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蘇りの書

病院

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「真生っ」

 床に崩れ落ちた自分を斗真が抱き止めた。

「真生っ」

 自分を抱き起こす斗真を見て真生は途切れ途切れに言った。

「早く、病院、連れていって。
 なんのために、側に救命救急センターを作ってもらったと思ってるの。

 私、あんたのために死ぬつもりはないわ。
 あんた、A型でしょ」

「計算高いな。死んだ人間の血でいいのか」

「まだ、やることがあるのよ。ゾンビにだってなってやるわよ」

「……ゾンビは俺だろ。
 一度死んで蘇った」
と斗真は自嘲気味に苦笑する。

「俺より高坂を蘇らせろよ」

「言ったでしょ。
 無理なの。

 高坂さんを蘇らせることはもう出来ない」

 ああ、もう瞼を開けてはいられない。

 その思ったとき、誰かが真生の唇に触れてきた。

「ちょっと……今は卑怯」

「……いや、真生。
 俺はもっと卑怯だ」

 そう言い、斗真は今、蘇ったばかりの身体で抱き上げてくれる。

「病院に、居るから、あの人が」

「あの人?」

「いつ、こうなってもいいように……頼んでおいたから」

 行けばわかる。

 そう言い、真生は、斗真を信じて目を閉じた。

 
 

 真生は目を覚ました。

 点滴はまだ落ちている。

 大丈夫、いける。

 真生は、点滴の針を自分で引き抜いた。

 荒い息を吐き、ベッドから降りようとしたとき、入り口に人の気配を感じた。

 車椅子の男の影が見える。

「行くのか、真生」

 ええ、と真生は答えた。

「もうひとつ、やらなければならないことがあるんですよ、八咫理事長」

 そして、もう時間がない。

 考えまいとしているのに、頭の中で、完成されかけている旋律が駆け巡っているからだ。

 体重をかけるようにして、引きちぎる勢いで制服をハンガーから落とした真生は病院の寝間着を脱ぎ捨てた。

「お前、もう少し恥じらいを持て」
と八咫は顔をしかめて言う。

「余裕が出来たら、そうします」
と言い、半裸の身体の上に直接制服を羽織った。

 真生が天然痘ウイルスの偽物で女を脅したとき、八咫は、真生の言う多くのウイルスを所持しているという人物に会ってみたい、と言ってきた。

 真生はその人物に会わせる代わりに、後でやっておいて欲しいことがあると彼に頼んだ。

 八咫は真生の望み通り、戦後、個人の金でこの病院跡地を買い取り、学校のすぐ側に救命救急センターも作ってくれていた。

 坂部とともに、礼拝堂に曲の仕上がり具合を聴きに来た八咫に、
『ね? 会えたでしょ。
 たくさんの病原体を内緒で所持している大病院の理事長に』
と真生が笑うと、

『私じゃないか。
 しかも、たいしたものは持ってない』
と顔をしかめていたが。

 八咫は病原体絡みで何事かあったとき、真っ先に対処できるように、いろいろ隠し持っているようだった。

「ありがとうございます。
 お陰で助かりました」
と言うと、八咫は、

「借りは返せ。
 失敗するなよ、記念祭」
と言う。

 はは、と真生は苦しい息の下、笑ってみせる。

 なにを呑気なことをと思いながら。

 だが、彼にとっては、今から起こることは、もう過去のことなのだ。

 自分にとっては未来だが――。

「八咫さん、今まで生きていてくださって、ありがとうございます」

 いや、と八咫は小さく手を挙げる。

「お前も生きて帰れ、真生」

「帰ります。
 そうじゃないと、高坂さんが死にますから。

 いえ、死ぬんですよね。

 でも、私が止められるかもしれない死からは回避させてみせます」

「そうまでして、過去にこだわる必要があるのか?」

 そう八咫は言い出した。

「どういう意味ですか?」

「弓削斗真。
 あれは、高坂の生まれ変わりじゃないのか?」

 思っていた以上に似ている、と八咫は言う。

「八咫さん、斗真をどう思いますか?」

「……好青年だな」

「八咫さん。
 愛で目は曇るけど。

 生理的に嫌いっていうのは曇らないんですよ。

 私は高坂さんに生まれ変わって欲しいと願って、淋しさから目が曇るかもしれないけれど。

 あなたは生理的に嫌いな人間をただ嫌うでしょう」

 なるほど、と八咫は頷いた。

 それは残念だな、とたいして残念でもなさそうに言う。

「あの日、お前の言った通りに、日本は負けた。

 だが、私たちの望んだ未来はその先にあった。

 お前の望む未来も、高坂との縁を断ち切ったあとにあるのかもしれないな」

「慰めをありがとうございます。
 もう行きます」

 八咫はもう止めなかった。

 真生は、すうっと息を吸い、嗅ぎ慣れた病院の匂いを胸に入れる。

 病院の匂い。

 高坂さんの匂いだ。

 真生は人々が行き交う廊下の先を見つめた。

 そこに彼の言う、自分たちの未来があるかのように――。


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