩いた。
順番は、決めなかった。
決める意味がなかった。
泣き声は、四つ。
似ていないようで、
どこか同じ調子を持っていた。
医師も、助産師も、
それ以上、何も言わなかった。
戸籍は、あとから整えられた。
町は、必要なだけ黙認した。
誰も、「どういう関係ですか」とは聞かなかった。
四人は、話し合った末、
入れ替えもしなかったし、完全に分かれもしなかった。
一緒に住む家は、二つ。
家族は、ひとつ。
子供たちは、
誰を母と呼ぶか、
誰を父と呼ぶかを、自然に選んだ。
その選び方は、
血でも、制度でもなかった。
ただ、
一番最初に、
一番長く、
一番安心して抱いた相手。
それだけだった。
町の雨は、
その年も変わらず降った。
誰かが幸せになったとも、
誰かが罰を受けたとも、
町は判断しない。
ただ、
想いが多すぎた結果が、そこに残った。
四人は、ときどき考える。
もし、あの夜、
何もしなければよかったのか。
もし、最初から違う相手を選んでいればよかったのか。
答えは、出ない。
ただ、
子供たちが眠る姿を見て、
四人は同時に思う。
――嫌いではなかった。
――だから、ここまで来た。
町は、今日も静かだ。
何も祝わず、
何も裁かず、
ただ、すべてを受け入れている。
それが、この町のやり方だった。
そしてそれは、
四人にとっても、
もう一つの「家族の形」だった。
余話 噂
それからしばらくして、
町に、また雨の匂いが残る頃だった。
「聞いた?」
誰かが、声を潜めて言う。
「南のとこだけちゃうらしいで」
誰も名前は出さない。
出さなくても、わかる。
「……両隣の旦那も、やて」
笑い話みたいな口調だった。
冗談やろ、という含みを、ちゃんと残した言い方。
「妊娠したとか、
してへんとか」
曖昧に、濁して、
でも、完全には否定しない。
ゴミ出しの時間。
回覧板の受け渡し。
夕方のスーパー。
誰かが、男の腹に目をやり、
誰かが、気まずそうに視線を逸らす。
病院は、何も言わない。
神社も、何も言わない。
役所は、書類を静かに処理するだけだ。
「この町な」
年寄りが、ぽつりと呟く。
「昔から、
想いが余ると、伝染るんや」
誰が最初だったのか。
どこまでが本当なのか。
もう、確かめる人はいない。
ただ、
あの一角だけ、
妙にベビーカーが増えた。
妙に、男たちが腹を庇う仕草をする。
妙に、
「夫婦」という言葉が、
意味を失っていく。
それでも、
町は何も変わらない。
雨は降り、
洗濯物は乾き、
子供は泣いて、笑う。
誰かが、冗談めかして言う。
「次は、向かいの旦那ちゃうか」
笑い声が起きる。
でも、その笑いは、
どこか慎重で、
少しだけ距離を取っていた。
――冗談で済むうちは、
まだ、安全だから。
真実が何だったのかは、
最後まで、わからない。
ただ一つ、
町の誰もが、心の奥で知っている。
ここでは、
想いを持ちすぎると、
身体が先に答えてしまうことがある。
それだけだ。
そして今日も、
雨の匂いが、
静かに町にまとわりついている。
妊娠したとか、
しないとか。
その曖昧さごと、
町は、受け入れていた。
——終わり。
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