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そして壁際に積まれた段ボールの中から救急箱を取り出して戻ってくると、
「作業中、ちょっとした怪我をしてしまうこともあるので、救急箱を常備しているんですよ」と私の小指に、絆創膏を巻いてくれた。
「ああ、血豆になってる。念の為、病院に行った方が良いのでは」
と、ひざまずき怪我の様子を確認してくれた千賀氏が見上げてくる。ドキドキが止まらない。だって、処置のためとはいえ、異性の前で素足をさらすなんて初めてなんだ、私。……恥ずかしいよ……意識してしまうと、顔にこれまで感じたことがないくらい熱が集中してきたのを自覚して……もぅ、鼻血出ちゃうかと思ったんだ。
「どうです? 痛くないですか」
と聞かれて首を横にふる。
「そんなことより、千賀さん、会社辞めたんじゃ……」
私がそう聞いたのは、千賀氏が辞めるのをやめてくれたのかなって期待したかったから。
この部屋の様子を見たら、その期待はすっかりしぼんでいたけどさ。千賀氏は私から目をそらすと悲しげに目を伏せた。
「しばらく残務整理して、今月いっぱいで退職します。ここにいられるのも、あと、二週間ほどでしょうか」
「それは……有名になるのが嫌だからですか? 千賀さん、今、すごい研究してるって」
私がそういうと、千賀氏は「うわ…」と両手で顔を覆ってしまった。耳が赤くなっている。さっきまで恥ずかしがってたのは私の方なのにってちょっぴりおかしくなってしまう。
「そう聞かれると、僕が自惚れているみたいでアレですけど。そうです。有名になるかどうかは分かりませんが。前に伊豆川さんが郵便局に出してくれた資料のこと覚えていますか」
「あ? はい……」
「それを貸してくれたイタリアの友人のこと、話してもいいですか」
と千賀氏が顔を上げた。戸惑いながら、
「どうぞ?」
と私がうなずくと、彼は壁にかけてあった白衣を私の膝にかけてくれた。
これ以上生足を晒さずに済んでほっとした。千賀氏のこと気が利かない男って思ってたけど、こっそり心の中で撤回する。
「彼は若干十四歳でイタリア科学アカデミーに入った逸材なのですがね。研究内容が当時にしては斬新すぎた。理解されないままアカデミーを追放されてしまった」
千賀氏は立てかけてあったパイプ椅子を引っ張ってきて私の正面に座ると、
「彼が窮地に陥っているとき、僕はアメリカにいました。距離は言い訳にしかなりません。彼を助けなかった。守ろうとしなかった。自分に火の粉がかからないように、彼の友人であることを隠した。卑怯者ですよ、僕は」
と言った。
「でも、今でも友達なんですよね?」
資料の貸し借りができるってことは友人関係が切れてるわけじゃないんだって思ったんだ。
「それは、彼が僕の裏切りを知らないだけです……いざとなると頼るんだから、僕は結構な厚顔無恥なんです」
自重気味に笑う千賀氏に私はなんて言葉をかけたらいいかわからなかった。
「転職先も大手ですが、他にも優秀な研究者を数多く抱えていますから。僕なんかが注目を浴びる心配をしなくていい」
「そんなふうに言わないでください」
と私が言うと、伊豆川さんは優しいですね、と頭を撫でられた。
ちっとも伝わっていない、と私はむくれた。優しいんじゃなくて私は腹を立てていたんだ。千賀氏の繊細な純粋さが彼自身を必要以上に罰している気がして。そう言う私のこと宥めるように頭をポンポンってした千賀氏が、
「リチャード氏は僕を名指しして、ウチに買収を仕掛けてきたそうです」
と言ったので、私はびっくりして目を見開いてしまった。
ウソ!? 千賀氏が欲しいばっかりに、あのモジャ髪社長はウチの会社を買収しようとしてるの?
ウチを買収するのにどれくらいのお金が必要なのかさっぱりわからないけど、きっとすごい大金だと思う! それに見合うだけの価値が千賀氏にはあるってことで……。
(やっぱ、千賀氏凄い人じゃん!)と力を込めて見つめると、千賀氏は困ったように視線をさまよわせた。
「……僕が辞めてしまえば、この会社を守れるかもしれませんし」
ぼそりと言われたその言葉に(か……カッコ良すぎる……)私は胸を打たれてしまった。だって、社長派だ、専務派だってギスギスしてる社内の空気にうんざりしてたんだもん。そういう時に、会社のために自分を犠牲にしようっていう千賀氏がやけにまぶしくて……うん。まぶしくて仕方なくって。
これほど千賀氏が肚を決めているんだから、せめて、彼の転職がうまくいくように手助けしようって思わずにはいられなかった。
……と、いうことで。
その日私は帰ったふりして研究棟にいつづけて、人気がなくなるのを待ったんだ。多分、研究データは千賀氏のパソコンの中にあるはず。私はやる気満々だった。
昼間来た千賀氏の部屋のドアノブに手を伸ばしたその時、ドアの向こうからガタッと音がした。そして、カツカツって、誰か歩き回っているような……。そしてその音がだんだんこちらに近づいてくる。
全身の毛がゾワ、と逆立つのを感じた。ここには、私しかいないはずなのに。
(いやー! こわい怖い。ここって怪談話とかあったけ?)
慌ててもと来た廊下の角に隠れた私。もう膝から下が震えて立っていられなかった。自分のこと抱きしめて、その場にしゃがんだので精一杯だった……。
「作業中、ちょっとした怪我をしてしまうこともあるので、救急箱を常備しているんですよ」と私の小指に、絆創膏を巻いてくれた。
「ああ、血豆になってる。念の為、病院に行った方が良いのでは」
と、ひざまずき怪我の様子を確認してくれた千賀氏が見上げてくる。ドキドキが止まらない。だって、処置のためとはいえ、異性の前で素足をさらすなんて初めてなんだ、私。……恥ずかしいよ……意識してしまうと、顔にこれまで感じたことがないくらい熱が集中してきたのを自覚して……もぅ、鼻血出ちゃうかと思ったんだ。
「どうです? 痛くないですか」
と聞かれて首を横にふる。
「そんなことより、千賀さん、会社辞めたんじゃ……」
私がそう聞いたのは、千賀氏が辞めるのをやめてくれたのかなって期待したかったから。
この部屋の様子を見たら、その期待はすっかりしぼんでいたけどさ。千賀氏は私から目をそらすと悲しげに目を伏せた。
「しばらく残務整理して、今月いっぱいで退職します。ここにいられるのも、あと、二週間ほどでしょうか」
「それは……有名になるのが嫌だからですか? 千賀さん、今、すごい研究してるって」
私がそういうと、千賀氏は「うわ…」と両手で顔を覆ってしまった。耳が赤くなっている。さっきまで恥ずかしがってたのは私の方なのにってちょっぴりおかしくなってしまう。
「そう聞かれると、僕が自惚れているみたいでアレですけど。そうです。有名になるかどうかは分かりませんが。前に伊豆川さんが郵便局に出してくれた資料のこと覚えていますか」
「あ? はい……」
「それを貸してくれたイタリアの友人のこと、話してもいいですか」
と千賀氏が顔を上げた。戸惑いながら、
「どうぞ?」
と私がうなずくと、彼は壁にかけてあった白衣を私の膝にかけてくれた。
これ以上生足を晒さずに済んでほっとした。千賀氏のこと気が利かない男って思ってたけど、こっそり心の中で撤回する。
「彼は若干十四歳でイタリア科学アカデミーに入った逸材なのですがね。研究内容が当時にしては斬新すぎた。理解されないままアカデミーを追放されてしまった」
千賀氏は立てかけてあったパイプ椅子を引っ張ってきて私の正面に座ると、
「彼が窮地に陥っているとき、僕はアメリカにいました。距離は言い訳にしかなりません。彼を助けなかった。守ろうとしなかった。自分に火の粉がかからないように、彼の友人であることを隠した。卑怯者ですよ、僕は」
と言った。
「でも、今でも友達なんですよね?」
資料の貸し借りができるってことは友人関係が切れてるわけじゃないんだって思ったんだ。
「それは、彼が僕の裏切りを知らないだけです……いざとなると頼るんだから、僕は結構な厚顔無恥なんです」
自重気味に笑う千賀氏に私はなんて言葉をかけたらいいかわからなかった。
「転職先も大手ですが、他にも優秀な研究者を数多く抱えていますから。僕なんかが注目を浴びる心配をしなくていい」
「そんなふうに言わないでください」
と私が言うと、伊豆川さんは優しいですね、と頭を撫でられた。
ちっとも伝わっていない、と私はむくれた。優しいんじゃなくて私は腹を立てていたんだ。千賀氏の繊細な純粋さが彼自身を必要以上に罰している気がして。そう言う私のこと宥めるように頭をポンポンってした千賀氏が、
「リチャード氏は僕を名指しして、ウチに買収を仕掛けてきたそうです」
と言ったので、私はびっくりして目を見開いてしまった。
ウソ!? 千賀氏が欲しいばっかりに、あのモジャ髪社長はウチの会社を買収しようとしてるの?
ウチを買収するのにどれくらいのお金が必要なのかさっぱりわからないけど、きっとすごい大金だと思う! それに見合うだけの価値が千賀氏にはあるってことで……。
(やっぱ、千賀氏凄い人じゃん!)と力を込めて見つめると、千賀氏は困ったように視線をさまよわせた。
「……僕が辞めてしまえば、この会社を守れるかもしれませんし」
ぼそりと言われたその言葉に(か……カッコ良すぎる……)私は胸を打たれてしまった。だって、社長派だ、専務派だってギスギスしてる社内の空気にうんざりしてたんだもん。そういう時に、会社のために自分を犠牲にしようっていう千賀氏がやけにまぶしくて……うん。まぶしくて仕方なくって。
これほど千賀氏が肚を決めているんだから、せめて、彼の転職がうまくいくように手助けしようって思わずにはいられなかった。
……と、いうことで。
その日私は帰ったふりして研究棟にいつづけて、人気がなくなるのを待ったんだ。多分、研究データは千賀氏のパソコンの中にあるはず。私はやる気満々だった。
昼間来た千賀氏の部屋のドアノブに手を伸ばしたその時、ドアの向こうからガタッと音がした。そして、カツカツって、誰か歩き回っているような……。そしてその音がだんだんこちらに近づいてくる。
全身の毛がゾワ、と逆立つのを感じた。ここには、私しかいないはずなのに。
(いやー! こわい怖い。ここって怪談話とかあったけ?)
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