禁断のプロポーズ

菱沼あゆ

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第一章 オフィスの罠

七光りズってなんだ……

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「ただいま」

 誰もいない暗闇に向かい、未咲は一応、声をかけてみた。

「おかえり」
とか言われても困るのだが。

 まあ、今日は返事があるはずもない。

 部屋の灯りをつける。

 未咲の部屋は、あの日、出たままになっていた。

 ソファの上を見、クローゼットを見、日記を探す。

「ほんとにないような……」
と声に出して呟いたとき、隣の部屋の灯りがついた。

 げ、と思う。

 すりガラスのはまった扉が開いて、日記を手に男が現れる。

「お探しのものはこれだろう」

「あれっ?
 まだ仕事中じゃなかったんですか?」

 はは、と誤魔化すように笑うと、

「そう思ってるだろうと思って、今日は早く上がったんだ。

 志貴島未咲。

 読みが浅いな。

 お前の評価はバツだ」
と言われた。

「家でまでやめてくださいよ、専務」

 そう溜息をつくと、
「お前こそ、家で専務はやめろ」
と言う。

「ひょいひょいその辺に物を置いておくから、こんなややこしいことになったんだ。

 片付けろ。
 人の家かと思って」

「片付いてるじゃないですか」

「お前の片付いてると、俺の片付いてるは違うんだ」
と言って、智久はソファに腰掛ける。

 日記をめくった。

「あっ、もうっ。
 勝手に人のものを」
と取り返そうとすると、読みながら、ひょいと交わし、

「ここは俺の家だ。
 ここにあるものはすべて俺のものだ」
と言い出す。

「性悪な地主みたいですねえ」
と腰に手をやり、智久を見下ろすと、彼は日記を見たまま、

「そう。
 だから、ここに住んでるお前も俺のものだ」
と言い出す。

「今は住んでませんよ」

「まあ、夏目に叩き出されるまではな。

 あいつも几帳面だから、そのうち、お前に嫌気がさして、出て行けと言うに違いない」

「そのわりに、専務は出てけと言いませんね」

「アパート借りてやったろう」

 就職活動をするのに、問題があるので、自分の名義で部屋を借りた。

 金を出してくれたのは、智久だが。

 まあ、このマンションも智久の持ち物というだけで、彼がここに住んでいるわけではないのだが。

 未咲は、ずっとここから大学に通っていた。

「あのアパートは、隣の騒音が凄くて」

 なんだか落ち着かず、智久が鍵を返せとも言わないので、荷物もほとんどこちらに置いていた。

「贅沢な奴だな」
と言う智久の側に腰を下ろした。

 智久が持っているマンションはここだけではない。

 彼は、たまにこうして訪れるくらいなので、未咲は、すでにここが自分の家くらいの感じで、くつろいでいた。

「二千万にこのマンション代に、今のアパートの敷金礼金」

「……細かいですね」

「働けよ、俺のために」

「初給料もらったら、おごりますよ」
と微笑むと、

「俺はいい。
 お前の面倒を見てくれている夏目におごってやれ」
と言い出す。

 そう言われると、余程、私の面倒を見るのが大変だったかのように聞こえるのだが。

「最近のあしながおじさんは、就職まで世話してくれますからねえ」
と言うと、智久は、

「誰がおじさんだ」
と言ったあとで、更に日記をめくり、呆れたように溜息をついた。

「未咲、お前の姉貴は、本当に暇な奴だな。

 日記ってのは、そのときの自分の思考や感情を記録しておくものだと思っていたのだが。

 これは、何処の店の何が美味しいとか、店員が好みだとかしか書いてない」

 智久は勝手に読んでおいて、文句を言ってくる。

「考えようによっては、微笑ましいでしょ」

 夏目とともにアパートに行ったとき、日記はこっちにあるのを忘れて、日記がないと騒いでしまった。

 そのまま、引っ込みがつかなくなって、今日に至る。

「思えば、課長とも妙な縁ですよね」
と呟くと、

「あいつにとっては、とんだ厄介事の始まりだな」
と言う。

「まあ、隙のないあいつに隙を作ってくれたことは感謝してるよ」

「どうして、専務は、そんなに課長を意識してるんですか?

 課長は、仕事好きだし、切れ者だけど、出世には興味ありません。

 むしろ、今の待遇を鬱陶しいと思っているようなんですが」

「誰が後継者となるか、決めるのは、本人じゃない。

 そして、本人が望んでいるかとどうかも関係ない」

「断ることはできないんですか?」

「断ったらクビだろう」

「そうなんですか。

 でも、大丈夫ですよ。

 私なら、課長は選びません。

 上に立つ人間は、やはりある程度、野心がないと。

 七光りズの中では、貴方と課長が飛び抜けて優秀ですし。

 課長が脱落するのなら、貴方しか居ませんよ」

 七光りズってなんだ……と眉をひそめられた。

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