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#4-②
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居心地の悪い沈黙の中、一陣の風が二人の間を駆け抜けていった。
分厚い本を半分のあたりで広げて顔にかぶせたまま、男はくくっと笑う。アーシェンの後ろに控えていたシュートが刀に手をかけ、アーシェンはそれを制する。くつろぐ男はそれさえも笑い、ようやっとその身体を起こした。
「どんな深窓の姫君が来るのかと思ったら…へぇ? まるで蛇だな」
「そういうあなたはタヌキのようですね」
予想外の返答に眉をあげた男はしかし、眠りを邪魔され不機嫌そうに後ろ髪を掻いた。
「…何の用だ」
「婚約者にその言い方はないのではなくて? まるで拗ねてる子供のようですわ」
「ふん、何が婚約者だ。さっき自分で婚約準備期間だって豪語してただろう」
「あら、聞いてましたの。ひどいお人、いらしていたならお声をかけてくれればよかったものを」
「なにも潜伏は姫の専売特許じゃないってことだけは伝えておこう」
ようやく男の目はアーシェンを捉えた。まるで平民の商人が着るようなくたびれたシャツに色あせたベスト、着古したスラックスといういでたちの男は到底小さくはないこの国の王子とは思えなかった。
「申し遅れましたわ。わたくし、クルート公爵家が長女アーシェンと申します」臣下の礼を尽くし、アーシェンは淑女らしく頭を下げた。「いずれはあなたの妻になる女ですわ。そのように見下ろされるのは気分のいいものではありませんね」
「勝手に頭を下げたのは君だ。まあいい、もう会うことはないだろう。せいぜい三か月、貴族のタヌキおやじどもにやられないようにな」
「そこには殿下も入ってらして?」
「さあな」
本をぱたんと閉じ、わきに抱えて男は去っていく。もう話すことはない、そうその背中は告げているようだった。
「シュート」
「はっ。消しますか」
「バカおっしゃい。噂はあてにならないというけれど、今度のはとことんそうね」
「と言いますと?」
男が横たわっていた場所に腰を下ろそうとしたアーシェンを止め、シュートは埃を払ってハンカチを敷く。差し出された扇子を手に取り広げて、アーシェンは続けた。「噂の手に負えない王子もパルテン王の言う問題児な王子も、もとからいなかったということよ」
「…なるほど。さしずめ、王位継承戦に敗れたというところでしょうか」
「それか、もとから王位に興味がなかったか…。どちらにせよ、ここの王侯貴族は彼を再起不能にしたかったのでしょうね。そして使えるなら帝国の恩恵にもあずかりたかった」
はあ、と大きなため息をつく。淑女らしからぬそれにアーシェンは周囲に目を光らせた。教育係のばあやがそこにいるはずもないが、身に染みついたそれからは簡単に逃れられない。近くに控えていたなら、きっと鞭のひとつは飛んでくるはずだ。アーシェン・クルートという完璧な淑女を作り上げたのはばあやに他ならないのだから。
「シュート、頼みがあるわ」
「何なりと」
「薬師を呼びなさい」
今から病気になるから。アーシェンは不敵な笑みを浮かべて、跪くシュートの耳元でこっそりとそう言った。
分厚い本を半分のあたりで広げて顔にかぶせたまま、男はくくっと笑う。アーシェンの後ろに控えていたシュートが刀に手をかけ、アーシェンはそれを制する。くつろぐ男はそれさえも笑い、ようやっとその身体を起こした。
「どんな深窓の姫君が来るのかと思ったら…へぇ? まるで蛇だな」
「そういうあなたはタヌキのようですね」
予想外の返答に眉をあげた男はしかし、眠りを邪魔され不機嫌そうに後ろ髪を掻いた。
「…何の用だ」
「婚約者にその言い方はないのではなくて? まるで拗ねてる子供のようですわ」
「ふん、何が婚約者だ。さっき自分で婚約準備期間だって豪語してただろう」
「あら、聞いてましたの。ひどいお人、いらしていたならお声をかけてくれればよかったものを」
「なにも潜伏は姫の専売特許じゃないってことだけは伝えておこう」
ようやく男の目はアーシェンを捉えた。まるで平民の商人が着るようなくたびれたシャツに色あせたベスト、着古したスラックスといういでたちの男は到底小さくはないこの国の王子とは思えなかった。
「申し遅れましたわ。わたくし、クルート公爵家が長女アーシェンと申します」臣下の礼を尽くし、アーシェンは淑女らしく頭を下げた。「いずれはあなたの妻になる女ですわ。そのように見下ろされるのは気分のいいものではありませんね」
「勝手に頭を下げたのは君だ。まあいい、もう会うことはないだろう。せいぜい三か月、貴族のタヌキおやじどもにやられないようにな」
「そこには殿下も入ってらして?」
「さあな」
本をぱたんと閉じ、わきに抱えて男は去っていく。もう話すことはない、そうその背中は告げているようだった。
「シュート」
「はっ。消しますか」
「バカおっしゃい。噂はあてにならないというけれど、今度のはとことんそうね」
「と言いますと?」
男が横たわっていた場所に腰を下ろそうとしたアーシェンを止め、シュートは埃を払ってハンカチを敷く。差し出された扇子を手に取り広げて、アーシェンは続けた。「噂の手に負えない王子もパルテン王の言う問題児な王子も、もとからいなかったということよ」
「…なるほど。さしずめ、王位継承戦に敗れたというところでしょうか」
「それか、もとから王位に興味がなかったか…。どちらにせよ、ここの王侯貴族は彼を再起不能にしたかったのでしょうね。そして使えるなら帝国の恩恵にもあずかりたかった」
はあ、と大きなため息をつく。淑女らしからぬそれにアーシェンは周囲に目を光らせた。教育係のばあやがそこにいるはずもないが、身に染みついたそれからは簡単に逃れられない。近くに控えていたなら、きっと鞭のひとつは飛んでくるはずだ。アーシェン・クルートという完璧な淑女を作り上げたのはばあやに他ならないのだから。
「シュート、頼みがあるわ」
「何なりと」
「薬師を呼びなさい」
今から病気になるから。アーシェンは不敵な笑みを浮かべて、跪くシュートの耳元でこっそりとそう言った。
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