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第一章 幽霊花魁

肩越しの霊

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 夜。那津は目を覚まし、廊下を歩いた。

 やけに喉が渇いたからだ。

 ぎしり、ぎしり、と音を立て、古い今にも抜けそうな板を踏む間、どんどん肩が重くなっているのを感じていた。

 雨はもう止んでいるようだった。

 月明かりの中、壁の方を見る。

 そこには、自分の背に乗る人影がはっきりと映っていた。

「……何故、俺に憑く」

 足を止め、女に問うた。

 女は答えない。

 腐臭までする気がしたが、それが腐った匂いなのか、香の匂いなのか、微妙なところだ。

 どちらも、自分にとっては、甘ったるい強い香りとしか認識できないからだ。

「お前の名は?」

『……明野あけの

 ようやく女の影が口を開いた。

「明野。
 何故、成仏しないで祟っている」

『あの女が居る限り、私はあそこから離れない。
 あの女がああして、栄華を極めている限り、私はあそこから離れない。

 咲夜も許さない。
 何故、あの女に付き従う。

 私を殺したあの女に』

 きゃああああああっ。

 突然、悲鳴が聞こえた。

 耳を覆わんばかりの悲痛な叫びだ。

 女の驚きと悲しみが伝わってきた。

 階段上の、咲夜のからくり扉のある場所に、桧山が立っている。

 落ちた女を見下ろしていた。

「明野。
 咲夜がお前には他に行くべきところがあるはずだと言っていたが」

 そう告げても、明野はただひたすら、桧山と咲夜への恨みごとを繰り返している。

 那津は小さく溜息をついた。

『許さない、許さない。
 あの女、私を殺して、自分が吉原一の女になった』

 それは真実なのかもしれないが。

 階段上に立つ桧山の顔を見ていたら、それは、彼女が望んで引き起こしたこととは思えなかった。

 だが、その幻影の桧山が驚きと悲しみだけではない。

 諦めのような表情を見せていたのが気になる。

『許さない』

 そう呟き、明野は初めてその姿をはっきりと見せた。

 輝くばかりに美しいその顔に、よく似た顔を自分は知っていた。


 

『なにしてるんだい?』

 そのとき、あの人は優しい口調で訊いてきた。

 階段下で立ち尽くしていた自分に。

 ひとり部屋にこもる咲夜は、この扇花屋に初めて来た日のことを思い出していた。

『君にはそれが見えてるの?』

 その言葉に振り返った自分が見たのは、今まで見たこともないほど繊細な美貌の男だった。

 男は黙って微笑んでいた。

 困った子だね、と彼は言う。

 そして、困った顔だ、と。

 ねえ、と男は階段の上を見て呼びかける。

 そこには無表情な桧山が立っていた。

 彼女は真っ直ぐに自分を見下ろしていた。

 話しかけてきた美貌の男は、これから別の大店おおだなから嫁を貰う予定の、とある大店の息子なのだとあとから聞かされた。

 咲夜は扇花屋まで、隆次に手を引かれて来たのだが。

 自分の手をつかむ隆次は、足許の霊が見えないせいか、ただ桧山だけを見つめていた。


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