彼と彼女の十月十日 ~冷徹社長は初恋に溺れる~

幸村真桜

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一夜のあやまち

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 混乱しながら視線を揺らしていた秋良は、家にある収納の扉がすべて開いていることに気がついた。先程の違和感の正体は、どうやらこれだったようだ。

 嫌な予感がして、ぎゅっと服の襟元を握りながら寝室に足を踏み入れる。クローゼットを確認すると、浩太の荷物がほとんど消えていた。

 奥にあるチェストの引き出しも開けられているのを見て、さっと血の気が引いていくのを感じる。

 呼吸が浅くなり、身体が小刻みに震える。それでも確認しなければと、秋良は冷たくなった手をチェストに伸ばした。

「……嘘でしょう?」

 中にあった、結婚資金を貯めていた通帳と印鑑がなくなっている。

 もしかしたらとは思ったが、そんなことをする人だと信じたくはなかった。

 今日の朝だって、なにも変わった様子はなかった。それなのに、どうしてこんなことになったのだろう。いくら考えても、答えが見つかるはずはなかった。

「どうして……?」

小さな彼女の呟きが、電気さえ点けていない薄暗い部屋に虚しく消えていった。





*    *    *




 はあっと吐き出した白い息が、夜の闇に吸い込まれていく。それを見ながら、秋良はお気に入りのグレーのチェスターコートの前をかき合わせた。

 今日は遅番だった。午後も患者が多かったせいか、片付けを終えてクリニックを出る頃には八時を過ぎてしまっていた。感染症が流行るこの時期は仕方がない。

 暦の上では立春を迎えても、まだまだ春には程遠い気候の二月。今日は、一段と冷え込みが強いようだ。

 厳しい寒さにぎゅっと身を縮ませながら、最寄りの駅に向かって歩く。まわりにやけにカップルが多いことに秋良は首を傾げた。そして今日がバレンタインであることに気がつく。

 幸せそうな恋人たちの様子を見て、虚しさが込み上げてくる。なんだか世界で一番自分が不幸な気がして、ため息が出た。
 
 五分ほど歩いたところで、ふとある看板が目に留まり思わずその前で足を止めた。

 今まで何度も同じ道を通っていたのに、まったく気づくことのなかったその看板は、どうやら小さなバーのもののようだ。

 普段ならば興味など持たない。だからこそ今まで目に入らなかったのだろう。まして、ひとりで足を踏み入れようなんてことは思いもしない場所だ。

 だが、今日の秋良は普段とは少し違っていた。

 ひとりの部屋に帰りたくない。普段は外でお酒を飲むことなどしない。だけれど、今日はどうしてもまっすぐ家に帰りたくなかった。

 現実から目を背けるためにアルコールの力を借りたい。こんなときくらい、冒険したってかまわないだろう。

 いつもと違う自分の行動に、心の中でそんな言い訳をする。ふうっと息をひとつ吐いて、秋良はお店の入口に向かって歩き始めた。

 それが、彼女の人生を変える大きな一歩になるとは、このときは知る由もなかった。

「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」

 恐る恐るバーに入ると、カウンターに立っていたバーテンダーにそう声をかけられる。柔和な笑みを向けられて、秋良は慌ててコクコクと頷いた。

「は、はい……。あの、大丈夫ですか?」

「もちろんです。こちらのお席にどうぞ」

 にこやかな笑顔を浮かべたバーテンダーに促されて、緊張でガチガチになりながら指定されたカウンター席に座る。

「お飲み物は、いかがなさいますか?」

「あ……すみません、あまりお酒に詳しくなくて。甘めで、アルコールが弱めなカクテルをお願いしてもいいですか?」

「かしこまりました」

 無事に注文ができたことにホッとしする。少しの間ぼんやりとお店の中を見つめていたが、ふと自分がコートも脱いでいないことに気がついた。

 どれだけ緊張していたのだと内心で苦笑いしながらコートを脱ぐと、見計らったようにカクテルと簡単なおつまみがテーブルに置かれた。

「ベリーニという名前のカクテルです。スパークリングワインと桃合わせたものでフルーツカクテルの女王と呼ばれています。甘さの中にも爽やかさがあり、度数も低いので当店でも女性に人気があります」

「わあ、綺麗……。ありがとうございます」

「なにかお困りのことがありましたら、遠慮なくお申し付けください。どうぞ、ごゆっくり」

 バーテンダーが奥に移動していくのを見送って、ワイングラスに入ったカクテルをしばし見つめる。グラスを持ち一口飲むと桃の芳醇な香りが広がっていく。。

 甘く飲みやすい味にホッと息をつき、少し気持ちが落ち着いてきた秋良は、ぐるりとお店の中を見回した。

 薄暗い店内は、あまり広くはないようだった。カウンター席の他に、ボックス席がいくつかあるのみ。

 今日は水曜日だからか、お客も少なくジャズが流れる店内は小さな話し声が聞こえる程度で、思っていたよりずっと静かだ。

 少し緊張も薄れ、お酒を口に運びながらおつまみを摘む。チーズとハーブの混ざったクリームチーズが載ったクラッカーは、とても好みの味だった。

 初めてのバー体験が成功したことに、秋良は満足した。年齢から見るとそんなことを思うのはおかしいのだが、“大人の女性”に一歩近づけた気がする。

 カクテルの味を楽しみ、聞き覚えのあるジャズの独特なリズムに聞き入る。それから棚に並んでいる酒瓶の名前を読んでみる。

 初めての非日常的な空間を自分なりに楽しんでいた秋良だったが、ふいにどこかの席から聞こえたスマホの着信音に現実に引き戻された。

 これからどうすればいいのだろう。浩太と付き合う前に貯めていた貯金はいくらかあるが、新しい就職先も見つけなければいけない。

 今住んでいるアパートは結婚を機に引き払う予定ですでに手続きを済ませてしまっている。新しい住まいも探さなければ。ああ、そうだ。浩太と住む予定だった引っ越し先にキャンセルの連絡も必要だ。

 やらなければいけないことが多すぎて、頭がパンクしそうだ。中身の少なくなったグラスに映る自分の顔は、ひどく情けなかった。

 もう帰ろう。こんなところで現実から目を背けていたってなにも変わらない。先程までの高揚した気持ちが嘘のように暗く沈んでいく。
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