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ナイトコードオメガ【残響の封印】 第四章 北アイルランド編
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カナダ、イエローナイフで消息を絶ったルクジムとスーマ。
そして命を落としたセシル。
物語は再び動き出す。
沈黙の絶望 ― そして希望
モノクロの映像が、静かな水面に落ちた雫のように浮かび、消えていく。
波紋は幾重にも重なり、やがて空間そのものへと溶けていった。
それは記憶の残骸か。
あるいは、失われた過去が見せる儚いノスタルジーの幻影か。
何も存在しないはずの虚空に、確かに“感触”だけが残っていた。
――ルクジムは、夢を見ていた。
現実の重圧から逃れるため、無意識が選び取った心の避難所。
万華鏡の中で砕け散った破片が、ひとつ、またひとつと組み上がっていく。
深い霧に閉ざされた山中。
霞が視界を奪い、空気は湿り気を帯びた霊的な気配を漂わせていた。
水蒸気のような存在が、音もなく彷徨っている。
岩盤を割り、根を張る木々は神殿の柱のように静謐で、
この空間そのものが、現実から切り離された異界であることを物語っていた。
遠くで、鳥の声が響く。
「ホー……ホケキョ……」
聞き覚えのない、不自然なほど澄んだ鳴き声。
それなのに、ルクジムの胸には理由のわからない懐かしさが芽生えた。
――ここは、どこだ……?
声にしようとした問いは、音になる前に霧へと溶ける。
代わりに耳へ流れ込んできたのは、奇妙なお囃子だった。
「チャンカ、チャンカ、チャンカ……」
「ピーヒャラ、ピーヒャラ……」
笛の音が重なり、空間はいつしか東洋の祭りを思わせる異様な高揚を帯び始める。
その瞬間――
虚空に、文字が浮かび上がった。
blade Mountain(剣山)
名を認識した途端、ルクジムの意識が激しく揺れた。
次の瞬間、世界は鏡が砕けるように音を立てて崩壊する。
万華鏡の破片が闇へと落ち、その一枚が“記憶”へと変貌した。
闇の奥から、低く、粘つくような声が響く。
「混ざり者……貴様が本部を騒がせている者か……」
「我は、バレン・アドニスモ伯爵……」
声は、さらに続く。
「久しいな、セシル。
地上の我が下部――魔族人形(ハイドール)を、討ってきたか……」
息が詰まる。
――これは……地下屋敷の……。
胸の奥で、重い言葉が反響する。
「……こいつも、犠牲者だったんだな……」
再び、闇が囁いた。
「吸血鬼に“死”という概念は在りません……」
「八十八日後、蛇の姿で再び地上に現れ……時をかけ、元の姿へ還るでしょう……」
それは、救済か。
それとも、永遠に続く呪いか。
希望と絶望の境界が、曖昧に滲む。
その時――
「ルクジム……!」
「ルクジム!!」
遠くから呼ぶ声が、彼を現実へと引き戻していった。
エリシアの泉 ― 真実の先
薄闇の中で、ルクジムは目を開けた。
耳元で、誰かが叫んでいる。
「おい、ルクジム!」
「ルクジム!!」
静寂を破る声に、意識が一気に現実へと引き戻される。
「……ここは……?」
震えの残る声。
「はっ!」
跳ね起きると同時に、叫びが漏れた。
「セシルは!?
セシルは無事なのか!!」
洞窟に反響する声。
「落ち着け。」
ジョーの低く穏やかな声が、荒れた心を包み込む。
「ジョー……」
安堵は一瞬だった。
セシルの姿が見えない。
「もう大丈夫みてーだな!」
スーマの声が続く。
青白い光を反射する湿った岩肌。
エリシアの泉は、何事もなかったかのように静かだった。
「ここは……?」
「エリシアの泉だ。あの洞窟の奥だ。」
スーマが肩をすくめる。
「セシルが転送したんだ。ジョーのいる場所にな。」
苦笑が滲む。
「オッサン。最後までペテンを利かせやがって……」
呆れと敬意、そして喪失の痛み。
「あの時“出来るだけ遠くへ!”って、わざとカリースに聞こえるように言いやがった。」
その意味を理解したスーマの声が沈む。
「ここに戻るなんて、オルド・アークも想定外だろうな。」
沈黙。
「……セシルは、どうなった?」
問いは、震えを伴っていた。
スーマが、静かに告げる。
「もう居ない。体を構成していた元素が……消えた。」
言葉は、刃だった。
「……そんな……」
胸が潰れる。
――命を賭して、守られた。
「封印は……?聖者の刻は……?」
「問題ねぇ。俺様のQRコードで、結界ごと覆ってある。預言者が居ても、まず確認できねぇ。」
安堵の息が、静かに零れ落ちる。
「……三日も寝てたんだぞ、ワン公。」
洞窟の静けさの中、
セシルの不在だけが、確かな現実として刻まれていた。
オルド・アーク ― 契約者部隊 パクト・ユニット本部
本部は、緊張に満ちていた。
低く唸る振動が、床と壁を伝う。
大型スクリーンには赤い警告が点滅し、オペレーターの声と電子音が交錯する。
「イエローナイフ空港郊外の事故はテロとして処理しろ!政府と報道に即時通達!」
「処理班を投入!現場の制圧を最優先だ!」
指揮官が歯噛みする。
「……カリース様め。余計な騒ぎを。」
「評議会への報告は?」
「進行中です!」
補佐官の声に、焦燥が滲む。
「カリース様の状況は?」
「消耗過多のため、〈黒い棺〉にて回復期に入られています。」
漆黒の棺(コフィン)。
再生を待つ沈黙。
「……一月は起きないな。」
警告音が鳴り響く中、誰も気づかぬ場所で、さらに深く冷たい“影”が、静かに動き始めていた。
エリシアの泉 ― 紡がれた希望
凍える夜空に、緑と紫のオーロラが幾重にも揺れていた。
洞窟の入口から吹き込む風は、岩肌を撫でるたび低い唸りを残し、奥へと吸い込まれていく。
天井から滴る水滴が、ぽたり、と泉へ落ちた。
水面に生まれた小さな輪は、すぐに溶けるように消える。
淡い蒼光に照らされた泉の傍らで、三人は肩を寄せていた。
沈黙の中で――確かに、次の物語の糸が紡がれている。
「……スーマ」
ルクジムの低い声が、洞窟の静寂を切り裂く。
「さっき眠っている間に、思い出したことがある」
スーマは光る画面をわずかに傾けた。
ジョーは何も言わず、揺れる電球越しに二人を見守っている。
「バレン卿を倒した時、セシルが言っていた。
吸血鬼は、死んでも――八十八日後に、蛇の姿で甦るって」
スーマの画面が一瞬、強く明滅した。
「……!」
「それ、合ってる。伯爵のデータにも記録がある!」
ジョーが静かに言葉を挟む。
「……だとすれば、完全な復活まで、三か月近くかかるのか」
「そうだ」
ルクジムは泉を見つめたまま、言い切った。
「それまでに、俺たちだけで封印を見つけなきゃならない」
その瞳には、蒼い水面を映した鋭い決意が宿っていた。
だが、スーマは画面の光を落とし、低い声で遮る。
「待て、ワン公。それじゃ勝率が低すぎる。動くなとは言わねぇが、オッサンが戻る可能性があるなら、合流してからのほうがいい」
ジョーが腕を組み、長い沈黙の末に問いかけた。
「……それまで、俺たちはここで待つだけなのか?」
スーマの光がブルーからイエローへ変わる。
「そこが問題だ。蛇として復活する場所は、“死んだ場所”じゃない。本人にとっての“特別な場所”としか、記録がねぇ」
ルクジムは目を閉じた。
セシルにとっての特別な場所――。
ロンドンか。
あるいは……。
「……故郷、か?」
ジョーの問いに、スーマは首を横に振る。
「断定はできねぇ。だが一つだけ確かなのは――オルド・アークが、三か月も黙ってるはずがねぇってことだ」
頭上の電球が風に揺れ、光が岩肌を滑る。
その揺らぎは、彼らの胸に巣食う焦燥と、不確かな未来そのものだった。
それでも――
三人の視線は、決して逸れなかった。
やがて、ジョーが静かに口を開く。
「……蛇に復活するということは、
消滅した肉体を、再構築するという意味だな?」
スーマが即座に応じる。
「そうだ。吸血鬼特有の再生能力だ」
ジョーは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「なら……体の一部が残っていたら?」
「何……?」
ルクジムが椅子を軋ませて立ち上がる。
スーマの画面が、獲物を捉えた獣のように鋭く光った。
「……理論上はあり得る。一部でも残っていれば、そこを起点に再生が始まる可能性がある。八十八日も待たずに、だ」
ジョーは、黙って手にしていた物を掲げた。
蒼白な光を受け、鋭い影を洞窟の壁に落とす。
「これを……泉に入れたら、どうなる?」
それは、セシルの犬歯だった。
「あの時、迎えに行った際に拾った。机の上に置いたまま……忘れていたんだ」
戦いの最中にもぎ取られた牙が、冷たく光を返す。
スーマの画面が、鮮やかなグリーンに変わった。
「……可能性は高ぇ!泉の加護が加われば……やる価値は十分だ!」
泉の光が、壁面の水晶片に反射し、洞窟全体が脈打つように揺れる。
まるで、生き物の呼吸のように。
三人は泉の前に並び立った。
ジョーは真剣な面持ちで、ルクジムは息を詰め、スーマは一点を見つめている。
ジョーの指先が、わずかに震えた。
――放す。
「……」
ぽとん。
小さな音とともに、犬歯は水面を割り、ゆっくりと沈んでいく。
揺れる影が洞窟を歪め、
時間そのものが波打った――ように見えた。
次の瞬間、牙は泡とともに消えた。
「……どうだ?」
「……消えただけだ」
スーマの声には、失望と、まだ捨てきれない希望が滲んでいた。
沈黙。
だが、水面に広がった小さな波紋は、誰の目にも――不自然だった。
数十分が過ぎていた。
泉は静まり返り、淡い光だけが問いのように残る。
「……何も、起きないのか?」
耐え切れず、ルクジムが呟く。
「……牙は溶けた。だが、それだけだ」
諦念が、空気に滲む。
そのとき――
スーマが、突然声を上げた。
「なあジョー!その端末、衛星回線だよな!?」
「そうだ。ここじゃ、それしか使えない」
「なら俺様に繋げ! 今すぐ!」
スーマは狂ったように検索を始めた。
「何でもいい……痕跡だ!SNSでも、掲示板でも――!」
沈黙を切り裂く、電子音。
「ピコン!」
「……!」
「メールだ!!」
画面に浮かんだ文字を見た瞬間、ルクジムの瞳から、涙が零れ落ちた。
―― セシルさん!地下書庫の机の上に、真っ黒な蛇がいます!
怖くて近づけません!早く帰ってください! ―― パウラ
「……パウラ……!」
「間違いねぇ!」
スーマが叫ぶ。
「この蛇、オッサンだ!!」
「泉の加護で……ロンドンに再生したんだ!」
ルクジムは、力強く拳を握りしめた。
――灯は、消えていなかった。
「ロンドンへ行く。セシルを迎えに行く!」
「俺も同行する」
「目的地は――ロンドン・ノクターン古書店だ」
オーロラが、ひときわ強く輝いた。
――希望の光が、彼らの旅路を照らしていた。
パウラの日記
20××年 8月30日(土)
今日は本当に怖かった!
アルバイト先の古書店の地下書庫に行ったら、机の上に真っ黒な蛇がいたの。
怖くて叫びながら一階まで逃げちゃった。
……セシルさん、いつになったら帰ってくるんだろう?
メールの返事もないし、私、あの地下にはもう近づけないよ。
北アイルランド連合王国 ― 始まりの地
華の都、ロンドン。
昼夜の境を忘れたこの街は、
古き石畳と硝子の高層がせめぎ合い、
常にざわめきの呼吸を続けている。
国際空港のガラス張りのロビー。
夜の照明が床に反射し、群衆は波のように行き交っていた。
自動ドアが開く。
二つの大きな影が、人の流れを静かに割って進む。
誰の目にも、ただの旅行者に映る。
だが、その背丈と、まとわりつく気配だけは――明らかに異質だった。
ジョーは、深く息を吸い込む。
「……ここが、お前たちの町か」
ルクジムが、ゆっくりと頷く。
「ああ、兄貴。何年も帰っていない気がするよ……」
一拍置き、低く続けた。
「――だが、今度は絶対に守り抜く」
懐かしさと決意が、同じ声に宿っていた。
その数百メートル後方。
群衆の影に溶け込むように、一人の女が彼らを見つめていた。
赤いレザージャケット。
鋼のように冷えた眼差し。
人混みの中でも、その存在は刃のように際立つ。
ミラ・カステリ。
国際刑事警察機構――インターポール所属の捜査官。
五日前。
イエローナイフ空港郊外で発生した大規模テロ事件。
カナダ警察から送られてきた断片的な情報をもとに、
彼女はロンドンへ飛んだ。
――そして今、その視線は二つの巨影を確かに捉えている。
物語は、再び交錯の舞台へ足を踏み入れていた。
氷の記憶、炎の追跡 ― ミラ・カステリ
カナダ、イエローナイフ空港。
白い吐息が、ガラス張りのロビーに溶けていく。
自動ドアの隙間から吹き込む冷気が、金属と焦げた匂いを運んでいた。
ロビーの片隅。
ミラ・カステリは紙カップを手に、静かに監視を続けていた。
彼女はインターポールのフィールド・エージェント。
国際組織犯罪対策部門に所属し、
世界各地で起こる異常事件――その背後に潜む影を追っている。
その影の名は、オルド・アーク。
正体は不明。
だが、ミラには確信があった。
――兄を殺したのは、あの影だ。
今回の任務は、空港郊外で起きた爆破事件の調査。
だが彼女の本当の目的は、別にあった。
同じ“臭い”を感じたのだ。
兄が死んだ、あの日と同じ。
現場近くのガソリンスタンド。
防犯カメラ映像の中で、ミラは二人の人物に目を留めた。
異様な雰囲気を纏った若者。
そして、大柄な男。
「……普通じゃない」
直感が告げる。
彼らは、ただの一般人ではない。
映像と発着記録を照合し、ロンドン行きの便に搭乗したことを突き止めた彼女は、即座に後を追った。
インターポールは、“リバース”と呼ばれる人外の存在を把握している。
だが彼らが組織化しない限り、
情報は限定的にしか共有されない。
抑止力。
あるいは、必要悪。
しかし最近――
「天使」の目撃例が急増していた。
北極圏、アイスランド。
発見される“死体”。
ミラは、それらがオルド・アークの活動と繋がっていると睨んでいた。
ロンドン ― 追跡者
ロンドンの街を歩く二人。
ルクジムとジョー。
その背後で、ミラは足音を殺し、影を重ねる。
彼女の任務は監視だけではない。
兄の死の真相を暴くこと。
「……この影の先に、答えがある」
胸の奥で、静かに誓う。
――必ず暴く。
兄を奪った闇を。
あの紋章の意味を。
数週間前。
ロンドン郊外の廃工場。
死亡したインターポールのエージェント。
名は――アレクサンドロ・カステリ。
兄だった。
最後の通信は短い。
「正体不明の生物と接触した」
数時間後。
現場に残されていたもの。
黒く焼け焦げた壁。
三重の円、その中央に“眼”。
焦げた肉の匂い。
硫黄の煙。
――兄の声は、もうどこにもなかった。
事件は狂信集団による無差別テロとして処理された。
だが、あの紋章は、
ミラの記憶から決して消えなかった。
ロンドン ― 追跡する視線
夜が日付を越えようとしていた。
冷たい空気。
どこか懐かしい、故郷の匂い。
だが――
「ジョー……誰か、ついてきてる」
ルクジムが低く告げる。
「……確かにいる。相当な手練れだ」
スーマが小声で割り込む。
「音響解析でも一致するぜ。この時間、この路地で、一定距離を保つ者…」
三人が古い石畳のトンネルに差し掛かった、その瞬間。
――空気が、揺れた。
影は消えた。
残ったのは、わずかな残響。
その直後――
「……見失ったか」
ミラは、トンネルの奥を見つめ、小さく息を吐いた。
「……なんて感のいい連中」
違和感。
だが、今は深追いしない。
ミラは静かに踵を返す。
その頃――
トンネルの奥、闇の中。
肉眼に映らぬ“視線”が、ゆっくりと開いた。
空間の奥に潜む、意識そのものの眼。
「……匂いを断て。道を変える」
ルクジムが囁く。
「ノクターン古書店だ」
二人は、再び風のように姿を消した。
ミラの端末が、震える。
「……本件より即時離脱。スコットランドヤードへ引き継ぎ、アイスランドへ向かえ」
ミラは端末を閉じた。
「……ここまで来て、逃げろって?」
唇を噛み、走り出す。
地下鉄事故。
廃教会の爆破。
港湾倉庫に残された“人影の消失”。
すべての現場に残る、焼け焦げた円と“眼”。
「……答えは、この街にある」
ロンドンの夜は、静かに牙を剥いていた。
ノクターン古書店 ― 出会いと再会
懐かしい裏通りの匂いが、胸の奥をくすぐった。
湿った石畳と古紙の混じる香り。
舞い散る枯れ葉が、まるで帰還を祝うかのように足元を流れていく。
ルクジムとジョーは、背後の気配を何度も確かめながら、ノクターン古書店の前に立った。
「……“しばらく休館いたします”、か」
色褪せた張り紙が、扉に揺れている。
静かに押し開けると、軋む音とともに、ほのかな灯りが二人を迎えた。
「……明かりがついてるな」
ルクジムが低く呟く。
「まさか、先回りされてるってことはねぇよな?」
スーマの画面が、警戒色に染まる。
その瞬間――
張り詰めた空気を破るように、明るい声が響いた。
「やっと帰ってきたんですね! セシルさん――
……え? えっ、ル、ルクジムさん……ですよね?」
慌ただしい足音とともに、少女が現れる。
「セシルさんは……?」
「パ、パウラ……!」
ルクジムの声が、わずかに裏返った。
ジョーが一歩前へ出る。
「すまない。まずは中に入れてくれないか?」
「あっ、ご、ごめんなさい! どうぞ!」
パウラは慌てて身を引き、二人を店内へ招き入れた。
古書の匂い。
そして――セシルが淹れた紅茶の、かすかな残り香。
月光が棚の隙間から差し込み、この場所が“帰るべき場所”だったことを、静かに思い出させる。
カウンターで湯を沸かしながら、パウラが遠慮がちに尋ねる。
「あの……セシルさんは、ご一緒じゃないんですか?」
ルクジムは、少しだけ視線を逸らした。
「ああ……セシルに頼まれてた物を、取りに来たんだ」
「……一緒じゃなかったんですね」
その言葉に、ジョーがすぐ補足する。
「セシルは今、別件で動いている。だから、俺たちが代わりに来た」
「俺はジョー。二人の友人だ」
「あ、そうなんですね。私はパウラ・ジョルジュ・ボナー。
ここでアルバイトしてます。今は……掃除くらいしかしてませんけど」
「ああ、よろしくな」
ジョーが柔らかく微笑んだ、その瞬間――
「ピピピコン!」
スーマの画面が、突如ノイズに覆われた。
「おい、スーマ!?」
「§¶ΔΘΛ……÷ЙΨ……Бμ……??」
画面が激しく明滅し、意味をなさない文字列が踊る。
パウラは目を丸くし、困惑したまま立ち尽くした。
「あ、あの……紅茶のおかわり、いかがですか?」
「……ああ、頼む」
彼女がキッチンへ向かったのを見届け、
ルクジムはスーマに詰め寄った。
「何が起きてる!?」
「……こんなことが……あるはず、ねぇのに……」
スーマの声は、明らかに震えていた。
「あの子……俺様が、昔……飼ってた人間の……」
「……!?」
「いや……違う。たぶん、子孫だ……」
沈黙。
「……こんな形で……再会、するなんてよ……」
スーマの画面は高速で切り替わり、
やがて、涙のようなエフェクトが滲んだ。
「ジョーの気持ち……少し分かるぜ……今の俺様じゃ、泣くことすらできねぇのにな……」
ルクジムは静かに視線を落とし、ジョーに語る。
「スーマは……元は“デビルズ”だった。伯爵と融合していた存在で、今はスマホに宿ってる」
「でも……あいつにも心がある。飼ってた人間の血を……こんな形で見つけちまったんだ」
ジョーは何も言えず、ただスーマを見つめていた。
その空間には、古書と紅茶の香りに混じって、確かな温もりが満ちていた。
――だが同時に。
月光に照らされた書棚の影は、何かを隠すように、深く、静かに伸びている。
再会は、終わりではない。
それは――
再び物語が動き出す、合図だった。
ロンドン ―― 湾岸倉庫事件現場
煌めく銀の海。
夜明け前の湾岸は、嘘のように静まり返っていた。
波は穏やかに揺れているが、海風は鋭く冷たく、肌にまとわりつく。
海面は、すべてを覆い隠す仮面のように沈黙し、何ひとつ語ろうとはしない。
ミラ・カステリが現場に到着したとき、そこには――何もなかった。
封鎖線。
検証済みの倉庫。
血痕も、破壊の痕跡も、争った形跡すらない。
ただ一つ。
倉庫の内壁、鉄骨の継ぎ目に沿って――三重の円、その中央に“眼”を思わせる焼け焦げた痕。
「……これだけ」
ミラは低く息を吐いた。
地下鉄事故。
廃教会爆破。
それらすべてに残されていた、“同一の印”。
「三件の事件が同一犯と判断された理由……それは、後に残されたこの紋様」
指でなぞることはせず、視線だけで形をなぞる。
「だが、この湾岸倉庫だけは違う」
破壊はない。
死体もない。
――被害者すら、存在しない。
「これは……殺人でも、テロでもない」
ミラは静かに結論づけた。
「行方不明事件……いや、“消失”だ」
海を見つめる。
波の向こうに、答えはない。
だが、彼女の思考は、確実に一点へと収束していく。
兄――アレクサンドロの最後の通信。
正体不明の生物。
黒く焼けた壁。
硫黄の匂い。
「……同じだ」
現場は違えど、“呼び出し方”が同じ。
「情報だけが先に走っている……まるで、誰かをここへ“来させる”ために用意された舞台みたい」
風が吹き抜け、コートの裾が揺れた。
遠くで船の汽笛が鳴り、倉庫の鉄骨が低く軋む。
その音が、一瞬だけ――
“生き物の呼吸”のように聞こえた。
ミラは足元に落ちていた小さな紙片を拾い上げる。
ただの伝票の切れ端。
日付も、社名も、意味をなさない。
ミラは立ち上がり、ゆっくりと踵を返した。
この事件は終わっていない。
むしろ――始まったばかりだ。
冷たい海風と、未解決の謎を背に受けながら、
彼女は次の“点”へと向かう。
答えは、この街のどこかにある。
――それも、すでに動き出している場所に。
ロンドン――月は見ている
風はまだ冷たく、
夜の静寂は、虚構と現実の境界を曖昧にしていた。
空に浮かぶ月は大きく、静かに大地を照らしている。
その光は、過去と現在を縫い合わせるように、ハイド・パークの木々の影を長く伸ばしていた。
ルクジムとパウラは、並んで歩いている。
吐く息は白く、言葉のない時間が、二人の間に静かに流れていた。
――数十分前、ノクターン古書店。
「もうお店、閉めますけど……どうします?」
パウラが、遠慮がちに声をかける。
「俺たちは、今日はここに泊まるよ」
ジョーが穏やかに答えた。
「後は俺たちで閉める。君は先に帰りな」
「それじゃ……後、よろしくお願いしまーす」
パウラがコートを羽織った、その瞬間。
「ドン」
ジョーがルクジムの背中を軽く叩いた。
「送ってやれ。こんな夜更けだぞ」
片目でウィンクする。
「紳士のはしくれだろ?」
「あ……ああ」
顔を赤らめるルクジム。
「パウラ、送ってくよ!」
「ケケケッ、若いっていいなぁ」
スーマの笑い声が、背後から追い打ちをかける。
――そして今、ハイド・パーク。
街灯の明かりが途切れ、月光だけが二人を照らしていた。
会話のないまま歩く二人。
沈黙の中で、ルクジムの心臓の鼓動だけが、やけに大きく響く。
(……何か話さないと)
(でも、何を……)
その沈黙を破ったのは、パウラだった。
「……寒いですね、今日」
彼女はそう言って、ちらりとルクジムを見る。
緊張しているのは自分だけじゃないと知って、胸の奥が小さく跳ねた。
「……そうだね」
言葉は、それ以上続かない。
だが――
月は見ている。
二人の距離が、気づかぬうちに、ほんの少し縮まっていることを。
ルクジムは、ふとセシルの声を思い出した。
――「会話が続かないときは、景色を褒めろ」
(……今か? 今なのか?)
意を決して、口を開く。
「……き、きれいだね」
「えっ?」
パウラが立ち止まり、振り返る。
頬が、月明かりの下で一気に赤くなる。
「い、いや……その……月が……」
しどろもどろになるルクジム。
次の瞬間――
「……ぷっ」
パウラが吹き出した。
「ふふ……面白いんですね、ルクジムさん」
ルクジムは耳まで真っ赤にしながら、
(セシル……このアドバイス、難易度高すぎる……!)
と、心の中で叫んでいた。
その笑顔は、月の光よりも柔らかく、夜の冷たさを、ほんの少し溶かした。
木々がざわめき、二人の影が、ゆっくりと重なり合う。
月は、静かに見ている。
まだぎこちない二人の距離が、確かに、少しずつ近づいていくのを。
言葉にならない想いも、触れられない優しさも――
すべてを夜の帳に包み込みながら。
そしてその月光の、さらに外側で。
誰かが、同じ月を見上げていることを。
ノクターン古書店――セシル
ロンドンの裏路地。
闇の貴族たちが静かに集う、名もなき社交の場。
人ならざる者がすれ違い、言葉なき契約が交わされる、夜の舞台。
ルクジムがパウラを送り、古書店へ戻った頃には、店内は再び深い静寂に包まれていた。
「……ようやく、三人だけになれたな」
最初に口を開いたのはスーマだった。
「急げ。地下書庫だ」
その声には、冗談も軽口もなかった。
ジョーとルクジムは無言で頷き、周囲の気配を慎重に確かめながら、ゆっくりと地下へ向かう。
懐かしい紅茶の残り香。
古書の紙が放つ乾いた匂い。
埃と湿気が混じり合い、記憶の底を刺激する。
「……開けるぞ」
ルクジムが静かに扉を押した。
地下書庫には灯りがなく、ただ月光だけが、小窓から淡く差し込んでいる。
木製の机の上。
そこに――古びた羊皮紙が、無造作に置かれていた。
次の瞬間。
羊皮紙の上で、黒い影が、わずかに蠢いた。
影は輪郭を持ち、やがて一匹の蛇の姿へと変わる。
その額に――
小さな薔薇の紋章が、月光に照らされて浮かび上がった。
「……ッ!」
三人の胸に、同時に息が詰まる。
「セシル!!」
声が重なった。
歓喜は、舞台の終幕とアンコールが同時に訪れたようだった。
言葉が溢れ、感情が追いつかない。
「……本当に、セシルなんだな」
ルクジムが一歩踏み出す。
「心配したぞ」
ジョーの声は、震えを隠しきれていない。
「ヒヤヒヤさせやがって……ICチップが焦げるかと思ったぜ」
スーマの言葉にも、確かな安堵が滲んでいた。
「セシル……セシル……!」
三人はしばらく、返事のない相手に向かって、一方的に言葉を投げ続けた。
だが――
蛇は、何も語らない。
ただ、そこに在る。
「……これ、本当にセシルで間違いないんだよな?」
ジョーが、ふと不安を口にする。
沈黙の中、スーマが小さく舌打ちした。
「あー……そうか」
一拍置いて、気づいたように言う。
「蛇は喋れねぇんだったな」
「俺様を、そいつにくっつけろ!」
「フォン、ピコン」
スーマの画面が切り替わり、翻訳モードが起動する。
「……ミンナ、ゲンキソウデナニヨリダ」
「ヘビノカラダデハ、コエモ、カオモ、ツカエナイ」
「……スマナイナ」
(……この身体では、気持ちを伝えることすら難しい……)
「……間違いねぇな」
スーマの画面が、静かにグリーンへと変わる。
「セシルだ」
「うおおおおっ!!」
ルクジムとジョーの歓声が、地下書庫に響いた。
失われたと思っていた存在が、形を変えて、確かにここにいる。
時間が、ほんの一瞬だけ、微笑んだ。
――だが。
月光が、僅かに蒼白さを帯びる。
地下書庫の小窓が、木枯らしに揺れた。
「……いい加減、本題に入ろう」
スーマの声が、空気を引き締める。
「言いたいことが山ほどあるのは分かる。だが、時間がねぇ」
「確かに……」
ジョーが頷く。
「さっきの尾行も、気になる」
「オルド・アークの匂いじゃないとは思うが……」
ルクジムは、蛇――セシルに視線を落とした。
「それで……」
「いつ、元の姿に戻れる?」
沈黙。
誰も、息をしなかった。
月明かりだけが、静かに机を照らす。
「……なぜ、答えない」
ジョーの声が低く響く。
「セシル……」
「……ソレナンダガ……」
スーマが割り込む。
「回りくどいのは無しだ。俺様が直接翻訳する!」
画面が、深い青に染まった。
「結論から言うぞ――」
「十年だ」
「……!!」
空気が凍る。
「じ、十年……?」
ルクジムの声は、ほとんど掠れていた。
スーマは続ける。
「吸血鬼の身体は、別次元に保存された元素配列を再構築する必要がある」
「その再生には、膨大なエネルギーが要る」
「最速で見積もっても……十年。それが現実だ」
重い沈黙が落ちた。
だが――
「……それでも、やるしかない」
ルクジムが顔を上げる。
「それまで、俺たちで封印を探し続けよう」
ジョーは静かに頷き、スーマは、わざと軽い調子で笑った。
「ま、俺様がいる限り、退屈はさせねぇさ」
蛇――セシルは、何も語らない。
だがその沈黙は、彼らへの完全な信頼だった。
こうして――
託された十年が、静かに動き始める。
そして同じ月の下。
ロンドン郊外では、
別の探求者が、同じ影を追っていた。
ロンドン郊外――廃工場跡地
雲のヴェールをまとった満月が、壊れた投光器のように空から地上を照らしていた。
その光は、すべてを暴くには弱く、しかし隠し通すには、あまりにも明るかった。
古びた工場跡。
崩れ落ちた瓦礫の山が、かつてここで起きた争いの激しさを無言で語っている。
その静寂の中、ひとつの影が、周囲を慎重に確かめていた。
ミラ・カステリ。
月光に照らされる彼女の表情は、冷静でありながら、どこか張り詰めている。
「……兄が、最後に消息を絶った場所」
瓦礫は散乱している。
だが、それだけだった。
血痕も、爆熱による金属の歪みも、人が死んだ現場に必ず残る“爪痕”が、ことごとく消されている。
「……連続テロとは、正反対ね」
ミラは低く呟く。
「不自然なほど、何も残っていない」
これは荒らされた現場ではない。
“整理された現場”だ。
微かに漂う硝煙と、硫黄の混じった匂いだけが、過去にここで行われた暴力の存在を、かろうじて証明していた。
「兄が消えたこの場所……」
「報道にも、事件として残されていない」
なぜ、ここだけが“無かったこと”にされたのか。
そのとき、雲の切れ間から差し込んだ月光が、瓦礫の隙間で、かすかな反射を捉えた。
「……?」
ミラは身を屈め、慎重にそれを拾い上げる。
「……毛?」
白い。
だが、人間のものではない。
獣にしては太く、硬い。
触れた指先に、わずかな違和感が残る。
説明のつかない感触だった。
ミラは一瞬、兄の最期を思い浮かべ――すぐに、それを振り払う。
「……分析に回すわ」
それだけ呟き、白い毛をポケットに収める。
月光が再び雲に隠れ、廃工場は、何事もなかったかのように闇へ沈んでいった。
だが、ミラの中では、この場所が“始まりの一点”であることが、もはや疑いようもなかった。
ノクターン古書店――不確実性の希望
路上を滑る車のライトが、夜の縫い目をなぞるように遠ざかっていく。
星々は瞬き、やがて溜息のように闇へ溶けた。
空を覆う暗雲は、まるでこの夜が「終止符」を迎えることを知っているかのように、月を隠そうとしていた。
ノクターン古書店――
その地下書庫には、外界のざわめきも、都市の鼓動も届かない。
だがこの夜ばかりは、静寂そのものが息を潜め、彼らの言葉を待っていた。
「……ん?」
最初に反応したのはスーマだった。
彼の画面を、無数の数式と警告色が走り抜ける。
「……さすがはオッサンだぜ」
スーマの視線が、木机の上の小さな影――蛇のセシルへ向く。
セシルは、かすかに舌を出した。
その動きは一瞬で、だが確かに“焦り”を含んでいた。
「戻れる策が……あるかもしれねぇ」
その言葉に、ルクジムが思わず身を乗り出す。
「本当か!」
「確かな話なのか?」
ジョーの声も、自然と荒くなる。
「落ち着け。これは“可能性”の話だ。確定じゃねぇ」
スーマの画面が深い青に沈む。
「翻訳中に、ほんの僅か――だが無視できねぇ信号を拾った」
地下書庫の天窓から、夜風が忍び込み、古紙を震わせた。
「ウラン。原子番号92」
「核燃料だな」
ルクジムが即座に応じる。
「そうだ。だが……人間の理解は半分だ」
スーマの声が低くなる。
「神がこの世界で血を流した時、大地はそれを拒絶した」
「赤黒い炎となって地を焦がし、残った記憶が結晶化した――それがウランだ」
ルクジムとジョーは、息を呑む。
「天・地・魔の生命が、まだ同じ世界に存在していた時代」
「生存競争の果てに、神も、悪魔も、人間も、等しく敗北しかけた」
「……次元分離の起源」
ルクジムが呟く。
スーマの画面が、肯定を示すように微かに揺れた。
「神の血は“怒り”と“失意”を宿したまま大地に染み込み、放射能として残った」
「それは呪いであり――同時に、莫大なエネルギー源でもある」
沈黙が落ちる。
蛇のセシルは動かない。
だが、その瞳孔が、わずかに細くなった。
「吸血鬼の身体を再構築するには、別次元に保存された元素配列を再生する力が要る」
「通常は転生を繰り返し、十年かけて蓄積するものだ」
スーマは一拍置いた。
「だが、ウランなら――血液何万人分のエネルギーを、一度に供給できる」
希望。
その言葉が、喉元まで迫る。
だが――
「……代償はデカい」
スーマの画面が、深緑から暗赤へと変わる。
「被爆は傷じゃねぇ。魂に入る“ひび”だ」
「それは癒えず、拡大し、時には周囲まで巻き込む」
空気が、重く沈んだ。
「俺たち、セシル、大地、都市、住民……」
「何百年単位の“呪い”を背負う可能性がある」
誰も言葉を発せなかった。
それは希望であり、破滅だった。
選んだ瞬間、後戻りはできない。
それでも――
ルクジムは、蛇のセシルを見た。
その小さな体が、わずかに揺れた気がした。
「……それを、どうやって手に入れる?」
その問いが、夜の向きを変えた。
ジョーが、久しぶりに笑う。
「原発か?」
冗談めかした声に、スーマが画面を歪ませる。
「サイズウェルC原子力発電所」
「その北に、“異常事象対策局”の地質研究所がある」
警戒色が走る。
「そこはオルド・アークの表の顔だ」
「そこに建設用ウラン、プルトニウム、廃棄核燃料――それらが秘密裏に搬入されたと言う情報が有る」
「燃料プールに忍び込む」
「相手がオルド・アークなら、遠慮はいらねぇ」
スーマの画面が、赤く燃えた。
「セシルは仲間だ」
「取り戻す。それだけだ」
ルクジムは拳を握る。
「……やろう」
ジョーも静かに頷いた。
「最悪の計画だがな。だからこそ、俺たちがやる」
それは希望か。
破滅への扉か。
だが、彼らはもう迷わない。
友を取り戻すために。
この世界を失わないために。
月は雲の向こうで、何も言わずにそれを見ていた。
交錯する視線――邂逅
霧は、気づかぬうちに雨へと姿を変えていた。
細かな水滴が石畳とアスファルトを濡らし、街の輪郭を曖昧に溶かしていく。
ロンドンの夜は、呼吸が重い。
湿った空気に、目に見えない“淀み”が絡みつき、胸の奥まで沈んでくる。
ミラ・カステリは、再びその場所に立っていた。
ロンドン空港――
尾行を振り切った石畳のトンネル前。
「……ここで張り込めば、また現れる」
それは希望というより、最後の賭けだった。
雨が降り始めた、その瞬間――
空間の“位相”が、はっきりと切り替わる。
まるで舞台照明が変わったように。
――!
背筋を走る、鋭利な感覚。
殺気。
それを認識した直後、風に混じって“獣”の匂いが流れ込んできた。
「……来た」
ミラは即座に岩陰へ身を滑り込ませ、呼吸を落とす。
心拍数を抑え、存在そのものを闇に沈める。
現れたのは、黒い影。
「……獣?」
闇に慣れた視界の奥で、赤い点が二つ灯る。
真っ黒な、大型犬――否、狼に近い。
筋肉の輪郭が、雨に濡れて鈍く光っている。
威嚇はない。
だが、動いた瞬間に“終わる”――その確信だけが、冷たく胸に落ちた。
相手の呼吸に合わせる。
三……
二……
一――
「ザザッ!」
跳躍。
ミラは、紙一重で横へ転がる。
獣の体が空を裂き、背後の地面に叩きつけられる。
「私を狙っている……やつらの使いか」
S&W M10を抜き、迷いなく構える。
――ブラックドック。
死を告げる黒妖犬。
伝承ではなく、“現実”として、今ここにいる。
「パン――パン――パンッ!」
三発。
完璧な照準。
だが、弾丸は肉を貫きながら、意味を失ったように滑り落ちる。
黒い獣は、止まらない。
「……効いていない」
ミラは呼吸を整え、後退しながら距離を測る。
雨脚が強まり、足元が不安定になる。
視界も、聴覚も、徐々に奪われていく。
「あと……二発」
その瞬間――
ブラックドックが、踏み込んだ。
間合いを誤る。
「しま――」
衝撃が来るはずだった。
だが。
――来ない。
「……?」
獣が、空中で止まっている。
否。
“持ち上げられている”。
首根っこを掴み、雨の中で黒い影を制する腕。
岩のように太く、揺るぎない。
次の瞬間。
叩きつけられた。
コンクリートが砕ける音と共に。
「ギャワァァンッ!!」
それは、最初で最後の咆哮だった。
ミラは銃を構えたまま、目の前の存在を見据える。
「大丈夫か?」
落ち着いた声。
そこに立っていたのは――ジョー。
その隣には、ルクジム。
「……あなたたち?」
ミラは、ゆっくりと銃口を下げた。
警戒は消えない。
だが、彼らの声には、敵意がなかった。
「ケガはなさそうだな」
背後から、スーマの画面が揺れる。
ルクジムが、静かに問う。
「空港から、俺たちを追っていたな?」
ミラは答えない。
だが、その沈黙は、肯定だった。
スーマがブラックドックの首元を照らし、画面を赤く染める。
「魔界印(タトゥー)だ。使役獣だな」
「遺伝子操作された大型犬――オルド・アークの仕業だ」
空気が冷える。
「もう、古書店には戻らない方がいい」
「パウラも危ねぇ」
黄土色に変わった画面が、わずかに揺れた。
ルクジムが言う。
「俺たちも移動するつもりだった」
「潜伏できる場所は……?」
その問いに、ミラは初めて、はっきりと口を開いた。
「……近くに、私が使っている倉庫があるわ」
一瞬の沈黙。
「時間はないんでしょう?」
ジョーがルクジムを見る。
ルクジムは、短く頷いた。
「行こう」
雨は、まだ止まない。
だが、彼らの視線はすでに、同じ方向を向いていた。
偶然ではない。
この邂逅は、最初から“予定されていた”。
闇の向こうで、月だけが、それを知っていた。
ロンドン・コンテナ倉庫――語られる真実
夜の雨は、いつの間にか眠りについていた。
雲の切れ間から星が覗き、空は静かな五線譜のように、淡い光の旋律を描いている。
公園の闇を抜け、無数のコンテナが積み上げられた倉庫地帯へ――
ミラは彼らを導いた。
金属と油の匂い。
足音が反響する、閉ざされた空間。
沈黙を破ったのは、ルクジムだった。
「――なぜ、俺たちを尾行していた」
静かだが、逃げ道を与えない声。
「ブラックドックに狙われていた以上、お前がオルド・アーク側じゃないのは分かる」
「だが、理由を聞かせてくれ」
ミラの視線が鋭くなる。
「……やはり、お前たちは“それ”を知っているのね」
「その口ぶり……お前たちは、オルド・アークではない」
「回りくどいぞ」
スーマが即座に割り込む。
「結論を言え」
ミラはスーマの画面を見て、眉を寄せた。
「……何? AI?」
「失礼な。俺様はスーマ様だ」
「なおさら意味が分からないわね」
ジョーが苦笑し、場を戻す。
「頼む。君は誰だ。何のために俺たちを追っていた」
再び、倉庫に沈黙が落ちる。
ミラは三人を順に見た。
警戒。
測定。
判断。
だが――その奥に、確かな“違い”を感じ取っていた。
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……先に忠告しておく」
「この倉庫を中心に、半径100メートルにTNTを仕掛けてある」
空気が、一気に冷える。
「お前たちが敵だと判断すれば、ここは消える」
間を置き、ミラは続けた。
「だから、先に一つだけ答えて」
「――オルド・アークは、本当に存在するの?」
ルクジムは、迷わず頷いた。
「ああ。確実に」
その瞬間、ミラの肩から、何かが抜け落ちた。
「……そう」
彼女は名乗った。
「私はINTERPOL国際組織犯罪対策部門――フィールド・エージェント、ミラ・カステリ」
スーマが唸る。
「インターポールでも、奴らの正体は掴めてねぇのか」
「ええ」
ミラは頷く。
「“オルド・アーク”という名前だけが存在している」
「国によっては、調査そのものが制限されている」
彼女の声が、わずかに揺れた。
「でも……私には、理由がある」
視線が、遠くを見る。
「兄は、ロンドンで消息を絶った」
「その直前、カナダで起きたテロ事件を追っていた」
地下鉄4番線。
廃教会爆破。
港湾倉庫人体消失。
「すべて同一犯」
「でも……兄の事件だけは、報道されなかった」
彼女は内ポケットから、遺留品袋を取り出す。
白く、太い毛。
「郊外の廃工場だけ、異常なほど“綺麗”だった」
「でも、匂いが残っていた……すべての現場と同じ」
沈黙。
「その後、世界中に流れた告発文書」
「数時間で消えた。でも、“名前”だけは残った」
――オルド・アーク。
ルクジムは、視線を落とした。
「……間違いない」
「それは、俺たちだ」
ミラが息を呑む。
「痕跡を残したのは、俺を誘き出すため」
「告発文書は……セシルの作戦だった」
彼は、蛇の入った麻袋を見た。
「廃工場事件……君の兄は、“契約者の贄”に選ばれた」
ミラの喉が鳴る。
「君が拾った毛――」
「それは、俺のものだ」
沈黙が、崩れ落ちる。
「……証明できる?」
ミラの問いに、ルクジムはスーマを見る。
「幻術を解いてくれ」
「覚悟はいいな?」
「ああ」
画面が暗転する。
「ヴォオン――」
世界が、歪んだ。
次の瞬間。
白銀の体毛に覆われた、巨大な人狼。
そして、その隣に立つ、三メートルを超える異形。
「――っ!」
ミラは反射的に身を引いた。
それは、兄の現場で感じた“違和感”そのものだった。
「もういい」
スーマの声と共に、幻は消える。
元の姿に戻ったルクジムは、静かに語り始めた。
封印。
契約。
神の血。
そして、オルド・アークの目的。
すべてが、一つに繋がっていく。
冷たい風が倉庫を抜け、埃が舞う。
ミラは、乾いた笑みを浮かべた。
「……なるほどね」
「やっと、“敵”の輪郭が見えた」
その瞳には、悲しみも怒りもあった。
だが同時に――揺るがぬ決意が宿っていた。
彼女は、ルクジムたちを見据える。
夜の帳が、ゆっくりと空から剥がれ落ちていく。
白み始めた東の空から、淡い朝靄が倉庫の隙間をすり抜け、公園の木々を撫でていた。
眠りに沈んでいた小動物たちが、冷たい空気の入れ替わりを察し、気配だけを揺らす。
その静寂の縁で、ルクジムは肩を落としていた。
白い体毛の奥に沈む瞳が、ミラを捉える。
「……あの日だ。廃工場跡地で、俺は初めて“契約者”を見た」
低く、重い声。
「狂気に触れた瞬間、本能が制御を失った。気づいた時には、そいつは倒れていて……横に、セシルが立っていた」
言葉を吐き出すたび、胸の奥に溜め込んだものが削られていく。
彼は目を閉じ、長い吐息を落とした。
「……おそらく、君の兄さんは選ばれたんだ。契約者の“贄”として」
倉庫の空気が、わずかに張り詰める。
「魂は切り離され、人格は削がれ、肉体だけが“器”として使われる。契約者の製造工程だ」
声が、ほんの僅かに揺れた。
「俺は……そいつと戦い、葬った。つまり――君の兄さんを殺したのは、俺だ」
沈黙。
倉庫の隙間から吹き込む風が、二人の間を冷たく横切る。
金属が軋む音だけが、時間の経過を告げていた。
「……すまない」
俯いたまま、ルクジムは続ける。
「ああしなければ、俺が死んでいた。分かっている……謝罪に意味がないことくらい」
彼の背中は、巨体でありながら、ひどく小さく見えた。
ミラは目を伏せ、唇を噛む。
スーマの画面に、一瞬だけノイズが走る。
ジョーは何も言わず、ただルクジムの背中を見つめていた。
そこには、友の罪と苦悩を共有する者だけが持つ沈黙があった。
やがて、ミラが声を絞り出す。
「……もし、あんたの言うことが本当なら」
彼女は顔を上げ、まっすぐにルクジムを見据えた。
「兄を“救った”のも……あんたなんじゃない?」
ルクジムが、息を呑む。
「魂のないまま、怪物として使われ続けるなんて……兄が耐えられるわけない」
それは独り言のようで、祈りのようだった。
「兄は、いつも笑ってた。誰かのために戦う人だった」
ミラは小さく息を吸い、言葉を選ぶ。
「もし怪物にされたのだとしたら……その魂は、きっと死を望んだ。それを終わらせたのなら――それは、救いよ」
淡い笑みが、彼女の唇に浮かぶ。
悲しみを抱いたまま、それでも前へ進もうとする強さの笑みだった。
「で、これからどうするの?」
彼女は軽く手を振る。
「答えなくていい。私は任務でアイスランドへ行くわ。オルド・アークの動きがあれば、そこで追う」
その時、スーマの画面が緑色に灯る。
「じゃあ俺たちは釈放ってことでいいな?火薬、解除してくれよ」
ミラは三人を見回し、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……まさか、信じてたの? TNTの話」
三人が同時に顔を見合わせ、言葉を失う。
「インターポールに逮捕権も捜査権もないのよ」
「国を跨いで調査して、情報を警察に渡すのが仕事」
「武装なんて……できるはずないでしょ。訓練は受けるけど」
肩をすくめ、ミラは荷物をまとめる。
「また、どこかで会うかもね」
「……そうだな」
ルクジムが低く答え、ジョーが静かに頷く。
スーマは画面をくるくる回し、楽しげに緑色を揺らしていた。
外では、夜明けの靄が街に溶け始めている。
その穏やかな空気の中、ルクジムが歯切れ悪く口を開いた。
「……変な話だが」
「なんだよ!」
スーマが即座に反応する。
「前から思ってたんだ。このコンテナ……よくジョーが入ったなって。幻術で小さく見えても、実物はそのままだろ?」
ジョーとスーマが視線を交わす。
「おいおい、今さらかよ!」
スーマの画面がチカチカと光る。
「ジョーの幻術は改造版だ。分子間を詰める」
「見た目だけじゃなく、実際に縮むんだよ。二メートルくらいにはな」
ルクジムは目を瞬かせる。
「……俺だけ知らなかったのか?」
「普通は気づくだろ」
スーマが呆れたように言い、ジョーは肩を震わせて笑った。
ミラだけが、ぽかんと口を開ける。
「……分子間を詰めるって、何よそれ」
スーマは得意げに画面を明滅させる。
「つまりだ。でっかいジョーが“ちょっとだけ”小さくなれるってことだ。便利だろ?」
ミラは深くため息をついた。
「……ほんと、あんたたち何者なのよ」
朝の光が、倉庫の奥まで差し込み始める。
それぞれの背に、別々の道が静かに重なり、そして再び動き出していった。
第四章・終幕
「道しるべは示された!物語は新たなる展開に移行する」
そして命を落としたセシル。
物語は再び動き出す。
沈黙の絶望 ― そして希望
モノクロの映像が、静かな水面に落ちた雫のように浮かび、消えていく。
波紋は幾重にも重なり、やがて空間そのものへと溶けていった。
それは記憶の残骸か。
あるいは、失われた過去が見せる儚いノスタルジーの幻影か。
何も存在しないはずの虚空に、確かに“感触”だけが残っていた。
――ルクジムは、夢を見ていた。
現実の重圧から逃れるため、無意識が選び取った心の避難所。
万華鏡の中で砕け散った破片が、ひとつ、またひとつと組み上がっていく。
深い霧に閉ざされた山中。
霞が視界を奪い、空気は湿り気を帯びた霊的な気配を漂わせていた。
水蒸気のような存在が、音もなく彷徨っている。
岩盤を割り、根を張る木々は神殿の柱のように静謐で、
この空間そのものが、現実から切り離された異界であることを物語っていた。
遠くで、鳥の声が響く。
「ホー……ホケキョ……」
聞き覚えのない、不自然なほど澄んだ鳴き声。
それなのに、ルクジムの胸には理由のわからない懐かしさが芽生えた。
――ここは、どこだ……?
声にしようとした問いは、音になる前に霧へと溶ける。
代わりに耳へ流れ込んできたのは、奇妙なお囃子だった。
「チャンカ、チャンカ、チャンカ……」
「ピーヒャラ、ピーヒャラ……」
笛の音が重なり、空間はいつしか東洋の祭りを思わせる異様な高揚を帯び始める。
その瞬間――
虚空に、文字が浮かび上がった。
blade Mountain(剣山)
名を認識した途端、ルクジムの意識が激しく揺れた。
次の瞬間、世界は鏡が砕けるように音を立てて崩壊する。
万華鏡の破片が闇へと落ち、その一枚が“記憶”へと変貌した。
闇の奥から、低く、粘つくような声が響く。
「混ざり者……貴様が本部を騒がせている者か……」
「我は、バレン・アドニスモ伯爵……」
声は、さらに続く。
「久しいな、セシル。
地上の我が下部――魔族人形(ハイドール)を、討ってきたか……」
息が詰まる。
――これは……地下屋敷の……。
胸の奥で、重い言葉が反響する。
「……こいつも、犠牲者だったんだな……」
再び、闇が囁いた。
「吸血鬼に“死”という概念は在りません……」
「八十八日後、蛇の姿で再び地上に現れ……時をかけ、元の姿へ還るでしょう……」
それは、救済か。
それとも、永遠に続く呪いか。
希望と絶望の境界が、曖昧に滲む。
その時――
「ルクジム……!」
「ルクジム!!」
遠くから呼ぶ声が、彼を現実へと引き戻していった。
エリシアの泉 ― 真実の先
薄闇の中で、ルクジムは目を開けた。
耳元で、誰かが叫んでいる。
「おい、ルクジム!」
「ルクジム!!」
静寂を破る声に、意識が一気に現実へと引き戻される。
「……ここは……?」
震えの残る声。
「はっ!」
跳ね起きると同時に、叫びが漏れた。
「セシルは!?
セシルは無事なのか!!」
洞窟に反響する声。
「落ち着け。」
ジョーの低く穏やかな声が、荒れた心を包み込む。
「ジョー……」
安堵は一瞬だった。
セシルの姿が見えない。
「もう大丈夫みてーだな!」
スーマの声が続く。
青白い光を反射する湿った岩肌。
エリシアの泉は、何事もなかったかのように静かだった。
「ここは……?」
「エリシアの泉だ。あの洞窟の奥だ。」
スーマが肩をすくめる。
「セシルが転送したんだ。ジョーのいる場所にな。」
苦笑が滲む。
「オッサン。最後までペテンを利かせやがって……」
呆れと敬意、そして喪失の痛み。
「あの時“出来るだけ遠くへ!”って、わざとカリースに聞こえるように言いやがった。」
その意味を理解したスーマの声が沈む。
「ここに戻るなんて、オルド・アークも想定外だろうな。」
沈黙。
「……セシルは、どうなった?」
問いは、震えを伴っていた。
スーマが、静かに告げる。
「もう居ない。体を構成していた元素が……消えた。」
言葉は、刃だった。
「……そんな……」
胸が潰れる。
――命を賭して、守られた。
「封印は……?聖者の刻は……?」
「問題ねぇ。俺様のQRコードで、結界ごと覆ってある。預言者が居ても、まず確認できねぇ。」
安堵の息が、静かに零れ落ちる。
「……三日も寝てたんだぞ、ワン公。」
洞窟の静けさの中、
セシルの不在だけが、確かな現実として刻まれていた。
オルド・アーク ― 契約者部隊 パクト・ユニット本部
本部は、緊張に満ちていた。
低く唸る振動が、床と壁を伝う。
大型スクリーンには赤い警告が点滅し、オペレーターの声と電子音が交錯する。
「イエローナイフ空港郊外の事故はテロとして処理しろ!政府と報道に即時通達!」
「処理班を投入!現場の制圧を最優先だ!」
指揮官が歯噛みする。
「……カリース様め。余計な騒ぎを。」
「評議会への報告は?」
「進行中です!」
補佐官の声に、焦燥が滲む。
「カリース様の状況は?」
「消耗過多のため、〈黒い棺〉にて回復期に入られています。」
漆黒の棺(コフィン)。
再生を待つ沈黙。
「……一月は起きないな。」
警告音が鳴り響く中、誰も気づかぬ場所で、さらに深く冷たい“影”が、静かに動き始めていた。
エリシアの泉 ― 紡がれた希望
凍える夜空に、緑と紫のオーロラが幾重にも揺れていた。
洞窟の入口から吹き込む風は、岩肌を撫でるたび低い唸りを残し、奥へと吸い込まれていく。
天井から滴る水滴が、ぽたり、と泉へ落ちた。
水面に生まれた小さな輪は、すぐに溶けるように消える。
淡い蒼光に照らされた泉の傍らで、三人は肩を寄せていた。
沈黙の中で――確かに、次の物語の糸が紡がれている。
「……スーマ」
ルクジムの低い声が、洞窟の静寂を切り裂く。
「さっき眠っている間に、思い出したことがある」
スーマは光る画面をわずかに傾けた。
ジョーは何も言わず、揺れる電球越しに二人を見守っている。
「バレン卿を倒した時、セシルが言っていた。
吸血鬼は、死んでも――八十八日後に、蛇の姿で甦るって」
スーマの画面が一瞬、強く明滅した。
「……!」
「それ、合ってる。伯爵のデータにも記録がある!」
ジョーが静かに言葉を挟む。
「……だとすれば、完全な復活まで、三か月近くかかるのか」
「そうだ」
ルクジムは泉を見つめたまま、言い切った。
「それまでに、俺たちだけで封印を見つけなきゃならない」
その瞳には、蒼い水面を映した鋭い決意が宿っていた。
だが、スーマは画面の光を落とし、低い声で遮る。
「待て、ワン公。それじゃ勝率が低すぎる。動くなとは言わねぇが、オッサンが戻る可能性があるなら、合流してからのほうがいい」
ジョーが腕を組み、長い沈黙の末に問いかけた。
「……それまで、俺たちはここで待つだけなのか?」
スーマの光がブルーからイエローへ変わる。
「そこが問題だ。蛇として復活する場所は、“死んだ場所”じゃない。本人にとっての“特別な場所”としか、記録がねぇ」
ルクジムは目を閉じた。
セシルにとっての特別な場所――。
ロンドンか。
あるいは……。
「……故郷、か?」
ジョーの問いに、スーマは首を横に振る。
「断定はできねぇ。だが一つだけ確かなのは――オルド・アークが、三か月も黙ってるはずがねぇってことだ」
頭上の電球が風に揺れ、光が岩肌を滑る。
その揺らぎは、彼らの胸に巣食う焦燥と、不確かな未来そのものだった。
それでも――
三人の視線は、決して逸れなかった。
やがて、ジョーが静かに口を開く。
「……蛇に復活するということは、
消滅した肉体を、再構築するという意味だな?」
スーマが即座に応じる。
「そうだ。吸血鬼特有の再生能力だ」
ジョーは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「なら……体の一部が残っていたら?」
「何……?」
ルクジムが椅子を軋ませて立ち上がる。
スーマの画面が、獲物を捉えた獣のように鋭く光った。
「……理論上はあり得る。一部でも残っていれば、そこを起点に再生が始まる可能性がある。八十八日も待たずに、だ」
ジョーは、黙って手にしていた物を掲げた。
蒼白な光を受け、鋭い影を洞窟の壁に落とす。
「これを……泉に入れたら、どうなる?」
それは、セシルの犬歯だった。
「あの時、迎えに行った際に拾った。机の上に置いたまま……忘れていたんだ」
戦いの最中にもぎ取られた牙が、冷たく光を返す。
スーマの画面が、鮮やかなグリーンに変わった。
「……可能性は高ぇ!泉の加護が加われば……やる価値は十分だ!」
泉の光が、壁面の水晶片に反射し、洞窟全体が脈打つように揺れる。
まるで、生き物の呼吸のように。
三人は泉の前に並び立った。
ジョーは真剣な面持ちで、ルクジムは息を詰め、スーマは一点を見つめている。
ジョーの指先が、わずかに震えた。
――放す。
「……」
ぽとん。
小さな音とともに、犬歯は水面を割り、ゆっくりと沈んでいく。
揺れる影が洞窟を歪め、
時間そのものが波打った――ように見えた。
次の瞬間、牙は泡とともに消えた。
「……どうだ?」
「……消えただけだ」
スーマの声には、失望と、まだ捨てきれない希望が滲んでいた。
沈黙。
だが、水面に広がった小さな波紋は、誰の目にも――不自然だった。
数十分が過ぎていた。
泉は静まり返り、淡い光だけが問いのように残る。
「……何も、起きないのか?」
耐え切れず、ルクジムが呟く。
「……牙は溶けた。だが、それだけだ」
諦念が、空気に滲む。
そのとき――
スーマが、突然声を上げた。
「なあジョー!その端末、衛星回線だよな!?」
「そうだ。ここじゃ、それしか使えない」
「なら俺様に繋げ! 今すぐ!」
スーマは狂ったように検索を始めた。
「何でもいい……痕跡だ!SNSでも、掲示板でも――!」
沈黙を切り裂く、電子音。
「ピコン!」
「……!」
「メールだ!!」
画面に浮かんだ文字を見た瞬間、ルクジムの瞳から、涙が零れ落ちた。
―― セシルさん!地下書庫の机の上に、真っ黒な蛇がいます!
怖くて近づけません!早く帰ってください! ―― パウラ
「……パウラ……!」
「間違いねぇ!」
スーマが叫ぶ。
「この蛇、オッサンだ!!」
「泉の加護で……ロンドンに再生したんだ!」
ルクジムは、力強く拳を握りしめた。
――灯は、消えていなかった。
「ロンドンへ行く。セシルを迎えに行く!」
「俺も同行する」
「目的地は――ロンドン・ノクターン古書店だ」
オーロラが、ひときわ強く輝いた。
――希望の光が、彼らの旅路を照らしていた。
パウラの日記
20××年 8月30日(土)
今日は本当に怖かった!
アルバイト先の古書店の地下書庫に行ったら、机の上に真っ黒な蛇がいたの。
怖くて叫びながら一階まで逃げちゃった。
……セシルさん、いつになったら帰ってくるんだろう?
メールの返事もないし、私、あの地下にはもう近づけないよ。
北アイルランド連合王国 ― 始まりの地
華の都、ロンドン。
昼夜の境を忘れたこの街は、
古き石畳と硝子の高層がせめぎ合い、
常にざわめきの呼吸を続けている。
国際空港のガラス張りのロビー。
夜の照明が床に反射し、群衆は波のように行き交っていた。
自動ドアが開く。
二つの大きな影が、人の流れを静かに割って進む。
誰の目にも、ただの旅行者に映る。
だが、その背丈と、まとわりつく気配だけは――明らかに異質だった。
ジョーは、深く息を吸い込む。
「……ここが、お前たちの町か」
ルクジムが、ゆっくりと頷く。
「ああ、兄貴。何年も帰っていない気がするよ……」
一拍置き、低く続けた。
「――だが、今度は絶対に守り抜く」
懐かしさと決意が、同じ声に宿っていた。
その数百メートル後方。
群衆の影に溶け込むように、一人の女が彼らを見つめていた。
赤いレザージャケット。
鋼のように冷えた眼差し。
人混みの中でも、その存在は刃のように際立つ。
ミラ・カステリ。
国際刑事警察機構――インターポール所属の捜査官。
五日前。
イエローナイフ空港郊外で発生した大規模テロ事件。
カナダ警察から送られてきた断片的な情報をもとに、
彼女はロンドンへ飛んだ。
――そして今、その視線は二つの巨影を確かに捉えている。
物語は、再び交錯の舞台へ足を踏み入れていた。
氷の記憶、炎の追跡 ― ミラ・カステリ
カナダ、イエローナイフ空港。
白い吐息が、ガラス張りのロビーに溶けていく。
自動ドアの隙間から吹き込む冷気が、金属と焦げた匂いを運んでいた。
ロビーの片隅。
ミラ・カステリは紙カップを手に、静かに監視を続けていた。
彼女はインターポールのフィールド・エージェント。
国際組織犯罪対策部門に所属し、
世界各地で起こる異常事件――その背後に潜む影を追っている。
その影の名は、オルド・アーク。
正体は不明。
だが、ミラには確信があった。
――兄を殺したのは、あの影だ。
今回の任務は、空港郊外で起きた爆破事件の調査。
だが彼女の本当の目的は、別にあった。
同じ“臭い”を感じたのだ。
兄が死んだ、あの日と同じ。
現場近くのガソリンスタンド。
防犯カメラ映像の中で、ミラは二人の人物に目を留めた。
異様な雰囲気を纏った若者。
そして、大柄な男。
「……普通じゃない」
直感が告げる。
彼らは、ただの一般人ではない。
映像と発着記録を照合し、ロンドン行きの便に搭乗したことを突き止めた彼女は、即座に後を追った。
インターポールは、“リバース”と呼ばれる人外の存在を把握している。
だが彼らが組織化しない限り、
情報は限定的にしか共有されない。
抑止力。
あるいは、必要悪。
しかし最近――
「天使」の目撃例が急増していた。
北極圏、アイスランド。
発見される“死体”。
ミラは、それらがオルド・アークの活動と繋がっていると睨んでいた。
ロンドン ― 追跡者
ロンドンの街を歩く二人。
ルクジムとジョー。
その背後で、ミラは足音を殺し、影を重ねる。
彼女の任務は監視だけではない。
兄の死の真相を暴くこと。
「……この影の先に、答えがある」
胸の奥で、静かに誓う。
――必ず暴く。
兄を奪った闇を。
あの紋章の意味を。
数週間前。
ロンドン郊外の廃工場。
死亡したインターポールのエージェント。
名は――アレクサンドロ・カステリ。
兄だった。
最後の通信は短い。
「正体不明の生物と接触した」
数時間後。
現場に残されていたもの。
黒く焼け焦げた壁。
三重の円、その中央に“眼”。
焦げた肉の匂い。
硫黄の煙。
――兄の声は、もうどこにもなかった。
事件は狂信集団による無差別テロとして処理された。
だが、あの紋章は、
ミラの記憶から決して消えなかった。
ロンドン ― 追跡する視線
夜が日付を越えようとしていた。
冷たい空気。
どこか懐かしい、故郷の匂い。
だが――
「ジョー……誰か、ついてきてる」
ルクジムが低く告げる。
「……確かにいる。相当な手練れだ」
スーマが小声で割り込む。
「音響解析でも一致するぜ。この時間、この路地で、一定距離を保つ者…」
三人が古い石畳のトンネルに差し掛かった、その瞬間。
――空気が、揺れた。
影は消えた。
残ったのは、わずかな残響。
その直後――
「……見失ったか」
ミラは、トンネルの奥を見つめ、小さく息を吐いた。
「……なんて感のいい連中」
違和感。
だが、今は深追いしない。
ミラは静かに踵を返す。
その頃――
トンネルの奥、闇の中。
肉眼に映らぬ“視線”が、ゆっくりと開いた。
空間の奥に潜む、意識そのものの眼。
「……匂いを断て。道を変える」
ルクジムが囁く。
「ノクターン古書店だ」
二人は、再び風のように姿を消した。
ミラの端末が、震える。
「……本件より即時離脱。スコットランドヤードへ引き継ぎ、アイスランドへ向かえ」
ミラは端末を閉じた。
「……ここまで来て、逃げろって?」
唇を噛み、走り出す。
地下鉄事故。
廃教会の爆破。
港湾倉庫に残された“人影の消失”。
すべての現場に残る、焼け焦げた円と“眼”。
「……答えは、この街にある」
ロンドンの夜は、静かに牙を剥いていた。
ノクターン古書店 ― 出会いと再会
懐かしい裏通りの匂いが、胸の奥をくすぐった。
湿った石畳と古紙の混じる香り。
舞い散る枯れ葉が、まるで帰還を祝うかのように足元を流れていく。
ルクジムとジョーは、背後の気配を何度も確かめながら、ノクターン古書店の前に立った。
「……“しばらく休館いたします”、か」
色褪せた張り紙が、扉に揺れている。
静かに押し開けると、軋む音とともに、ほのかな灯りが二人を迎えた。
「……明かりがついてるな」
ルクジムが低く呟く。
「まさか、先回りされてるってことはねぇよな?」
スーマの画面が、警戒色に染まる。
その瞬間――
張り詰めた空気を破るように、明るい声が響いた。
「やっと帰ってきたんですね! セシルさん――
……え? えっ、ル、ルクジムさん……ですよね?」
慌ただしい足音とともに、少女が現れる。
「セシルさんは……?」
「パ、パウラ……!」
ルクジムの声が、わずかに裏返った。
ジョーが一歩前へ出る。
「すまない。まずは中に入れてくれないか?」
「あっ、ご、ごめんなさい! どうぞ!」
パウラは慌てて身を引き、二人を店内へ招き入れた。
古書の匂い。
そして――セシルが淹れた紅茶の、かすかな残り香。
月光が棚の隙間から差し込み、この場所が“帰るべき場所”だったことを、静かに思い出させる。
カウンターで湯を沸かしながら、パウラが遠慮がちに尋ねる。
「あの……セシルさんは、ご一緒じゃないんですか?」
ルクジムは、少しだけ視線を逸らした。
「ああ……セシルに頼まれてた物を、取りに来たんだ」
「……一緒じゃなかったんですね」
その言葉に、ジョーがすぐ補足する。
「セシルは今、別件で動いている。だから、俺たちが代わりに来た」
「俺はジョー。二人の友人だ」
「あ、そうなんですね。私はパウラ・ジョルジュ・ボナー。
ここでアルバイトしてます。今は……掃除くらいしかしてませんけど」
「ああ、よろしくな」
ジョーが柔らかく微笑んだ、その瞬間――
「ピピピコン!」
スーマの画面が、突如ノイズに覆われた。
「おい、スーマ!?」
「§¶ΔΘΛ……÷ЙΨ……Бμ……??」
画面が激しく明滅し、意味をなさない文字列が踊る。
パウラは目を丸くし、困惑したまま立ち尽くした。
「あ、あの……紅茶のおかわり、いかがですか?」
「……ああ、頼む」
彼女がキッチンへ向かったのを見届け、
ルクジムはスーマに詰め寄った。
「何が起きてる!?」
「……こんなことが……あるはず、ねぇのに……」
スーマの声は、明らかに震えていた。
「あの子……俺様が、昔……飼ってた人間の……」
「……!?」
「いや……違う。たぶん、子孫だ……」
沈黙。
「……こんな形で……再会、するなんてよ……」
スーマの画面は高速で切り替わり、
やがて、涙のようなエフェクトが滲んだ。
「ジョーの気持ち……少し分かるぜ……今の俺様じゃ、泣くことすらできねぇのにな……」
ルクジムは静かに視線を落とし、ジョーに語る。
「スーマは……元は“デビルズ”だった。伯爵と融合していた存在で、今はスマホに宿ってる」
「でも……あいつにも心がある。飼ってた人間の血を……こんな形で見つけちまったんだ」
ジョーは何も言えず、ただスーマを見つめていた。
その空間には、古書と紅茶の香りに混じって、確かな温もりが満ちていた。
――だが同時に。
月光に照らされた書棚の影は、何かを隠すように、深く、静かに伸びている。
再会は、終わりではない。
それは――
再び物語が動き出す、合図だった。
ロンドン ―― 湾岸倉庫事件現場
煌めく銀の海。
夜明け前の湾岸は、嘘のように静まり返っていた。
波は穏やかに揺れているが、海風は鋭く冷たく、肌にまとわりつく。
海面は、すべてを覆い隠す仮面のように沈黙し、何ひとつ語ろうとはしない。
ミラ・カステリが現場に到着したとき、そこには――何もなかった。
封鎖線。
検証済みの倉庫。
血痕も、破壊の痕跡も、争った形跡すらない。
ただ一つ。
倉庫の内壁、鉄骨の継ぎ目に沿って――三重の円、その中央に“眼”を思わせる焼け焦げた痕。
「……これだけ」
ミラは低く息を吐いた。
地下鉄事故。
廃教会爆破。
それらすべてに残されていた、“同一の印”。
「三件の事件が同一犯と判断された理由……それは、後に残されたこの紋様」
指でなぞることはせず、視線だけで形をなぞる。
「だが、この湾岸倉庫だけは違う」
破壊はない。
死体もない。
――被害者すら、存在しない。
「これは……殺人でも、テロでもない」
ミラは静かに結論づけた。
「行方不明事件……いや、“消失”だ」
海を見つめる。
波の向こうに、答えはない。
だが、彼女の思考は、確実に一点へと収束していく。
兄――アレクサンドロの最後の通信。
正体不明の生物。
黒く焼けた壁。
硫黄の匂い。
「……同じだ」
現場は違えど、“呼び出し方”が同じ。
「情報だけが先に走っている……まるで、誰かをここへ“来させる”ために用意された舞台みたい」
風が吹き抜け、コートの裾が揺れた。
遠くで船の汽笛が鳴り、倉庫の鉄骨が低く軋む。
その音が、一瞬だけ――
“生き物の呼吸”のように聞こえた。
ミラは足元に落ちていた小さな紙片を拾い上げる。
ただの伝票の切れ端。
日付も、社名も、意味をなさない。
ミラは立ち上がり、ゆっくりと踵を返した。
この事件は終わっていない。
むしろ――始まったばかりだ。
冷たい海風と、未解決の謎を背に受けながら、
彼女は次の“点”へと向かう。
答えは、この街のどこかにある。
――それも、すでに動き出している場所に。
ロンドン――月は見ている
風はまだ冷たく、
夜の静寂は、虚構と現実の境界を曖昧にしていた。
空に浮かぶ月は大きく、静かに大地を照らしている。
その光は、過去と現在を縫い合わせるように、ハイド・パークの木々の影を長く伸ばしていた。
ルクジムとパウラは、並んで歩いている。
吐く息は白く、言葉のない時間が、二人の間に静かに流れていた。
――数十分前、ノクターン古書店。
「もうお店、閉めますけど……どうします?」
パウラが、遠慮がちに声をかける。
「俺たちは、今日はここに泊まるよ」
ジョーが穏やかに答えた。
「後は俺たちで閉める。君は先に帰りな」
「それじゃ……後、よろしくお願いしまーす」
パウラがコートを羽織った、その瞬間。
「ドン」
ジョーがルクジムの背中を軽く叩いた。
「送ってやれ。こんな夜更けだぞ」
片目でウィンクする。
「紳士のはしくれだろ?」
「あ……ああ」
顔を赤らめるルクジム。
「パウラ、送ってくよ!」
「ケケケッ、若いっていいなぁ」
スーマの笑い声が、背後から追い打ちをかける。
――そして今、ハイド・パーク。
街灯の明かりが途切れ、月光だけが二人を照らしていた。
会話のないまま歩く二人。
沈黙の中で、ルクジムの心臓の鼓動だけが、やけに大きく響く。
(……何か話さないと)
(でも、何を……)
その沈黙を破ったのは、パウラだった。
「……寒いですね、今日」
彼女はそう言って、ちらりとルクジムを見る。
緊張しているのは自分だけじゃないと知って、胸の奥が小さく跳ねた。
「……そうだね」
言葉は、それ以上続かない。
だが――
月は見ている。
二人の距離が、気づかぬうちに、ほんの少し縮まっていることを。
ルクジムは、ふとセシルの声を思い出した。
――「会話が続かないときは、景色を褒めろ」
(……今か? 今なのか?)
意を決して、口を開く。
「……き、きれいだね」
「えっ?」
パウラが立ち止まり、振り返る。
頬が、月明かりの下で一気に赤くなる。
「い、いや……その……月が……」
しどろもどろになるルクジム。
次の瞬間――
「……ぷっ」
パウラが吹き出した。
「ふふ……面白いんですね、ルクジムさん」
ルクジムは耳まで真っ赤にしながら、
(セシル……このアドバイス、難易度高すぎる……!)
と、心の中で叫んでいた。
その笑顔は、月の光よりも柔らかく、夜の冷たさを、ほんの少し溶かした。
木々がざわめき、二人の影が、ゆっくりと重なり合う。
月は、静かに見ている。
まだぎこちない二人の距離が、確かに、少しずつ近づいていくのを。
言葉にならない想いも、触れられない優しさも――
すべてを夜の帳に包み込みながら。
そしてその月光の、さらに外側で。
誰かが、同じ月を見上げていることを。
ノクターン古書店――セシル
ロンドンの裏路地。
闇の貴族たちが静かに集う、名もなき社交の場。
人ならざる者がすれ違い、言葉なき契約が交わされる、夜の舞台。
ルクジムがパウラを送り、古書店へ戻った頃には、店内は再び深い静寂に包まれていた。
「……ようやく、三人だけになれたな」
最初に口を開いたのはスーマだった。
「急げ。地下書庫だ」
その声には、冗談も軽口もなかった。
ジョーとルクジムは無言で頷き、周囲の気配を慎重に確かめながら、ゆっくりと地下へ向かう。
懐かしい紅茶の残り香。
古書の紙が放つ乾いた匂い。
埃と湿気が混じり合い、記憶の底を刺激する。
「……開けるぞ」
ルクジムが静かに扉を押した。
地下書庫には灯りがなく、ただ月光だけが、小窓から淡く差し込んでいる。
木製の机の上。
そこに――古びた羊皮紙が、無造作に置かれていた。
次の瞬間。
羊皮紙の上で、黒い影が、わずかに蠢いた。
影は輪郭を持ち、やがて一匹の蛇の姿へと変わる。
その額に――
小さな薔薇の紋章が、月光に照らされて浮かび上がった。
「……ッ!」
三人の胸に、同時に息が詰まる。
「セシル!!」
声が重なった。
歓喜は、舞台の終幕とアンコールが同時に訪れたようだった。
言葉が溢れ、感情が追いつかない。
「……本当に、セシルなんだな」
ルクジムが一歩踏み出す。
「心配したぞ」
ジョーの声は、震えを隠しきれていない。
「ヒヤヒヤさせやがって……ICチップが焦げるかと思ったぜ」
スーマの言葉にも、確かな安堵が滲んでいた。
「セシル……セシル……!」
三人はしばらく、返事のない相手に向かって、一方的に言葉を投げ続けた。
だが――
蛇は、何も語らない。
ただ、そこに在る。
「……これ、本当にセシルで間違いないんだよな?」
ジョーが、ふと不安を口にする。
沈黙の中、スーマが小さく舌打ちした。
「あー……そうか」
一拍置いて、気づいたように言う。
「蛇は喋れねぇんだったな」
「俺様を、そいつにくっつけろ!」
「フォン、ピコン」
スーマの画面が切り替わり、翻訳モードが起動する。
「……ミンナ、ゲンキソウデナニヨリダ」
「ヘビノカラダデハ、コエモ、カオモ、ツカエナイ」
「……スマナイナ」
(……この身体では、気持ちを伝えることすら難しい……)
「……間違いねぇな」
スーマの画面が、静かにグリーンへと変わる。
「セシルだ」
「うおおおおっ!!」
ルクジムとジョーの歓声が、地下書庫に響いた。
失われたと思っていた存在が、形を変えて、確かにここにいる。
時間が、ほんの一瞬だけ、微笑んだ。
――だが。
月光が、僅かに蒼白さを帯びる。
地下書庫の小窓が、木枯らしに揺れた。
「……いい加減、本題に入ろう」
スーマの声が、空気を引き締める。
「言いたいことが山ほどあるのは分かる。だが、時間がねぇ」
「確かに……」
ジョーが頷く。
「さっきの尾行も、気になる」
「オルド・アークの匂いじゃないとは思うが……」
ルクジムは、蛇――セシルに視線を落とした。
「それで……」
「いつ、元の姿に戻れる?」
沈黙。
誰も、息をしなかった。
月明かりだけが、静かに机を照らす。
「……なぜ、答えない」
ジョーの声が低く響く。
「セシル……」
「……ソレナンダガ……」
スーマが割り込む。
「回りくどいのは無しだ。俺様が直接翻訳する!」
画面が、深い青に染まった。
「結論から言うぞ――」
「十年だ」
「……!!」
空気が凍る。
「じ、十年……?」
ルクジムの声は、ほとんど掠れていた。
スーマは続ける。
「吸血鬼の身体は、別次元に保存された元素配列を再構築する必要がある」
「その再生には、膨大なエネルギーが要る」
「最速で見積もっても……十年。それが現実だ」
重い沈黙が落ちた。
だが――
「……それでも、やるしかない」
ルクジムが顔を上げる。
「それまで、俺たちで封印を探し続けよう」
ジョーは静かに頷き、スーマは、わざと軽い調子で笑った。
「ま、俺様がいる限り、退屈はさせねぇさ」
蛇――セシルは、何も語らない。
だがその沈黙は、彼らへの完全な信頼だった。
こうして――
託された十年が、静かに動き始める。
そして同じ月の下。
ロンドン郊外では、
別の探求者が、同じ影を追っていた。
ロンドン郊外――廃工場跡地
雲のヴェールをまとった満月が、壊れた投光器のように空から地上を照らしていた。
その光は、すべてを暴くには弱く、しかし隠し通すには、あまりにも明るかった。
古びた工場跡。
崩れ落ちた瓦礫の山が、かつてここで起きた争いの激しさを無言で語っている。
その静寂の中、ひとつの影が、周囲を慎重に確かめていた。
ミラ・カステリ。
月光に照らされる彼女の表情は、冷静でありながら、どこか張り詰めている。
「……兄が、最後に消息を絶った場所」
瓦礫は散乱している。
だが、それだけだった。
血痕も、爆熱による金属の歪みも、人が死んだ現場に必ず残る“爪痕”が、ことごとく消されている。
「……連続テロとは、正反対ね」
ミラは低く呟く。
「不自然なほど、何も残っていない」
これは荒らされた現場ではない。
“整理された現場”だ。
微かに漂う硝煙と、硫黄の混じった匂いだけが、過去にここで行われた暴力の存在を、かろうじて証明していた。
「兄が消えたこの場所……」
「報道にも、事件として残されていない」
なぜ、ここだけが“無かったこと”にされたのか。
そのとき、雲の切れ間から差し込んだ月光が、瓦礫の隙間で、かすかな反射を捉えた。
「……?」
ミラは身を屈め、慎重にそれを拾い上げる。
「……毛?」
白い。
だが、人間のものではない。
獣にしては太く、硬い。
触れた指先に、わずかな違和感が残る。
説明のつかない感触だった。
ミラは一瞬、兄の最期を思い浮かべ――すぐに、それを振り払う。
「……分析に回すわ」
それだけ呟き、白い毛をポケットに収める。
月光が再び雲に隠れ、廃工場は、何事もなかったかのように闇へ沈んでいった。
だが、ミラの中では、この場所が“始まりの一点”であることが、もはや疑いようもなかった。
ノクターン古書店――不確実性の希望
路上を滑る車のライトが、夜の縫い目をなぞるように遠ざかっていく。
星々は瞬き、やがて溜息のように闇へ溶けた。
空を覆う暗雲は、まるでこの夜が「終止符」を迎えることを知っているかのように、月を隠そうとしていた。
ノクターン古書店――
その地下書庫には、外界のざわめきも、都市の鼓動も届かない。
だがこの夜ばかりは、静寂そのものが息を潜め、彼らの言葉を待っていた。
「……ん?」
最初に反応したのはスーマだった。
彼の画面を、無数の数式と警告色が走り抜ける。
「……さすがはオッサンだぜ」
スーマの視線が、木机の上の小さな影――蛇のセシルへ向く。
セシルは、かすかに舌を出した。
その動きは一瞬で、だが確かに“焦り”を含んでいた。
「戻れる策が……あるかもしれねぇ」
その言葉に、ルクジムが思わず身を乗り出す。
「本当か!」
「確かな話なのか?」
ジョーの声も、自然と荒くなる。
「落ち着け。これは“可能性”の話だ。確定じゃねぇ」
スーマの画面が深い青に沈む。
「翻訳中に、ほんの僅か――だが無視できねぇ信号を拾った」
地下書庫の天窓から、夜風が忍び込み、古紙を震わせた。
「ウラン。原子番号92」
「核燃料だな」
ルクジムが即座に応じる。
「そうだ。だが……人間の理解は半分だ」
スーマの声が低くなる。
「神がこの世界で血を流した時、大地はそれを拒絶した」
「赤黒い炎となって地を焦がし、残った記憶が結晶化した――それがウランだ」
ルクジムとジョーは、息を呑む。
「天・地・魔の生命が、まだ同じ世界に存在していた時代」
「生存競争の果てに、神も、悪魔も、人間も、等しく敗北しかけた」
「……次元分離の起源」
ルクジムが呟く。
スーマの画面が、肯定を示すように微かに揺れた。
「神の血は“怒り”と“失意”を宿したまま大地に染み込み、放射能として残った」
「それは呪いであり――同時に、莫大なエネルギー源でもある」
沈黙が落ちる。
蛇のセシルは動かない。
だが、その瞳孔が、わずかに細くなった。
「吸血鬼の身体を再構築するには、別次元に保存された元素配列を再生する力が要る」
「通常は転生を繰り返し、十年かけて蓄積するものだ」
スーマは一拍置いた。
「だが、ウランなら――血液何万人分のエネルギーを、一度に供給できる」
希望。
その言葉が、喉元まで迫る。
だが――
「……代償はデカい」
スーマの画面が、深緑から暗赤へと変わる。
「被爆は傷じゃねぇ。魂に入る“ひび”だ」
「それは癒えず、拡大し、時には周囲まで巻き込む」
空気が、重く沈んだ。
「俺たち、セシル、大地、都市、住民……」
「何百年単位の“呪い”を背負う可能性がある」
誰も言葉を発せなかった。
それは希望であり、破滅だった。
選んだ瞬間、後戻りはできない。
それでも――
ルクジムは、蛇のセシルを見た。
その小さな体が、わずかに揺れた気がした。
「……それを、どうやって手に入れる?」
その問いが、夜の向きを変えた。
ジョーが、久しぶりに笑う。
「原発か?」
冗談めかした声に、スーマが画面を歪ませる。
「サイズウェルC原子力発電所」
「その北に、“異常事象対策局”の地質研究所がある」
警戒色が走る。
「そこはオルド・アークの表の顔だ」
「そこに建設用ウラン、プルトニウム、廃棄核燃料――それらが秘密裏に搬入されたと言う情報が有る」
「燃料プールに忍び込む」
「相手がオルド・アークなら、遠慮はいらねぇ」
スーマの画面が、赤く燃えた。
「セシルは仲間だ」
「取り戻す。それだけだ」
ルクジムは拳を握る。
「……やろう」
ジョーも静かに頷いた。
「最悪の計画だがな。だからこそ、俺たちがやる」
それは希望か。
破滅への扉か。
だが、彼らはもう迷わない。
友を取り戻すために。
この世界を失わないために。
月は雲の向こうで、何も言わずにそれを見ていた。
交錯する視線――邂逅
霧は、気づかぬうちに雨へと姿を変えていた。
細かな水滴が石畳とアスファルトを濡らし、街の輪郭を曖昧に溶かしていく。
ロンドンの夜は、呼吸が重い。
湿った空気に、目に見えない“淀み”が絡みつき、胸の奥まで沈んでくる。
ミラ・カステリは、再びその場所に立っていた。
ロンドン空港――
尾行を振り切った石畳のトンネル前。
「……ここで張り込めば、また現れる」
それは希望というより、最後の賭けだった。
雨が降り始めた、その瞬間――
空間の“位相”が、はっきりと切り替わる。
まるで舞台照明が変わったように。
――!
背筋を走る、鋭利な感覚。
殺気。
それを認識した直後、風に混じって“獣”の匂いが流れ込んできた。
「……来た」
ミラは即座に岩陰へ身を滑り込ませ、呼吸を落とす。
心拍数を抑え、存在そのものを闇に沈める。
現れたのは、黒い影。
「……獣?」
闇に慣れた視界の奥で、赤い点が二つ灯る。
真っ黒な、大型犬――否、狼に近い。
筋肉の輪郭が、雨に濡れて鈍く光っている。
威嚇はない。
だが、動いた瞬間に“終わる”――その確信だけが、冷たく胸に落ちた。
相手の呼吸に合わせる。
三……
二……
一――
「ザザッ!」
跳躍。
ミラは、紙一重で横へ転がる。
獣の体が空を裂き、背後の地面に叩きつけられる。
「私を狙っている……やつらの使いか」
S&W M10を抜き、迷いなく構える。
――ブラックドック。
死を告げる黒妖犬。
伝承ではなく、“現実”として、今ここにいる。
「パン――パン――パンッ!」
三発。
完璧な照準。
だが、弾丸は肉を貫きながら、意味を失ったように滑り落ちる。
黒い獣は、止まらない。
「……効いていない」
ミラは呼吸を整え、後退しながら距離を測る。
雨脚が強まり、足元が不安定になる。
視界も、聴覚も、徐々に奪われていく。
「あと……二発」
その瞬間――
ブラックドックが、踏み込んだ。
間合いを誤る。
「しま――」
衝撃が来るはずだった。
だが。
――来ない。
「……?」
獣が、空中で止まっている。
否。
“持ち上げられている”。
首根っこを掴み、雨の中で黒い影を制する腕。
岩のように太く、揺るぎない。
次の瞬間。
叩きつけられた。
コンクリートが砕ける音と共に。
「ギャワァァンッ!!」
それは、最初で最後の咆哮だった。
ミラは銃を構えたまま、目の前の存在を見据える。
「大丈夫か?」
落ち着いた声。
そこに立っていたのは――ジョー。
その隣には、ルクジム。
「……あなたたち?」
ミラは、ゆっくりと銃口を下げた。
警戒は消えない。
だが、彼らの声には、敵意がなかった。
「ケガはなさそうだな」
背後から、スーマの画面が揺れる。
ルクジムが、静かに問う。
「空港から、俺たちを追っていたな?」
ミラは答えない。
だが、その沈黙は、肯定だった。
スーマがブラックドックの首元を照らし、画面を赤く染める。
「魔界印(タトゥー)だ。使役獣だな」
「遺伝子操作された大型犬――オルド・アークの仕業だ」
空気が冷える。
「もう、古書店には戻らない方がいい」
「パウラも危ねぇ」
黄土色に変わった画面が、わずかに揺れた。
ルクジムが言う。
「俺たちも移動するつもりだった」
「潜伏できる場所は……?」
その問いに、ミラは初めて、はっきりと口を開いた。
「……近くに、私が使っている倉庫があるわ」
一瞬の沈黙。
「時間はないんでしょう?」
ジョーがルクジムを見る。
ルクジムは、短く頷いた。
「行こう」
雨は、まだ止まない。
だが、彼らの視線はすでに、同じ方向を向いていた。
偶然ではない。
この邂逅は、最初から“予定されていた”。
闇の向こうで、月だけが、それを知っていた。
ロンドン・コンテナ倉庫――語られる真実
夜の雨は、いつの間にか眠りについていた。
雲の切れ間から星が覗き、空は静かな五線譜のように、淡い光の旋律を描いている。
公園の闇を抜け、無数のコンテナが積み上げられた倉庫地帯へ――
ミラは彼らを導いた。
金属と油の匂い。
足音が反響する、閉ざされた空間。
沈黙を破ったのは、ルクジムだった。
「――なぜ、俺たちを尾行していた」
静かだが、逃げ道を与えない声。
「ブラックドックに狙われていた以上、お前がオルド・アーク側じゃないのは分かる」
「だが、理由を聞かせてくれ」
ミラの視線が鋭くなる。
「……やはり、お前たちは“それ”を知っているのね」
「その口ぶり……お前たちは、オルド・アークではない」
「回りくどいぞ」
スーマが即座に割り込む。
「結論を言え」
ミラはスーマの画面を見て、眉を寄せた。
「……何? AI?」
「失礼な。俺様はスーマ様だ」
「なおさら意味が分からないわね」
ジョーが苦笑し、場を戻す。
「頼む。君は誰だ。何のために俺たちを追っていた」
再び、倉庫に沈黙が落ちる。
ミラは三人を順に見た。
警戒。
測定。
判断。
だが――その奥に、確かな“違い”を感じ取っていた。
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……先に忠告しておく」
「この倉庫を中心に、半径100メートルにTNTを仕掛けてある」
空気が、一気に冷える。
「お前たちが敵だと判断すれば、ここは消える」
間を置き、ミラは続けた。
「だから、先に一つだけ答えて」
「――オルド・アークは、本当に存在するの?」
ルクジムは、迷わず頷いた。
「ああ。確実に」
その瞬間、ミラの肩から、何かが抜け落ちた。
「……そう」
彼女は名乗った。
「私はINTERPOL国際組織犯罪対策部門――フィールド・エージェント、ミラ・カステリ」
スーマが唸る。
「インターポールでも、奴らの正体は掴めてねぇのか」
「ええ」
ミラは頷く。
「“オルド・アーク”という名前だけが存在している」
「国によっては、調査そのものが制限されている」
彼女の声が、わずかに揺れた。
「でも……私には、理由がある」
視線が、遠くを見る。
「兄は、ロンドンで消息を絶った」
「その直前、カナダで起きたテロ事件を追っていた」
地下鉄4番線。
廃教会爆破。
港湾倉庫人体消失。
「すべて同一犯」
「でも……兄の事件だけは、報道されなかった」
彼女は内ポケットから、遺留品袋を取り出す。
白く、太い毛。
「郊外の廃工場だけ、異常なほど“綺麗”だった」
「でも、匂いが残っていた……すべての現場と同じ」
沈黙。
「その後、世界中に流れた告発文書」
「数時間で消えた。でも、“名前”だけは残った」
――オルド・アーク。
ルクジムは、視線を落とした。
「……間違いない」
「それは、俺たちだ」
ミラが息を呑む。
「痕跡を残したのは、俺を誘き出すため」
「告発文書は……セシルの作戦だった」
彼は、蛇の入った麻袋を見た。
「廃工場事件……君の兄は、“契約者の贄”に選ばれた」
ミラの喉が鳴る。
「君が拾った毛――」
「それは、俺のものだ」
沈黙が、崩れ落ちる。
「……証明できる?」
ミラの問いに、ルクジムはスーマを見る。
「幻術を解いてくれ」
「覚悟はいいな?」
「ああ」
画面が暗転する。
「ヴォオン――」
世界が、歪んだ。
次の瞬間。
白銀の体毛に覆われた、巨大な人狼。
そして、その隣に立つ、三メートルを超える異形。
「――っ!」
ミラは反射的に身を引いた。
それは、兄の現場で感じた“違和感”そのものだった。
「もういい」
スーマの声と共に、幻は消える。
元の姿に戻ったルクジムは、静かに語り始めた。
封印。
契約。
神の血。
そして、オルド・アークの目的。
すべてが、一つに繋がっていく。
冷たい風が倉庫を抜け、埃が舞う。
ミラは、乾いた笑みを浮かべた。
「……なるほどね」
「やっと、“敵”の輪郭が見えた」
その瞳には、悲しみも怒りもあった。
だが同時に――揺るがぬ決意が宿っていた。
彼女は、ルクジムたちを見据える。
夜の帳が、ゆっくりと空から剥がれ落ちていく。
白み始めた東の空から、淡い朝靄が倉庫の隙間をすり抜け、公園の木々を撫でていた。
眠りに沈んでいた小動物たちが、冷たい空気の入れ替わりを察し、気配だけを揺らす。
その静寂の縁で、ルクジムは肩を落としていた。
白い体毛の奥に沈む瞳が、ミラを捉える。
「……あの日だ。廃工場跡地で、俺は初めて“契約者”を見た」
低く、重い声。
「狂気に触れた瞬間、本能が制御を失った。気づいた時には、そいつは倒れていて……横に、セシルが立っていた」
言葉を吐き出すたび、胸の奥に溜め込んだものが削られていく。
彼は目を閉じ、長い吐息を落とした。
「……おそらく、君の兄さんは選ばれたんだ。契約者の“贄”として」
倉庫の空気が、わずかに張り詰める。
「魂は切り離され、人格は削がれ、肉体だけが“器”として使われる。契約者の製造工程だ」
声が、ほんの僅かに揺れた。
「俺は……そいつと戦い、葬った。つまり――君の兄さんを殺したのは、俺だ」
沈黙。
倉庫の隙間から吹き込む風が、二人の間を冷たく横切る。
金属が軋む音だけが、時間の経過を告げていた。
「……すまない」
俯いたまま、ルクジムは続ける。
「ああしなければ、俺が死んでいた。分かっている……謝罪に意味がないことくらい」
彼の背中は、巨体でありながら、ひどく小さく見えた。
ミラは目を伏せ、唇を噛む。
スーマの画面に、一瞬だけノイズが走る。
ジョーは何も言わず、ただルクジムの背中を見つめていた。
そこには、友の罪と苦悩を共有する者だけが持つ沈黙があった。
やがて、ミラが声を絞り出す。
「……もし、あんたの言うことが本当なら」
彼女は顔を上げ、まっすぐにルクジムを見据えた。
「兄を“救った”のも……あんたなんじゃない?」
ルクジムが、息を呑む。
「魂のないまま、怪物として使われ続けるなんて……兄が耐えられるわけない」
それは独り言のようで、祈りのようだった。
「兄は、いつも笑ってた。誰かのために戦う人だった」
ミラは小さく息を吸い、言葉を選ぶ。
「もし怪物にされたのだとしたら……その魂は、きっと死を望んだ。それを終わらせたのなら――それは、救いよ」
淡い笑みが、彼女の唇に浮かぶ。
悲しみを抱いたまま、それでも前へ進もうとする強さの笑みだった。
「で、これからどうするの?」
彼女は軽く手を振る。
「答えなくていい。私は任務でアイスランドへ行くわ。オルド・アークの動きがあれば、そこで追う」
その時、スーマの画面が緑色に灯る。
「じゃあ俺たちは釈放ってことでいいな?火薬、解除してくれよ」
ミラは三人を見回し、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……まさか、信じてたの? TNTの話」
三人が同時に顔を見合わせ、言葉を失う。
「インターポールに逮捕権も捜査権もないのよ」
「国を跨いで調査して、情報を警察に渡すのが仕事」
「武装なんて……できるはずないでしょ。訓練は受けるけど」
肩をすくめ、ミラは荷物をまとめる。
「また、どこかで会うかもね」
「……そうだな」
ルクジムが低く答え、ジョーが静かに頷く。
スーマは画面をくるくる回し、楽しげに緑色を揺らしていた。
外では、夜明けの靄が街に溶け始めている。
その穏やかな空気の中、ルクジムが歯切れ悪く口を開いた。
「……変な話だが」
「なんだよ!」
スーマが即座に反応する。
「前から思ってたんだ。このコンテナ……よくジョーが入ったなって。幻術で小さく見えても、実物はそのままだろ?」
ジョーとスーマが視線を交わす。
「おいおい、今さらかよ!」
スーマの画面がチカチカと光る。
「ジョーの幻術は改造版だ。分子間を詰める」
「見た目だけじゃなく、実際に縮むんだよ。二メートルくらいにはな」
ルクジムは目を瞬かせる。
「……俺だけ知らなかったのか?」
「普通は気づくだろ」
スーマが呆れたように言い、ジョーは肩を震わせて笑った。
ミラだけが、ぽかんと口を開ける。
「……分子間を詰めるって、何よそれ」
スーマは得意げに画面を明滅させる。
「つまりだ。でっかいジョーが“ちょっとだけ”小さくなれるってことだ。便利だろ?」
ミラは深くため息をついた。
「……ほんと、あんたたち何者なのよ」
朝の光が、倉庫の奥まで差し込み始める。
それぞれの背に、別々の道が静かに重なり、そして再び動き出していった。
第四章・終幕
「道しるべは示された!物語は新たなる展開に移行する」
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