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第二章 才能の開花編
三冊の書物
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「リリアーヌ。好きなだけ見て回りなさい。もし、儂に何か手伝えることがあれば遠慮なく言うのだぞ。」
「ありがとうございます。ヨラダ様。でも、大丈夫です。場所は覚えていますので…。あ、殿下。歴史書はこっちの棚にあります。」
リリアーヌは司祭へ柔らかく微笑むと、アルフレートを本棚の方へと案内した。
迷いのない足取りで歴史書の棚へ向かい、二段目から一冊の古い史書を取り出す。
「その本に、貯水湖のことが書かれているのか?」
「これは、古代王国時代のパレフィエ史書です。ここにも貯水湖のことは記されていますが……、概念や導入の背景に軽く触れている程度で。詳しい文献は、別の棚にまとめられているんです。」
そう言って、リリアーヌは次の書架へ進んでいく。
アルフレートは、その後ろ姿を見つめながら……、わずかに眉を上げた。
(……迷いがない。まるで、自分の部屋のように……。)
地下とは思えないほど広い書庫は、書架が幾重にも並び、迷路のようだった。
それなのに、リリアーヌは書架の間を、まるで庭を散歩するかのように自然に歩いていく。どこに何があるのか、完全に把握している様子だった。――ここで、どれほど彼女が学び、通ったのかが自然と伝わってくる。
「こちらです。」
リリアーヌが立ち止まったのは、奥の棚の前。そこには、古代パレフィエ国に関する文献が、整然と並んでいた。
「えっと、確かこの辺りに……。あ、あった!これです。『古代水利技術概論』。この本には、貯水湖の構造や仕組みについて、かなり詳しく書かれています。」
リリアーヌは少し背伸びをして、見つけた分厚い本へ手を伸ばすが、指先がほんの少し届かない。
(あ、あれ……?もう少しなのに……!)
次の瞬間、横から伸びた大きな手が、軽々とそれを引き抜いた。
「これか?」
アルフレートがリリアーヌが取ろうとした本を取ってくれた。
「す、すみません!殿下のお手を煩わせてしまって……!」
慌てて頭を下げるリリアーヌに、アルフレートはわずかに言葉を詰まらせた。
「……いや。気にするな。」
申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げる彼女を見ていると、胸の奥が少しだけざわつく。
先ほど、司祭へ向けて浮かべていたあの自然な笑顔――あれを、自分にも向けてくれるだろうと、無意識に期待していたことに気づく。
だが、リリアーヌはいつも自分に対して、どこか遠慮がちだ。
初対面の時のあの態度を思えば、普通に接してくれているだけでも十分なはずだ――そう理屈では分かっている。
それでも、“心を許した相手にだけ見せる表情”があるのだと知ってしまった以上、胸の奥に生まれた違和感は、簡単には消えてくれなかった。
契約とはいえ、夫婦のはずなのに。
どうして、これほどまでに落差を感じてしまうのだろう――。
内心のもやつきを隠すようにアルフレートは、
「リリアーヌ。その本、分厚いから重いだろう。持つから貸せ。」
リリアーヌが最初に選んだ史書の本を、アルフレートは自然な仕草で受け取った。
「……あ、ありがとうございます。」
(こんなことまで気遣ってくれるなんて‥‥。殿下って、本当に紳士的な人だなあ。)
さりげない優しさがあまりにも自然で、リリアーヌは胸の奥が温かくなる。
(はっ……!い、いけない!いけない!これは社交辞令みたいなもので、特別扱いじゃない。殿下は”紳士として”接してくれているだけ……。勘違いしないようにしないと!)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の高鳴りが止まらない。
何せリリアーヌには、異性から淑女として扱われた記憶がほとんどない。
ヨラダ様は優しいけれど、異性というよりおじいちゃんのような存在だし‥‥。
男爵家ではセオンと取り巻きの令息たちに、魔法の的当てにされたり、髪を引っ張られたり、鞭で打たれたり、腹を殴られ蹴られたり――サンドバッグ扱いされたことはあっても、「淑女として」扱われたことなんて一度もなかった。
(それに比べて、殿下は……や、優しい…!)
胸の奥がじんわりと熱くなる。
離宮まで送ろうとしてくれた時も、エスコートのために手を差し出してくれた。馬車の乗り降りにも手を貸してくれたし、淑女らしいとはいえない自分の趣味にも理解を示してくれた。
(お、同じ男性でもこんなに違うんだ…。セオンたちにも、殿下の優しさの十分の一でもあれば……。)
もう、初夜の時の言葉もほとんど気にならない。
セオンたちにされた仕打ちと比べれば、あんなものは取るに足らない。
アルフレートは髪を引っ張ったり、顔や腹を殴ったり、背中を蹴りつけたり、鞭で打ったり――そんなことは決してしない。
(確かに、初夜の時は緊張していたし、激痛で気を失ってしまったけど……。その後、王宮医を手配してくれたし…。)
セオンたちは、医師を呼ぶどころか、そのまま放置だった。
だから、リリアーヌは自分で傷の手当てをするしかなかった。
思い返せば思い返すほど、殿下は聖人君子にしか見えない。これでときめくなという方が、無理な話だ。
それに、彼はリリアーヌにとって――初恋の人。そんな簡単に割り切れるものではない。
(だ、駄目駄目!殿下はヴェロニカ様という最愛の妻がいるのだから!ふ、二人の仲を引き裂くような真似は絶対にしちゃ……、)
……でも、想うだけなら。
リリアーヌは邪念を振り払うように、心の中でぶんぶんと首を振った。
(あ、そうだ。他にも必要な本があったはず。)
思考を切り替え、資料集めに集中する。
さらに一冊、薄い記録帳を棚から抜き取った。
(貯水湖の実務記録もあった方がいいよね。)
「それは?」
「『パレフィエ国土記録』という実務の記録帳です。貯水湖の維持や補修、実際の工事記録が残されているので、参考になるかと思って……。」
そんなリリアーヌを見て、アルフレートは言葉を失っていた。
(リリアーヌは…、どこにあるのかも、何が書かれているのかも――全て把握しているのか。)
王国史、貯水湖の構造と管理について記された専門文献、そして実務記録。
三冊の書物が揃った。
(これだけあれば、全体が見えるはず!)
リリアーヌは確信する。
「殿下、これらの本で――お役に立てますでしょうか?」
「…ああ。十分だ。」
(…選び方が、的確だ。)
適当に手当たり次第に持ち出すのではない。
必要な知識の骨組みを、しっかりと押さえている。
彼女にとっては当たり前のことなのかもしれないが、このおかげで、調査にかかる時間は大幅に短縮された。
アルフレートは当初、この書庫から古代パレフィエ国の歴史書や文献を洗い、そこから貯水湖の記述を探し出すつもりだった。
男爵領の小さな教会の書庫なのだから規模は知れている――そう予想していた。
だが、実際に目にしたのは予想を覆す莫大な蔵書。
(これだけの中から必要な文献を探すとなれば……。)
とても一日では終わらない。
連日通い詰める必要があるし、その間にも執務はある。さらに、緊急の魔獣討伐が入ることだってある――そう覚悟していたのに。
リリアーヌの的確な選書が、その負担を一気に軽くしていた。
(……彼女は、ただの本好きではない。これは学者並みの知識だ。)
それぞれが的確に選ばれ、必要な情報を補完し合っている。
まるで、専門家が作成した資料リストのようだった。
「…リリアーヌ。」
「はい?」
「君は――これらの本を、全て読んだのか?」
アルフレートの問いに、リリアーヌはきょとんとした。
「え?あ、はい。一応、一通りは読みました。子供の頃から司祭様のご厚意でここでよく本を読ませて頂いていたので……。」
まるで、それが当然のことのように答えるリリアーヌ。
アルフレートは、小さく息を吐いた。
(……何も知らなかったのだな。俺は。彼女のことを――何も。)
「……子供の頃から、ここに?」
アルフレートが問うと、リリアーヌは柔らかく微笑んだ。
「はい。男爵家が唯一、私に許してくれた外出が……教会への奉仕活動だったんです。」
男爵家は、リリアーヌの奉仕を慈善活動として利用していた。
教会から謝礼金や食材、物資が貰えるからだ。
尚、それらがリリアーヌのために使われたことは一切ない。
それでも、リリアーヌは満足だった。
男爵家のような地獄のような場所から唯一、解放されるのが教会だった。
「教会で奉仕活動をしたり、祈りを捧げたり、書庫で本を読む時間が……私にとって、小さな幸せでした。」
リリアーヌの瞳には、複雑な感情の色が宿っていた。
苦しみ、悲しみ、寂しさ――。
(あの地獄のような日々を耐えられたのは…、ヨラダ様とシスター・マリナたちがいたから…。ここに私の居場所があったから。)
でも、それでも――リリアーヌは笑っていた。
アルフレートは、その笑顔に息を呑んだ。
(……リリアーヌ…?なんでそんな表情を……?)
なんとも言い難い感情に包まれる。
悲しみを抱えながら、それでも笑う彼女。
その笑顔に、不思議と惹きつけられた。
「殿下?」
リリアーヌに名を呼ばれ、アルフレートはハッと我に返った。
「……助かった。ありがとう、リリアーヌ。」
アルフレートの言葉に、リリアーヌは息を呑んだ。
礼を言われるとは思いもしなかったのだ。
「え……あ、いえ!そんな!お役に立てて良かったです!」
彼女の顔が、ぱあっと輝く。
(……ああ。この笑顔だ。)
司祭に向けていたような、あの無邪気な笑顔。
ほんの少しだけ――自分にも向けられた。
胸の奥の違和感が、わずかに和らいだ気がした。
少し離れたところで、司祭がその様子を見守っていた。
(……やはり。リリアーヌは、賢い子だ。)
リリアーヌが嬉しそうに本を選ぶ姿。
そして――その隣に立つアルフレート。
(……ふむ。)
司祭は、わずかに眉を上げた。
(……意外だな。)
先ほど、階段でリリアーヌが転びかけた時――咄嗟に支えたのは、アルフレートだった。
本棚の高いところに手が届かない時も、自然に手を貸していた。
重い本を持とうとした時も、さりげなく受け取っていた。
(……ヴェロニカ以外の女には冷たい、と噂されているあの男が……。)
王宮では、正妃以外の女性には一切関心を示さず、冷淡な態度で通していると聞いていた。
側室など、名ばかりの存在――そう思っていた。
(……だが、リリアーヌに対しては違うようだな。)
アルフレートの態度は、決して甘やかしているわけではない。だが――紳士的で、丁寧だった。
(……少なくとも、リリアーヌを粗末に扱ってはいないようだ。)
リリアーヌが文献を説明する時、アルフレートは真剣に耳を傾けている。
彼女の知識を――馬鹿にするでもなく、見下すでもなく、ちゃんと評価しているようだった。
(……「女のくせに」などと、下らぬ劣等感で彼女を見下すこともないか。)
司祭は、小さく息を吐いた。
(……まあ、及第点というところか。)
もちろん、まだ完全に信用したわけではない。
正妃に溺れ、教会を軽んじたあの男を、簡単に許すつもりはない。
司祭の視線が、リリアーヌへと戻る。
(……リリアーヌが、嬉しそうにしている。それだけは、認めてやろう。)
彼女の笑顔。
本を手にした時の、あの輝くような表情。
だが――その目には、まだ警戒の色が残っていた。
(……もし、リリアーヌを泣かせるようなことがあれば――承知せんぞ。)
とりあえず――今は、様子を見よう。
「そろそろ、時間ですな。」
司祭が、時計を確認する。
「これ以上長居すると、日が暮れてしまいます。」
「……そうだな。」
アルフレートは、手にした三冊の本を見下ろした。
「これらの本を――借りることはできるか?」
「……。」
司祭は、わずかに躊躇した。
(……本来なら、断るところだが……。)
視線が、リリアーヌへと向く。嬉しそうに微笑む彼女の顔。司祭は、小さく息を吐いた。
「……いいでしょう。ですが、必ず返却すること。そして――丁重に扱うこと。約束していただけますな?」
「勿論だ。」
アルフレートは、深く頷いた。
「感謝する。」
「……リリアーヌのおかげですよ。」
司祭は、そう付け加えた。
アルフレートは――その言葉の意味を、理解していた。
「……ああ。分かっている。」
彼女がいなければ、この本を借りることはできなかった。それどころか、書庫に入ることすら――。
(……また彼女に、助けられた。)
「では、参りましょう。」
司祭が、扉の方へ歩き出す。
リリアーヌもその後に続き、アルフレートは三冊の本を抱えて歩を進めた。
書庫を出る時、アルフレートは一度だけ振り返った。
静寂に包まれた、古い書物たちの眠る場所。
(――ここが、彼女を育てたのか。)
胸の奥に、複雑な思いが広がっていった。
「ありがとうございます。ヨラダ様。でも、大丈夫です。場所は覚えていますので…。あ、殿下。歴史書はこっちの棚にあります。」
リリアーヌは司祭へ柔らかく微笑むと、アルフレートを本棚の方へと案内した。
迷いのない足取りで歴史書の棚へ向かい、二段目から一冊の古い史書を取り出す。
「その本に、貯水湖のことが書かれているのか?」
「これは、古代王国時代のパレフィエ史書です。ここにも貯水湖のことは記されていますが……、概念や導入の背景に軽く触れている程度で。詳しい文献は、別の棚にまとめられているんです。」
そう言って、リリアーヌは次の書架へ進んでいく。
アルフレートは、その後ろ姿を見つめながら……、わずかに眉を上げた。
(……迷いがない。まるで、自分の部屋のように……。)
地下とは思えないほど広い書庫は、書架が幾重にも並び、迷路のようだった。
それなのに、リリアーヌは書架の間を、まるで庭を散歩するかのように自然に歩いていく。どこに何があるのか、完全に把握している様子だった。――ここで、どれほど彼女が学び、通ったのかが自然と伝わってくる。
「こちらです。」
リリアーヌが立ち止まったのは、奥の棚の前。そこには、古代パレフィエ国に関する文献が、整然と並んでいた。
「えっと、確かこの辺りに……。あ、あった!これです。『古代水利技術概論』。この本には、貯水湖の構造や仕組みについて、かなり詳しく書かれています。」
リリアーヌは少し背伸びをして、見つけた分厚い本へ手を伸ばすが、指先がほんの少し届かない。
(あ、あれ……?もう少しなのに……!)
次の瞬間、横から伸びた大きな手が、軽々とそれを引き抜いた。
「これか?」
アルフレートがリリアーヌが取ろうとした本を取ってくれた。
「す、すみません!殿下のお手を煩わせてしまって……!」
慌てて頭を下げるリリアーヌに、アルフレートはわずかに言葉を詰まらせた。
「……いや。気にするな。」
申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げる彼女を見ていると、胸の奥が少しだけざわつく。
先ほど、司祭へ向けて浮かべていたあの自然な笑顔――あれを、自分にも向けてくれるだろうと、無意識に期待していたことに気づく。
だが、リリアーヌはいつも自分に対して、どこか遠慮がちだ。
初対面の時のあの態度を思えば、普通に接してくれているだけでも十分なはずだ――そう理屈では分かっている。
それでも、“心を許した相手にだけ見せる表情”があるのだと知ってしまった以上、胸の奥に生まれた違和感は、簡単には消えてくれなかった。
契約とはいえ、夫婦のはずなのに。
どうして、これほどまでに落差を感じてしまうのだろう――。
内心のもやつきを隠すようにアルフレートは、
「リリアーヌ。その本、分厚いから重いだろう。持つから貸せ。」
リリアーヌが最初に選んだ史書の本を、アルフレートは自然な仕草で受け取った。
「……あ、ありがとうございます。」
(こんなことまで気遣ってくれるなんて‥‥。殿下って、本当に紳士的な人だなあ。)
さりげない優しさがあまりにも自然で、リリアーヌは胸の奥が温かくなる。
(はっ……!い、いけない!いけない!これは社交辞令みたいなもので、特別扱いじゃない。殿下は”紳士として”接してくれているだけ……。勘違いしないようにしないと!)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の高鳴りが止まらない。
何せリリアーヌには、異性から淑女として扱われた記憶がほとんどない。
ヨラダ様は優しいけれど、異性というよりおじいちゃんのような存在だし‥‥。
男爵家ではセオンと取り巻きの令息たちに、魔法の的当てにされたり、髪を引っ張られたり、鞭で打たれたり、腹を殴られ蹴られたり――サンドバッグ扱いされたことはあっても、「淑女として」扱われたことなんて一度もなかった。
(それに比べて、殿下は……や、優しい…!)
胸の奥がじんわりと熱くなる。
離宮まで送ろうとしてくれた時も、エスコートのために手を差し出してくれた。馬車の乗り降りにも手を貸してくれたし、淑女らしいとはいえない自分の趣味にも理解を示してくれた。
(お、同じ男性でもこんなに違うんだ…。セオンたちにも、殿下の優しさの十分の一でもあれば……。)
もう、初夜の時の言葉もほとんど気にならない。
セオンたちにされた仕打ちと比べれば、あんなものは取るに足らない。
アルフレートは髪を引っ張ったり、顔や腹を殴ったり、背中を蹴りつけたり、鞭で打ったり――そんなことは決してしない。
(確かに、初夜の時は緊張していたし、激痛で気を失ってしまったけど……。その後、王宮医を手配してくれたし…。)
セオンたちは、医師を呼ぶどころか、そのまま放置だった。
だから、リリアーヌは自分で傷の手当てをするしかなかった。
思い返せば思い返すほど、殿下は聖人君子にしか見えない。これでときめくなという方が、無理な話だ。
それに、彼はリリアーヌにとって――初恋の人。そんな簡単に割り切れるものではない。
(だ、駄目駄目!殿下はヴェロニカ様という最愛の妻がいるのだから!ふ、二人の仲を引き裂くような真似は絶対にしちゃ……、)
……でも、想うだけなら。
リリアーヌは邪念を振り払うように、心の中でぶんぶんと首を振った。
(あ、そうだ。他にも必要な本があったはず。)
思考を切り替え、資料集めに集中する。
さらに一冊、薄い記録帳を棚から抜き取った。
(貯水湖の実務記録もあった方がいいよね。)
「それは?」
「『パレフィエ国土記録』という実務の記録帳です。貯水湖の維持や補修、実際の工事記録が残されているので、参考になるかと思って……。」
そんなリリアーヌを見て、アルフレートは言葉を失っていた。
(リリアーヌは…、どこにあるのかも、何が書かれているのかも――全て把握しているのか。)
王国史、貯水湖の構造と管理について記された専門文献、そして実務記録。
三冊の書物が揃った。
(これだけあれば、全体が見えるはず!)
リリアーヌは確信する。
「殿下、これらの本で――お役に立てますでしょうか?」
「…ああ。十分だ。」
(…選び方が、的確だ。)
適当に手当たり次第に持ち出すのではない。
必要な知識の骨組みを、しっかりと押さえている。
彼女にとっては当たり前のことなのかもしれないが、このおかげで、調査にかかる時間は大幅に短縮された。
アルフレートは当初、この書庫から古代パレフィエ国の歴史書や文献を洗い、そこから貯水湖の記述を探し出すつもりだった。
男爵領の小さな教会の書庫なのだから規模は知れている――そう予想していた。
だが、実際に目にしたのは予想を覆す莫大な蔵書。
(これだけの中から必要な文献を探すとなれば……。)
とても一日では終わらない。
連日通い詰める必要があるし、その間にも執務はある。さらに、緊急の魔獣討伐が入ることだってある――そう覚悟していたのに。
リリアーヌの的確な選書が、その負担を一気に軽くしていた。
(……彼女は、ただの本好きではない。これは学者並みの知識だ。)
それぞれが的確に選ばれ、必要な情報を補完し合っている。
まるで、専門家が作成した資料リストのようだった。
「…リリアーヌ。」
「はい?」
「君は――これらの本を、全て読んだのか?」
アルフレートの問いに、リリアーヌはきょとんとした。
「え?あ、はい。一応、一通りは読みました。子供の頃から司祭様のご厚意でここでよく本を読ませて頂いていたので……。」
まるで、それが当然のことのように答えるリリアーヌ。
アルフレートは、小さく息を吐いた。
(……何も知らなかったのだな。俺は。彼女のことを――何も。)
「……子供の頃から、ここに?」
アルフレートが問うと、リリアーヌは柔らかく微笑んだ。
「はい。男爵家が唯一、私に許してくれた外出が……教会への奉仕活動だったんです。」
男爵家は、リリアーヌの奉仕を慈善活動として利用していた。
教会から謝礼金や食材、物資が貰えるからだ。
尚、それらがリリアーヌのために使われたことは一切ない。
それでも、リリアーヌは満足だった。
男爵家のような地獄のような場所から唯一、解放されるのが教会だった。
「教会で奉仕活動をしたり、祈りを捧げたり、書庫で本を読む時間が……私にとって、小さな幸せでした。」
リリアーヌの瞳には、複雑な感情の色が宿っていた。
苦しみ、悲しみ、寂しさ――。
(あの地獄のような日々を耐えられたのは…、ヨラダ様とシスター・マリナたちがいたから…。ここに私の居場所があったから。)
でも、それでも――リリアーヌは笑っていた。
アルフレートは、その笑顔に息を呑んだ。
(……リリアーヌ…?なんでそんな表情を……?)
なんとも言い難い感情に包まれる。
悲しみを抱えながら、それでも笑う彼女。
その笑顔に、不思議と惹きつけられた。
「殿下?」
リリアーヌに名を呼ばれ、アルフレートはハッと我に返った。
「……助かった。ありがとう、リリアーヌ。」
アルフレートの言葉に、リリアーヌは息を呑んだ。
礼を言われるとは思いもしなかったのだ。
「え……あ、いえ!そんな!お役に立てて良かったです!」
彼女の顔が、ぱあっと輝く。
(……ああ。この笑顔だ。)
司祭に向けていたような、あの無邪気な笑顔。
ほんの少しだけ――自分にも向けられた。
胸の奥の違和感が、わずかに和らいだ気がした。
少し離れたところで、司祭がその様子を見守っていた。
(……やはり。リリアーヌは、賢い子だ。)
リリアーヌが嬉しそうに本を選ぶ姿。
そして――その隣に立つアルフレート。
(……ふむ。)
司祭は、わずかに眉を上げた。
(……意外だな。)
先ほど、階段でリリアーヌが転びかけた時――咄嗟に支えたのは、アルフレートだった。
本棚の高いところに手が届かない時も、自然に手を貸していた。
重い本を持とうとした時も、さりげなく受け取っていた。
(……ヴェロニカ以外の女には冷たい、と噂されているあの男が……。)
王宮では、正妃以外の女性には一切関心を示さず、冷淡な態度で通していると聞いていた。
側室など、名ばかりの存在――そう思っていた。
(……だが、リリアーヌに対しては違うようだな。)
アルフレートの態度は、決して甘やかしているわけではない。だが――紳士的で、丁寧だった。
(……少なくとも、リリアーヌを粗末に扱ってはいないようだ。)
リリアーヌが文献を説明する時、アルフレートは真剣に耳を傾けている。
彼女の知識を――馬鹿にするでもなく、見下すでもなく、ちゃんと評価しているようだった。
(……「女のくせに」などと、下らぬ劣等感で彼女を見下すこともないか。)
司祭は、小さく息を吐いた。
(……まあ、及第点というところか。)
もちろん、まだ完全に信用したわけではない。
正妃に溺れ、教会を軽んじたあの男を、簡単に許すつもりはない。
司祭の視線が、リリアーヌへと戻る。
(……リリアーヌが、嬉しそうにしている。それだけは、認めてやろう。)
彼女の笑顔。
本を手にした時の、あの輝くような表情。
だが――その目には、まだ警戒の色が残っていた。
(……もし、リリアーヌを泣かせるようなことがあれば――承知せんぞ。)
とりあえず――今は、様子を見よう。
「そろそろ、時間ですな。」
司祭が、時計を確認する。
「これ以上長居すると、日が暮れてしまいます。」
「……そうだな。」
アルフレートは、手にした三冊の本を見下ろした。
「これらの本を――借りることはできるか?」
「……。」
司祭は、わずかに躊躇した。
(……本来なら、断るところだが……。)
視線が、リリアーヌへと向く。嬉しそうに微笑む彼女の顔。司祭は、小さく息を吐いた。
「……いいでしょう。ですが、必ず返却すること。そして――丁重に扱うこと。約束していただけますな?」
「勿論だ。」
アルフレートは、深く頷いた。
「感謝する。」
「……リリアーヌのおかげですよ。」
司祭は、そう付け加えた。
アルフレートは――その言葉の意味を、理解していた。
「……ああ。分かっている。」
彼女がいなければ、この本を借りることはできなかった。それどころか、書庫に入ることすら――。
(……また彼女に、助けられた。)
「では、参りましょう。」
司祭が、扉の方へ歩き出す。
リリアーヌもその後に続き、アルフレートは三冊の本を抱えて歩を進めた。
書庫を出る時、アルフレートは一度だけ振り返った。
静寂に包まれた、古い書物たちの眠る場所。
(――ここが、彼女を育てたのか。)
胸の奥に、複雑な思いが広がっていった。
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〈あらすじ〉
王家熱を発症した者が女王になれる国、テーレフルミ王国の第一王女サンドラは、よりにもよってたまたま通りすがった騎士団長ジュール・ベルナールの前で王家熱を発症してしまう。王家熱を発症するとより多くの子孫を残そうと発情してしまうという厄介な体質になってしまったサンドラは、抗えない衝動によってジュールを襲い後悔する。その日は丁度、功績を上げた褒美としてジュールが騎士団長になり、侯爵という高位の爵位を賜った日でもあった。
女王になれば複数の愛妾を持つ定めのサンドラは、ジュールに惹かれていく気持ちになんとか蓋をしようとする。そんな中、二人を引き裂くようにサンドラの夫候補としてグランテーレ王国から第三王子のアレシュがやってくる。そしてサンドラはアレシュの前で発情してしまい……。
〈登場人物〉
テーレフルミ王国
サンドラ・フルミ 第一王女 17歳
ジュール・ベルナール ベルナール侯爵、騎士団長、26歳。
シルヴィオ・フルミ 第一王子 22歳
シルビア・フルミ 第二王女 8歳
レア・フルミ 女王、53歳
シュバリエ 女王の愛妾 55歳
シレンヌ・ベル 宰相、ベル伯爵、53歳
アレッサ・シャスール シャスール子爵家の長男、騎士団副隊長、28歳。
シェイラ・シャスール シャスール子爵家の長女で、アレッサの双子の妹。ジュールの元婚約者。
グランテーレ王国
アレシュ 第三王子 18歳
【完結】体目的でもいいですか?
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