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終章 仏像の還る場所
何万年も――
しおりを挟む志貴は地元警察の方に行ってしまっていた。
幕田もそちらに戻ると言う。
深夜なので、ホテルの中とはいえ、晴比古は部屋まで深鈴を送ることにした。
くすんだ色の赤い絨毯。
持田が血まみれの仏像を引きずって歩いたのと同じ薄暗い廊下を歩きながら深鈴が言う。
「持田さんは、自分を苦しめる支配人をあそこに置いて、滴り落ちる水で清めて仏像にしようとしてたんですかね?」
「何万年も意識失わせてなきゃならないだろうがな」
その前に持田が死ぬぞ、と呟く。
持田は、古田を愛し始めていたからこそ、苦しんでいたのだろうが。
「人は忘却を重ねなければ生きてはいけない、か」
なにかを忘れ、気持ちが変わっていかなければ、辛くて死んでしまうから。
「俺の気持ちもそのうち変わるかな?」
晴比古は呟く。
深鈴の部屋の前で足を止め、振り向いた。
「志貴に殺されてもいい。
キスさせてくれ、亮灯」
亮灯――。
嘘偽りない彼女の言葉が訊きたくて、そう呼んでしまう。
ドアの前で固まっている彼女の腕を掴む。
キスしようとしたとき、後ろから声がした。
「自分の気持ちもそのうち変わるだろうかなんて逃げ道を考えているうちは、僕には勝てませんよ」
亮灯の腕を掴んだまま、今度はこちらが固まる番だった。
警察から戻ったらしい志貴が立っていた。
……殺される。
今、殺されてもいいと言ったくせに、身動きできずに強張っていると、情けないことに、亮灯が自分の前に出た。
「志貴。
晴比古先生に絡むのはやめて。
私が好きなのは貴方だけだから」
うっ。
かばってくれているのだろうが。
もっとも深くとどめを刺されている気がした。
どきりとしなかったと言ったら嘘になる、と深鈴は思っていた。
間近に晴比古に、
「志貴に殺されてもいい。
キスさせてくれ、亮灯」
と言われて。
正直言って、晴比古の顔の方が好みだし。
ちょっと情けないところも嫌いじゃない。
だけど……。
亮灯と呼ばれたとき、やはり、違和感があった。
『亮灯』
少し照れたように自分をそう呼ぶ志貴の姿が頭に浮かぶ。
穏やかそうな外見で、常に後ろに凶器を隠し持っているような人だが。
不思議と嫌いになれないし。
この人のことを理解して、側に居られるのは自分だけかな、などと思ってしまうから。
駄目男を好きになる典型だな、と思いながらも、自分は、やっぱりこの人しか好きになれないと思っていた。
どんなときもずっと側に居てくれたこの人しか――。
「自分の気持ちもそのうち変わるだろうかなんて逃げ道を考えているうちは、僕には勝てませんよ」
だから、志貴の声が聞こえたとき、ほっとしていた。
「志貴。
晴比古先生に絡むのはやめて。
私が好きなのは貴方だけだから」
亮灯は、志貴を真っ直ぐに見つめ、そう言っていた。
晴比古が帰ってしまったあと、深鈴―― 亮灯は志貴と二人、なんとなく外に出ていた。
山の中腹にある、あの洞穴の近くまで行く。
古田支配人をこの洞穴に閉じ込めて清めようとした持田はやはり、彼が好きだから、そうしたのだろうな、と思っていた。
どうしても嫌いになれないから、過去も彼の黒い部分もなにもかも清めてしまいたかったのだろうと。
でも、私は、志貴の黒いところも含めて好きなような気もしてる。
こんなに強く自分を思ってくれる人は、他には居ない気がするから、と亮灯は彼を振り返った。
夜空を見上げ、志貴を見る。
「どうしていいかわからないの」
そう亮灯は告げた。
「変ね。
大好きな志貴と居るのに。
復讐をやめて、普通の人間になったら、貴方の前でどう振る舞っていいのかわからない。
きっとこれが私の罰なのね」
これは、長い間、人を殺すことしか考えてこなかった自分への罰だ、そう亮灯は思っていた。
亮灯という名にも、今の半端な気持ちのままでは戻れない。
小田切は、持田の態度から、彼女が古田支配人を想っていると気づいて、殺してあげましょうと言ってみたと言ってはいたが。
本当のところ、行き場をなくした殺意をどうしていいのかわからなかったのではないだろうか。
今まさに、自分がそんな感じだからだ。
「亮灯」
と志貴が呼びかけてきた。
なんとなく、ほっとする呼び方だ。
自分の腕をつかみ、キスしてくる。
一瞬、目を閉じたが、開けてみた。
志貴の後ろに、明かりの少ない田舎の夜の、満天の星空が見えていた。
綺麗だな、とぼんやり思う。
そして、自然を綺麗だな、なんて呑気に思う心がまだ自分の中に残っていたのか、と変に感心してしまった。
離れた志貴が言ってくる。
「なにも考えなくていいんだよ。
ただ、僕の側に居てくれればいいんだよ。
普通に生きるには、どうしなければならないとかいいよ。
君がどんな風な生き方をしても、僕はずっと君の側に居る」
そう志貴は言う。
なんだか泣きたくなった。
なんでこの人はいつも一番自分が欲しい言葉をくれるんだろう。
志貴の腕が自分を抱き寄せた。
そのまま、そのぬくもりに浸っていたいと思った。
手を繋ぎ、二人で山を下りる。
「……ねえ、亮灯」
おそるおそると言った感じで、志貴が訊いてきた。
「僕が邪魔してなかったら、晴比古先生とキスしてた?」
その怯えたような訊き方に、吹き出してしまう。
「なんで?」
「いや、……なんとなく。
僕が女だったら、そうかなあって」
やっぱり、自分より志貴の方が、晴比古に対する心酔具合がひどい気がするのだが……。
「じゃあ、志貴、晴比古先生とキスしなさいよ」
「嫌だよ」
「うーん。
じゃあ、私が先生とキスしてたら、どうしてた?」
「殺すよ」
爽やかな笑顔で、志貴は迷いなく言う。
「えーと……どっちを?」
どっちも、と言うかな、と思ったのだが、志貴は、
「晴比古先生をだよ。
君は洞窟にでも閉じ込めるよ」
と言ってきた。
「結跏趺坐を組ませて、石灰水で固めるの?」
と苦笑いして言うと、そんなもったいない、と言う。
「洞窟に閉じ込めて、ずっと大事にしてあげるよ。
僕の大切なお姫様だから――」
と笑うが。
いや、大切なお姫様を洞窟に閉じ込めるとかどうなんだ、と思っていると、旅館の廊下にあるドアを開けながら志貴は照れたように呼びかけてきた。
「亮灯……」
「なあに?」
「今日はその……君の部屋に泊まってもいい?」
いや……今、洞窟に閉じ込めるとか非道なことを言っておいて、その程度のことで照れるとかどうなんですか、と思いながらも。
こういうところが好きかもとか、可愛いかも、とか思ってしまう私は、きっと、ちょっとおかしいのだろうな、と思っていた。
「……いいよ」
と赤くなりながらも、小さく囁き、亮灯は自分の部屋の鍵を開けた。
「じゃあ、どうもお世話になりました」
そう深鈴が見送りに出てくれた従業員たちに頭を下げる。
晴比古たちは朝、宿を発つことになった。
ハルたちも見送りに来てくれている。
「なんか結局、ばあさん……ハルさんにいいように振り回されて終わったような」
と晴比古が呟くと、
「まあ、また来なさい。
ぼたもち作っておくから」
とハルは笑っていた。
菜切がタクシー会社に放置し、ハルが持っていたあの傘は小田切の許に返ったらしい。
小田切は自分への戒めのために、喫茶店の傘立てにあれを差しているそうだ。
「先生、ぜひ、今度遊びに行かせてくださいね、事務所」
と笑って俊哉が言ってくる。
そして、志貴を見、
「兄貴も行かせてくださいね、ケーサツ」
と言って、志貴に、
「いやそこ、遊びに行くとこじゃないから」
と苦笑いして言われていた。
いや……うちの事務所も遊びに来るところじゃないんだが……。
「先生」
と水村が微笑み言ってくる。
「またぜひ、遊びにいらしてくださいね」
深鈴が横で渋い顔をしているが、別に自分のことを好きなわけではないのを知っている。
単に親鳥を取られそうな雛の気持ちなのだろう。
新田副支配人たちに見送られ、晴比古たちは菜切のタクシーで宿を出た。
「そういえば、仏像出てこないままでしたね」
と運転しながら菜切が言ってくる。
鍾乳洞の中、あの祭壇のようになっているところに足跡は一人分しかなかった。
菜切の分だ。
小柄な持田なら、菜切のように祭壇の上に上がって取った気がするから、おそらく、意識を取り戻した支配人が持って逃げたのだろう。
そう思っていたら、やはり、それが正解のようだった。
支配人は仏像を持って逃げた理由については語っていないようだが、もしかしたら、もう一度、殺しの目印を置きに行くためだったのかもしれない。
そして、とりあえず、林の中に隠していたそうなのだが、いつの間にかなくなっていたらしい。
気の利く新田がそっと始末したか、勘で動く俊哉がその辺に放り投げたか。
新田さんならいいが、俊哉だと、とんでもないところに放っていて、そのうちおかしな都市伝説でも出来そうだ、と思う。
歩く血まみれの仏像とか……。
「まあ、血がついた仏像が出てきてもまた厄介なことになるけどな」
と晴比古は呟く。
どのみち、行き過ぎた痴話喧嘩ということでケリはつくだろうが。
すると、幕田が、
「身代わり地蔵とか言うじゃないですか。
仏像が全部背負って消えたんですかね」
と詩的なことを言ってきた。
人の闇を見る力はあるが、物理的な怪奇現象を晴比古は、まったく信じてはいなかった。
そういえば、小田切の手も持田の手も結局握らなかったな、と思う。
まあ、わざわざ隠している心の闇を頼まれもしないのに、覗く必要はない
ちらと深鈴の向こうの志貴を見た。
……こいつの手だけは死んでも握りたくないかな、いろんな意味で。
「先生」
と菜切が呼びかけてくる。
「またなにかあったら、来てくださいね。
志貴さんも」
結局、こいつが一番可哀想だった気が……と思いながら、
「またなにかあったらって、そうそう事件があってくれても困るだろ」
と言うと、笑っていた。
窓の外の山は緑で覆われ、晴比古はそれを眩しく見ながら、目をしばたたいた。
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