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第二章 才能の開花編
聖皇の呼び出し
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初夜以来、一度も顔を合わせていなかった二人。
アルフレートは気まずさからリリアーヌを避けていたが、そもそも執務が忙しく、そんな時間もなかった。
その日の午前、王宮の庭で会議が開かれていた。
「陛下。水不足問題が深刻化しております。最近は水不足が原因で領土争いも勃発しており、村の井戸が次々に枯れております。民衆の不満の声も高まっておりますので、早急に対策を講じる必要がございます。」
「ふむ…。だが、まだ雨季までには時間がかかりそうだな。何か意見はあるか?」
「まずは、魔導士団へ救急要請し、水の魔術師たちを召集して、各領地での水不足対策に当たらせるべきです。」
魔術行政を統括する立場の宮廷魔術顧問が自信満々に進言した。彼は代々、優秀な魔術師を輩出する家柄の貴族の出で、魔術で何でも解決できると信じている典型的な魔法至上主義者だった。
「それが可能なら苦労はしない。しかし、魔導士団からは、魔術師たちへの負担があまりにも大きいと苦情が出ている。今月だけでもすでに三名が過労で倒れ、一名は魔力切れで意識不明の状態だ。」
内務大臣が冷静に現状を報告する。
「団長からも、これ以上魔術師たちに無茶をさせるわけにはいかないとの反対意見が強く出ている。強硬手段に出れば、魔導士団がストライキを起こす可能性すらあるのだ。」
「魔導士団長は何を考えているんだ! 魔力を持つ者は国のために尽くすべきだというのに……。」
西方辺境伯が苛立ちを露わにした。彼の領地は水不足が最も深刻な地域の一つで、今回の会議に特別に召集されていた。
「そうはいっても、近年、魔術師の人手不足と労働環境が問題になっております。労働時間と仕事量の負担が極めて大きく、過労や魔力切れで倒れる者も出ている状況です。」
労務大臣が資料に目を落としながら、述べた。
「もはや魔法だけで解決するには限界があるのです。」
「では、魔法以外にどんな解決策があるというのだ!人の手で雨を降らせたり、水を生み出すことなどできるはずがない!」
重苦しい空気が会議の場を支配した。誰もが口を閉ざし、打開策を見いだせずにいた。
「皇太子よ、そなたはどう思う?」
沈黙を破ったのは聖皇だった。
アルフレートは、意見を求められて率直に自分の考えを述べた。
「まずは、井戸の増設と水路の強化を行うべきだと考えます。」
そして、具体的な政策も提案した。
「治水事業として、小規模な貯水池や用水路の整備を急ぐ必要がございます。しかし、王家と貴族だけでは資金も人手も足りません。ですので、王都の商会に投資の形で参加させ、見返りに収穫物の分配や特許権を与える……。そうすれば、資金と人員を早急に集められるでしょう。」
「おお」と、重臣たちは感心したように頷いた。
「なるほど…。さすが、皇太子殿下。」
アルフレート自身、これが根本的な解決にはならないことを痛感していた。
一時的な対策にしかならないと分かっていたが、魔術に頼らず、現実的に実行可能な手段は、他に思いつかなかった。
「…まあ、それが今のところは妥当だろう。ところで、北方辺境伯はどうした?」
聖皇の問いに、ある大臣が答えた。
「レヴァント侯は現在、東部での領土争いの調停に当たっております。昨日も別の村で、井戸を巡る紛争が発生したと報告が…。」
「そうか…。各地で同時に問題が起きているわけか。」
アルフレートは眉をひそめた。
ゲイオスほどの人材が現場対応に追われている。
それほど事態は深刻なのだ。
魔術師の過労問題、資金不足、領土争い。
会議は3時間にわたり平行線をたどっていた。
アルフレートの提案した治水事業案も、あくまでも一時的な対策に過ぎない。
聖皇も埒が明かないと判断し、今日は一旦、話し合いを終了することにした。
ひと段落したところで、お茶を飲みながら聖皇がアルフレートに話しかけた。
「そういえば、皇太子よ。そなたの側室の件だが……、」
アルフレートは思わず身をすくめ、ぎくりとした。
「初夜以来、閨を共にしていないそうだな。」
「…はい。」
聖皇は冷たく詰め寄る。
「そなたは何のために側室を娶ったのか、忘れてしまったのか?」
「申し訳ありません、陛下。最近、執務が忙しく…」
「そうか。しかし、こうなったのはすべてそなたの責任だ。皇太子の補佐として、執務をこなせる側室を娶るべきだったというのに……。そなたは、余と大臣たちが選んだ候補ではなく、男爵家の娘を指名したのだ。社交界デビューすら果たしていない男爵家の私生児を――」
「ッ…、そ、それは……、」
実は、側室の選定に関しては、ヴェロニカが最後まで強く反対していた。
彼女は、絶対に侯爵令嬢であるアレクサンドラを側室に迎えるなと、涙ながらに懇願したのだ。
アルフレートは、愛する女の頼みならばと、皇帝と大臣の反対を押し切り、ヴェロニカが推したリリアーヌを側室に迎える決断を下した。
父王の淡々とした口調と、容赦なく責め立てる言葉に、アルフレートは何も反論できなかった。父の命令は絶対であり、今回の選択は皇太子としては決してふさわしいものではなかった。
本来なら、アレクサンドラこそが、側室に相応しい存在だった。
彼女は、皇族派と敵対する派閣の令嬢であったが、彼女以上に優秀で、皇太子の補佐にふさわしい教育を受けた令嬢はほかになかった。
年頃の令嬢の多くはすでに婚約者がいるか、結婚していた。
ヴェロニカとの結婚後、子供ができず側室の話が浮上したとき、アルフレートはずっと断り続けていた。ヴェロニカが泣いて反対したため、彼は側室の迎え入れを拒み続けていたのだが、その間にめぼしい令嬢は全て婚約するか結婚してしまった。結局、残されたのは皇族派の数人の若い令嬢と、敵対する派閥の令嬢アレクサンドラのみだった。
そうした経緯から、本来ならアレクサンドラこそが側室にふさわしかった。しかし、アルフレートは彼女を選ばなかった。
「皇太子よ。そなたは側室を、補佐役として娶ったのではなかったか?」
アルフレートは何も答えられない。
聖皇は続けた。
「ならば、ちょうどよい。せっかく皇太子の補佐として娶ったのだ。今議論していた水不足問題について、側室の意見も聞いてみようではないか。その能力を見せてもらおう。」
「なっ!?お、お待ちください、父上!彼女はまだ——」
アルフレートは必死に止めようとしたが、聖皇の厳しい視線が彼に突き刺さる。
——黙れ。
言葉にせずとも、その視線がそう告げていた。
アルフレートはグッと声を飲み込むしかなかった。
「側室を呼んでこい。」
聖皇は低い声で、すぐさまリリアーヌを呼び出すよう命じた。
その頃、リリアーヌは離宮の自室で、一冊の本を広げていた。
例の四冊の贈り物の一冊――パレフィエ国の風土記である。
古代王国時代の神殿建築、繊細な装飾、天井を彩る壁画、手織りの絨毯、色鮮やかな陶器、光を宿すガラス細工。
ページをめくるたび、リリアーヌの胸は高鳴った。
(いつか、離縁されて自由になったら、こういう国を旅してみたい。)
そのためには、お金を貯めなければ……。旅に出るなら、それなりの費用が必要だし…。
男爵邸にはもう帰れないし、これからは自分ひとりで生きていかなければならない。
またどこかの屋敷で使用人として働けば、旅費も少しずつ貯まるかもしれない。
パレフィエ国もいいけど、美食の国リフィエも捨てがたい。だけど、星の国エストールも気になるし…。医療技術で名高いアルセルラ国にも行ってみたい。ああ。駄目だ。行きたい国が多すぎる。
リリアーヌは行きたい国がありすぎて、悩んでいた。
そんなことを考えていると、扉を叩く音が響いた。リリアーヌが返事をして、入室を許可すると、
「失礼いたします。」
侍従が部屋に入ってくる。
「リリアーヌ様。聖皇陛下がお呼びでございます。」
侍従の言葉に、リリアーヌは目を瞬かせた。
「……聖皇陛下が?」
思わず聞き返す。初夜以来、アルフレートとは顔を合わせていない。なのに、なぜ、聖皇陛下が自分を呼ぶのか。
その時、リリアーヌはハッとした。
(も、もしかして…、私、このまま離縁されるのでは!?)
リリアーヌは心当たりがあり過ぎた。そもそも、初夜であんな失態を犯してしまったし、側室としての役目を果たすどころか、負担をかけている始末。世継ぎの皇子を産むどころではない。
あの初夜のことが聖皇陛下の耳に入って、リリアーヌのことを側室としてふさわしくないと判断したのかもしれない。
(そ、そんな……!まだ、王宮に来たばかりなのに……!)
リリアーヌは落ち込みながらも、侍従の案内で、王宮の庭へ向かった。
侍従の後に続きながら、リリアーヌは心臓の鼓動が早まるのを感じた。
廊下を歩く間、様々な考えが頭をよぎる。
(ううっ…。緊張する…!まさか、聖皇陛下に会うなんて……!私は側室だし、子供を産んだらすぐ離縁されるから、お会いすることなんてないと思ってたのに…!)
そんなリリアーヌの心の叫びも虚しく、王宮の庭に着いてしまった。
そして、庭に足を踏み入れた瞬間、リリアーヌは息を吞んだ。
そこには聖皇陛下だけでなく、アルフレート、そして居並ぶ大臣や重臣たちがいた。
(な、何…?これは一体……。)
会議の真っ最中だったのだろう。重苦しい空気が庭を支配している。
リリアーヌの足が竦みそうになった。
中央の席に座る人物——それが聖皇陛下だと、リリアーヌは直感で理解した。
白銀の髪。深い皺が刻まれた顔。
一見すれば、ただの老人に見えるかもしれない。
だが、その双眸は、老いを感じさせない鋭い光を宿していた。
まるで研ぎ澄まされた刃のような眼差し。
ただそこに座っているだけで、空気が歪むような存在感。
周囲の大臣たちも、重臣たちも、皆が彼を中心に配置されている。まるで、太陽の周りを回る惑星のように。
そして、その視線が、リリアーヌを捉えた。
(ひっ……!)
心臓が跳ね上がる。全身が総毛立つ。
白髪の老皇。なのに、その存在感は、どんな若い戦士よりも恐ろしい。
"老いてなお、強大"
いや、違う。老いたからこそ、研ぎ澄まされたのだ——この恐ろしさは。
凄まじい威圧感を放つオーラに、リリアーヌは圧倒されそうになる。
「そなたが新しい側室か?」
低く、威厳のある声。その瞳には、値踏みするような光があった。
リリアーヌは慌てて、カーテシーをとるが、その所作はどこかぎこちないものだった。
「は、初めまして…。聖皇陛下。リリアーヌと申します。」
声が震えている。膝も震えている。立っているのがやっとの状態だ。
「お、お呼びと聞いて参りました。」
心臓が激しく鳴っている。ど、どうして、この場に自分が呼ばれたのだろう?
や、やっぱり、私みたいな女は側室として認めん!と叱責されるんじゃ……、
「…座るといい。そなたの分の茶を用意した。」
その言葉にリリアーヌはギクリとした。
(お、お茶?)
テーブルに並ぶ繊細なカップ、銀のスプーン、小さな菓子皿。
リリアーヌはそれらを見て、冷や汗を掻いた。
(ど、どうしよう!お茶の作法なんて、私、分からないよ…!)
リリアーヌは独学で本を読んで勉強してきたため、知識こそあれど実際の礼儀作法となるとまるで経験がない。
一応、男爵家で最低限の淑女教育を叩き込まれはしたが、あれは付け焼き刃程度のものに過ぎなかった。
手順は知っていても、身体がまったく追いつかない――
そんなぎこちなさを、今も拭えていない。
それでも、聖皇の誘いを断るわけにもいかず、震える膝で席に向かう。椅子に腰を下ろそうとした瞬間――ガタン、と音を立ててしまった。
シーン、とした沈黙の中、視線がリリアーヌに注がれる。
リリアーヌは緊張でぶるぶると震えた。
「父上。彼女はその、今日は体調が優れないのです。今日のところは…、」
アルフレートが助け舟を出すが、聖皇は皇太子を鋭い視線で一瞥する。
アルフレートは視線一つで制され、口を閉ざすしかない。
アルフレートは気まずさからリリアーヌを避けていたが、そもそも執務が忙しく、そんな時間もなかった。
その日の午前、王宮の庭で会議が開かれていた。
「陛下。水不足問題が深刻化しております。最近は水不足が原因で領土争いも勃発しており、村の井戸が次々に枯れております。民衆の不満の声も高まっておりますので、早急に対策を講じる必要がございます。」
「ふむ…。だが、まだ雨季までには時間がかかりそうだな。何か意見はあるか?」
「まずは、魔導士団へ救急要請し、水の魔術師たちを召集して、各領地での水不足対策に当たらせるべきです。」
魔術行政を統括する立場の宮廷魔術顧問が自信満々に進言した。彼は代々、優秀な魔術師を輩出する家柄の貴族の出で、魔術で何でも解決できると信じている典型的な魔法至上主義者だった。
「それが可能なら苦労はしない。しかし、魔導士団からは、魔術師たちへの負担があまりにも大きいと苦情が出ている。今月だけでもすでに三名が過労で倒れ、一名は魔力切れで意識不明の状態だ。」
内務大臣が冷静に現状を報告する。
「団長からも、これ以上魔術師たちに無茶をさせるわけにはいかないとの反対意見が強く出ている。強硬手段に出れば、魔導士団がストライキを起こす可能性すらあるのだ。」
「魔導士団長は何を考えているんだ! 魔力を持つ者は国のために尽くすべきだというのに……。」
西方辺境伯が苛立ちを露わにした。彼の領地は水不足が最も深刻な地域の一つで、今回の会議に特別に召集されていた。
「そうはいっても、近年、魔術師の人手不足と労働環境が問題になっております。労働時間と仕事量の負担が極めて大きく、過労や魔力切れで倒れる者も出ている状況です。」
労務大臣が資料に目を落としながら、述べた。
「もはや魔法だけで解決するには限界があるのです。」
「では、魔法以外にどんな解決策があるというのだ!人の手で雨を降らせたり、水を生み出すことなどできるはずがない!」
重苦しい空気が会議の場を支配した。誰もが口を閉ざし、打開策を見いだせずにいた。
「皇太子よ、そなたはどう思う?」
沈黙を破ったのは聖皇だった。
アルフレートは、意見を求められて率直に自分の考えを述べた。
「まずは、井戸の増設と水路の強化を行うべきだと考えます。」
そして、具体的な政策も提案した。
「治水事業として、小規模な貯水池や用水路の整備を急ぐ必要がございます。しかし、王家と貴族だけでは資金も人手も足りません。ですので、王都の商会に投資の形で参加させ、見返りに収穫物の分配や特許権を与える……。そうすれば、資金と人員を早急に集められるでしょう。」
「おお」と、重臣たちは感心したように頷いた。
「なるほど…。さすが、皇太子殿下。」
アルフレート自身、これが根本的な解決にはならないことを痛感していた。
一時的な対策にしかならないと分かっていたが、魔術に頼らず、現実的に実行可能な手段は、他に思いつかなかった。
「…まあ、それが今のところは妥当だろう。ところで、北方辺境伯はどうした?」
聖皇の問いに、ある大臣が答えた。
「レヴァント侯は現在、東部での領土争いの調停に当たっております。昨日も別の村で、井戸を巡る紛争が発生したと報告が…。」
「そうか…。各地で同時に問題が起きているわけか。」
アルフレートは眉をひそめた。
ゲイオスほどの人材が現場対応に追われている。
それほど事態は深刻なのだ。
魔術師の過労問題、資金不足、領土争い。
会議は3時間にわたり平行線をたどっていた。
アルフレートの提案した治水事業案も、あくまでも一時的な対策に過ぎない。
聖皇も埒が明かないと判断し、今日は一旦、話し合いを終了することにした。
ひと段落したところで、お茶を飲みながら聖皇がアルフレートに話しかけた。
「そういえば、皇太子よ。そなたの側室の件だが……、」
アルフレートは思わず身をすくめ、ぎくりとした。
「初夜以来、閨を共にしていないそうだな。」
「…はい。」
聖皇は冷たく詰め寄る。
「そなたは何のために側室を娶ったのか、忘れてしまったのか?」
「申し訳ありません、陛下。最近、執務が忙しく…」
「そうか。しかし、こうなったのはすべてそなたの責任だ。皇太子の補佐として、執務をこなせる側室を娶るべきだったというのに……。そなたは、余と大臣たちが選んだ候補ではなく、男爵家の娘を指名したのだ。社交界デビューすら果たしていない男爵家の私生児を――」
「ッ…、そ、それは……、」
実は、側室の選定に関しては、ヴェロニカが最後まで強く反対していた。
彼女は、絶対に侯爵令嬢であるアレクサンドラを側室に迎えるなと、涙ながらに懇願したのだ。
アルフレートは、愛する女の頼みならばと、皇帝と大臣の反対を押し切り、ヴェロニカが推したリリアーヌを側室に迎える決断を下した。
父王の淡々とした口調と、容赦なく責め立てる言葉に、アルフレートは何も反論できなかった。父の命令は絶対であり、今回の選択は皇太子としては決してふさわしいものではなかった。
本来なら、アレクサンドラこそが、側室に相応しい存在だった。
彼女は、皇族派と敵対する派閣の令嬢であったが、彼女以上に優秀で、皇太子の補佐にふさわしい教育を受けた令嬢はほかになかった。
年頃の令嬢の多くはすでに婚約者がいるか、結婚していた。
ヴェロニカとの結婚後、子供ができず側室の話が浮上したとき、アルフレートはずっと断り続けていた。ヴェロニカが泣いて反対したため、彼は側室の迎え入れを拒み続けていたのだが、その間にめぼしい令嬢は全て婚約するか結婚してしまった。結局、残されたのは皇族派の数人の若い令嬢と、敵対する派閥の令嬢アレクサンドラのみだった。
そうした経緯から、本来ならアレクサンドラこそが側室にふさわしかった。しかし、アルフレートは彼女を選ばなかった。
「皇太子よ。そなたは側室を、補佐役として娶ったのではなかったか?」
アルフレートは何も答えられない。
聖皇は続けた。
「ならば、ちょうどよい。せっかく皇太子の補佐として娶ったのだ。今議論していた水不足問題について、側室の意見も聞いてみようではないか。その能力を見せてもらおう。」
「なっ!?お、お待ちください、父上!彼女はまだ——」
アルフレートは必死に止めようとしたが、聖皇の厳しい視線が彼に突き刺さる。
——黙れ。
言葉にせずとも、その視線がそう告げていた。
アルフレートはグッと声を飲み込むしかなかった。
「側室を呼んでこい。」
聖皇は低い声で、すぐさまリリアーヌを呼び出すよう命じた。
その頃、リリアーヌは離宮の自室で、一冊の本を広げていた。
例の四冊の贈り物の一冊――パレフィエ国の風土記である。
古代王国時代の神殿建築、繊細な装飾、天井を彩る壁画、手織りの絨毯、色鮮やかな陶器、光を宿すガラス細工。
ページをめくるたび、リリアーヌの胸は高鳴った。
(いつか、離縁されて自由になったら、こういう国を旅してみたい。)
そのためには、お金を貯めなければ……。旅に出るなら、それなりの費用が必要だし…。
男爵邸にはもう帰れないし、これからは自分ひとりで生きていかなければならない。
またどこかの屋敷で使用人として働けば、旅費も少しずつ貯まるかもしれない。
パレフィエ国もいいけど、美食の国リフィエも捨てがたい。だけど、星の国エストールも気になるし…。医療技術で名高いアルセルラ国にも行ってみたい。ああ。駄目だ。行きたい国が多すぎる。
リリアーヌは行きたい国がありすぎて、悩んでいた。
そんなことを考えていると、扉を叩く音が響いた。リリアーヌが返事をして、入室を許可すると、
「失礼いたします。」
侍従が部屋に入ってくる。
「リリアーヌ様。聖皇陛下がお呼びでございます。」
侍従の言葉に、リリアーヌは目を瞬かせた。
「……聖皇陛下が?」
思わず聞き返す。初夜以来、アルフレートとは顔を合わせていない。なのに、なぜ、聖皇陛下が自分を呼ぶのか。
その時、リリアーヌはハッとした。
(も、もしかして…、私、このまま離縁されるのでは!?)
リリアーヌは心当たりがあり過ぎた。そもそも、初夜であんな失態を犯してしまったし、側室としての役目を果たすどころか、負担をかけている始末。世継ぎの皇子を産むどころではない。
あの初夜のことが聖皇陛下の耳に入って、リリアーヌのことを側室としてふさわしくないと判断したのかもしれない。
(そ、そんな……!まだ、王宮に来たばかりなのに……!)
リリアーヌは落ち込みながらも、侍従の案内で、王宮の庭へ向かった。
侍従の後に続きながら、リリアーヌは心臓の鼓動が早まるのを感じた。
廊下を歩く間、様々な考えが頭をよぎる。
(ううっ…。緊張する…!まさか、聖皇陛下に会うなんて……!私は側室だし、子供を産んだらすぐ離縁されるから、お会いすることなんてないと思ってたのに…!)
そんなリリアーヌの心の叫びも虚しく、王宮の庭に着いてしまった。
そして、庭に足を踏み入れた瞬間、リリアーヌは息を吞んだ。
そこには聖皇陛下だけでなく、アルフレート、そして居並ぶ大臣や重臣たちがいた。
(な、何…?これは一体……。)
会議の真っ最中だったのだろう。重苦しい空気が庭を支配している。
リリアーヌの足が竦みそうになった。
中央の席に座る人物——それが聖皇陛下だと、リリアーヌは直感で理解した。
白銀の髪。深い皺が刻まれた顔。
一見すれば、ただの老人に見えるかもしれない。
だが、その双眸は、老いを感じさせない鋭い光を宿していた。
まるで研ぎ澄まされた刃のような眼差し。
ただそこに座っているだけで、空気が歪むような存在感。
周囲の大臣たちも、重臣たちも、皆が彼を中心に配置されている。まるで、太陽の周りを回る惑星のように。
そして、その視線が、リリアーヌを捉えた。
(ひっ……!)
心臓が跳ね上がる。全身が総毛立つ。
白髪の老皇。なのに、その存在感は、どんな若い戦士よりも恐ろしい。
"老いてなお、強大"
いや、違う。老いたからこそ、研ぎ澄まされたのだ——この恐ろしさは。
凄まじい威圧感を放つオーラに、リリアーヌは圧倒されそうになる。
「そなたが新しい側室か?」
低く、威厳のある声。その瞳には、値踏みするような光があった。
リリアーヌは慌てて、カーテシーをとるが、その所作はどこかぎこちないものだった。
「は、初めまして…。聖皇陛下。リリアーヌと申します。」
声が震えている。膝も震えている。立っているのがやっとの状態だ。
「お、お呼びと聞いて参りました。」
心臓が激しく鳴っている。ど、どうして、この場に自分が呼ばれたのだろう?
や、やっぱり、私みたいな女は側室として認めん!と叱責されるんじゃ……、
「…座るといい。そなたの分の茶を用意した。」
その言葉にリリアーヌはギクリとした。
(お、お茶?)
テーブルに並ぶ繊細なカップ、銀のスプーン、小さな菓子皿。
リリアーヌはそれらを見て、冷や汗を掻いた。
(ど、どうしよう!お茶の作法なんて、私、分からないよ…!)
リリアーヌは独学で本を読んで勉強してきたため、知識こそあれど実際の礼儀作法となるとまるで経験がない。
一応、男爵家で最低限の淑女教育を叩き込まれはしたが、あれは付け焼き刃程度のものに過ぎなかった。
手順は知っていても、身体がまったく追いつかない――
そんなぎこちなさを、今も拭えていない。
それでも、聖皇の誘いを断るわけにもいかず、震える膝で席に向かう。椅子に腰を下ろそうとした瞬間――ガタン、と音を立ててしまった。
シーン、とした沈黙の中、視線がリリアーヌに注がれる。
リリアーヌは緊張でぶるぶると震えた。
「父上。彼女はその、今日は体調が優れないのです。今日のところは…、」
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