36 / 75
10-2
しおりを挟む
そして壁際に積まれた段ボールの中から救急箱を取り出して戻ってくると、
「作業中、ちょっとした怪我をしてしまうこともあるので、救急箱を常備しているんですよ」と私の小指に、絆創膏を巻いてくれた。
「ああ、血豆になってる。念の為、病院に行った方が良いのでは」
と、ひざまずき怪我の様子を確認してくれた千賀氏が見上げてくる。ドキドキが止まらない。だって、処置のためとはいえ、異性の前で素足をさらすなんて初めてなんだ、私。……恥ずかしいよ……意識してしまうと、顔にこれまで感じたことがないくらい熱が集中してきたのを自覚して……もぅ、鼻血出ちゃうかと思ったんだ。
「どうです? 痛くないですか」
と聞かれて首を横にふる。
「そんなことより、千賀さん、会社辞めたんじゃ……」
私がそう聞いたのは、千賀氏が辞めるのをやめてくれたのかなって期待したかったから。
この部屋の様子を見たら、その期待はすっかりしぼんでいたけどさ。千賀氏は私から目をそらすと悲しげに目を伏せた。
「しばらく残務整理して、今月いっぱいで退職します。ここにいられるのも、あと、二週間ほどでしょうか」
「それは……有名になるのが嫌だからですか? 千賀さん、今、すごい研究してるって」
私がそういうと、千賀氏は「うわ…」と両手で顔を覆ってしまった。耳が赤くなっている。さっきまで恥ずかしがってたのは私の方なのにってちょっぴりおかしくなってしまう。
「そう聞かれると、僕が自惚れているみたいでアレですけど。そうです。有名になるかどうかは分かりませんが。前に伊豆川さんが郵便局に出してくれた資料のこと覚えていますか」
「あ? はい……」
「それを貸してくれたイタリアの友人のこと、話してもいいですか」
と千賀氏が顔を上げた。戸惑いながら、
「どうぞ?」
と私がうなずくと、彼は壁にかけてあった白衣を私の膝にかけてくれた。
これ以上生足を晒さずに済んでほっとした。千賀氏のこと気が利かない男って思ってたけど、こっそり心の中で撤回する。
「彼は若干十四歳でイタリア科学アカデミーに入った逸材なのですがね。研究内容が当時にしては斬新すぎた。理解されないままアカデミーを追放されてしまった」
千賀氏は立てかけてあったパイプ椅子を引っ張ってきて私の正面に座ると、
「彼が窮地に陥っているとき、僕はアメリカにいました。距離は言い訳にしかなりません。彼を助けなかった。守ろうとしなかった。自分に火の粉がかからないように、彼の友人であることを隠した。卑怯者ですよ、僕は」
と言った。
「でも、今でも友達なんですよね?」
資料の貸し借りができるってことは友人関係が切れてるわけじゃないんだって思ったんだ。
「それは、彼が僕の裏切りを知らないだけです……いざとなると頼るんだから、僕は結構な厚顔無恥なんです」
自重気味に笑う千賀氏に私はなんて言葉をかけたらいいかわからなかった。
「転職先も大手ですが、他にも優秀な研究者を数多く抱えていますから。僕なんかが注目を浴びる心配をしなくていい」
「そんなふうに言わないでください」
と私が言うと、伊豆川さんは優しいですね、と頭を撫でられた。
ちっとも伝わっていない、と私はむくれた。優しいんじゃなくて私は腹を立てていたんだ。千賀氏の繊細な純粋さが彼自身を必要以上に罰している気がして。そう言う私のこと宥めるように頭をポンポンってした千賀氏が、
「リチャード氏は僕を名指しして、ウチに買収を仕掛けてきたそうです」
と言ったので、私はびっくりして目を見開いてしまった。
ウソ!? 千賀氏が欲しいばっかりに、あのモジャ髪社長はウチの会社を買収しようとしてるの?
ウチを買収するのにどれくらいのお金が必要なのかさっぱりわからないけど、きっとすごい大金だと思う! それに見合うだけの価値が千賀氏にはあるってことで……。
(やっぱ、千賀氏凄い人じゃん!)と力を込めて見つめると、千賀氏は困ったように視線をさまよわせた。
「……僕が辞めてしまえば、この会社を守れるかもしれませんし」
ぼそりと言われたその言葉に(か……カッコ良すぎる……)私は胸を打たれてしまった。だって、社長派だ、専務派だってギスギスしてる社内の空気にうんざりしてたんだもん。そういう時に、会社のために自分を犠牲にしようっていう千賀氏がやけにまぶしくて……うん。まぶしくて仕方なくって。
これほど千賀氏が肚を決めているんだから、せめて、彼の転職がうまくいくように手助けしようって思わずにはいられなかった。
……と、いうことで。
その日私は帰ったふりして研究棟にいつづけて、人気がなくなるのを待ったんだ。多分、研究データは千賀氏のパソコンの中にあるはず。私はやる気満々だった。
昼間来た千賀氏の部屋のドアノブに手を伸ばしたその時、ドアの向こうからガタッと音がした。そして、カツカツって、誰か歩き回っているような……。そしてその音がだんだんこちらに近づいてくる。
全身の毛がゾワ、と逆立つのを感じた。ここには、私しかいないはずなのに。
(いやー! こわい怖い。ここって怪談話とかあったけ?)
慌ててもと来た廊下の角に隠れた私。もう膝から下が震えて立っていられなかった。自分のこと抱きしめて、その場にしゃがんだので精一杯だった……。
「作業中、ちょっとした怪我をしてしまうこともあるので、救急箱を常備しているんですよ」と私の小指に、絆創膏を巻いてくれた。
「ああ、血豆になってる。念の為、病院に行った方が良いのでは」
と、ひざまずき怪我の様子を確認してくれた千賀氏が見上げてくる。ドキドキが止まらない。だって、処置のためとはいえ、異性の前で素足をさらすなんて初めてなんだ、私。……恥ずかしいよ……意識してしまうと、顔にこれまで感じたことがないくらい熱が集中してきたのを自覚して……もぅ、鼻血出ちゃうかと思ったんだ。
「どうです? 痛くないですか」
と聞かれて首を横にふる。
「そんなことより、千賀さん、会社辞めたんじゃ……」
私がそう聞いたのは、千賀氏が辞めるのをやめてくれたのかなって期待したかったから。
この部屋の様子を見たら、その期待はすっかりしぼんでいたけどさ。千賀氏は私から目をそらすと悲しげに目を伏せた。
「しばらく残務整理して、今月いっぱいで退職します。ここにいられるのも、あと、二週間ほどでしょうか」
「それは……有名になるのが嫌だからですか? 千賀さん、今、すごい研究してるって」
私がそういうと、千賀氏は「うわ…」と両手で顔を覆ってしまった。耳が赤くなっている。さっきまで恥ずかしがってたのは私の方なのにってちょっぴりおかしくなってしまう。
「そう聞かれると、僕が自惚れているみたいでアレですけど。そうです。有名になるかどうかは分かりませんが。前に伊豆川さんが郵便局に出してくれた資料のこと覚えていますか」
「あ? はい……」
「それを貸してくれたイタリアの友人のこと、話してもいいですか」
と千賀氏が顔を上げた。戸惑いながら、
「どうぞ?」
と私がうなずくと、彼は壁にかけてあった白衣を私の膝にかけてくれた。
これ以上生足を晒さずに済んでほっとした。千賀氏のこと気が利かない男って思ってたけど、こっそり心の中で撤回する。
「彼は若干十四歳でイタリア科学アカデミーに入った逸材なのですがね。研究内容が当時にしては斬新すぎた。理解されないままアカデミーを追放されてしまった」
千賀氏は立てかけてあったパイプ椅子を引っ張ってきて私の正面に座ると、
「彼が窮地に陥っているとき、僕はアメリカにいました。距離は言い訳にしかなりません。彼を助けなかった。守ろうとしなかった。自分に火の粉がかからないように、彼の友人であることを隠した。卑怯者ですよ、僕は」
と言った。
「でも、今でも友達なんですよね?」
資料の貸し借りができるってことは友人関係が切れてるわけじゃないんだって思ったんだ。
「それは、彼が僕の裏切りを知らないだけです……いざとなると頼るんだから、僕は結構な厚顔無恥なんです」
自重気味に笑う千賀氏に私はなんて言葉をかけたらいいかわからなかった。
「転職先も大手ですが、他にも優秀な研究者を数多く抱えていますから。僕なんかが注目を浴びる心配をしなくていい」
「そんなふうに言わないでください」
と私が言うと、伊豆川さんは優しいですね、と頭を撫でられた。
ちっとも伝わっていない、と私はむくれた。優しいんじゃなくて私は腹を立てていたんだ。千賀氏の繊細な純粋さが彼自身を必要以上に罰している気がして。そう言う私のこと宥めるように頭をポンポンってした千賀氏が、
「リチャード氏は僕を名指しして、ウチに買収を仕掛けてきたそうです」
と言ったので、私はびっくりして目を見開いてしまった。
ウソ!? 千賀氏が欲しいばっかりに、あのモジャ髪社長はウチの会社を買収しようとしてるの?
ウチを買収するのにどれくらいのお金が必要なのかさっぱりわからないけど、きっとすごい大金だと思う! それに見合うだけの価値が千賀氏にはあるってことで……。
(やっぱ、千賀氏凄い人じゃん!)と力を込めて見つめると、千賀氏は困ったように視線をさまよわせた。
「……僕が辞めてしまえば、この会社を守れるかもしれませんし」
ぼそりと言われたその言葉に(か……カッコ良すぎる……)私は胸を打たれてしまった。だって、社長派だ、専務派だってギスギスしてる社内の空気にうんざりしてたんだもん。そういう時に、会社のために自分を犠牲にしようっていう千賀氏がやけにまぶしくて……うん。まぶしくて仕方なくって。
これほど千賀氏が肚を決めているんだから、せめて、彼の転職がうまくいくように手助けしようって思わずにはいられなかった。
……と、いうことで。
その日私は帰ったふりして研究棟にいつづけて、人気がなくなるのを待ったんだ。多分、研究データは千賀氏のパソコンの中にあるはず。私はやる気満々だった。
昼間来た千賀氏の部屋のドアノブに手を伸ばしたその時、ドアの向こうからガタッと音がした。そして、カツカツって、誰か歩き回っているような……。そしてその音がだんだんこちらに近づいてくる。
全身の毛がゾワ、と逆立つのを感じた。ここには、私しかいないはずなのに。
(いやー! こわい怖い。ここって怪談話とかあったけ?)
慌ててもと来た廊下の角に隠れた私。もう膝から下が震えて立っていられなかった。自分のこと抱きしめて、その場にしゃがんだので精一杯だった……。
0
あなたにおすすめの小説
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜
春日あざみ
キャラ文芸
<第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました!>
宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。
しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——?
「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜
放浪人
恋愛
「処刑されるなんて真っ平ごめんです!」 無実の罪で投獄された悪役令嬢レティシア(中身は元社畜のアラサー日本人)は、処刑前夜、お腹の子供と共に脱獄し、辺境の田舎村へ逃亡した。 それから五年。薬師として穏やかに暮らしていた彼女のもとに、かつて自分を冷遇し、処刑を命じた夫――「氷の公爵」アレクセイが現れる。 殺される!と震えるレティシアだったが、再会した彼は地面に頭を擦り付け、まさかの溺愛キャラに豹変していて!?
「愛しているレティシア! 二度と離さない!」 「(顔が怖いです公爵様……!)」
不器用すぎて顔が怖い旦那様の暴走する溺愛。 そして、二人の息子であるシオン(1歳)は、実は前世で魔王を倒した「英雄」の生まれ変わりだった! 「パパとママは僕が守る(物理)」 最強の赤ちゃんが裏で暗躍し、聖女(自称)の陰謀も、帝国の侵略も、古代兵器も、ガラガラ一振りで粉砕していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる