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蘇りの書
祈り
しおりを挟む扉、開けなくても飛んじゃったな……。
揺らぎに呑み込まれ、学校に飛んだ真生は、ぼんやりそんなことを考えていた。
扉を開けると過去に飛ぶ、というのは、自分の思い込みというか、一種の暗示だったようだ。
最初に扉を開けたときに飛んだせいか。
扉を開けるときにはいつも、過去へ飛ぶのでは、と身構えるようになっていた。
それで、扉を開ける瞬間、自分の意識が過去とつながりやすくなっていただけだったのだろう。
斗真はなにもしなくても、飛んでるもんな……。
暗い学校の廊下に立つ真生は、さっきまで、高坂が二度と離すまいとするかのようにつかんでいたおのれの腕に手をやりかけ、やめた。
自分がそこに触れることで、高坂の指が触れていた感触が消えてしまう気がしたからだ。
――まだこの腕にも唇にも、高坂さんが触れていた感覚が残っているのに。
私が高坂さんに会えることは、もう永遠にない。
いや、考えてみれば、自分が生まれる前に死んでいたあの人と出会えたこと自体が奇跡だったのだから。
これ以上のことを望むのは、端から無理なことなのだろう。
落ち着こう、と真生はおのれの両頬を軽く叩いた。
高坂さんにはもう会えなくとも、私にはまだ、あの人のためにやらねばならないことがある。
そう考えることで、真生は崩れ落ちそうになる自分の心をなんとか支えた。
時間も空間も離れていても、高坂のために、まだできることがあるという、その事実だけで、真生はかろうじて、そこに立っていることができた。
気持ちを切り替えるために、ひとつ息を吸った真生は、
今が夜で、そこが今まで飛んだことのない音楽室の前の廊下だと気づく。
何故、ここに? と思う間もなく、その旋律が耳に入ってきた。
美しい音色だ。
これに惹かれて飛んだんだな、と気づく。
音楽室の扉は開いていた。
真生はそこから、そっと中に入り、聴いていた。
音楽室の黒いグラウンドピアノを弾いているのは斗真だった。
開いたままのカーテンから差し込む月明かり。
その中で見る斗真は高坂に見えなくもない。
……だが、ときめかんな、と腕を組み、真生は渋い顔をする。
そういえば、高坂さんって、ピアノなんか弾けるのかな?
弾けそうな雰囲気ではあるけど。
いや、意外と八咫さんがあの蜘蛛のように細く長い指で、小器用に弾きこなしそうだ、と笑いかけたとき、音が止んだ。
曲を途中で止めた斗真がこちらを見る。
「ああ、邪魔だった?」
と言うと、斗真は、違う、と言い、溜息をつく。
「……なにか違う気がするんだ」
最終楽章まで来たとき、違和感がある、と斗真は言った。
「他の人間が作ったのか。
本人が急いで、やっつけ仕事で作ったのか。
お前が弾いてるのを聞いているときも、なにか尻が落ち着かないような気持ちになるな、と思ったんだ」
それは哲治の作ったあの曲だった。
「これはこれでいい曲だとは思うけどね」
と笑った真生は、
「でも、斗真。
そんなことしてるから過去に飛んだりするのよ」
と側へ行きながら言う。
「パイプオルガンの奏者はあんたに頼むべきだったわよね」
と楽譜もないのに弾きこなす斗真に言った。
パイプオルガンだろ? と斗真は眉をひそめる。
「ピアノが弾けるからって弾けるってもんじゃないだろ。
お前が選ばれたってことは、たぶん、求められてるのは美しい演奏じゃないんだろ」
こら、自分の演奏の方が上だと認めたな、と思っている真生を、斗真は真っ直ぐ見つめ、
「きっと必要なのは、情熱だよ」
と言う。
そのままキスして来ようとしたので、慌てて逃げた。
「あんた、過去に飛ぶようになってから、手が早くなったわね」
「ノロノロしてたら、自分そっくりな男に、なにもかも持ってかれるって気づいたからだよ」
そっくりか……、と真生は呟く。
確かに顔はそうかもしれないが。
そのせいで、余計に違って見えるのだが。
「……まだ飛んでるのか?」
「そうね。
斗真もまだ飛んでるの?
やめればいいのに。
死ぬわよ」
「笑えないこと言うなよ。
死ぬんだろ?」
「どこかに縛り付けておいてあげましょうか。
二度と飛ばないように」
いや、もう刺されたみたいだけどね、と思いながら、真生、と抱き寄せようとする斗真の手から逃《のが》れる。
「帰ろう、斗真。
夜中にピアノを弾く霊が出るって話になっちゃうよ」
「だったら、その霊はお前だな。
この曲はお前にしか弾けないはずだから」
何故、斗真がこの曲を弾きこなそうとしたのかわかる気がした。
恐らく、斗真は気づいているのだろう。
この曲が完成するときが、あの揺らぎの止まるときだと。
タイムスリップ現象を引き起こす、あの揺らぎの――。
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あの時代のあの世界への鎮魂歌である、あの曲を、自分の思い通りに仕上げることが、若くして死んだ哲治の、ただひとつの望みなのだから。
「物を作り出そうとする執念って凄いわよね」
哲治は曾祖父が覚えて帰ったあの曲の最後を知る真生に、あの時代の空気を感じさせ、曲を完成させようとしている。
高坂と出会ったことさえ、もしかしたら、そのためだったのかもれしないと思う。
芸術家というのは薄情だ。
他人の感情さえも、おのれの芸術の完成のためならば、利用する。
「執念か。
……いや、祈りかな」
自分と同じように、戦争が始まる前のあの切迫した時代の空気を知る斗真はそう呟いた。
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