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しおりを挟むすっかり会社に戻るのが遅くなった私だったけれど(何せ帰り着いたら時計が二時半になろうってとこだった……ヒィ~ン)、田中さんのカミナリは落ちなかった。もはやそれどころじゃなくなっていたのだ。
そろそろとオフィスのドアを開けて覗くと仕事命の田中さんが仕事そっちのけでスマホのネットニュースを見ていた。恐ろしい。天変地異の前触れかもしれない。
そおっと抜き足差し足で彼女の後ろを移動してカーディガンを自分の椅子の背にかけたタイミングで田中さんが顔を上げた。
「なんか、うちの会社やばいかもよ。敵対的TOB仕掛けられたって。これライブでしょ。中継だよね? 今、だよね。相手の社長がウチに乗り込んでくるって言ってる」
ティー……何だ、そりゃ?
田中さんの言ってることが理解できない私が目をシパシパさせていると、
「行くわよ」
田中さんが、よっこらしょと立ち上がった。
「え? あ? でも仕事が……」
「〈彼を知り己を知れば百戦危うからず〉っていうでしょ……って、伊豆川には関係ないか」
「自分と相手の長所と短所を知っておけばピンチにならないってことですよね」
いつの間にか私の隣に石井さんが立っている。素早く前髪と化粧を確認してパチンと閉めたコンパクトをスカートのポケットにしまうって……石井さん、いつもと違くない?
とにかく、訳がわからないまま二人について行った。普段は立ち上がるのも大層にして云々言ってるはずの田中さんの動きが早い。今まで私が見ていたのはなんだったんだろう。
着いたのは会社のエントランス。
テレビカメラの列と、近所に住んでいる人なのかよくわからない野次馬が会社の外に人だかりをつくっていた。
田中さんの口ぶりでは、うちの会社が大ピンチって感じだったけど、世間の人にとっても大ごとなの? まあ、居並ぶテレビカメラにはギョッとするけどさ。平日の昼間なのに、世間一般の人には社名さえよく知られていないと思うウチの会社前に人だかりができている。よっぽど皆やることがないのかなー。そう思いつあたりを見渡せば、ウチの社員も暇人が多いのか(そういう私も他人のことは言えない)エントランスの太い柱の影に隠れるように立ってる人たちが結構ちらほら。心なしか女性社員の方が多い。
私がキョロキョロ周りばかり気にしているうちに、黒塗りの立派な車が玄関に乗りつけた。
「買収しかけてきた会社の社長、かなりのやり手って週刊誌で見ましたよ。しかも今は独り身だって……」
興奮した石井さんが早口でしゃべる。私は(へえー)としか思えない。最近の週刊誌は世界の経営者のこととか記事にしてるんだ……週刊誌っていえば美容院だけど、お金がもったいない私はここのとこ氷雨先輩に髪の毛切ってもらってばかりで(私が頼んだんじゃなくてあっちから言ってきたんだからねっ)……ピンと来ない。
とにかく、みんな狙うのはお金を余るくらい持っている独身男性ってことだね。そう考えれば頷けるかも。うん。
野次馬に女性が多い理由はわかった。別にみんな、ちょっと視界の端に写ったくらいでそのやり手社長と付き合えるとか思ってるわけじゃないだろうけど。ワンチャン(one chance)狙いってとこなのかな。ああ、でも、流石に私だってそこまでは夢見ない……恥ずかしくて夢見ない。多分、夢見ない……でも興味は出てきた。
車から颯爽と降りてきたのはシルバーグレイのもじゃもじゃ頭、一重まぶたに眼光がやけに鋭いオジ様だった。
見た目、ちょい若く見積もって、五十前半ってとこかな。
——えーっ!? うちの父さんと歳、同じくらいじゃん。
恋愛対象にはキビシくない? くっそ。
……って、私ったら、何か期待してるし! ちょっと前に千賀氏のこと好きって言ってたやん、自分~っ! と、心の中でアサハカな自分にツッコミ入れていると、
「M&Aを繰り返して、事業吸収で利益は毎年拡大。今や世界の半導体の半分は彼が創業した東邦精密機器が作っているってハナシよ」
って、田中さんが説明してくれた。胸を押さえてもじゃオジ様にうっとり顔の石井さんよりはかなり冷静だ。うっかり浮き足立っていた私なんかよりよっぽど冷静だ。
「……わざわざ社長自ら宣戦布告しにきたんでしょうか? 買収しちゃうぞって」
「乗り込んできたのはすでにそれなりの数、株を手に入れているからでしょ。あーあ。ウチ、乗っ取られちゃうのね……社長が変わって、人員整理が始まるのよ……」
そう言った田中さん、神妙に聞いてた私の顔をのぞきこみ、大きくため息をついた。
「まさか……敵対的TOBって言葉から説明が必要なわけ?」
とっさに石井さんを見た。キョトンとしている彼女と目が合う。即座に彼女が首を横に振ったので私はホッとした。田中さんの言ってることサッパリなのは私だけじゃないらしい。
「TOBというのは、株式の公開買い付けのことを言うのよ。ウチを乗っ取るために株主総会でトップのすげ替えを認めさせる必要あるからね」
(社長が変わることが私たちに関係なんかあるのかなー)仕事もらってお給料もらえるなら、会社のトップなんて誰でもいいじゃん、と私なんかは思う。
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