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0番線ホーム

そんな電車はない

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 パンなのに何故か味噌汁がついていたが、美味しいモーニングサービスをイチにおごってもらったあと、乃ノ子はイチに送られ、自宅まで帰った。

 そっと玄関扉を開け、二階の自分の部屋に忍び込む。

 みんなリビングや洗面所で朝の支度をしていて、気づかなかったようだだ。

 制服のままだったので、鞄の中身だけ変え、
「おはよう~」
となに食わぬ顔で下り、みんなの前に顔を出すと、

「乃ノ子、早く食べなさいよ。
 あんた、昨日、何時に帰ってきたの。

 寝過ぎよ」
とキッチンから振り返った母親が呑気なことを言ってきた。

 はいはい、と言いながら、乃ノ子は席に着く。

 箸を手にしたあとで、

 ……あ、でも、今、朝ごはん、おごってもらっちゃったんだった。

 そう思いながらも、また食べた。




「何故、そこで、また食べる」

 放課後、あの自動販売機の前でイチに、そう言われた。

 どうもこの特殊な空間の方がイチは現れやすいようだった。

「食べてたら、さっと出かけられるだろうと思っておごってやったのに。
 今日は食欲ないとか言って、すぐ出ればよかったじゃないか」

「いや~、私が食欲ないとか言ったら、怪しまれますよ~」

「遅刻ギリギリまで起きてこなくても怪しまれないのにか」

「なんだかんだで、ギリギリ遅れない、という信用があるから、親が部屋覗いて来ないんですよ」
とふたりで揉めている間、トモダチは黙って、自分の手のひらを見つめている。

 そこに載っているものがなんなのか。

 もう乃ノ子の視界には入っていた。

 トモダチの手には、あの黒いゴムがあった。

 今も蝶々の形をしているのは、トモダチがねじってみたからだろう。

 持ち上げた瞬間に、丸く戻っていたはずだから。

 トモダチはその黒い蝶々を指でつまみ、持ち上げる。

 輪になったそのゴムの中を覗いて、そこから夕暮れの横断歩道を見ていた。

「……そんな電車ない」

 ぼそりとトモダチはそう言った。

「言霊駅の0番線ホームから出る電車なんてない。

 待ってたけど、0番線ホームも電車も現れなかった――」

 ……何処か違う場所に行きたかったのに、とトモダチは言った。

「お前が作ったんだったのか? 0番線ホーム」

 違うと思う――。

 そうトモダチはイチではなく、輪の中を見たまま言った。

「私の心もあそこに囚われていたみたいだけど。
 きっとあの都市伝説を聞いて、何人もの人が願ったの。

 0番線ホームから、此処ではない何処かへ行く電車が出ればいいのにって」

 そんなトモダチの言葉を聞いていたとき、
「あーっ、イチさんっ」
と声がした。

 見ると、紀代と風香がこちらを見て立ち止まっている。

 ええっ? 見えてるっ?
と驚く乃ノ子たちのところに走ってきた二人は、

「こんにちはー」
とイチと、そして、トモダチに挨拶をした。

「制服違うけど、別の学校のお友だちですか?」
と笑って風香が言ってくる。

「見えて……」

 見えてるの? と言うのはやめた。

 その一言のせいで、このトモダチが此処に存在できなくなってしまう気がしたからだ。

「初めましてー。
 私、乃ノ子の友だちの紀代です」

「風香です」

 あ……とトモダチは名乗ろうとしたが、自分の名前がわからないようだった。

 だが、そこで、ん? という顔を紀代がした。

「いやーっ。
 言わないで死ぬーっ。

 きっとそれに、なにか私の事件が載ってたのよ~っ」

 聞いたら死ぬ~っ、と騒ぐトモダチに、

「いや、その場合、聞かなくても、もう死んでるから……」

 冷静に乃ノ子は言った。

「薄情ねっ、乃ノ子っ」
とトモダチに衿許をつかまれたが、そうではない。

 人が死ぬほどの大きな事件や事故なら、普通の新聞の地域版にも載っているはずだが、そんなものは見た記憶がなかったからだ。

 ということは、このトモダチが出ていたのは、もっと別の記事のはずだった。

「あ、思い出したっ」
 紀代が手を打つ。

「あなた、フルートのコンクールで優勝した人でしょ?」

 えっ? と乃ノ子はトモダチと顔を見合わせる。

 あまりにも平和的な話題で拍子抜けしたのだ。

「うん、そう。
 確かそうだよ」

 紀代は、よく思い出そうとするように、トモダチの顔を見ながら右のこめかみに人差し指を当てる。

「……フルート教室、そういえば、うちの近くにもありますよ」
と思い出すような顔をしながら言う風香に、

「えっ? 何処っ?」
と乃ノ子が問うと、

「えーと、うちと同じ地区ではあるんですけどね。
 端の方だから、此処を北に上がってった方が近いかも」
と風香はお弁当屋さんの横の道を北に向かって指差す。

 トモダチはそちらを振り返り見ていた。

「……乃ノ子。
 私、怖い……」
とトモダチは言った。

 そんな彼女を見ながら、乃ノ子は言う。

「あの~、非常に言いにくいんだけど。
 すぐそこのコミュニティセンターに地域の新聞まとめてあるの。

 子どもの頃、社会科の授業のとき、見せたもらったことがある。

 ……言霊町新聞もあるかも」

「なにが言いにくいの?」
と事情がわからないまま、話に加わっている紀代が訊いてきた。

「こいつのことがわかるんなら、今すぐ見に行ったらいいだろうが」
とイチも言う。

「でも怖いんですよ」
と乃ノ子は、黙っているトモダチの代わりに言った。

「なんで今、自分は、此処にこうしているのか。
 過去になにがあったのか。

 知りたいけど、怖いんですよ」

「そうだな。
 お前と同じで、なにか恐ろしいことを過去、しでかしてるかもしれないからな」

 だから、私、なにをしでかしたんですか……。

 いや、言わなくていいです、
と乃ノ子が思ったとき、乃ノ子とイチの表情を見比べていたトモダチが、

「なんか私のことなんて、乃ノ子に比べたら、たいしたことじゃない気がしてきた」
と言い出した。

 いや、どういう意味なんだ……と思いながらも、

「じゃあ、借りてくるっ」
と乃ノ子が行こうとしたとき、紀代が、

「なに言ってんのよ、みんなで一緒に行けばいいじゃん。
 その方が早いし」
とトモダチの手をつかんだ。

 そのまま道に向かって引っ張る。

 あっ、と言ったトモダチは歩道に出ていた。

 いや、今までもこの辺りをウロついていたことはあったが、それとは違う感じがした。

 目に見えない薄い膜を破って、外に出てきたような。

 とん、と友だちの靴が道のアスファルトに乗った瞬間、自転車がやってきた。

 男子高校生の乗るその自転車とぶつかりかけて、
「あっ、すみません」
と友だちは避ける。

 その瞬間、友だちは息を呑んだ。

「私……、

 生きてるっ!」

「ほ、ほとんだっ。
 生きてるっ、生きてるよっ」

 急に現実に現れたその身体で、自転車とぶつかりかけ、友だちはそれを実感したようだった。

「生きてるよ、乃ノ子っ」
と友だちは手を握ってくる。

「よかった~っ。
 フルートのコンクールで失敗して身投げでもしたのかと思ったっ」
と安堵して叫んだ乃ノ子に、友だちは、

「今、優勝したって、この子が言ったでしょーっ」

 私が生きてて、あんたたちが死んでんじゃないのっ?
とまで言い出した。

 ひーっ。
 やめてーっ、と乃ノ子が叫び、

 なんだかわかんないけど、やめてーっ、と事情がわからないながらも、雰囲気だけで話に入れる紀代たちも叫んでいた。

「どっちも生きてるという選択肢はないのか、お前ら……」
とイチが呟く。



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